豊雷賣命
由緒
創立年度不詳、文化元年七月七日修理の棟札在り。古老の伝える所によると、本社は 其の位置浜辺にある故に大風雨に当たり流失すること数度、従って、其の創立及び再 建の年月等詳らかならざるも南北朝の初頭、浜名左近大夫清政再建して以来同一門の 尊敬極めて厚かりし如く文化元年七月七日修理の棟札のみは存在する。 延喜式神名帳に所載、遠江国浜名郡五座の内猪鼻湖神社也。勧請は景行天皇十九年と 伝う。(神社覆録)猪鼻湖神社条の弐参考に在り、敷知郡下尾奈瀬戸という。明治五 年村社に列格、昭和五十年、境内神社を合祀す。 |
社頭掲示
御祭神 大物主命(大己貴命) 御神宝 飛神曲玉 (町文化財) 御由緒 敏達天皇二年創建。延喜式内社にして長徳元年より大和大明神と称し、永正 十五年に二宮神社と改称。明治六年郷社に列す。 例祭日 十月中旬(流鏑馬神事) 境内社 太郎社 白山社 社宮司社 稲荷神社 津島社 八幡神社 楠神社 御神徳 御祭神は須佐之男之命の御子にして、父君の命によりこの地を開発して瑞穂 の国に造り上げ天孫に献上した大功により「大国主命」とも「国造之大神」とも「大 物主命」とも申し上げる。国土開発、福徳縁結び、萬の産業、医薬、健康安全、知徳 の主護神として敬われ 御神徳極めて高し |
御由緒
細江神社は古くは牛頭天王社と申し、今日なお一般に気賀のお天王さまと尊称されて おります。 社伝によれば、名神大社角避比古神社、元国幣中社、は浜名郡新居町に御鎮座、第5 5代文徳天皇嘉祥3年8月( 850年) 官社に列せられた立派な神社で、浜名湖入口 の守護神として氏子の方々に厚く信仰されておりましたが、第103代後土御門天皇 、明応7年(1498年)8月25日、大地震、大海〓がおこり、社殿、建造物がこ とごとく流没し、御神璽が当地赤池の里に着御、里の人々が尊んで御仮宮を建てて、 年年お祭りをしておりましたが、永正7年(1510年)新しく社殿を現今の所に建 てて奉遷し、牛頭天王社と称え、気賀の郷の総氏神様としてお祀りをして来ました。 明治元年9月社名を細江神社と改め、明治6年3月郷社に列せられましたが戦後この 制度は廃止となりました。 赤池の里は当社より約300メートル東南にあり、例祭当日、御神輿の神幸祭を盛大 に執行致して居ります。 |
参拝のしおり
当社は、静岡県浜名郡舞阪町(まいさかまち)に鎮座しており、神社界の最も古い記 録といわれる『延喜式 神名帳(醍醐天皇延喜五年・西暦九二七年)』によれば遠江 国六十二座、敷智郡六座の一社として『岐佐神社』の名が記録されており、このグル −プの千数十年以上の 古いご由緒を持つ神社を『式内社』と呼ぶ。 神社覈録(かくろく)によると「孝徳天皇三年(大化三年 六四七年)丁未十一月 『岐佐神社に、天児屋根命を祭る。』とあり、亦、特撰神名牒には「蚶貝比賣命・蛤 貝比賣命を祭る」とある。仮に、大化三年に岐佐神社が創建されたとしたら、既に千 三百四十有余年を経ていることになる。遠江国風土記傳に「昔、象島(きさじま)と 号せし所以は、此地海中に岐佐貝多く生ずればなり、後、澤となり廻澤と号す。其の 澤も亦海と為る。」とある。これらを総合すると御祭神の『蚶貝比賣命』と郷名『象 島』は『キサガイ』(あかがい)とは関係が深いものと思われる。 岐佐神社の境内に産土神 俗に御親様(護神様)といわれている神社がある。この御
親様(護神様)には 皇太神宮(天照大御神・豐受大御神) 春日大社(天児屋根命
) 津島神社(須佐之男命)の御分霊をお祭りしているので、神社覈録では「岐佐神
社に天児屋根命を祭る」といったのであろうか。『岐佐神社由来記』に「明応の変(
