吉野 幣掛神社から勝手神社手前まで




 幣掛神社(しでかけ)

吉野郡吉野町吉野山322

交通案内
近鉄吉野線吉野駅からロープウエイに乗らずに歩くと10分足らず。

祭神
速秋津比売神


由緒
 吉野の神社の立地は興味津々なものがあるが、大半は平安時代のもののようだ。
 吉野八社明神とよばれる神社が奥の金峯神社まで立ち並ぶのである。 またその間にも発心門とよばれる銅の鳥居や幾つかの寺院が並ぶ。江戸末期には100に近い聖地とでも言える場所があったと言う。*1
 吉野八社明神とは幣掛(四手掛)神社,威徳天神,井光明神(佐抛とされる),勝手明神(吉野山口神社),夢違観音堂(竜王社:御幸の芝明神) 、子守明神(式内吉野水分神社)、牛頭天王社、金精明神(式内金峯神社)である。
 幣掛神社は聖地吉野への発心門をくぐる為の世俗の祓いを取り除く場と思われる。立地と湧き水がそれを示す。
 大峰山一の行場である。

幣掛神社の風景


お姿
 新緑の中に鎮座していることもあり、稟とした雰囲気が漂う神社の印象。
お祭り

 例大祭  6月30日




 銅の鳥居

吉野郡吉野町吉野山

交通案内
近鉄吉野線吉野駅からロープウエイに乗らずに歩くと30分足らず。

由緒
 蔵王堂とそれより奥の聖地への入り口であり、修行の心に入るのである。

発心門とされる銅の鳥居




 威徳天満宮

吉野郡吉野町吉野山 蔵王堂内

交通案内
近鉄吉野線吉野駅からロープウエイに乗らずに歩くと40分足らず。

祭神
菅原道真


由緒
 吉野八社明神の一。 社伝によると平安時代の天徳三年(959年)に鎮座したと言う。
 椿山寺(竹林院)で出家した日蔵道賢が大峰山中で修行していた最中に仮死して閻魔宮へ行ってしまい、そこで冥土をさまよっている延喜の帝(醍醐天皇)と出会った。 天皇は「生前は善政を行ったつもりだが、ただ藤原時平の告げ口によって菅原道真を九州の太宰府へ流してしまった。その罪により死後の苦しみを受けている。 私が師とあおいだ上人よ、再び生き返って道真の霊をまつってほしい。そうしたら私はこの苦しみから救われるだろう。」 と言われた。日蔵はこの世に蘇り、修行を終えると吉野山へ帰り、威徳天満宮としてまつったのが当社の創建である。

豊臣秀頼の改修と伝わる桃山様式の威徳天満宮の社殿


金剛峯寺本堂である蔵王堂



お姿
 蔵王堂の中に鎮座。朱色を中心に鮮やかな色彩の神社である。




 後醍醐導きの稲荷神社

吉野郡吉野町吉野山 蔵王堂南門

交通案内
近鉄吉野線吉野駅からロープウエイに乗らずに歩くと40分足らず。

祭神
菅原道真


由緒
 北朝方との対立が激しくなって、やむをえずひそかに京都の花山院を脱出された後醍醐天皇は、延元元年(1333年)十二月二十八日吉野山の行宮(仮の宮)にお着きになることができました。
 途中夜道に迷われたとき、とある稲荷社の前で
 むは玉の 暗き闇路に 迷うなり 我にかさなむ 三つのともし灯
 とお詠みになると、ひとむらの紅い雲が現れて、吉野への臨幸の道を照らしてお導きをし、その雲は金の御岳(吉野山)の上で消え失せたといいます。 (吉野拾遺)
 その稲荷を勧請したのがこの「導きの稲荷」です。
 人びとに心の迷いがあるとき、この神にお祈りすつと、おのずから道が開けるという言い伝えがあrます。
 毎年十二月八灯御例祭が行われて賑わいます。
  吉野町観光課

蔵王堂の門前の導き稲荷神社



*1 『吉野−悠久の風景』上田正昭編 講談社

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