杉尾神社(おはらさん)
海南市阪井1858 its-mo
鳥居
宇賀部神社・杉尾神社・千種神社 三社の由緒
名草の邑の名草戸畔はおそらくは卑弥呼と同じく国の祭政を統べっていた女王であった。
そこに侵略してきたのが磐余彦(神武天皇)の軍である。食料・物資と兵士の調達、紀ノ川の水運の確保などこの地は大和攻略とその後の政権維持の戦略上の拠点であり、完全に制圧する必要があったのだろう。
女王軍の抵抗むなしく、名草戸畔は残酷にも頭、胴、足と切り刻まれたのである。
日本書記には「賊を誅す」とあるが、負ければ賊軍あつかいである。邑人は捨て置かれた頭、胴、足をそれぞれ葬り、祀ったのである。*1
その三社を紹介する。 地元の人々の生活の中で言い伝えられてきた伝承は息が長い。そこに神社の形をとると一層長く伝えられるものである。
交通
オレンジバス坂井北300m
祭神
祭神 大山祇神、誉田別命
摂社
七社神社「宇賀魂神」
住吉神社「三筒男神」
皇大神社「天照皇大神」
蔵皇神社「神武兼國社」
金比羅神社「金山彦神」
祇園社「素盞嗚尊」
厳島神社「市杵嶋姫神」
秋葉神社
弁財天神社「市杵嶋姫神」
稲荷神社「宇賀魂神」
天神社「菅原道眞」
拝殿へ
由緒
簡素で古い神社である。拝殿の右側の家の子供が元気に水遊びをしていた。「おはらさん」や「はらかたさん」と呼ばれているお腹の守り神となって崇敬されている。「お腹痛けりゃ杉尾のお宮、腹のくろいのはなおりゃせぬ」と伝わっている。
「O−157」なる菌がこの夏(H8年)に蔓延しているが、暑いさなかか、お詣りの人はいなっかた。
神社の右上の山に八坂(祇園)神社が摂社として鎮座している。
伝説としては昔紀ノ川の河口に一匹の大蛇が川足に流れ着いた。玉をくわえ腹部は金色に光る杉織状になった輪があり、立派な足もあったと伝えられ、これぞ神の化身として、小野田の頭部、杉尾神社に腹部、千種神社に足、と三体を埋め神として祀った。これが名草戸畔の三体であった伝承を憚って大蛇の話にしたのかも知れない。
高倉山が神奈備である。玉輪山とも言う。
本殿へ
本殿
お姿
山の中腹まではいかないが、急な石段を登って広場に着く。 そこに社務所などが鎮座、社殿はさらに登っていく。
摂社の祇園神社は本殿より高い所に鎮座している。濃厚な木々のにおう神社である。
本殿東側の摂社群 本殿より高く鎮座の祇園神社

お祭り
6月7日 夏季例祭
6月29日 輪くぐり
10月15日 秋季例祭
紀伊續風土記 巻之十八 名草郡 多田郷 坂井村から
○産土神社 境内 東西二町 南北五十間
末社二社
祀神 杉尾明神 八幡宮 両社 各三尺五寸 四尺
廰 御供所 寶 蔵 鳥 居
末社五社
住吉明神社 本社の左にあり 蔵王権現 本社の坤にあり
宇賀魂神 大己貴命 猿田彦神 大年神
奇稲田姫命 事代主命 市杵島姫命 七神合殿 本社の右にあり
祇園 妙見 社 本社の艮山上にあり 蔵王権現 本社の坤にあり
天照大神宮 本社の巽にあり
村の北ノ山にあり 一村の氏神にして社殿美麗なり 勧請の年月詳ならす 古記録ありて神拝献備の事を略記せり 奥に建久二年(1191)に書せしを永禄十一年(1568)に写しかえたるよし書せり
別 当 神 宮 寺
社地の巽にあり 旧は真言宗古義なりしに寛延四年(1751)真言新義に転派し黒岩村寶光寺の末となる 護摩堂あり
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『平成祭礼データCD』神社本庁
当杉尾神社の御鎮座は巽村大字阪井字玉輪山、人皇第四十五代聖武天皇御字神元亀甲子年十二月勧請されたと伝えられている。しかしながら、杉尾神社という名称がどのようにして付けられたかは不明である。また、いつの時代からか、「おはらさん」としても人々に崇敬されるようになった。
伝承によると、和歌の浦のどの浦か定かではないが、大きな龍が流れつき、どのような場所に葬るか占ったところ、「その浦より巽の方角にまつれ」と言われ、腹部を当神社におまつりになったという。このころから、おはらさんとして崇拝され始めたのであろう。
当社の八幡宮については、元亀年中に仁和寺号、厳島御宝、御奈良院御樽子の二品仁助親王により修造されたのか、その時の棟礼が残っている。
また、奇しくも、赤穂浅野家とも関係があるらしく、浅野家による検地があったという。
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紀伊国名所図絵 杉尾神社
参考文献 *1 謎の巨大氏族・紀氏(内倉武久)三一書房
*2 日本の神々(平野仁啓)講談社現代新書
和歌山県神社誌
平成祭礼データ 神社本庁
紀の国 古代史街道
丹生都姫伝承
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