明応七年、 一四九八年八月二十五日)に舞澤の郷は、人家と共に海中に漂没せり。
御祭神[蚶貝比賣命・蛤貝比賣命]に関する神話
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御由緒・沿革 社伝によれば、仁徳天皇、遠津淡海の海運安隠のため、海神、玉依姫命を、現小沢渡 町の許部の里にお迎えしたとあります。この許部神社は、「延喜式」の敷智郡6座の 神の中に登録され、極めて由緒のある神社であります。その後、938年、朱雀天皇 、天慶元年に、神託によって当地に遷されました。その節、白狐が老翁の姿となって 「浜の松」を移し植え。「浜松」の地名となったとも伝えられております。この翌年 、将門が常陸で、翌々年藤原純友が伊予で反乱を起こしたため、石清水八幡宮の神霊 に頼る信仰が盛んになった頃でありました。 |
御由緒・沿革 天正天皇の御代舎人親王藤原不比等公勅を奉じ遠江灘の鎮守として摂津の住吉神社よ り荒魂を勧請奉祀す。延喜式所載の津毛利神社是なり。西舞阪より東掛塚に至る46 村の総鎮守として崇敬され、46所大明神とも奉唱さる。明治6年郷社に列せられ、 戦後神社本庁所属神社となる。 |
御由緒・沿革
当社は延喜式神名帳927年)所載「遠江国敷知郡賀久留神社」である。祭神は「 闇御津羽神」「闇淤加美神」の二神で五穀豊穣、水分、生寿、福賀、厄除の神である 。のち「気長帯比売神」「誉田別命」「玉依比売命」を合祀し、武運長久、交通安全 、護身の神である。清和天皇、貞間4年5月朔、位海を授けられた。延元3年正月、 宗良親王の御祈願。応永26年、将軍足利義尚公御造営。天文10年3月、国司今川 義元公再建御神領壱千石寄進。慶長6年伊奈備前守忠次公御黒印15石御寄付。慶安 元年、徳川家光公先規に依り御朱印15石御寄付。領主吉田城主、松平伊豆守信祝殿 以来累代名祭祀料山林164町8反歩御寄付。浜松藩主代々奉幣。以上の様に武門武 将、領主の崇敬が深かった。もと、八幡宮と称していたが改称の儀、明治16年1月 許可され、昭和4年7月4日、県社に列格せられる。昭和5年5月、昭和天皇行幸の 御時に当社所有宝物の天覧の光栄を賜う。 |
由緒
引佐町井伊谷字天白にあり、境内二千五百三十五坪老杉古桧欝蒼として繁茂し、北西 南の三方河水回りて(神宮寺川にして又宮川ともいう)其風致最も秀拔なり。 由緒創立の年代由緒詳ならざれども、三代実録に貞観八年十二月二十六日授遠江国正 六位上蟾渭神風土記に延喜式神名帳遠江国引佐郡渭伊神社とあり又 江州彦根城主井 伊家祖先備中守共保 寛弘七年其神井より出生以来産土神として信仰厚し、渭伊神社 は往昔 今の龍潭寺境内にありしも南北兵乱の時 今の地に移せりという。往昔より渭 伊二十七郷の大産土神なり。旧地頭近藤氏の崇敬厚し。 |
由緒
延喜式内神名帳に記載の遠江国引佐郡乎豆神社是なり旧神領、朱印高15石寄附せら る、明治6年3月村社に、大正11年8月3日郷社に列す合〓神社11社は明治7年 5月、1社は昭和8年10月何れも当社に合〓古老の口伝に依れば往古は社領5町8 反歩なりしと云う。 坪附古文書あり、引佐郡気賀広岡鎮座神明宮、浜名郡五島村鎮座神明宮は当神社の御 分霊なりとし、古老の言伝えなり。古来の伝説を聞に往古頗大社にして一の鳥居、二 の鳥居、御前の鳥居、中門、西宮鳥居等の建築有りし由、昔文化9申年6月5日の大 洪水に依り伝来の旧記悉く流出して見るべきもの不教といえども当神社は延喜式神名 帳記載の神祇にして其の鎮座する郷は元刑部の郷と称し上古より地方崇敬の中心たる を知さる。 伝え日く往古は社頭高5町8反歩を有し従って社殿の設備又拡大なりとし降って徳川
