常神社
福井県三方上中郡若狭町常神10−2 yahoomap
鳥居と社標

交通案内
常神半島先端手前 常神集落と神子集落の間
祭神
神功皇后
合祀 若狹彦神、若狹姫神、鵜鵜草葺不合尊、天照皇大神、柳原神、渡津松神、神留間神、三望大神
二の鳥居

由緒
延喜式内社。古代海人族の創始と伝わる。
『若狭国志』によれば、創建年代は不詳だが、寛和二年(986)に常神集落の西方海上の御神島へ遷ったが、天仁元年(1108)当地に復座したと伝える。不思議なことだ。
敦賀市に鎮座する常宮社(気比宮の奧宮)から神官がやって来て祭事を執行したと云う。
養蚕の神としても信仰された。
合祀神に見慣れない神名が見える。渡津松神はトツマツで常神の東南方の浜辺に鎮座していたのを合祀したと云う。御神島へ遷座する前の常神社の旧社地の神とする。神留間神は常神の西方の浜辺に鎮座していた神である。御神島にも昔は旧地に祠があったそうである。
社殿

お姿
本殿左脇に神木の大杉がたつ。本殿は流造、東向き。
半島の西側から先端への道は自衛隊がつけたものと云う。それまでは船での行き来だったようだ。
『日本の古代3』(海を越えての交流)に、「若狭国常神浦は縄文時代以来連綿と使われた入江を港としていたのであろう。そのことは、神子の入江に接した縄文中期のタジリ遺跡、常神や神子にある奈良時代の製塩遺跡などから推測される。
常神半島の西海岸の浦々は、今日では民宿の多い漁村風景がつづいているが、中世での蓄財は目を見はるばかりである。「大音家家付雑物注文安」(16世紀か)を見ても、一、あかうるしのくわしほん十、一、ちくせん皿大十、一、小さら 白二十 そめ付二十、一、はかたかたきぬ一く、など、交易によってももたらされた家財が散見する。『若狭漁村資料』1963。古代遺跡のあり方をみると、とくに大古墳や群集墳があったり、奈良時代の伽藍形式の寺院址があったり、一宮が鎮座するというような顕著さはない。そのような地域においての遺跡の集中性はとくに日本海岸では潟湖を核として形成されていた。
そこには、埋もれてはいるが、潟港の存在が想定され、それを抜きにしては潟単位の遺跡の集中性を説明することは出来ないのである。」と出ている。
本殿

お祭り
例祭 4月 8日 王の舞い
御神島と常神半島

船から眺めた満開寸前の神子桜

『寺院神社大辞典 近江若狭越前』『式内社調査報告』
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