足高神社(帆下げの宮)参拝のしおり
御祭神 大山津見命
配神 石長比売命
木之花佐久夜比売命
鎮座
皇室との関係
武将の信仰
帆下げの宮
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鼓神社要覧
一、鎮座地、岡山市上高田三六二八。 一、由緒沿革(神紋舞鶴)当社は人皇第十代崇神天皇の御宇四道将軍大吉備津彦命、 御功臣遣霊彦命、この県主楽楽森彦命、同御女にして将軍御后、高田姫命を奉齋せる 神徳赫々たる名社であります。主神遣霊彦命は大吉備津彦命の脇將で功に依り大井庄 内五ケ所を賜った。後神を崇め社を建て五神を合わせ祀った。延喜の制で小社に列し 、祈年の国幣にあずかる。往時は五社殿あって鼓五社大明神と称した。寛永年間領主 木下利当社領二石を寄進し祈願所となす。千原寛源勝延祖先の後を襲い木下藩主の命 を受け鼓神社神主となり、明治五年神職令改正の時大井以北十九箇所村の祠掌を拝命 せらる。同年社格制定の際当国二宮の称号並びに式内十八社中なるに村社に加えられ しこと遺憾に堪えず。意を決し、単身上京し県社昇格に夙夜奔走し、神徳顕現、同十 四年十月四日県社に列格さる。爾後同四十一年九月、庄田天神社を合祀、社殿を改築 、設備充実、境内整備等壮麗なる様相となる。昭和二年神饌所を新築し、県社昇格五 十年奉祝祭を盛大に執行す。昭和三十四年四月神社整備、本社屋根葺替正遷座奉祝祭 齋行、昭和四十九年五月、拝殿屋根補修、神輿二基彩式、神幸用具新調、一千年奉祝 祭執行、昭和六十二年五月拝殿瓦葺替、隋神門、荒神社拝殿屋根葺替、境内地、神池 を整備し、鼓神社再建六百五十年祭を盛大に奉祝せり。 一、鼓神社宝塔。当社の境内に一基の宝塔がある。正しくは「正円阿闍梨石塔」と呼 ばれる。花崗岩製全高四、一五米という稀に見る大きな宝塔で塔身の背面に「大勧進 沙門正円、貞和二年十月二日造立之、大工妙阿」と三行に刻んだ銘があるので今から 六百四十余年前貞和二年「千三百四十五年」葦守八幡宮の石鳥居を作った石工妙阿の 作である。大勧進沙門正円は、鼓神社境内に建てられた神林寺の高僧で、鼓神社の社 僧として神社の維持運営を司った。南北朝相争う頃、兵火に神社、寺は焼失を見、再 建の為行脚托鉢、神社を再興、供養塔を寺跡に建立されたものである。建築史の時代 区分からすれば鎌倉末期に入るべき名品、昭和三十四年国指定重要文化財となる。 |
吉備津神社案内
一、鎮座地、岡山市吉備津九三一。 一、御祭神、大吉備津彦大神並に配祀神八柱の神。 一、由緒、御祭神は第七代孝霊天皇の皇子にましまし、第十代崇神天皇の御代に吉備 の国に下られ、温羅と言う悪者を平らげて平和と秩序をきずき、この地に宮をいとな まれて吉備の国の人々のために殖産を教え、仁政を行ない給い、長寿を以てこの地に 薨去せられました。 社伝によれば仁徳天皇が吉備の国に行幸したもうた時、御創建になったもので、後、 延喜の式の定まるや名神大社に列しやがて一品の位になられましたので一品吉備津宮 、また三備(備前、備中、備後)の一の宮と称せられ、昔から産業の守護神としてま た長寿の守り神として全国の人々から深く信仰せられている。 一、本殿、拝殿(国宝)現在のものは約五百六十年前の応永年間の再建で室町時代初 期の代表的建築であるのみでなく、日本建築の傑作で「吉備津造り」と称えられ全国 唯一の形式として国宝中の国宝である。 一、南隋神門、北隋神門−共に重要文化財(旧国宝)である。 一、回廊(県指定)延長四百米余もあり、殊に地形のままに直線にのびているのは全 国にも稀な建物で著名である。 一、本宮、回廊の南端にあり、古来安産育児の霊験あらたかなので有名である。 一、御竃殿(重文)釜鳴りの神事が行なわれている。お釜の鳴動の音の大小長短によ って吉凶禍福を卜(ボク)するのである、その神秘なことは古く「本朝神社考」「雨 月物語」などにも紹介されて天下に有名である。 |
石畳神社
