甲斐奈神社のしおり
当社は、人皇第二代綏靖天皇の御代、甲斐国開拓に際し甲斐奈山(現・愛宕山)の頂 きに白山大神を祀ることに始まり、以来、延喜式神名帳に載る如く甲斐国鎮守の神と して尊崇された。永正年間(1504〜1520)、武田信虎の築城に際し、現社地 に遷座され文録年間(1592〜1595)甲府城起工の際、東部守護神として浅間 大神が併祀され、社運愈々隆盛となった。 明治九年郷社に列せられ、昭和二年境内拡張事業に依り現在の規模に到る。昭和二十 年、戦災に依り社殿悉く焼失すれど復興事業めざましく、戦後二十数年にして旧に復 す。白山大神の「理」浅間大神の「和」のご神徳は人生諸般に亘り広く崇敬を受けて いる。 |
由緒
大字倉科の総鎮守社で祭神は素盞鳴命である。大宝二年勅願により創建と云う、別名 唐土大明神、本殿は一間社流れ造り身舎は円柱高欄付の縁向繋虹梁箱棟に寄進を示す 徳川の紋章と祈願所を示す武田花菱を付す。 永禄七年馬場美濃守寄進と伝える神鏡を存す。四月十二日奉納の太々神楽は民族文化 財。以上 |
社傳
人皇四十三代元明天皇和銅年中、当甲斐国未だ湖水なりしが、時の国司国内を巡見し て、湖水の跡良田ならんと考へ、朝に奏聞の上、大己貴命に祈願こめて土を起し、多 くの人夫を督し鰍沢口を切り開き、水を南海に注がれたるに湖水退きて大半良田とな り、民以て食につき、貢物は三倍にも増した。これ人力の克くする処にあらず、御神 助によるものなり、と勅命を以て此処に勧請し、崇号を穴切大明神と賜はり、国中鎮 護の神と仰ぎ奉る。これにより此の地を治むるもの皆厚く祭祀を執り行ふ。 これによって、此の附近を穴切たんぼと称え、此一帯地名の総称となる。 |
金櫻神社由緒略記
第十代崇神天皇の御代(約二千年前)、各地に疾病が蔓延し悲惨をきわめた折、天皇 は諸国に神を祀って悪疫退散と万民息災の祈願をなさいました。甲斐の国においては 、当社より北方二十キロ、標高二五九五メートルの金峰山山頂に医薬、禁厭の守護神 を鎮祭されました。御祭神は、少彦名命(すくなひこなのみこと)です。その後、第 十二代景行天皇の御代、日本武命東国巡行の際には、国土開発のため、須佐之男命( すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむぢのみこと)をあわせ 祀られました。 当地に里宮が開かれたのは、今からさかのぼる約千五百余年前、第二十一代雄略天皇 の御代のことです。第四十二代文武天皇の御代には、さらに大和の国の金峰山より魔 障を除く仏、蔵王権現が祀られ、神仏あわせもつ日本三御岳、三大霊場として広く知 られ、隆盛をきわめました。百余名の神主、僧侶が奉仕し、東国の名社と慕われ、信 者は関東全域にとどまらず、遠く越後、佐渡、信濃、駿河の各地におよび、春秋二回 の配札はことに賑いを見せました。領主、武将の信仰もあつく、寄進された室町、鎌 倉期よりの社殿をはじめとする幾多の宝物は、時代の文化の粋を集めて壮観で した。 信仰の道、崇拝者の参道「昇仙峡」は、渓谷美日本一の景勝です。神宝はこの地で発 掘され磨き出された水晶の「火の玉、水の玉」。境内の櫻は、古くから民謡に唄われ ている金のなる木の「金櫻」で、厄除け、金運を授けるとされる「水晶護符」ととも に尊ばれています。 明治の御代を迎え、当社は、神仏分離によって神社として独立、大正五年には県社に 昇格。広範な社有林と昇仙峡の清流にかこまれた神域は、幾世隔てた今日も変わらず 清新であり、全国から集る人々の信仰の地となっています。 |
由緒
