宝来山古墳・皇大神社・天神社
宝来山古墳
奈良市尼辻西町 mapfan
古墳の鳥居と橘

京都御所の橘を接ぎ木したもの。
交通案内
近鉄橿原尼ケ辻駅 西南すぐ
由緒
垂仁天皇陵に比定される。『古事記』に、「御陵は菅原の御立野の中にあり。」と出ている。現在、菅原町はやや北で、字宝来の南に古墳がある。古墳の周りに池があるのだが、水は抜かれていた。鯉ヘルペス対策かも知れない。南には金魚や鯉で有名な大和郡山市。
雨上がりの師走の日であったが、古墳周辺の道は一部泥道で、全体的に湿地帯のようだ。前の崇神天皇、後の景行天皇、大后の比婆須比売命と関連する古墳(勿論いずれも伝承)は大和国中の東側の山麓にあり、水捌けや見晴らしの良い所であるが、伝垂仁天皇陵のみいささか雰囲気が異なるようだ。
菅原は天穂日命の後裔で出雲臣の拠点、北には押熊の地や神功皇后陵、西は登美の地で物部の勢力、垂仁天皇は三輪王朝の二代目だが、崇神天皇とは出生が違うのではと思わせる。
古墳の遠景と田道間守の円形の墓
田道間守が命令によって常世国へ非時香菓(ときじくのかぐのみ)を探しに行き、10年後に乾燥橘を持って戻ってくるのであるが、その時既に垂仁天皇は崩御した後で、田道間守は墓に橘を捧げて死んでしまう。従ってここに墓を作っていると云うことのようだが、江戸時代に設けられたとの説がある。これは元禄時代に造られた『山陵図』に、この墓の絵は描かれてないと云う。現物は見ていない。
掘りにそってフェンスで囲まれた中に鳥居があり、石碑に「菓祖神 田道間守命御塚拝所」とある。堀の中の丸い墓を御塚と云うようだ。
田道間守は天日槍の子孫で、但馬国の支配者でもある。何故、彼が遠いのであろう常世国に赴いて橘を探して持ってくる役割を果たしたのか、無論、渡来人の子孫であり、渡来人との接触の多い日本海側の豪族であり、国際感覚を持ち、常世国にある程度土地勘のある人物であったと云う事であろうが、果たしてそれだけで命がけでこの役割を引き受けたのであろうか。
垂仁天皇に殉死同然で死ぬ、垂仁天皇と但馬国、一体どう云う関係なのだろうか。田道間守は忠実すぎるような気がする。但馬国が近隣の丹波国などの協力を得て大和に送り込んだ大王と云うことだろうか。妃には丹波の四女王の名が見えるが、うち二人を返しているのも協力関係に翳りがあったのかも。
田道間守の円形の墓
さて、田道間守は非時香菓を探しに常世国に行ったのであるが、一体常世国とはどこであろうか。『日本書紀』には「弱水を越えて」との表現があり、カタバミさんから「山海経にも弱水や若水が崑崙を示す指標として登場」と教えて頂き、「四川盆地~チベット高原」の柑橘類の原産地を候補とされている。説得力のある見解だと思う。
非時香実は橘であり、橘については日本が原産地だそうで、遺伝子分析でも出ているのだが、神前や宮殿に植えられる左近の桜、右近の橘は共に日本原種であり、平安時代に左近の梅から桜に変わっているのは、梅は渡来種だったからとされている。原産と判っていたとは恐れ入る。
『常陸国風土記』には、「古の人、常世の国といへるは、蓋し疑ふらくは此の地ならむか。」と冒頭に出てくる。また、「行方郡の役所の側の人里には橘が生えている。」、「香島の郡の前に郡役所を置いた所は多くの橘を植えその果実はうまい。」などと橘が生えていた様子が書かれている。常陸の北側になるが、常世の地名が残っている。『平成祭礼データ』から
福島県東白川郡塙町大字常世中野
福島県東白川郡塙町大字常世北野
福島県耶麻郡塩川町大字常世
また、千葉県にもある。千葉県銚子市常世田町
と東国に残っているのは面白い。
天照皇大神社
奈良市平松町 宝来山古墳の真西100m mapion
二の鳥居
祭神
磐長姫命、大日霊貴命、天兒屋根命
右社 上筒男命 左社 市杵島姫命
由緒
陪塚の地に出来ている神社。
本殿は三間社流造銅板葺
お姿
本殿背後の塀の向こうは古墳のようだ。おかげで鬱蒼とした雰囲気になっている。木々の間から宝来山古墳が見える。
本殿左右横に春日大社境内摂社の旧社殿の朱塗りの小祠が鎮座、少しサイズが合わない所がユーモラス。
お祭り
10月体育の日前の土日 |
天神社
奈良市尼辻中町 宝来山古墳の東南200m mapion
鳥居
祭神
豊国主命、天照大日霊貴尊
由緒
陪塚の一。元々寺院だったと云うが定かではない。
社殿 奥に本殿二座

お姿
豊国主命は豐斟渟命のこと。奈良県には天神社の名でこの神を祀る神社が2社、後は十二社神社の中の神世七代の一柱として祭られている。
菅原の地に近くして祭神が菅原道真に変わらずに持ちこたえてきたのは陪塚に出来た神社のおかげなのか、寺院であって後世に神社に変わったからだろうか。
お祭り
10月体育の日前の土日 秋季例祭 |
参考
大和の神々
神奈備にようこそ
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