幕府に至り御朱15石を拝領せり其の文言に日く、遠江国引佐郡神明社領同郡刑部の
内15石事任先規寄附の暈金可収納と是れ徳川氏に至りても尚上古の先規を重んじ崇
敬殊に厚くし証票にして刑部村にて神地を寄せらるるにも不拘引佐郡神明領と冠し一
村落の小社に非ざる事明にして明治維新の際に至る迄格別の礼を以て取扱われたる次
第にして当郡内の崇敬厚かりしは論なき所なり。
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由緒
当二宮神社は多道間守と宗良親王との御二柱を御祭神としております。往古は三宅神 社と称し奉り天日槍尊の四世で井伊郷の荘司三宅氏の始祖多道間守の尊霊を奉祀した 延喜式の式内社に列せられた霊社であります。 第十一代垂仁天皇の勅諚に応え常世の国から我国へ橘を招来したのがこの祖神多道間 守で当地発祥の井伊家は式内社渭伊神社を象徴する井桁と当三宅神社の橘とを家紋と 致しました。元中二年八月十日後醍醐天皇の皇子宗良親王が井伊城に薨ぜられるや九 月南帝の勅使中院為久卿、中院小将定平朝臣下向、御連枝の方、方廣寺開山圓明大師 を御導師として葬送の御儀を執行い当三宅神社に尊霊を合祀奉り、爾来二柱の神霊を 祭祀するため二宮神社と改称し奉りました。 |
蜂前神社の由来
祭神 本社 HI速日命 左脇宮 〓速日命 右脇宮 武〓槌命 由緒 十五代応神天皇11年庚子3月8日(西暦270年)に八田毛止恵と云う人が勅命に よって遠江国に下向して 八田(祝田村の古名)45町広田(刑部村の古名)70町 岩瀬(瀬戸村の古名)8町3反合計123町余りを開墾して本社を八ケ前に歓請して 蜂前神社と斎き奉り子孫代々祝部として奉仕しました。 脇宮2社は十九代允恭天皇の御代に歓請されその頃から社号は鳥飼神社、羽鳥大明神 と称えられ延長5年(西暦927年)蜂前神社と改め古名に復しました。延喜式神名 帳に記載されている式内社であり旧社格は郷社であります。 昭和55年10月之建 以上 (注)文中のHIは、「火」編に「漢」の「水」編のない字です。 |
御由緒・沿革 当社は延喜式内社で引佐郡六座の一でありまして、人皇五八代光孝天皇の御宇仁和3 年の建宮と伝えられております。鎮座地都田は伊勢神宮の御厨として発達した土地で ありますから、御祭神は伊勢神宮を勧請奉斎したものと思われます。もと内宮は上社 と言って上都田須部の上の山に鎮座し、外宮は下社と称し下都田中津に鎮座して居り ましたが、延喜2年上社下社の両社を現在地に移し、神明宮或いは須倍神社と称える ようになりました。慶長6年徳川家康は伊奈忠次に社領として、内宮に四石、外宮に 三石を黒印を以て寄進されたのを慶安元年10月24日徳川家光が朱印に改め寄進さ れました。明治6年3月郷社に列格、同7年5月24日村内の神社69社を外宮に合 祀し、明治40年6月21日神饌幣帛料供進社に指定せられました。昭和2年社務所 を建築。昭和25年本殿改造、神明造銅葺となし、拝殿の茅葺を銅葺に改めました。 昭和55年幣殿渡殿を改修銅葺とし、更に翌56年手水舎を新築し現在の状態となっ たものであります。昭和62年(1987年)は建宮以来千百年に当たりますので境 内社の改築、社務所の一部増築を含む修繕を行い、5月17日千百年式年祭を斎行し ました。 |
御由緒・沿革
春日神社は文明14年室町将軍足利義尚創立と伝えられ、天文10年今川義元社殿を 造営し社領を寄付ありと言う。慶安元年徳川家康社領五石の朱印を寄進ありて社殿の 造営等を行いて明治に至った。若倭神社は創立年月詳かならざるも後一条天皇萬壽2 年再建の棟札を有し、延喜式神名帳所載、遠江国麁玉郡若倭神社これなりという。明 治6年村社に列し、昭和13年7月23日郷社に昇格した。昭和28年6月15日宗 教法人春日神社が設立され今日に至る。尚現在の社殿は昭和58年12月に再建された。 |