大字杣口にあり、地名を小倉山米沢という。金桜神社は金峰山の里宮にて古くは大社 なりと伝う。大国主命、少彦名命を祭神とし、蔵王権現および小守勝手の両祠を併祀 す。神社の創立は明らかではないが、社記によると、仁寿3年(853)3月天台宗 智証大師により大和国より勧請した鎮守社という、旧社地は高原といい、金峰山東登 山道の御料林内にあり、往古の石積や礎石、古代文字を刻む石碑などが残されている 。町指定の史跡である。 平安以降は山岳信仰と密教の修験道場の聖地とされ、甲斐国志に「此所ヨリ南方富士 路黒駒ニ達スルヲ道者海道ト云フ」と記されている。現在の社地は正徳2年(171 2)に遷座されたものである。本殿は一間社唐破風付向拝にて屋根は銅板葺入母屋造 りで箱棟に千木をのせる。身舎は円柱にて前部と後部に分かれ、正面に開扉がある。 高欄付縁を四方にめぐらし、木造彫刻の狗犬は古く、その伝説が残されている。 神社の例祭は毎年4月11日に行われ、神輿番は宮本の(杣口、大室、山本)(城古 寺、請地)(隼)(窪平、替地、堀ノ内、琴川)(千野々宮)の五地区に分かれてい る。また、杣口の打ちはやしは上杣口、下杣口の二座があり、5年に一度の宮本当番 のとき交互に行なわれる。町指定の民族文化財となり。祭礼は隼の地蔵尊まで末社21、行程28q御幸する |
由緒
当神社は「甲斐国志」「甲斐名勝志」などによると、丹後の国(京都北部)与謝郡に ある日本三景の一、天の橋立より勧請されて橋立明神とも言われ、黒印社領二石八斗 六升、社地六百八十八坪、祭神は陰陽二神、即ち伊奘諾尊・伊奘冊尊で他に地主神・ 天照大神を配祀し、延喜式所載の金桜神社なりとされているが、山梨県神社明細帳に よると現在は他に大己貴命・少彦名命二神が配祀されている。 一説に景行天皇の御代、狭穂彦王三世孫臣知津彦公の御子塩見定尼が甲斐国の国造に 任ぜられ、京の丹波氏族である塩見定尼が、本国天の橋立より橋立明神を勧請し斎祀 されたと伝えられている。 金桜神社については西村の旧社地に桜の古樹があり、毎年秋になると花をつけて秋桜 と呼ばれ、五行説のうち秋は金に配され、金は秋の借り字として金桜神社と称された と言われている。 また慶応四年、時の神主竹内淡路より甲府寺社御役所に提出された神社調書社記によ ると、鎮座について、初め丹後の国天の橋立より五反地に勧請、次に貞観四午(八六 二)年金桜地将に移し次に天正十一年末(一五八三)年今の社地に移し候とあり、更 に付近の地名にも五反田・御供田・古屋敷・地将金桜・神喰田・碓鍋太(田)鍵田・ 蔵米・大神原・並木並桧木田・坊主田京塚・桜田・十日田・洗井・西屋敷・源町など 神社に関わるものが多く、夫々、地名の由縁が記されているのを見ると、往古より相 当の神社であったことが伺い知られる。社殿についても、天正十年織田勢の乱入によ る兵火に罹り再建されてより元和二(一六一六)年の再興、元禄年中拝殿の改築、正 徳年間石鳥居建立、更に寛政二(一七九〇)年より五年に亘る本殿の改築は、京の番 匠一先斉某の考案による戸板、欄干、など彫刻の斬新さと、八ツ棟の結構は実に華麗 を極めたとの記録を残している。 |
神社の由緒
第十一代垂仁天皇の御宇大和国城上郡大三輪神社よりこの地方湖水なりし頃舟にて奉 遷した(式内社)。往古から何かいか神階に叙せられ且つ神田若干の寄進あり。 保元平治の後も逸見武田、小笠原家等より厚く尊崇さる。祭典は数度の中で四月十二日 の御幸祭を大祭とし、山梨県の内西御幸祭という。往古は公祭として行なわれた。故に 下付されるもの武器・兵丈・馬口までに及び祭典終了と同時に官へ飛脚を以てその旨 を報告せりという。又旧二月二日に御遷座の由縁を以て中祭にて舟引祭を斎行してい る。 |
神部神社
祭神名 天手力雄命、誉田別命、広国押武日命、諏訪大神 鎮座地 北巨摩郡須玉町小尾3805 例祭日 5月1日 11月25日 鳥追筒粥式 1月15日 御由緒 当社は旧小尾の総鎮守として延喜式に記載されている。創立は文武天皇大宝 元年辛丑三年3月15日、社名は蔵王大権現、神門社と名のったが維新後旧名に復し た。日本武尊が東征の折り、東小尾で湯治し当社前を通り猛獣、毒蛇、叛賊を退治し て東征に向かった。当社前の御門、神戸は崇神天皇の御代神地として神戸と称された 、その後武田は小尾街道を開き当社を信仰し、神像、鏡を奉納した。 徳川家は社領3斗6升を寄進した。 慶長年間より正月15日の前夜参籠し、粟粥を煮て、葦茎を割り中に入れ、粟粥数の 多少によってその年の豊凶を占った 境内社 伊勢社外2社 社殿、建造物 本殿、拝殿、神楽殿、鳥居、石燈籠 宝 物 金色の神像鏡 境内地 626坪 氏子等 200戸 |
穂見神社
