西熊野神社
和歌山市西 its-mo
鳥居と神木
交通案内
阪和線 天王寺→和歌山
貴志川線 和歌山→交通公園 北1km
祭神
熊野速玉男命、与母津 解男命、伊弉册命
由緒
社頭の説明
来目連、岡崎を領し、鎮守として熊野三神を勧請すと『古代神社勧請録』に記載あるも年月日は不詳。
雄略天皇九年新羅と戦い来目連は戦死とあり、それ以前の勧請と想う。
また勧請の三神については不詳であるが、後世に前記の三神とした。
とある。
江戸時代には十二所権現と称していた。
紀岡前来目宿連は清寧天皇即位前紀にも出てくる。来目部は久米部とも書き、後には大伴氏に統率されたが、その以前には神武紀の久米歌にあるように近畿に分布し丁いた勇猛な部族であったようだ。
壬申の乱の際には紀氏は大海人皇子側につき、来目連は大友皇子側に与したようだ。
本殿
お姿
西の集落の北の突き当たりに鎮座、雨が降っていて写真はもうひとつ。 社頭の大きい木がアクセントになっている。 境内は狭いが大切にされているような雰囲気。
お祭り
4月21日 春祭
7月23日 夏祭
10月 8日 秋祭
12月12日 おひたき祭
紀伊續風土記 巻之十六 名草郡 岡崎荘 西村
○十二社権現社 境内周五十二間
村の小名的場にあり 一村の氏神なり 舊は岡崎郷中の産土神なりしに寺内村満願寺の七社を荘中の護神とせしより當社は當村のみの氏神となれりといふ
寛永記満願寺の條下に本堂の坤に當りて社あり 十二権現社といふ 面五尺 妻三尺 廰 面七間 妻二間半 神事 元日五節供云々 御供者御飯餅酒肴等なり
神田一町五段 ありしに 天正の兵火により小祠となり神田没収し 祭礼絶えたりとあり 舊は満願寺より支配したりしなるへし 祀る神は熊野十二所権現なり |
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