社頭掲示
明徳年間1390年)足利義満の時代に修造された 元和3年1617年)二代将軍徳川秀忠の時代に修復された 元禄12年1700年)五代将軍徳川綱吉の時代に大石佐五兵衛氏が社人となった 安永8年11月(1780年)十代将軍徳川家治の時代に修復された 寛政9年9月(1797年)十一代将軍徳川家斎の時代に稲荷神社若宮の守護として 末社が建立されこの後稲荷大明神が稲荷神社と称されるようになった 明治39年9月1906年)村社稲荷神社社殿並びに亘殿が再建された 明治45年4月1912年)勅令第96号により明治45年 3月31日を以って神 饌幤帛料の供進神社に指定された 昭和56年11月1981年)拝殿及び亘殿並びに手水舎が再建された |
御由緒・沿革
天王宮 当社は、景行天皇40代事代主命が須羽に天王社を建立し、祖先を祀るに創りこの霊 殿を日本武尊東征の年、この地の首長御久和神人この処に遷座したものである。坂上 田村麿が東征に出陣の際、武運長久を祈願したとも言われ、遠州一園の天王社の総社 と言われている。 大歳神社 当社は延喜式内社であり、約千二百年前、醍醐天皇の御代に編寡された「延喜式神名 帳」に遠江国長上郡小一座大歳神社とある。 |
御由緒・沿革
当神社は「蒲神明宮」と申し俚言は、ごんしんさまと称へ勧請は大同元年3月16日 にして神位は三代実録に貞観16年5月11日正六位上蒲大神に従五位下を授くとあ る。往古は蒲大神と称し中古より蒲神明宮とす。天正6年正月と寛政5年12月の2 回の災に罹り古書焼失す。しかれども鎌倉幕府以来の古文書39通を蔵す。旧御朱印 260石並に新田高55石7斗余。明治6年3月郷社に大正10年11月19日県社 に昇格す。境内に土推を祭るもの二つあり。一つは土の宮と一は高の宮と称す。伊勢 神宮の規範に従って20年遷宮を行う。1月1日早旦お田打の神事を行う。 |
御由緒・沿革
当神社は遠江国62座の内、旧長上郡5座の1座にして延喜式神名帳所載の邑勢神社 なり。創立年代不詳なれども元亀元年庚午9月15日再建の儀棟札あり。旧社領光明 天皇の御宇伊奈備前守の頃高5石4斗徳川家光公より寄進せられその後代々朱印証文 を賜る。当社は維新以前は邑勢神社神明宮と称してきたれる所、明治6年3月郷社と なり、邑勢神社と改称す。往古より21年毎に新殿を造営し、御遷宮をしてきた。 |
社頭掲示
創立年代不詳なるも、当地を宇治乃と称せし時代に伊勢皇大神宮より勧請し、祭主藤 原氏市右衛門道次、神主又左衛門、菅性三良左衛門此処に祭祀す。 大日本史によれば朝日多賀神社は、宇治乃(内野)にあり神明社と称し天照大神を祀 り、長上郡内五座の一社なり。 遠江風土記神風抄に、遠江国宇治の御厨にして神明社朱符之神田高三石とあり。 |
御由緒・沿革
明治40年、当時の有玉村は世帯数380戸あり、地域内には郷社神明宮を初めとし て村社、無格社合わせて12社があり、そのうち村全体で祭典を行う神社が3社、小 部落で行う神社が9社あった。神社の多くは境内、社殿共に狭く神社の尊厳を保持し がたく、加えて祭典の繁雑さを訴える世論が台頭してきたので関係者協議の結果、1 村1社に合併し、宏荘・尊厳なる社殿を建築して氏子の信仰と高の社会教化の中心に しようとして、明治40年9月10日、郷社神明宮を八幡宮境内に移転し併せて11 社を合祀し、郷社有玉神社を称することにした。新社殿は大正2年に完成し、同年9 月10日に御遷宮された。 昭和27年8月20日宗教法人有玉神社の認証を受け、静岡県神社等級規定により6 等級神社と承認された。 |