上古甲斐の国が洪水により湖水と化した時鳳凰山に住む大唐仙人が、蹴裂明神と力を 併せ南山を決削して水を治め平野とし、里に住む山代王子がこの地を耕し、稲苗を敷 き民に米作りの道を教えた。大唐仙人を国立大明神、山代王子を山代王子権現として 両神を山頂に祀り苗敷山と呼んだ。聖武天皇の御代神亀元年(724)に延喜式内社 穂見神社を建立して春秋稲束と初穂を供えて祭りを行なった。中世になり山岳信仰の 仏教、修験道との習合が行なわれ、苗敷山権現と称した。天正10年の兵火と享保3 年の火災により大部分は焼失したが、社殿は天文元年(1532)再建され今日に至 っている。 |
穂見神社
鎮座地 韮崎市穴山町1856番地石水区稲倉 祭神 倉稲魂命 元旦祭 1月1日 建御名方命 祭日 祈年祭 2月17日 素盞嗚命 例 祭10月10日 旧御朱印社領 高7石6斗余 新嘗祭11月23日 社地 1836坪 境内地 666坪 山林 3反9畝 建物 本殿 宝暦3年建立 随神門文禄2年建立 鳥居 元禄2年建立 石橋 文化年間造 社宝 有栖川宮熾仁親王御染筆 外数筆 氏子崇敬者 約2〇〇戸 |
穂見 諏訪 十五所神社
創建年月不詳なるも、文献に依ると延喜式所載の穂見神社なり、往古甲斐の国民多く 稲穂を献ず、昭和20年9月10日郷社に列格す。毎年1月14日筒粥の神事が古式 厳かに斎行される。 |
宇波刀神社
創立年代不詳なるも貞観6年の銘がある石華表があり、又貞観8年3月28日従五位 上に叙せられた旨三代実録に記載があり、又延喜式神名帳にも県内他の19社と共に 登録された式内社であることから、貞観以前の創建であると推定できる。新羅三郎義 光寛治7年当国へ任官の際素盞嗚命・倉稲魂命の二神を勧請合祀し社領地を寄進せら れたと云う、明治6年郷社に列せられ、同40年神饌幣帛供進神社に指定せらる。昭 和55年4月拝殿の改築と神楽殿を新築する。 |
宇波刀神社
第18代反正天皇2年第2皇女円比女、封を此の地に受け、洲羽国諏訪明神を勧請し て守護神と崇め奉る。後養老2戊午国守社殿を造営し、相殿に事代主命、日本武尊を 合祀す。(円皇女居給いしにより円居と云う)社号は圭田三十八束三毛田所祭敏達朝 行式例宇波刀(裏門)神社と伝う。 貞観8年3月28日甲辰宇波刀神社従5位上式内社にして代々の国主並びに武将の崇 敬浅からず甲印状御朱印状を以て社領御寄進あり、御朱印4石8斗余、明治4年社領 上知同6年村社に列す、同40年神饌幣帛供進神社に指定せらる。 |
倭文神社
甲斐国所在の延喜式内2O社のI甲斐国志には倭文神社降宮明神とある。穂坂総社と いい郷中最も格式高い神社であった。 倭文はしずおりで麻などの繊維を赤青などに染めて横糸とし織った古代織物である穂 坂御牧が栄えた頃御牧の役人の妻や娘などが中心となって織った精巧な織物でこれら の女性たちが技芸の上達を祈るために天羽槌雄命天棚機姫命を祀ったのがこの神社の 起こりである降宮はおりみやで織宮を意味する、江戸時代に幕府は12石5斗の社領 を寄進した。 |
由緒沿革
起源は詳らかではないが延喜式に巨摩郡四社の一を笠屋神社とするとあるのを見れば それ以前に勧請したものであることが明らかである。 往古は朝廷から御下降の神田があったと伝えられている。治承年間武田太郎 信義三百二十貫文神領寄付があったが、天文年間大和川洪水のため流亡して河原とな った。その後慶長年間四奉行桜井安芸守外三名の黒印状を以て神領二石及び社地一千 九坪の寄付があった。 後徳川家光朱印状を以て神領二石及び社中竹木諸役の免除が あり、爾来徳川氏代々朱印状を以て寄付があったが、明治四年に上知した。以上 |
佐久神社由来記(略記)
