高野神社略誌
由緒 謹んで案ずるに,我等の氏神高野神社発祥の地は吉井川原のONO馭盧岩と伝えられます。 遠い祖先は此処を磐境として敬虔な祭祀を行っていたものと思はれます。 今から約千五百年の昔安閑天皇二年(五三四年)に山川の秀麗にして清浄な此の地を 選んで社殿を営み神霊をお祀りしました。 御神威は年と共にお栄えになり,早くから美作総鎮守三大社の一つとして,広く官民 大衆の尊信するところとなったのであります。 また朝廷におかせられても,すでに平安時代に高い神位に進められ,延喜式内社とし て特別の崇敬を捧げられ,降って武家の世となってからも源頼朝,山名時治,毛利元 就,小早川隆景等の諸将が社殿の造営や祭資の献納などにつとめ,森厳優雅な社叢宇 那提森の雅名と共に,広く世にたたえられるようになりました。 そして戦国衰頽のあとをうけて美作国主となった森氏は,社領を寄進し社殿を修造し て祭祀を盛んにし,松平氏もまた年々祭資を供進し,現在の社殿は,寛文三年(一六 六三年)森長継によって修造されたもので,県の重要文化財に指定されています。 (注)文中のNOは「石」偏に「段」です。 |
中山神社略記
文武天皇慶雲四年(七〇七年)此の地に社殿を創建して鏡作神を奉斎したと伝えられ ている。 貞観年間つとに官社に列せられ,延喜式に於ては美作国唯一の名神大社であると共に 此の国の一宮でもある。 「今昔物語」に猿神の説話があり,後白河法皇の御撰にかかる「梁塵秘抄」には関西 に於ける大社として,安芸の厳島社備中の吉備津宮などと肩を並べている。 鎌倉時代に元冦など国家非常の時に際し,勅命により特に全国七ケ国の一宮に国家安 穏を祈願せしめられているが,当社も其の中に選ばれて祈願を厳修したことが伝えら れている。 弘安八年に一遍上人回国の途当社に参詣し念仏踊を行ったが「一遍聖絵」(国宝第八 巻)に作州一宮図があって,其の節参詣の図が描かれている。 建武中興破れて天正に至る約四百年間は,美作国中戦乱の巷と化し,為に社寺の祭祀 も殆んど絶えなんとする有様であったが,当社は永正八年(一五一一年)と天文二年 (一五三三年)の両度に祝融の厄に遭い,本殿以下山上山下の摂末社百二十社と共に 宝物・什器・旧記・古文書等悉く炎上焼失した。 永禄二年(一五五九年)に至り,出雲城主尼子晴久戦捷報賽の為め社殿を復興した。 世に中山造と称せられる入母屋造妻入檜皮葺で方五間の宏壮雄大な御本殿であって, 大正三年国宝建造物,現在国指定重要文化財である。 慶長八年森忠政美作全州を領して入封するに至り,国内漸く平定し歴代の藩主の崇敬 も厚く社領の寄進や修築の資の奉献など絶ゆることなく,又「一宮さま」と親しまれ ,朝野の信仰を集め,中世より近世にかけては門前市も大いに繁昌した。 明治四年国幣中社に列格,御祭神金山彦命と定められた。 これにより明治年間再度に亘り御祭神名を「鏡作神」に改められる様願出でたるも聴 許せられず終戦を迎え,昭和二十一年宗教法人中山神社設立届出に当り御祭神名を主 神鏡作神,相殿に天糠戸神,石凝姥神配祀と総て明治以前の社家伝承や旧記類に明記 せられている御神名に旧した。 宗教法人中山神社となりし後も,御本殿以下諸建造物等境内の森に至るまで昔のまま の姿にて防災施設も完備し,美作国の一宮と広く尊信せられて現在に至っている。 |