府八幡宮
磐田市の図書館の庭、当府八幡宮社務所よりの所に万葉歌碑があり、これには天武 天皇の曾孫桜井王と時の天皇との問答歌が刻まれている。この桜井王が遠江海の国司 (今の知事に当たる)として赴任された時、国内がよく治まるようにと庁内に祭られ たのが、この神社の始めで、従って府八幡宮と称するのであると、社記に伝えられ、 奈良平安時代のものと思われる社宝が現存する。桜井王の着任は一説では元正天皇の 養老三年(七一九年)か同年頃と考えられている。また鎌倉時代には秋鹿氏が此の地 に止って神主となり、江戸時代には神主と代官を兼ねて二百五十石を給せられた。 |
鹿苑神社
人皇十七代履中天皇四年(五世紀初)杉村神戸島(現在周智郡春野町杉)に奉祀され 、以後五百年間ここに鎮座せられた。同処で歳々正月乾鹿壱石を作り、貢として奉納 するを例としたために鹿を駆って苑内にいれた(鹿苑の称) 当時国に一之宮、二之宮等あり。当社は二之宮にあたり、国司巡拝の順序を意味した。 神戸島は当地より十五里を隔てる山間の地なる故、人皇五十七代陽成天皇天慶五年( 西暦八八一年)現在の地に遷座せられ、是により二之宮の地名とせられた。遠江国風 土記伝にいう「当地は於保の郷十三ヶ村の惣社、旧朱印二十三石を有し、往時は一之 宮小国神社と併称せられ、社殿宏大社領三百石を有せり」と戦国時代兵火にかかり全 焼、宝物書類等を失う。式内社。郷社。 |
矢奈比売神社
矢奈比売天神社の創立年月は、詳らかではありませんが、延喜式内社に列しており、 古くは市内元天神の地に祀られておりました。いつの時代にか現在地か奉遷されまし たが、その年月は詳らかではありません。 古記録によれば、続日本後記に承和七年六月(八四〇年)奉授、遠江国磐田郡無位矢 奈比売天神従五位下とあり、また三代実録に貞観二年正月(八六〇年)詔授、遠江国 従五位上矢奈比売天神正五位上と神階を授けられております。 相殿菅原大神は一条天皇正暦四年(九九三年)に勧請奉祀されております。慶長八年 徳川家康より神領五十石が寄進されており、明治六年県社に列せられましたが、戦後 はこの制度は廃止となりました。 |
山住神社
山住神社は静岡県磐田郡水窪町山住230に鎮座せられ、御祭神は日本総鎮守大山祇 命にして、和銅2年元明天皇の御代伊予国越知郡大山祇神社より遷祭し山住大権現と 号す。 56代清和天皇の御代貞観2年1月27日遠江国正五位下苅原河内守従四位下を授け られ、同16年2月23日遠江国従四位上を授けられ、勅使を2回下向せられた延喜 年中式内社に列せらる。永正10年6月7日103代後柏原天皇の御代奥山郷高根城 主大膳守武運長久の祈願にて御造営(高根城跡は水窪町久頭合に有り)。越えて10 5代正親町天皇の御代元亀3年徳川家康公浜松御在城の時(31歳)三方原の戦い利 あらず当神社へ逃げる。敵は家康公を追って当神社に迫るや一天俄にかき曇り辺りは 薄暗く日暮れの様相と化し、風腥く霊山全域にてウオーウオー地響きのするうなり声 起こり、敵はこの奇声に胆を潰し退散、これを以て家康公安泰に難を逃れる。翌天正 元年正月17日(32歳)お礼御参社あり、天正4年宝剣2振、慶長19年宝剣1振 奉納せらる。慶安2年8月17日徳川幕府累世御朱印を賜る。114代桜町天皇の御 代享保18年3月16日雷火の為本殿幣殿を始め宝蔵に至るまで焼失したため御普請 御免のお許しを請んとし、大宮司山住大膳亮禰宜高木三郎太夫を従え、時の将軍吉宗 公に直参の際将軍の御意を以て夏6月江戸において臨時祭を斎行すると一天かき曇り 寒気甚だしく降雹あり。御感浅からず直ちにご普請差し許されたりと明治5年山住神 社と改め、県社に列せらる大神は専ら邪気退散魚漁豊足家内安全商売繁盛お犬様信仰 の御霊験あらたかで往時より遠近の信者登山参拝するもの甚だ多い。海抜1100メ ートルに鎮座、周囲2丈余の御神木(神社庁指定)老杉は天然記念物として県からも 昭和46年8月3日指定されている。 |
