豊後國:6座 大1小5
二、御祭神
三、由緒
四、主なる祭典
五、境内
六、参拝順路
御祭神
御由緒
直入郡[ナホリ]:1座小
建男霜凝日子神社[タケオノシモコリ]
健男霜凝日子神社[たけをしもこりひこ]「健男霜凝日子神、比神」建男は勇猛な男神である。祖母山は農業神(水の神、風の神)であった。山祭は大和の龍田大社、広瀬神社の祭を伝えたものとされる。社号は嫗岳大明神とも鵜羽明神又祖母山大明神とも唱へられていた。
上宮、下宮が鎮座。大分県竹田市大字神原 里宮 玄松子 下宮 玄松子の記憶
大分郡[オホイタ]:1座大
西寒多神社[サムタ](大)
西寒多神社[ささむた]「西寒多大神 配 月讀大神、伊弉諾大神、伊弉册大神、大直日大神、神直日大神、八意思兼大神、大歳大神、倉稻魂大神、軻遇突智大神」
旧国幣中社豊後一ノ宮西寒多神社略記
一、鎮座地大分市寒田(そうだ)一六四四番地
西寒多大神(ささむたのおおかみ)、月読大神、伊弉諾大神、伊弉冊大神、大直日大
神、神直日大神、八意思兼大神、大歳の大神、倉稲魂大神、軻遇突智大神
創祀は遠く応神天皇九年西暦二七八年四月に武内宿禰勅命を奉じて西寒多山上に宮殿
を建立すとあり。
延喜式内の大社として国司をはじめ武将の信仰あつく、とくに大友能直公、宗麟公を
はじめ代々の尊崇厚く、応永十五年(一四〇八年)三月、大友親世公社殿を現在地に
うつし、家内安全、婚姻、学業、農業、食物、厄除、交通安全、消防の守り神として
国民の崇敬いよいよ深く、明治四年五月十四日、国幣中社に列格、豊後の国の一の宮
として皇室及び国家の優遇をうけ宝物として宗麟愛用の印章四個、大友能直、織田信
長、豊臣秀吉、徳川家康の古文書を有し、現在別表神社として尊崇をあつめている。
元旦祭一月一日、元始祭一月二日、厄除星祭二月一・二・三日、祈年祭三月十五日、
例祭四月十五日、ふじまつり大祭四月二十九日より五月五日まで、勧学祭五月五日、
大祓六月三十日、夏越祭七月最後の日曜日、新嘗祭十一月二十三日、大祓・除夜祭・
古札焼納祭十二月三十一日、月次祭毎月一日、神幸大祭三年目毎、御神衣祭(特殊神
事)三十三年目毎に御祭神の御神衣を新調する式年大祭、初宮詣、厄除、交通安全、
入学祈願など毎日受付
神苑二七、四五七平方米
ふじ樹齢四百五十余年、幹径一米、棚の広さ三百三十平方米、花房一、五米におよぶ
稀有の名木と数百株の平戸つつじ。春の新緑、秋の紅葉は荘厳な社殿とともに清遊を
かねた霊地である。なお本宮山奥宮まで六キロの登拝路は一日の家族ハイキングコー
スとして快適である。
JR大分駅下車国道十号線を南に府内大橋経由軒田橋右折二キロ大分バス定期便トキ
ハ前より乗車、ふじが丘行きふじが丘南下車徒歩八分、大分バス定期便山一証券前よ
り乗車、西寒多行き終点下車
速見郡[ハヤミ]:3座並小
宇奈岐日女神社[ウナキヒメ]
宇奈岐日女神社[うなぐひめ]「宇奈岐日女神]
鎮座地
大分郡湯布院町大字川上字六所二二二〇番地
國常立尊
國狭槌尊
彦火火出見尊
彦波瀲武・・草葺不合命尊
神倭磐余彦尊
神渟名川耳尊
創祀は人皇第十二代景行天皇の御宇十二年冬十月。
嘉祥二年(八四九年)六月、「従 位下」(続日本後紀)。
元慶七年(八八三年)九月二日、「正五位下」(三代実録)に叙されている。
延長五年(九二七年)、「延喜式」の「神名帳」に列記された「式内社」である。
明治六年郷社、大正十二年県社に列せられた。
火男火賣神社二座[ヒヲノ・]
火男火賣神社[ほのおほの]の下宮「伊弉諾命、伊弉册命、火之加具土神、大山祇神」
延喜式内火男火売神社史略年表
嘉祥二年(西暦八四九年 一一二五年前)六月一日当社の祭神火男・火売二神に対
し、朝廷(仁明天皇)から従五位下を授けられた(続日本後紀)。
文徳天皇の御代(八五〇〜八五八)、当地の豪族鶴見為重が勅命によって当社の別当
職に兼補せらたという。
なお、同氏の祖秀澄は、天応元年(七八一)に鶴見郷内に居館を構えたという(鶴見
氏譜系図)。
貞観九年(八六七=一一〇七年前)一月二十日、鶴見山噴火。鳴動は三日間続き、降
灰は数里の間に積った。二月二十六日、この事を太宰府より朝廷(清和天皇)に報告
した。四月三日、朝廷は豊後国司に命じて、火男・火売二神の怒りをやわらげるため
