御嶽神社剣が峰奥宮
長野県木曽郡王滝村剣が峰 御嶽神社HP地図

鳥居

交通案内
木曽福島駅よりバス 田の原から登る 往復4時間半


祭神

國常立尊、少彦名命、大己貴命




由緒
 御嶽講は150万人と言う。御嶽は飛騨山脈の南端に聳える複式火山の独立峰である。
 頂上は剣ケ峰と言われ、王権現(大己貴命)をはじめ、山腹・山麓には日権現(少彦名命)、始祖権現(日本武命)、八王子(国狭槌命)、栗伽羅(火須勢理命)、金剛童子(伊弉諾命)などの祭神が勧請されている。
 中世に至って御嶽からの修験道の退潮とともに、修験と民間信仰とが結びついた御嶽独自の信仰が生まれ、百日間の厳しい重潔斎を経た「道者」と言う一団の人々が集団的に登拝する風習が行われるようになったのは室町中期頃からである。
 道者の集団登拝は八合目金剛童子の大岩を黄泉平坂の大石に例え、ここより頂上を黄泉としてとくに神聖視し、地獄谷の噴煙や赤くザレた山上の岩肌の景観を地獄に見立てていた。
 山頂からは雲海上からさし昇るご来光や、中部日本の神社・仏閣・霊山・霊場を遙拝し、登山の苦痛による肉体的試練かと共に地上では経験できない宗教体験をした。

本殿

 江戸時代末期の天明年間(1781〜89)の尾張出身の覚明行者と寛政年間(1789〜1801)の江戸出身の普寛行者の熱烈な布教によって全国的な広がりをもつようになる。登山道の改修と軽精進による登拝可の制度に改める運動を行い、一般の人々も簡単な水行で登れるようになったのが全国普及の端緒となった。

 明治維新後に神仏分離政策により社殿から仏像を取り除き、祭神も神々の名として御嶽神社として今日に至っている。


お祭り


里宮例大祭  7月 27日
奥社開山  7月 10日  閉山  7月 上旬

『平成祭礼データ』

 上奥社は、文武天皇の御代大宝2年(702年)信濃国司高根道基創建し、光仁天皇の宝亀5年(774年)信濃国司石川朝臣望足勅命を奉じ、登山し悪疫退散を祈願され、ついで延長3年(925年)白川少将重頼登山し社殿を再建す。ついで応保元年(1161年)後白川上皇の勅使が登山参拝された。一合目里社は文明16年(1484年)再建、文亀3年(1503年)再興と記録にあります。古来登山するには麓で百日精進潔斎の修行をしてから登拝したものでありましたが、後世の天明2年(1782年)に覚明行者黒沢口登山道を、寛政4年(1792年)に普寛行者王滝口登山道をそれぞれ開き、講社を作り軽精進潔斎で盛んに登山を奨励し続いて一心行者、一山行者もこの跡を継ぎ又諸行者相継いで神山の尊きこと全国に広まり今日の盛大なる御嶽講社の基礎となっています。
以上

『日本百名山』深田久弥から 御嶽

  普通御嶽は日本アルプスの中に入れられるが、この山は別格である。そういうカテゴリーから はみ出している。北だの、中央だの、南だのと、アルプスは混みあっているね、そんな仲間入りは御免だよ、といいたげに悠然と孤立している。
 たしかにこのヴォリュームのある山は、それだけで一王国を形成している。一個の山としてこれだけ図体の大きい存在も稀である。山頂は、最高の剣ケ峰を初め、継母岳(ままはは)、摩利支天山、継子(ままこ)岳などからなっていて、その間に、二ノ池、三ノ池、水の涸れた一ノ池、あるいは賽ノ河原と呼ばれる広々とした原、ザクザクした外輪壁などがあちこちにあって、甚だ変化に富んでいる。しかし遠くから望むと、それらすべてが山つの大きな頂上となって、そこから裾へ向っておおらかな斜線をおろしている。
 この斜線がみごとである。彪大な頂上を支えるのに十分な根張りをもって、御嶽全体を均衡のとれた乗しい山にしている。遠望では裾野まで見ることは出来ない。前山の上に浮いた上半身である。それが一層この山を神々しく見せるのであろう。昔から木曽の御嶽さんは夏でも寒いとうたわれて、信仰の山となったこともうなずかれる。
 富士山、鳥海山、立山、石鎚山など、古くから宗教登山が盛んであったか、現在では一般登山の中に解消されている。信仰登山の組織と戒律と風俗を今でも濃厚に保っているのは、御嶽だけだろう。夏に表口の王滝や黒沢から登って行くと、道が白く見えるくらい白衣装束の信者が続いている。それが子供から爺さん婆さんに及んでいる。彼等は登山に趣味を持っているわけではない。私の知っているある下町のお茶屋のおかみさんは、およそ山に縁のない人だが、毎年オンタケサンにはお詣りを欠かさない。
 広い頂上の然るべき所には、あちこちに宗教的モニュマンが建っていて、信者の一群を率いた先達が、そこで加持祈縛をしているさまが眺められる。信者にお破いを施す時の先達の形相は物凄い。全くここは信仰の山、庶民の山であって、ピッケルに登山靴のアルピニストは、疎外者のような感じである。彼等はそういう山を俗化と呼んで敬遠する。僅かに季節はずれの時期に、少数の純粋登山者を見るくらいである。
 しかしこの茫洋と大きい山は、まだまだ未知のものをたくさん含んでいる。おかしな話だが、登山者に敬遠されたおかげで、この山の秘密が保たれている。その上、この山の原始性を守ったのは、乱伐を許さない広大な御料林である。ヒノキ、アスナロ、コウヤマキ、サワラ、ネズコが木曽五木と称せられて苦から有名だが、御嶽の周辺を覆う鬱蒼とした森林は、まことにみごとである。
 俗化と見られるのは表参道口だけであって、裏の飛騨側へ下れば素朴な嶽ノ湯がある。もっとも近年この湯の近くまでバスが延びてきたから、こちら側も次第に繁昌を来すだろう。人間臭を嫌う人は、近年開田からの登山道を択ぶようである。
 五万分の一の御嶽の地図を見ていると、この山の大部分はまだ原始の姿に残されていることが察せられる。その未知の境へ踏みこんだなら、けだものの匂いのする深い林や、美しい瀬や淵を持った谷川や、そこに半日も寝ころんでいたいような静かな環地が、方々に見つかるに違いない。俗化されたと思われているこの山が、実は一番俗化されていないのである。
 山麓をめぐって、忘れられたような幾つかの峠を上り下りし、物寂びた人情のあつい村々を訪ね歩くのも、山旅の大きな楽しみであろう。御嶽と乗鞍の周りには、そういう静かな、まだあまり知られていないコースが、いろいろ探しあてられそうである。
 木曽路の奈良井から、旧街道は鳥居峠へ登った。その峠の上が御嶽逢拝所であって、そこに祠を祀り、その石の鳥居から峠の名前が来た。昔の旅人は峠から初めて眺めた御嶽に、さぞ感激したことだろう。木曽路に入ってしまえば、もうその深い谷底から御嶽を望む機会はなくなってしまうのである。
 すべて古くから畏敬されたものには、それに浸透すればするほどど、別の新しい発見や鮮やかな驚きがあるものだが、御嶽の偉大さもそれに似ている。この山の無尽蔵ぶりは、まだ大部分がアンカットの磨大な書物のようなものである。その分厚な小口を見ながら、これからゆっくり読んでいく楽しい期待がある。どのページを切っても、他のどの本にも書いてないことが見つかるだろう。そんな山である。


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2009.8 淳子登拝