御由緒の概略
鎮座地静岡県周智郡森町一宮3、956番地の1
御祭神大己貴命 御神徳須佐之男命の御子にして父神の命により豊葦原の国を開発し稲穂の稔る瑞穂の 国に造り上げ天孫に国土を奉つた大功を称へて大国主命とも国作之大神とも大穴牟遅 神と称へ又農業山林鉱業縁結び医薬禁圧の法を授け給ふ徳を称へて大物主神とも宇都 志国玉神とも大国玉神と称へ又艱難辛苦の修養を積まれ統治者となられ国中の悪神を 平定せられた質実剛健と勇気を称へ葦原醜男命とも八千矛命と申し尊貴を称へて大己 貴命と申す等国土開発福徳縁結び山林農業医薬知徳剛健等の守護神と敬はれ御神徳極 めて高い 本社を小國神社と申すのは出雲の大本宮に対する遠江国地方の美称であつて当社は古 来より許当麻知神社(願い事を待つ意)とも事任神社(願い事のままに叶う意)とも 固有の別名がある 御由来創祀は神代と伝へられ上代のことは詳でないが社記によれば人皇第29代欽明 天皇の御代18年2月18日本宮山に御神霊が出現せられ奇瑞あり天聴に達し勅使を 差遣せられ社殿を造営し正一位の神階を授けらる第60代醍醐天皇の延喜7年に勅し て社殿を改造せられ延喜式内社に列す承和7年及貞観2年16年従四位の神階を奉る 第96代後醍醐天皇の元弘建武変乱以来勅使が廃れ神主代りて其の式を行い戦乱相次 ぐ室町時代に至も神事祭礼欠くる事無く朝野の崇敬極めて篤く遠江国一宮と称へられる |
相月 諏訪神社
信濃国諏訪郡諏訪大社より遠江国山香郡綾着村字蛇山に勧請鎮座せしを、その後当社 地へ御遷座の記録は詳かでないが、神社に現存する宮、天満宮は、小相月に鎮座せしを 明治維新の改革により、当社の境内社として御遷最古の棟札によれば永享七年十一 月十二日としあり約五百六十年の昔である。八幡座、その後明治四十五年本殿に合祀す。 |
沿革
宝亀二年(皇紀一四三〇世紀七七〇)十一月に創立され、関野大明神、鹿島大明神、 神妻大明神また馬主神社とも称えられてきたが、明治六年三月に神妻神社と改められた。 ご神徳 日本の建国に大功を立てられた神様で、強い心と身体を願い、運を切り開く神様とし て厚い信仰があります。 祭儀 祈念祭二月十七日、例祭十月十六日、新嘗祭十一月二十三日、歳旦大秡月次祭 |
山名神社の由緒
私達の氏神神社は古来から式内神社(朝廷から幣帛料を賜わる)と称えられるお宮で あって其の起こりは昔からの言い伝えによると、慶雲3年6月(今から700年前) に始めてお宮として祭られたのでありますが、天明年中(今から180年前)にその 時の神主村松求馬と云う方の御宅が焼けたので神社のいわれ等を書いた書類が皆焼け たので、はっきりした事がわからないが、遠江風土記伝(遠江の昔の地理や歴史を書 いた本)といふ本に山名神社の事が次の様に記されて居るのであります。 即ち「周智郡飯田村式内山名神社祭典は6月15日に行い舞楽を奏す」とあります、 これに依っても当神社は相当昔からの立派なお宮であることが解るかと思われます。 尚此の風土記伝に記されてある舞楽と云ふのは現在に至まで大祭に行なはれる八段( 八初児(やつはち)・神子舞(みこまい)・鶴舞・獅子舞・かりょうびん・龍舞・蟷 螂舞(かまきりまい)優填獅子(うでんしし))の舞楽の事であります。 