筑前國19座 大16、小3
宗像郡[ムナカタ]:4座並大
宗像神社3座(並名神大)
宗像大社沖津宮[むなかたたいしゃおきつみや]「田心姫神、配 湍津姫神、市杵嶋姫神」沖の島は不言島[おいわずのしま]と言い島のことは絶対口外してはならず、一本一草とも島外へ運び出せば禍を招くとされていた。今日でも女人禁制である。神殿の周囲には累々と巨岩がある。航海の目印として貴重である。 福岡県宗像郡大島村沖ノ島2988
宗像大社中津宮[なかつみや]「湍津姫神 配 田心姫神、市杵嶋姫神」福岡県宗像郡大島村大岸1811 玄松子の記憶
宗像大社辺津宮[へつみや]「市杵嶋姫神 配 田心姫神、湍津姫神」福岡県宗像郡玄界町田島2332 神社公式 玄松子の記憶
織幡神社[オリハタ](名神大)
織幡神社[おりはた]「武内大臣、志賀大神、住吉大神、天照大神、宗像大神、八幡大神、壹岐眞根子」
由緒
延喜式名神大社(旧県社)祭神武内宿祢神、住吉大神、志賀大神、武内宿祢公は神功
皇后と謀りて此地で赤白の軍旗を織られ軍船に立て異賊を平定(コトムケ)られ応神
天皇の御時筑紫国を治められる此の鐘の岬の佳境を慕はれ此地は本朝無雙の霊地なり
此の風景に飽くことなし我れ死なば神霊を此地に祭祀るべし国家安穏の守護神となら
んと申され仁徳天皇の御代三百余歳にて双つの沓を遺こされ神去りましたので此地に
沓塚を建て号を織幡神社と稱へ社を建てられました以来富貴長命航海安全の守護神と
篤く尊崇されています霊験尊く参拝後をたたず
万葉集七 よみ人不知
千早振るかねの御崎を過れ共 我は忘れず志賀の皇神。
履中天皇時代の創建。古い海人族にゆかりの神社である。宗像神と機織との関係も、五世紀代に朝鮮から渡来し定住したものから生じた伝承である。 福岡県宗像郡玄界町鐘崎字岬224 玄松子の記憶 鐘崎の織幡神社
那珂郡[ナカ]:4座並大
八幡大菩薩筥崎宮神社[・・ハコサキノミヤ](名神大)
筥崎宮[はこざきぐう]「應神天皇 配 神功皇后、玉依姫命」
筥崎宮略記
筥崎宮は、日本三大八幡宮の一つで、その創建の時期については諸説があり断定する
事は困難である。延喜21年(西暦921)神のおつげにより醍醐天皇は「敵国降伏
」の宸筆を下され、大陸、玄界灘に面して壮麗なお宮が建立され、延長元年(西暦9
23)大分宮(穂波宮)よりこの宮に遷座されたことになっている。この地は大陸に
近く古くから文化の開けた地であった。特に海外との交流の門戸であり護国の要衝で
もあった。深遠な御神慮がしのばれる。
幾つかの石鳥居を通して志賀島が先端をのぞかせる。丁度、金印の出土地を指している。 福岡県福岡市東区箱崎1丁目22-1 筥崎宮 玄松子の記憶
住吉神社3座[スミヨシ](並名神大)
住吉神社「底筒男命、中筒男命、表筒男命」
住吉神社由緒略記
御鎮座の由来・沿革
住吉三神は遠い神代の昔に、伊弉諾大神が筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原でミソギ
ハラへ(禊祓)をされた時に、志賀島神社の御祭神・ワタツミ三神と警固神社の御祭
神・直毘の神と共に御出現になりました。したがって当社の御鎮座は遠い神代のこと
で、年代を定めることは出来ませんが、全国的にも九州でも最も古いお宮様の一つで
す。住吉大神をお祀りする神社が全国に二千百二十九社ありますが、当社は住吉の最
初の神社で、古書にも当社のことを「住吉本社」「日本第一住吉」などと記されてお
ります。また、平安時代に全国各地に「一の宮」が定められましたが、当社は筑前の
一の宮として朝野の厚い崇敬をうけました。約千八百年前、神功皇后の三韓への御渡
航に際し、住吉大神の荒魂は水軍をお導きになり、和魂は胎中天皇と申し上げた応神
天皇の玉体をお守りになり、刃を用いずして御帰還遊ばすことが出来ました。よって
皇后は住吉三神の御神徳を厚く敬迎感謝され、新羅の都に国の鎮護として住吉大神を
お祀りになり、また摂津(大阪)、長門(山口)、壱岐に住吉神社を御創建になりま
した。住吉大神のご神徳は、その御出現の由来に拝しますように、「ミソギハラヘ」
の御霊徳によってわれわれに心身の清浄を保たしめ給い、そしてそれにより生ずる「
開運と光明」をお恵みになるのであります。更に、応神天皇の御代から国運大いに開
