平成祭礼データ
御由緒
旧貝塚市は今を去る六百年前わずか三十六戸、氏神すらない小村であった。そこで年寄衆が村の発展のため神様をまつろうかと山城国愛宕郡八坂郷の感神院から素盞嗚大神をお迎へし、次に伊勢より天照皇大神、京都の北野より菅原道真公をお迎へして氏神さまとしてお祭りしたのが感田神社の起源である。ところが天正五年二月紀伊の雑賀根来の一族が織田信長にそむいたため、この戦にまきこまれアッという間に神社ばかりか小村まで一戸も残らず焼失した。神社の境内にあった一本の松の大木のみがやっと兵火をまぬがれ、天空にそびえ立っていた。
この時から、この松の頂上に夜な夜な不思議な霊光がつき出した。とくに雨の夜などはこうこうと月をあざむくばかりの明るさ、他郷に逃れた人々に早く帰れ、早く帰れと呼かけているよう、そこで人々は「氏神は健在なり」と信じ、やがて焼跡に復興の力強いツチの音がこだました。
再び村に平和が訪れたが、人々を呼びもどした氏神の復興は後回しとし、こうして十数年が過ぎて天台宗の僧秀山が感田神社の旧社地を奪って宗福寺を建ててしまった。氏神様にしてみれば、こんな面白くない話はない。間もなく村は飢餓に見舞われ、或は火災あり、伝染病がひろがった。これは氏神様のタタリだと村民たちは宗福寺の一隅に陶器の社殿を再興して、感田瓦大明神と号してお祭りした時は慶安元年なり、再興してから神徳弥新に氏子大いに繁栄し、人煙年々に加わり職業年々に増し終に岸和田を凌架すべき繁華の良邑となりました。
慶安元年に再興てから慶応三年に至るまでの二百二十年間宗福寺の住職奉仕していましたが、明治元年に神仏を共にしてはいけないと云う規則が発令され宗福寺が廃寺となったため、初めて純粋なる神社に復し、明治五年に郷社に列せられ同四十年神饌幣帛料供進の神社に指定せらる。
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