に、神前で大般若経を読ませた。八月十六日、二神に正五位下を授けた(三代実録)
。
これによってもわかるように、火男・火売二神は、もともと火の山鶴見の二峯(男嶽
・女嶽)を神格化したものである。つまり、山そのものが神と考えられていたのであ
るから、当社の起源は極めて古いわけである。また、別府温泉は鶴見火山のおかげで
湧出しているものであるから、当社の御祭神は別府温泉の守り神ともいうことができ
よう。
延長五年(九二七=一〇四七年前)、「延喜式」五十巻ができた。その「神名帳」に
記載されて、毎年二月の祈年祭に当り、神祇官、もしくは国司から奉幣に預る神社を
「延喜式内社」・「式内社」・「官社」などとよんだ。当社も式内社に列した。豊後
国では、当社のほか直入郡の建男霜凝日子神社(嫗嶽大明神)、大分郡(大分町東稙
田)の西寒多神社、速見郡(大分郡湯布院)の宇奈岐日女神社、海部郡(北海部郡佐
賀関町)の早吸日女神社(関の権現さま)など、わずか四社が式内社に列していたに
すぎない。これによって当社が「タカガミさま」であったことがわかる。
建治二年(一二七六)、時宗の開祖一遍上人(遊行上人)が九州巡錫の途中当地に立
寄り、鶴見権現(火男・火売神)の教えによって鉄輪の石風呂(蒸風呂)を開いたと
いう。また当社境内の楠木に爪ぼりの六字の名号を残したと伝えられる。この時、豊
後国守護大友より泰は深く上人に帰依し、一寺をたてて上人に奉った。
上人は、温泉と、その幼名松寿丸にちなんで、この寺を温泉山松寿寺(現在の永福寺
)と命名したという(永福寺由緒)。
弘安八年(一二八五=六八九年前)、このころ当社は十五町余の神領を有していた(
豊後国図田帳)。今も字名に残る正月田・薬師田・ブグ(仏供)田などは、その名残
りであろう。
弘安十年(一二八七)八月、神官加藤氏の祖先加藤兼定が讃岐国から当社宮薗屋敷に
来住した(加藤氏系図)。
鶴見氏はこれより先に上方へ移住していたようである。(後藤武夫氏所蔵「鶴見氏譜
系図」)。
文明元年(一四六九)十一月三日、府内(大分市)春日神社の湯立神楽の時、当社神
官加藤兼盛は、豊後国守護大友政親から頭宮大夫という神官号を授けられた(加藤氏
系図)。
天正(一五七三〜一五九一)の頃、大友宗麟のために当社殿は焼かれ、古文書等もす
べて焼失したという(太宰管内志)。
文禄二年(一五九三)、大友氏滅亡。
慶長五年(一六〇〇)九月、関ガ原の戦。この時、大友義統(宗麟の子)は大友氏の
再興をはかって兵を挙げたが、石垣原で黒田孝高(如水)と戦って大敗した。
慶長六年二月、久留島康親が伊予から玖珠郡森に入城した。当地は久留島領となった
。
寛永十四年(一六三七=三三七年前)一月一日、久留島通春公が「九月田」の田三段
二十歩を社領として、また宮まわりの森を社殿造営用林として寄進した(加藤芳彦文
書)。神官加藤兼義が同公から福大夫の神官名を賜わった。これが福大夫の始めであ
る(加藤氏系図)。
寛文四年(一六六四)三月、領主久留島通清公が当社神殿を新築した(棟札)。
延宝年間(一六七三〜一六八〇)四月、然散禅師が宝泉山実相寺を再興し、安楽茂林
和尚を第一祖とした(豊鐘善鳴録)。
元禄三年(一六九〇)四月、松川勘右衛門が石燈篭一基を寄進した(銘)。
宝永三年(一七〇六=二六八年前)三月、字宮司の二ノ鳥居がたてられた(銘)。
享保三年(一七一八)十二月四日、神官加藤金光が、祭事の時に風折烏帽子と紗の狩
衣を着用することを、神祇管領卜部家から許可された(神道裁許状)。
享保十八年三月九日、遊行五七世の上人が当社へ参詣して、六字の名号を献納し、銭
五〇〇文を寄進した(永福寺文書)。
元文四年(一七三九)九月、原村の久士目佐次衛門が石燈篭を寄進した(銘)。
延享三年(一七四六)九月、原中の板井兵左衛門が石燈篭一対を寄進した(銘)。
寛延元年(一七四八)九月、原の有志八名が石燈篭を寄進した(銘)。
宝暦六年(一七五六)八月二十三日、薩摩の僧諄盈が一遍上人爪ぼりの名号と称せら
れるものに模して名号をほった。これは今も永福寺に所蔵されているが、その材は、
もと当社々前にあった楠であると伝えられている。建治二年、上人はこの楠に爪ぼり