けたこともあり住吉大神は文教、殖産、興業、開運、安産、予言、の神として信仰さ
れております。またツツノオ(筒男)のツツには星の意味があると言われ、筒男三神
は航海安全、船舶守護にその神威をあらわされ、海運・漁業者の崇敬が極めて厚く「
住吉丸」と名づけた船が多いのもそのためであります。このように御神徳が広大であ
りますので、当社への朝廷の御崇敬はとくに篤く、神功皇后の勅祭(十月十三日の例
祭の起源)に始まり、聖武、清和、陽成、後一条、鳥羽、後花園の各天皇が奉幣あら
せられ大正天皇は三度、昭和天皇は五度の奉幣がありました。また当社は諸武将の崇
敬も厚く、楠正成、源頼朝、足利尊氏は祈願文、寄進状を寄せ、一時は自国・他国を
合わせ神領三千余町(ha)歩、神人三百余人に及んだと伝えられます。江戸時代に入
っては、黒田藩祖長政以来歴代藩主の崇敬は殊に篤いものがありました。
福岡県福岡市博多区住吉3丁目1-51 玄松子の記憶
住吉神社「底筒男命、中筒男命、表筒男命」
御由緒
住吉三神は、遠い神代の昔に、伊弉諾大神が筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原でミソ
ギハラヘ(禊祓)をされたときに、志賀海神社の御祭神、ワタツミ三神と警固神社の
御祭神・直毘の神と共に御出現になりました。したがって、当社の御鎮座は、遠い遠
い神代のことで年代を定めることは出来ませんが、全国的にも九州でも最も古いお宮
様の一つです。別称、住吉大明神とも呼ばれていますが、それは年代も古く、由緒も
正しく、崇敬の顕著な神として選ばれた延喜式の明神祭にあずかる社格として認めら
れたものと思われます。
福岡県福岡市南区若久1-20-28 玄松子の記憶
糟屋郡[カスヤ]:3座並大
志加海神社3座[シカウミ](並名神大)
志賀海神社[しかうみ]「底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神」
志賀海神社略記
古事記上巻に「此三柱綿津見神者阿曇連等之祖神以伊都久神也阿曇連者其綿津見神子
宇都志日金拆命之子孫也」旧事記に「底津少童命・仲津少童命・表津少童命(綿津見
神の別号)此三神者阿曇連等所祭筑紫斯香神也」即ち神代の昔伊弉奈岐大神筑紫の日
向の橘の小戸の檍原に禊祓ひ給ひ身心の清浄に帰り給ひし時生れ給ひし御神にして海
神の総本社として鴻大無辺の神護を垂れ給ひ諸々の海の幸を知食し給ふ故に神功皇后
御征韓に際しては神裔阿曇連磯良丸命をして舟師を導かしめ給ひ又元寇の役その他国
家非常に際し赫々たる御神威を顕はし給へり、さればしばしば勅使の奉幣あり延喜の
御代には名神大社に列せられ或は封戸奉り神階を賜ふ等上下の尊崇深厚を極め神領等
も頗る多く、中津宮、沖津宮と共に三社別々に鎮祭せられ結構壮麗を極めたりしが其
後久しく兵乱打続き神領等も次第に失せびて漸次衰微するに到れり然るに豊臣秀吉九
州出陣に際し朱印地の寄進ありたる外、大内義隆、小早川隆景、小早川秀秋、黒田長
政等諸将相についで社殿の造営神領の寄進等ありて凡そ面目を改めるも尚到底昔日の
比にあらず、明治五年僅かに村社に指定せられたる状態なりしが大正十五年官幣小社
に昇格仰出されたり。
福岡県福岡市東区志賀島字勝山877 玄松子の記憶
怡土郡[イト]:1座小
志登神社[シト]
志登神社[しと]「豐玉姫命 配 和多津見神、息長帶姫命、彦火火出見尊、武内宿禰命」この神社の南側の旧怡土郡の海岸線に沿って弥生遺跡が並び、志登には前期の支石墓郡がある。福岡県糸島郡前原町大字志登82 玄松子の記憶
御笠郡[ミカサ]:2座並大
筑紫神社[チクシ](名神大)
筑紫神社[つくし]「五十猛命、白日別神 配 玉依姫命、坂上田村麿」
国号起源由緒略記
御祭神は白日別命にて後世玉依姫命坂上田村麿の神霊を相殿に奉祀す当社は延喜式神
名帳に名神大の神格を定められ神代の神様に座して往古九州を筑紫と云ふ称は白日別
命の神号より起り筑紫(筑前筑後)の国魂にして朝廷より当社を尊崇せらるゝ事は古
書に判然せり三代実録と云ふ同書の弐巻に清和天皇貞観元年正月27日筑前国従五位
下筑紫神従四位下を授く同書30巻に陽成天皇元慶3年6月8日筑前国従四位下筑紫
