垂水神社
大阪府吹田市垂水町1-24-6 ゼンリン
一の鳥居

交通
阪急千里線豊津駅 北西10分
祭神
豐城入彦命
配祀 大己貴命、少彦名命
摂社
不動社ほか
社殿風景
由緒
千里山を背に何面して鎮座、かっては摂津一の薬水と称えられた清らかな泉からの滝があった。
北大阪の開発の波で地下水脈が隠れ、今ではわずかに千里山からの水が流れているに過ぎないが、修行の場として残っている。
当社は泉を祀る水神として古来より祀られてきたものであろう。神社の境内地の山には、弥生時代の集落遺跡が発掘されている。竪穴住居4棟が調査され、2棟には中央に炉が設けられていた。また高床式住居跡、焼土抗、多数の弥生式土器や石鏃、鉄鏃、石槍などが出ている。古社の中の古社と思われる。
『延喜式』では摂津国豊島郡の名神大社となり、祈雨祭に預かる八十五社の一座、また住吉、丹生川上、貴船、賀茂などの各社とともに朝廷からもたびたび祈雨祈願の要請を受けている。
また、八十島祭にも住吉神、大依羅神、海神、住道神とともに垂水神として幣帛をさずけられている。
拝殿
祭神の豐城入彦命は崇神天皇の皇子であり、その子孫である阿利真公がこの地におり、旱魃に見舞われた際、孝徳天皇の豊崎宮に高樋を通して垂水の水を送ったので、その功を賞して垂水公の姓を賜ったという。
それが祭神を豐城入彦命として由縁であると、『日本の神々3』で小林章氏は記述している。
垂水を詠んだ万葉歌
一一四二 命を幸(さき)くあらむと石走る垂水の水を結びて飲みつ
一四一八 石激(いはばし)る垂水の上のさ蕨の萌え出(づ)る春になりにけるかも(志貴皇子)
三〇二五 石(いは)走る垂水の水のはしきやし君に恋ふらく吾(あ)が心から
神社の北側に滝跡があり、更に北には不動社など神仏混合の名残の摂社郡がある。かっては修験者が滝修行などをよく行っていたそうである。不動社では現在でも神主が護摩を毎月焚いているとのこと。
社殿

不動社
お姿
かってのこんこんと湧き出る泉やまた万葉の頃のワラビの名所の面影は全く残っていない。
わずかに千里山の南半分が北大阪の手つかずの森として今に名残を伝えている。 「古雅、白沙、掃き掃除の跡は常に新た」と『摂津名所図会』に記載されているが、参拝時も「掃き掃除の跡は常に新た」であった。それは素晴らしいこと。
鳥居からの参道約100mは両側に住宅がぎっしり建っている。
お祭り
5月20日 春季例祭
10月20日 秋季例祭
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垂水神社由緒書
神崎川・淀川が古来難波と呼ばれていたこの地を西に流れて茅渟の海にそそぎこむ、 その北岸に鎮座する垂水神社は、七世紀のはじめの起源を今日に伝えている。
「新撰姓氏録」は、この地に勢力を持っていた阿利真公が大化の改新頃の旱魃のおり 、垂水基岡(千里山)から湧き出る水を、当時の難波長柄豊崎宮に送り、その功をた
たえられ、垂水公の姓を賜るとともに、垂水神社を創祀したという。
いははしる垂水の上のさわらびのもえいずる春になりにけるかも(万葉集・志貴皇 子)と、万葉集にも詠まれた神水が涸れることなく、今も一千数百年の時を越えて垂
水の滝として流れ続けている。
社伝によると、豊城入彦命は、崇神天皇の第一皇子でありながら、弟の垂仁天皇に皇 位を譲り東国開発の旅に出た。のちに四道将軍の一人に数えられる豊城入彦命が、第
一歩を記したのがこの垂水の地であり、子孫が神として祭り社を阿利真公とその末裔 に伝えたという。なお、境内には弥生時代の住居址が確認されており、水にたいする
信仰はかなり古くからあったものと思われる。その後は、祈雨の神として朝廷をはじ め広く信仰をあつめ、平城天皇の頃に封戸の寄進をうけて以来、平安時代には、勲八
等従五位下から従四位下まで、祈雨のたびに神階を進めた。延喜式(九〇七年)制に おいては、名神大の社に列せられている。また、大嘗祭にさきがけて行われたといわ
れる八十嶋祭において、朝廷より奉幣と祭料布を下賜されたといい、これを証明する ように神崎川畔から古鏡が発見されている。また垂水の地には、最近まで律令制のな
ごりを伝える条里の遺構も見受けられた。
やがて、古代から中世の荘園の時代には、当社を含む垂水荘は、豊かな農耕の地ゆえ に東寺や春日大社などの有力社寺の有力権争いの対象となっていた。 近世にあって
は、社寺の衰えという時代の情勢を越えて、熱心な信者に支えられ、天和三年(一六 八三)に社殿を改築し、朝廷から十六弁の菊を神紋として使用することが認められて
いる。
明治以後郷社となり、昭和四十九年(一九七四)、衰えることなき 氏子崇敬者の熱意で造営奉賛委員会が組織され、今日の本殿・幣殿・拝殿を完成奉仕
するに至った。
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