の六字の名号をほったが、のちの天正年中、領主大友某がこの楠を伐って船材として
用いた。ところがその船は一向に動かず、ついに廃棄してしまった。村民某が船材の
一部を以て机を作り、代々秘蔵していたものを諄盈上人がもらい受けて、これに、一
遍上人の爪ぼりの名号に模した六字をほりつけたものであるという(銘)。
文化八年(一八一一)、空山玄海和尚が永代常夜燈料として田一段二畝五歩を寄進し
た。
文政元年(一八一八)四月二十四日、神祇管領占部良長が当社に幣帛を奉った。いま
拝殿にかかげられてある額は占部氏の筆と伝えられているが、或いはこの時書いたも
のであるかもしれない。十月、領主久留島通嘉公が社殿を新築した。造営奉行は北中
の庄屋直江雄八郎と原中の庄屋直江武十郎であった(棟札)。
嘉永元年(一八四八)十一月二十四日、馬場の西山一統が天満宮に神田若干を寄進し
た(寄進札)
嘉永五年、南・北鉄輪村の氏子中より常夜中燈一基を寄進した(銘)。
安政六年(一八五九)十二月、馬場組が天満宮の鳥居を寄進した(銘)。
万延元年(一八六〇)六月、馬場組が三ノ鳥居を寄進した(銘)。
文久四年=元治元年(一八六四=一一〇年前)四月、千年祭をおこなった。千年祭を
記念して松川俊策が石燈篭一対、加藤秀朝が石造狛犬一対、小倉組(代表佐藤忠右衛
門)が南ノ鳥居を、それぞれ寄進した(銘)。
明治七年十一月八日、神殿以下全社殿が焼失した。その後、応急の社殿・拝殿を建築
した。
明治十二年七月六日、県社に列せられた。
明治十四年、神殿を新築、拝殿を改築した。
明治三十一年二月、竹ノ内組(代表加藤永次)が秋葉社の鳥居を寄進した(銘)。
明治三十六年八月四日、宮地上の林地の縁故払下の許可が出た。この払下については
当時の朝日村々長加藤累三が明治二十五年より熊本の大林区署に往復すること二十二
回、また社掌加藤正男、社総代西山馬作・加藤永次の献身的努力と、武内勢平・同則
彦の経済的援助に負う処が大きかった。払下を記念して特に祭典をおこない、且つ氏
子中より石燈篭を社前に寄進した(銘)。
大正二年(一九一三)、御即位大典記念として秋葉社を竹ノ内から当社境内に移転し
、石祇祠を新造した(銘)。
大正四年十一月、御即位大典記念事業として社務所を新築した。経費の大部分は氏子
中の頼母子醵金によった。加藤泰堯が石燈篭一基を寄進した。
大正八年九月、男爵山内万寿治が石燈篭一対を寄進した(銘)。
大正十年四月二十六日、遊行六十四世尊照上人が当宮に参詣し、木札に、「南無阿弥
陀仏」の名号と、「わが祖師のねぎごとたりてよろこびし熊野のあさのむかしをぞと
おもふ」の和歌をしるして献納した。
大正十二年五月、御越町(亀川)の永田敬蔵が石燈篭一対を寄進した(銘)。
大正十五年十月、西山吉郎・加藤永次が字宮司の一ノ鳥居を寄進した(銘)。
大正年間、加藤累三が石燈篭を寄進した(銘)。
大正十五年〜昭和二年二月、神殿を四間後方(現位置)に移した。
昭和二年十月、神殿と拝殿の間に幣殿(申殿)を新築し、拝殿・亘殿を改築、神楽殿
の模様替(茅葺→瓦葺等)をおこなった。この年加藤リュウ・加藤スイが御即位大典
を記念して石燈篭各一基を寄進した。
昭和九年、神輿三基を新調した。
昭和十六年二月、お旅所を改築した。
昭和二十七年二月、お旅所が焼失した。同年七月、お旅所を再建した。
昭和三十四年、千百十年祭をおこなった。
火男・火売二神は、もともと火の山鶴見の二峯(男嶽・女嶽)を神格化したもの。大分県別府市鶴見948 温泉の守り神 下宮 玄松子
火男火賣女神社の中宮「火之迦具土命、火燒速女命」大分県別府市東山1番地字鶴見岳 玄松子の記憶 奥宮 玄松子の記憶
海部郡[アマ]:1座小
早吸日女神社[ハヤスヒメ]
早吸日女神社[はやすいめ]「早吸日女神]
近衛天皇久安元年、神像が海中より出現の奇瑞があり、これを奉斎したのが起源。
のち旧社地古浜より現社地に遷座、社地を拡張した。
以来崇敬を集めて今日に至る。
昭和十一年に郷社に列した。
現在の祭神は八十枉津日神、大直日神、底筒男神、中筒男神、表筒男神、大地海原諸神の六神である。近衛天皇久安元年、神像が海中より出現の奇瑞があり、これを奉斎したのが起源。大分県北海部郡佐賀関町大字関3329 写真満載 玄松子
H16.12.12