大野見宿禰命神社
「相撲(角力)の神さま」 鳥取市街地から行徳を経て、千代橋を渡り、更に西へ進むと大正橋にさしかかる。橋 の上から前方を見ると、小高い丘を包むようにこんもりとした森が目につく。この道 はその森の麓を通りまっすぐに村落を貫き白く西に延びている。その昔、夜更けにな ると一陣の風と共に大坊主が大木の陰からぬっと現われ、旅人を怖がらせたという所 謂「徳尾の大坊主」なる咄のでた所である。この森は全体が神域であり、丘の頂上に は御祭神野見宿禰命をお祭りする大野見宿禰命神社が御鎮座座している。当社は戦国 時代しばしば兵火に遇い、社殿の創立年月を詳らかにすることはできないが、延喜式 (宮中の年中儀式、百官の儀、国々の諸式、作法等を漢文で記した書、西暦九〇五年 )神祇の巻に「因幡国五十座略高草郡七座大野見宿禰命神社」とあり、又倭名類聚抄 (わが国最初の分類体漢和辞書、醍醐天皇の御代)に「因幡国高草郡野見郷」とある 。貞観、延喜よりはるか古代より信仰の対象として崇敬されていたのです。古文書に よると、姫路城より池田光政公九才にして鳥取城へ三十二萬石の大名としてご転封に なる元和三年(西暦一六一七年)から明和四年(西暦一七六七年)までに数回社殿の 建造がなされている。現在の本殿は安政五年(西暦一八五八年)五月に建てられたも ので、弊拝殿は昭和十六年(西暦一九四一年)に新築され今日に至っている。次に、 御祭神、野見宿禰命について、当社の由緒から要約して記す。「天穂日命十四世の孫 である野見宿禰命は垂仁天皇の御代(約二千年前)に出雲国より召されて京に上がり 、当代随一の豪の者当麻の蹴速と力競べを行い、蹴速を倒し殺す。宿禰は勇力を賞さ れ京に留まり朝廷に仕える。これが相撲の始祖と呼ばれる理由である。この時代に高 貴な人が死亡した時は側近に奉仕していたものを、主人の亡骸と共に墳墓に埋める慣 わしがあった。時に皇后日葉酢媛命が亡くなられ、宿禰は人、馬等の土偶を造り共に 埋め、生人を埋めない事に改めるよう献言する。天皇のお許しが出た上で、出雲より 土師を多数呼び寄せ、種々の土偶を造り用いた。天皇はこれを賞され土師部の職を定 め野見宿禰にこれを与えた。」野見宿禰命は土師部の始祖であり、相撲の守護神であ り、野見の郷を主領す産土神である。野見宿禰の後裔である出雲大社千家尊福大宮司 (大教正従五位)は明治十年七月参拝奉弊された。当神社境内にはシイ、タブの木、 モチの木から海浜植物のトベラに至るまで繁茂し、植物生理学上からみて貴重な原生 林であること、更に境内地の頂上で、本殿の北西方の上段に円墳があること、東方下 段に副葬遺跡があることにより社叢全域にわたり、昭和九年八月文部省により天然記 念物の指定を受けている。往古より野見宿禰の御墓所として遠近よりの尊信を厚くし ている。 |
氏子のしおり
加知弥神社は気高郡鹿野町寺内飯田の森にある。祭神はひこほほでみのみことと、う がやふきあえずのみこと、たまよりひめのみことで創立年月はつまびらでないが、延 喜式神名帳にのっている式内の古社でむかし勝宿(かししゅく)大明神といい、旧社 地は宮谷あるいは明神ガ鼻であったという。中世以降武将の崇敬があつく、永録8年 (1565)には武田高信、田公高清、矢田幸佐等が社殿を造営し、天正8年(15 80)には吉川元春は戦勝を祈願して社領を寄進した。なお元春の祈願状、寄進状2 巻が昭和32年12月県の保護文化財に指定されている。社伝によると天正年中豊臣 秀吉は防己尾(つづらお)城落城のとき社領を寄進したとのことである。また元和9 年(1623)には池田光政が社殿を修理し、寛永10年(1633)国主池田光仲 はあらためて社領39石6斗9升3合を寄進したが、そのご累代の藩主も崇敬あつく 社殿の営繕あるごとに金殻木材を寄進し幣帛(へいはく)を奉納した。明治4年には 県社になり同40年3月、神饌幣帛共進神社(しんせんへいはくきょうしんじんじゃ )に指定された。大正2年11月には、当社の摂社(せっしゃ)および付近の神社1 4社を境内に合祀(ごうし)して1社をたて、あらたに勝宿神社ととなえた。例祭日 は10月21日である。寺内部落の薬師堂付近には、塔礎とみられる礎石がある。遺 瓦は奈良後期のもので、むかし勝宿大明神の別当寺の旧跡だといわれている。 |