須智荒木神社
三重県伊賀市荒木108 its-mo
鳥居と石段

交通案内
近鉄上野線伊賀上野駅東4km
祭神
猿田彦命 配 武内宿禰命、葛城襲津彦命 合神多し
由緒
通称白髭大明神と言う。伊賀国阿拝郡の式内社。
『古事記』安寧天皇記に「師木津日子命の子、二王坐しき。一の子孫は、伊賀の須知の稲置・那婆理の稲置・三野の稲置の祖。」 とあり、この伊賀の須知の新たな開墾の地即ちアラキの祖神を祀ったものと見られている。(『日本の神々6』
また山城国綴喜郡の式内社の朱智神社の存在を指摘している。
朱智神社は息長氏の祀る神社であったようで、加えて白髭大明神の名からは新羅国、荒木からは安羅国が連想され、渡来人のにおいが漂う。
明治四一年近隣の二九社を合祀している。
社殿 神明造の本殿など
お姿
神社への道筋の途中で発掘作業が行われていた。訪ねると奈良時代の遺跡のようだ。 また当社の東南方向の尾根上に四世紀後葉から五世紀中葉の前方後円墳などは発掘されている。
社殿は北向き、安政二年の石造灯籠が鳥居の横に聳えている。圧巻。
鳥居の横の巨大な石灯籠

お祭り
4月20日 春例祭
10月19日 例大祭
10月20日
由緒 平成祭礼データ
由緒
当社は創祀については、詳らかにはし難い。須智の稲置の一族が、この地を 開墾し、ここに奉祀したものと考えられる。平安時代には伊賀国阿拝郡の小社須智荒
木神社として、延喜式内社に列せられた。天正九年(一五八一)の天正伊賀の乱に際 して、伝世の古記録・古文書のことごとくを焼失した。只一つ伝承として鎌倉時代に
伊賀守仲教なる人物が、社殿を造替したと伝えられている。仲教は寿永二年(一一八 三)伊賀守に任じられており、あるいは鎌倉時代初期に社殿が修造されていたことに
なろう。
その後、慶長一七年(一六一二)にいたり、社殿は再建された。江戸時代にはあつく 崇敬され当社の他、敢国神社・菅原神社・愛宕神社・浅宇田神社をあわせて伊賀五大
社と称し、領主入国の折りに必ず参拝するのが例であった。明治四一年(一九〇八) 大字西明寺鎮座の八幡宮をはじめ二九社をそれぞれ合祀した。
昭和六年(一九三一)村社から郷社昇格。昭和二一年(一九四六)社格廃止。
宝物 石造灯篭(安政二年[一八五五]作の在銘を有す。)
交通 近鉄線「上野市」駅下車、駅前より三交バス阿波行きにて「寺田橋」下車、徒歩約一〇分。
以上 |
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