神従四位上を授くと見え又類聚符天元2年2月14日の官符に当国住吉香椎筑紫竃門
筥崎等の宮皆大宮司を以て其の貫首となすとあり此社は初城山の頂に在りし崇励あり
しにて麓に移と云ふ昔は神田等多く其名称の字に遺りしもの原田筑紫に在す又武人の
崇敬最も厚く筑前藩主黒田家より神殿の改築等なせり大正4年7月6日郷社より県社
に昇格せらる。
白日別神は五十猛命の別名である。福岡県筑紫野市大字原田字森本2550 玄松子の記憶
竈門神社[カマト](名神大)
北谷竃門神社[きただにかまど]「玉依姫命 配 應神天皇、神功皇后」境外遥拝所である。福岡県太宰府市大字北谷字宝満 玄松子の記憶
竈門神社上宮「玉依姫命 配 應神天皇、神功皇后」宝満山の頂上に鎮座、巨岩に覆われている。福岡県太宰府市内山字御供屋谷宝満山頂上 竃門神社・宝満山リンク 玄松子の記憶
竈門神社下宮「玉依姫命 配 應神天皇、神功皇后」
宝満宮竃門神社由緒
御祭神は神武天皇の御聖母玉依姫命であります。命は、海神の女で鵜・草葺不合尊(
うがやふきあえずのみこと)の妃となり五瀬命・神武天皇等四柱の御子を産まれた後
御子の教養と建国の大業に心をくだきこの竃門山に登られて祈念されたと伝えられる
。降って天智天皇の御代大宰府政庁(都府樓)建立に当たり竃門山は鬼門にあたるの
で勅使を派遣して厳かに祭祀を行い大宰府政庁の守護神とされた。ついで天武天皇白
鳳2年(673年)神殿を創建されたのが当神社のはじまりで以来皇室の御信仰も篤
く延喜式神名帳に名神大社にに列するとあり白川天皇の御代から九州二島の神と崇め
られました。戦国時代に入って社殿は度々の兵火に焼かれましたが黒田長政が筑前藩
主となって再築されました。明治維新後は村社となっていましたが明治26年官小社
に昇格して昭和20年まで社格を保ってきました。お社は上宮・下宮に分かれ上宮は
宝満山々頂(830米)の大盤石の上に鎮座されています。下宮の御社殿は昭和初年
に造営され現在に至っています。古歌に「春は萌え秋は焦がるるかまどやま霞も霧も
けぶりとぞみる」清原元輔と歌われ多くの歌人達に詠まれている名山である。
福岡県太宰府市太宰府大字内山883 玄松子の記憶
上座郡[カミツアサクラ]:1座小
麻良布神社[マテラフ]
麻良布神社[までらふ]「伊弉諾尊、月夜見尊、天照大神、素盞嗚尊、蛭子尊」福岡県浅倉郡杷木町志波5458 玄松子の記憶
下座郡[シモツアサクラ]:3座並大
美奈宜神社3座[ミナギ](並名神大)
美奈宜神社[みなぎ]「素盞嗚命、大己貴命、事代主命」福岡県甘木市大字林田字蜷郷205 玄松子の記憶
美奈宜神社「天照皇大神 配 住吉大神、春日大神 合 神功皇后、武内宿禰」水分神とする古説がある。 福岡県甘木市荷原2421 玄松子の記憶
夜郡[ヤス]:1座小
於保奈牟智神社[ヲホナムチ]
大己貴神社「大己貴命、天照皇大神、春日大神」
おんがさま
通称おんがさまの御祭神は大国主命です。私たちの生活に欠かせない水の神様が、目
配山辺りで、麓の村々の田や畑の作物が豊かに育ちますようにと、大切な水を分配し
て下さるので、その恵みに感謝した昔の人々が、国土つくりの神である大国主命と共
に、静かなこの森に鎮守の神としてお祭りした次第です。大国主命は、だいこくさま
とお呼びし 因幡の白兎の話が物語るように、動物はもちろん、人々の病気を治す医
薬の神様であり、大昔からお祝や色々な行事に用いられたお酒作りの神様としても有
名で、その他、たくさんの御徳を備えられております。いつの頃からか、天照大御神
、春日大明神をも併せてお祀りするようになりました。日本の正史として編纂され、
720年にできた日本書紀には神功皇后の事跡に関連のあるお社と記されてあります
が、その当時、朝鮮半島へ軍兵を進めた事実があり、それが語り継がれて日本書紀の
記述となったのでしょう。更に、927年にできた、お役所の規則である延喜式の神
明帳に筑前国夜須郡鎮座於保奈牟智神社と記載され、我国で古く由緒のあるお社であ
ることがわかります。神話といわれながらも歴史の真実を伝えてる文献から、銅鏡な
どの出土品から、耶馬台国甘木朝倉地方説が強烈な説得力を持って私たちに迫ってきます。
通称おんがさまの御祭神は大国主命です。福岡県浅倉郡三輪町大字弥永697-3 神社 玄松子の記憶
H24.1.23