速谷(はやたに)神社
創立年代は不詳なれど、上古より鎮座の古社である。当社伝記に「天孫降臨ノ神卅二 神ノ内、天湯津彦命五世ノ孫、飽速玉命、則チ此神ナリ。旧事記ニ曰ク、天湯津彦命 ハ安芸国造等ノ祖也。国造本記ニ曰ク、阿岐国造ハ志賀穴穂(成務天皇)朝、天湯津 彦命五世ノ孫、飽速玉命定賜国造云々」と記述され、御祭神は人皇十三代成務天皇朝 、安芸国造に任ぜられ当国一円を統べ給い、皇化を布き国土開拓の祖神である。当神 社が正史上に初見するのは『日本後紀』の弘仁二年(八一一)七月、速谷神と伊都岐 島神が名神例に預かったことであり、次いで『三代実録』の貞観元年(八五九)正月 、伊都岐島神と速谷神を従四位下に進め、同九年十月に従四位上に進められている。 延長五年(九二七)の『延喜式』の神名帳には「佐伯郡二座(並大)、速谷神社(名 神大、月次、新嘗)、伊都岐島神社(名神大)」とあり、四時祭の祈年祭に神祇官の 祭る「奠幣案上神」三百四座の内に預かり、臨時祭の名神祭神二百八十五座の内に加 えられており、中国、九州で唯一の延喜式官幣大社として殊遇を受けた。降って承平 五年(九三五)海賊調伏祈祷十三社の内に加えられ、天慶三年(九四〇)正四位下に 昇叙された。その後、伊都岐島神社(厳島神社)が平家一門の信仰を集め隆盛したの に対し衰退の途を辿り、中世には厳島神社の社領が平良荘にも及び、その社領内に鎮 座する関係で当神社は厳島兼帯七社の一社となった。文明十一年(一四七九)には厳 島神社神主、桜尾城城主藤原教親が梵鐘を奉納するなど桜尾城主藤原氏も代々奉祀し て社領も寄進し、年五度の祭祀は盛大に執行された。天文十年(一五四一)には大内 義隆が太刀一腰と神馬一疋を寄進、さらに永禄六年(一五六三)には毛利隆元が立願 のため御湯立七年を進めており、信仰崇敬は大なるものがあった。社領については天 文十六年(一五四七)の尊海文書(当社蔵)によれば、当社修復のため大願寺尊海が 田地一町一反、鐘撞料二反余を充てており、同二十年の毛利家寄進の厳島神社社領中 に当神社の修理免として平良庄講丸内に四石、灯明銭として山里郷納銭内に三貫九百 五十六文があった。また、御祭事に分米二十七石七斗五升があったことが知られる。 降って広島藩主浅野光晟は慶安元年(一六四八)藩費を以って社殿を造営、以来、藩 の篤い崇敬を受けている。社名は中世に至って速田大明神と称されるようになったが 、明治六年、旧名に復して速谷神社と改称、郷社に列した。同八年には有栖川熾仁親 王御染筆の扁額奉納、大正十三年に国幣中社に列格した。戦後は神社本庁の別表神社 となる。昭和六十一年春には不慮の災火により本殿ほか五棟の社殿を灰燼に帰したが 、同六十三年には優雅で荘厳なる新社殿が竣工した。 |
厳島(いつくしま)神社
厳島神社は市杵島姫命を主祭神とする本社と、主祭神と同時にお生まれになった五男 神を祀る摂社客(まとうど)神社とを中心にして、海上に壮麗な社殿が建ち並び、日 本三景の誉れ高い。当神社は推古天皇元年(五九三)、当島の住人、佐伯鞍職(さえ きのくらもと)が神託によって、宮殿創立の事を奏聞し、勅許を得て御笠浜に創建し 、同年十一月初申日に新宮に鎮座し奉ったと伝える。厳島神社が正史に初見するのは 『日本後紀』の弘仁二年(八一一)七月に伊都岐島神が名神例に預かったことであり 、貞観元年(八五九)正月に神階を従四位下に進められてより後、次々と昇叙されて 正一位に達している。また、延長五年(九二七)の『延喜式』の神名帳では、名神大 社に列せられており、安芸国一宮として名高い。降って平清盛は、当社を平家の守護 神として崇敬し、仁安三年(一一六八)現在の規模の社殿を造営している。承安四年 (一一七四)には平清盛は後白河法皇と建春門院に伴って社参し、治承元年(一一七 七)には中宮徳子、三月と九月には高倉上皇が御幸されている。また、平家一門の人 々が平家納経をはじめ数々の美術工芸品を奉納している。平家の後も鎌倉将軍家や足 利尊氏、大内義隆、毛利元就などの崇敬を受け、また、厳島神社は全国に亘って奉斎 されて広く国民一般の尊崇が篤い。平清盛の造営の後、建永二年(一二〇七)と貞応 二年(一二二三)に火災に罹り、現在の主要社殿は仁治二年(一二四一)までに再建 されたものであり、本社本殿はさらに元亀二年(一五七一)に毛利元就が造替してい る。 |