祭神向山土本毘古王(むこうやまとほひこおう)は、彦火々出見命の後裔にして、日 向の国高屋御殿にて御誕生せられ日向土本毘古王と号せられた。長じて第二代綏靖天 皇の大臣となる。後に甲斐の国造に任命され臣佐々直武長田足円後辨尼その他衆多の 臣、及び千人の人夫を引き連れ甲斐に御入国せられる(BC561年)。その頃甲斐の国 の中央部は一面の湖であり、この湖水を疏導する為土地の豪族苗敷山に住める六度仙 人(去来王子)姥口山に住める山じ右左辨羅などの協力を得て南方山麓鰍沢禹の瀬の 開削により水を今の富士川に落とし多くの平土を得、住民安住の地を確保した。その 功績は偉大であり甲斐の大開祖として崇められた(工事着手BC554年3ヶ年後完成) 。王は第四代懿徳天皇四 月十四日薨去せられ(BC472年)大宮山古宮の地に奉葬す後 に雄略天皇(BC458年)土佛築山に改葬せられる。今の天神山古墳えなり。崇神天皇 八年BC90年2月3日甲斐の国大開祖向山土本毘古王をまつるため国祭を以て宮殿が 造営なされ佐久大明神と号せられる。(大宮山古宮の地)同年3月3日正一位を賜り 正一位大明神となる。神名については旧記に佐久大明神の他に大宮大明神、蹴裂大明 神、弓手力雄神、又手力雄神等種々見えるが手力雄に因んだものは、王生前に手力雄 神を崇敬し常に心で祈願していたと言う関係と思われる。延喜式の撰文に見られる神 名は佐久の神けさくの神文化十一年(D815年)の甲斐国誌は神名手刀雄神として あるがこれは誤りである。社殿については年代不詳であるが当初の古宮の地より社後 の山上御殿に遷座、そして天文十三年領主向山出雲守が社殿を造営、現在の地に遷座 せられる(D1545年)。社後の山上御殿の頃、大宮大明神と号されたもので世尊 寺三位の書といはれた極めて貴品の高い神額が保存されている。又、延喜式に列した のもこの頃である(D927年)。本殿は嘉永三年起工、同六年竣工(AD1719年 )で、改築されたもので中道町指定の文化財である。延喜式神名帳所載については大 日本神祇誌に曰く、「太古海水国内に泛濫し佐久神乃ち巌を蹴り裂き以て之を疏導し 始めて平土を得たり故に之をまつりて、けさくの神といふ今上向山佐久の地に在り大 宮明神と言う。 |
浅間神社の略誌
第11代垂仁天皇8年正月始めて神山の麓に鎮祭す。今ここを山宮神社と称して摂社 たり。。第56代清和天皇の貞観7年12月9日現在の地に遷祀せらる。甲斐国の一 宮にして延喜の制に於ける明神大社たり。明治4年5月14日国幣中社に列せられる 。本殿は流造銅板葺、拝殿は入母屋破風造銅板葺なり。境内は3395坪(1ヘクタ ール余) |
御由緒
人皇第五六代清和天皇の御宇、貞観六年五月富士山大噴火の事あり、富士山北面に在 った大湖SEノ海(現青木ケ原流域)埋没す。この様大噴火の為、時の住民は甚大な災 害を被く。此の事、甲斐の国司、橘ノ末茂公より朝廷に奏上、翌貞観七年十二月九日 丙辰の勅命により、富士山の神、浅間明神を此の地に奉斎、大領伴直真貞公を祝に同 郡の人伴秋吉公を祢宜に任じ、富士山噴火の鎮祭を行う。これ当神社の御創祀にして 、今より一一五〇年程前の事なり(日本三代実録による)、降って延喜の制により明 神大社に列せられる。 以上 (注)文中のSEは、「戔」偏に「リ」です。 |
中尾神社
飛永明神と号し大己貴命、少彦名命を合幣し垂仁天皇7年正月甲子の日勧請せし大社 にして延喜式甲斐二十社の一社であり、天慶年中藤原忠文、平将門征討の時奉幣あり しという、新羅三郎義光以来武田氏代々崇敬厚く社領を寄せられしこと多かり、本殿 は唐破風桧皮葺江戸初期)拝殿は明治40年新築規模大ならずといえども宮殿の形体 においては劣ることなく自ら神威の尊く仰しむるに足る。境内に中尾道祖神社と中尾 天神社奉遷したるなり。 |
鉾衝神社(ほこつきじんじゃ)
仁徳天皇4年(424年頃)創立と伝えられ、御祭神にあめのうずめのみことを祀る 町内唯一の延喜式内社である。昔は源家代々の祈願所として隆盛し、武田家の頃は米 倉氏により社殿等が整えられ、徳川時代には歴代将軍の崇敬を得て神領の寄進を受け ていたことが伝えられる。幕末の頃、災火にあい社殿、宝物、古文書等を焼失したが 明治34年に現在の社殿が再建された。境内に大神社、稲荷社、天神社、阿夫利神社 、蚕影神、道祖神等がまつられている。本殿裏には山梨県指定天然記念物の樹齢80 0年といわれた大けやきがあったが落雷等により枯死し、昭和56年に指定解除とな った。本殿東に八代町指定有形民俗文化財の米倉に昔から伝わっていた人形芝居の用 具保存庫があり、あやつり人形の頭42及び衣装道具一式と三番叟の人形3体が保存 されている。 |