![]() 三重県伊勢市朝熊町 its-mo 交通案内 ![]()
皇大神宮第一の摂社。寛文三年(1663)時の大宮司が摂社再興にあたり、不明となっていた跡地を現地に定めたとされる。社地を平坦にしている際、古鏡が掘り出され、その下に小蛇がいて守っていたように見えたと伝わる。当社の下は朝熊川と五十鈴川の合流点であるが、そこに鏡宮神社が鎮座している。目と鼻の先である。 『倭姫命世記』に、天照大神が五十鈴川上に鎮座後、御饗を奉つた「彼処にして神社を定め、神宝を置いた。」とある。当社には古くから白銅鏡二枚が奉安されており、鏡宮とも称されていた。鴨長明も、「あさま河をへだててひるかわのよこねといふ山あり。その山の西のはなに、かがみのみやおはします」と記している。この神鏡は当社の前を流れる江澤の中の岩上に御坐すなり、とされている。神鏡は長寛元年(1163)に紛失し、建久十年(1199)、天福二年(1234)、文永六年(1269)にも岩上に鏡が出現したという。これが鏡宮の由緒であろう。先に、朝熊神社の向かって右側に立てられたが、ここは朝熊御前社となり、鏡宮神社は朝熊川と五十鈴川の合流点に独立した。明治九年(1876)に神宮末社となった。 当社は伊勢国度會郡の延喜式内社であり、暦応三年(1340)には造営所課が安芸国に五十二石課せられていた。室町時代初めまでは造営使造替が行われていたと思われるが、文明三年(1471)の造替関係資料には、小朝熊宮には所課の国名や用途料が記されておらず、この頃から衰退していったものと推定されている。なお、これは正遷宮が寛正三年(1462)を最後に中絶した時期と呼応している。(『式内社調査報告』朝熊神社 清水潔)。 ![]() ![]() ![]()
参考 『式内社調査報告』、『平成祭礼データ』 |