掲示板 延喜式内の神社にして、上古より神殿を設けず20数米の磐石を以て神の御室と定め 石畳の神と奉称す。大和の国三輪の大神の三輪山を以て神の御室と定め給えるが如し。 万葉集に(石畳さかしき山と知りながら我は恋しく友なくに)とあり。また祭田の遺 跡あり。 |
神神社
参拝のしおり 神神社の創建は古代中期と伝えられ、大和国(奈良県桜井市)大神神社に由来してお り、また出雲大社系にもそのことが判明している。 発祥の由来については大神神社の御神体である三輪山(禁足地である)に有り、神神 社の御鎮座地である通称お宮山も大へんに秀麗な山容であるところから分祀なされた 。 その四季折々の風趣は人々の心を和め、小学唱歌「ふるさと」の歌詞そのもののイメ ージである。古代は山上の磐座で祭祀が行なわれており、現在でもその当時のようす をよく窺い知ることができる。そして古代当地域の開拓と開墾には御祭神の御神徳と 御神威の御守護によって成されたことが確証されており申し伝えられている。 御祭神は大物主命。天照大御神。素盞鳴命。大山昨命。応神天皇。仲哀天皇。神功皇 后。春日神(四座)であり、文徳天皇嘉祥四年正月に正六位上。清和天皇貞観元年正 月には従五位下に称せられている旧社である。その後平安朝醍醐天皇の延喜年間には 延喜式が勅撰せられ、神祇官所管に関する規定式第十巻の神明帳には当神神社は式内 社として登載せられている。後、明治43年7月一村一社の制により、八幡神社。伊 與部神社を合祀した。 |
麻佐岐神社
参拝のしおり 吉備の国最古の創立にして鎮座の金山を麻佐岐山と称し、山頂の霊石を霊代として本 殿の設備を成さず、山腹に祓所ありて大祓谷と云う。 延喜式内の神社にして本国一宮格と定める。旱魃のときは祈雨の祈願所と定めている 。また祭田の遺跡あり。 |
略記
当神社は式内社なり 、即ち延喜儀式神名帳に備中小田郡神島神社とある。御祭神は神日本磐余彦命(神武 天 皇)興世姫命を奉斎す。創建は奈良時代(726)神亀3年と伝えられ室町時代 (1547)天文十六年に 本殿の御造営が行なわれていることが棟札によって知ら れる、大正十五年八月十五日に第六回目の改修工事 を行ない当時の様式を偲ぶこと が出来る。命は、皇祖皇考神聖にして日向より東征の砌、吉備高島に八年間 駐屯後 、海上より熊野に至り大和平定後、橿原の地に第一代践祚の大偉業を成し給う。妃興 世姫命は、部下 を率いて駐留され天業を扶翼し奉りて此の地に崩す。近郷住民は、 高き尊き御神徳を畏み奉りて一大崇敬産 土神と斎き奉る。 |
略記
本社は上古我地方民が鎮座地にある大洞穴を霊地として崇拝し奈良朝行基菩薩三尾寺 (みをうじ)を草創せらるるや山門鎮守の神として天平勝宝二年大洞穴の頂上本宮と 云ふ所に伊弉諾伊弉冉命を勧請し給ひしものなり大同二年弘法大使三尾寺を中興し給 ふや本社も隆昌を来し淳和天皇天長の年社殿を築き奉る当時洞内に石鐘乳(いしのち ち)と称する薬石を産し名高く清和天皇貞観元年曲薬頭(くすりのかみ)出雲朝臣峯 嗣を備中に遣し此の洞穴より石鐘乳(いしのちち)を採らしめ給へり醍醐天皇延喜五 年に端し給ひし延喜式神名帳備中十八社の中に英賀郡(あがぐん)呰部郷(あざべご う)比売坂鐘乳穴(ひめさかかねちのあな)神社として記載されたる由緒正しき神社 にして所謂式内と称する崇厳なる神なり其後本宮の東方平地に社殿を築き日・宮(ひ めみや)明神として遷座し奉り大巳貴命を祀爾来三尾寺が別当職として本社の祭典社 人の管理をなし寛永四年前殿を築き文化十二年四月本殿を再建立せらる之れ現存せる 社殿なり。 明治照代の世となり神仏分離され明治五年村社に列し社掌を任命して神社を管理せし むるに至れり明治四十年五月神饌幣帛料供進社に指定せられ同四十二年拝殿の改築社 務所を新築して無格社を十社を合祀し社運益々隆盛に向へり爾来氏子一同由緒正しき 式内社なれば県社に昇格し奉らんと協同一致して資財を奉献して基本金の造成を図り 昭和五年十月県社となる。 |