此の舞楽は明応5年(今から460年前)に摂津の国天王寺(現在の大阪)から伝来 されたもので文録4年(今から295年前)から寛文6年(今から225年前)まで 約70年の間中断したのでありますが、其の年に摂津の国天王寺へ当村の村松孫兵衛 外壱人が行って再び伝習に行って今日まで毎年大祭の時には神輿の渡御と共に此の舞 楽が執り行はれるといふ事実でも、一層私達の氏神神社の由緒は、遠い昔から私達の 祖先が大変に崇敬篤いお宮であることが明らかであります。 尚私達のお宮は今川氏から徳川氏に至まで朱印高20石3斗云ふ神田を寄贈されて居 たのであります。 次に、建物の神殿は、享保17年(今から240年前)秋9月に御修造されたもので あります。 次に祭神について申し上げると、主祭神として素盞嗚命を御祀りして、応神天皇、菊 理姫命を併せて御祀りしてあります。 境内の末社として磯部神社(祭神天照大神)豊受大神宮(祭神月読命)が御祀りして あります。 |
山名神社
養老年間(七二〇年)にはじめて月見の里(上山梨)に勧請される。 延喜年間(九〇一〜九二三年)延喜式に山名郡四社の一つとして登録される。 慶長六年、伊奈備前守忠次黒印をもって社領十八石を寄進する。 慶安元年、徳川三代将軍家光の御朱印十八石を受ける。 |
創立年代は不明。
延喜式内社・国史現在社として袋井の里々をはじめ、京の都にも名が知られ崇敬され ていた。 神仏習合の時代には境内の長楽寺が主となったが、明治の神仏分離令により神社と寺 院が分離され境内整備を行う。明治五年社格が郷社に列格。 大正五年に拝殿を改築し、戦後修理を重ねる。 |
富士浅間宮
人皇五十代稲武天皇の大同二年坂上田村麿将軍東夷征伐のおり浅間大神も神力に依り 賊を征服され給いし、其の神恩に報い奉らむと富士の大神を此に迎へられ、社殿を作 り創祀された。 元亀三年頃戦乱の兵火に罹り社中の健造物悉く灰燼に帰し以来社頭の再建始まり天正 十八年二月より御本殿再建天正十八年七月九日竣功地頭本間源三郎重兼建立の棟札あ り。 以後寛永十五年三月久野丹波守宗能再建。安永四年十二月、文政十二年五月再建、都 合四枚の棟札及び本殿壱宇国重要文化財、寛永四年六月原川城主北條出羽守氏良鐘搗 堂壱宇奉納。 慶安二年より万延元年迄の間社領十六石九斗を下付さる。明治四年当国菅ヶ谷村久野 彦ェ門宗春楼門一宇再建。明治十二年七月郷社に列し、明治四十年国宝となる。 |
由緒
創立年代不詳。一説に成務天皇(84年〜190年)の御代の創立と伝え聞く。大同 2年(807年)坂上田村麻呂東征の際、桓武天皇の勅を奉じ、旧社地 本宮山より 現社地へ遷座すという。延喜式神名帳に(佐野郡)己等乃麻知(ことのまち)神社と あるはこの社なり。古代より街道筋に鎮座、遠江に坐す願い事のままに叶うありがた き言霊の社として朝廷をはじめ全国より崇敬されし事は平安期の「枕草子」に記載あ るをみても明らかなり。 世が貴族社会より武家社会に移るや八幡信仰が一世を風靡し、康平5年(1062年 )源頼義が岩清水八幡宮を当社に勧請し、以来八幡宮を併称す。江戸期に入りては徳 川幕府も当社を信仰し社殿を改築、朱印高百石余を献上す。明治以降は県社八幡神社 と称せしが、第二次大戦後の社格廃止に伴い由緒ある名「事任(ことのまま)」を復 活し、現在は事任八幡宮と称す。 主な文献
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阿波々神社略記
御祭神 阿波比賣命(天津羽羽神) 天石戸別命の御子で八重事代主命の后神。御神徳は生産 の神.子授.安産成就の神、また御山が駿河湾、遠州灘よりの目標の山として、古来 漁師、船員に信仰された。 例祭 4月10日 社殿
境内
由緒
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