紀の国の民話・昔話・伝承 西牟婁郡、田辺市編
片羽根の天狗
むかし、むかし。
いまの田辺の町からずう~と離れた秋津という在所に、源太ちゅう木伐りが住んでたんや。
源太は年老いたお母さんと二人暮しでな、毎日朝早ように家を出て、近くの山で薪を伐ってそれで暮らしをたててたんやして。
おっ母[か]さんはな、昼近うなると、源太の弁当を持ってな、いつも届けてくれるのが日課やった。
ところがどうしたことか、ここ二、三日は全然弁当が届かんねや。
(おっ母[か]ぁも年とって、しんどいんじやろ・・・)源太はそう考えてな、とうとう四日目の朝
「今日は、弁当さげていかよ・・・」
と云うたんやしよ。
そしたらおっ母ぁは驚ろいてな「わしが毎日届けるのはいやなんか」て云うんやして。
「ええっ...。そんなこと...。」
びっくりした源太が、いろいろとわけを尋ねてみると、おっ母ぁは毎日キチンと弁当を届けてるというんやして。
(ふ~ん。そら誰ぞがわしに化けて、てんごしてるんやろ。キツネかタヌキに違いないわ…)
そう考えた源太は、その日はお昼前に仕事をやめ、山道の中途の大きな杉の木の陰に隠れて待ってると、よいしょ、よいしょ・・・ておっ母ぁが登ってきた。
すると源太と寸分違わん男が現われて、弁当を受け取ろうとしてるんや。
こらけしからん、おのれ化けもんメ・・・と源太は手オノを握りしめ、そっと近づいてニセの源太の左の肩あたりへ斬りつけると、片腕がポロリと地面へころがったんや。
はたらニセもんの源太は「ギャーッ」と悲鳴をあげたかと思うと、たちまち天狗の姿となり、片羽根を急がしく動かして、そのまま空中へ飛び去っていったんやと。
地面にころげ落ちたニセ源太の片腕は、みるみるうちに長さ二メートルもある立派な羽根に変っていったわ。(こら天狗の羽根やど。持って帰って家の宝物にしよら)そう考えて、ほんもんの源太は意気ようようと家へ帰ってきたんや。
その晩おそく、表の戸をたたいて
「源太、すまなんだよう。けどわしの片っ方の羽根、返しておくれよーう」
という情ない声が聞こえてくるんや。
あんまし幾晩も頼みにくるんで、源太は「もう二度といたずらはせえへんな」
と約束して、その片っ方の羽根を天狗に返しちやったんやとい。
近くの神社 豊秋津神社 田辺市秋津町1554 祭神 迩迩藝尊
鶏合わせの話
田辺市に闘鶏神社ちゅう大けなお宮さんがあらして。
あそこのお社の前に鶏の像が立ってらしょ。
それにお宮の名前が闘う鶏の神社ておもしやい名前やなーと思うやろ。
実はな、それにはちゃーんと由来があるんや。
どんと昔は、このお宮は新熊野権現というてな、熊野三山と同じ格式をもってて、ここにお参りすれば、熊野へお参りしたのと同じやいうて、みんなの信仰を集めてたんやそうな。
もちろん源氏も平家の人も信心してたわ。
ところで今から八百年はど前のことに源平合戦が起こったやろ。その時も
「わしの方に味方せえ」「いや、わしの方にぜひ味方を・・」
と使いがきて、別当(長官)の湛増ちゆう人は困ってしもたんや。
というのも、この湛増は音に聞こえた「熊野水軍」の大将も兼ねてたよって、どちらも助けにきてほしかったんやな。
やいのやいのと催促されて湛増は弱ってしもてな、苦しまぎれにひとつの案を思いついたんや。
それは
「平家の旗は赤、源氏の旗は白やな。そんなら赤と白の鶏を七羽ずつ戦わせて、勝った方に味方することにしよら…」
とまあ、こういうこっちゃ。
鶏の方こそええ面の皮やけど、いよいよその日がやってきた。
神さんの前で祝詞をあげて、カゴの中に入れといた赤・白の鶏それぞれ七羽をパッと放した。
さぁ鶏はいっせいにけんかし始めたわ。
そやけど白い方が断然優勢で、赤い鶏の方はゴングも鳴らんうちにみなダウンしてしもた。
それを見た湛増は、大きな声を張りあげて
「皆の衆、見よ! 熊野権現様のお告げは白と出たぞ。
この上は一切の迷いを捨て、源氏に味方しようぞ。皆の衆は急いで港へ戻り、舟の用意をして出陣に備えよ!」
とわめきたてたもんや。
そいで熊野水軍は二百余そうの舟に二千人余りが乗って戦場へ直行、屋島や壇ノ浦の合戦に参加して、とうとう平家を滅ぼしてしもたんやと。
いまでもこのお宮さんは、なかなか立派な建物が並んでてうっそうと木も茂り、赤や白のたくさんの鶏が飼われてるけど「わしら、ご先祖さまの話知らんで・・」と悠々と歩回ってるわ。
関連する神社 闘鶏神社
串本のカッパ
いまは串本町の一部になってるけど、むかしは田並村ちゅうてチャンと一つの村やった。
その田並村に棲んでたちゅうカッパのお話をしよかの。
この村の中央を流れてる田並川の中はど、丁度天満神社の入口にはど近いあたりに深い渕があって、きれいな水をたたえていたんやけど、ここにカッパが住んでたそうな。
このカッパはなかなかのいたずらもんでな、水浴びにくる子供たちのお尻をねらって、チョイチヨイとわるさをしよるんや。
そやなァ、今から二百五十年はど前のことやろかー享保年間のことにな、このカッパがとんでもないしくじりをやらかしたんやて。
この何の田村なにがしというお家に馬を飼うててな、昼間はこのカッパの棲む渕の前の草原につないどいて、草を喰わすのが常にしてたそうな。
このごろは子供もあんましけえへんし、悪さする相手ものうてカッパもちょつと退屈してたらしいわ。
そこでひとつ馬を相手にして、尻っ子玉を引き抜いちゃろ…と考えてな、のこのこと渕から上ってきた。
そいでいきなり馬の手綱をつかんで、川の中へ引きずりこもうとしたんやが、馬はびっくりしてな、必死になってこのカッパを振り落としにかかったんやしょ。
不意をくらって、とうとうカッパの左の手はもぎとられてしもたんや。
馬は手綱にカッパの手をつけたまま、一散に家まで駆け戻ってきた。
家の人は、それを見たけど何やわからん。
「妙なものが手綱についてるな・・」
と思いながら、ともかくそれをはずして戸棚へしもといたんや。
その夜更け・・・田村家の裏戸をトントン、トントンと叩くもんがあった。
家の人が戸を開けるとえらい別嬢さんが立ってるんや。その女の人はな、ポロポロと涙を流しながら
「実は今日、馬にいたずらして片手を引きちぎられたカッパです。どうかその手を返して下さい」
と頼むんやして。
あんましかわいそやよって
「もう二度といたずらはせえへんか」
と念を押してから、その片手を取り出して返してやったんやと。
それからカッパはいたずらせんよになった。
関連する神社 天満神社 西牟婁郡串本町田並5 祭神 菅原道眞
オオカミの乳岩
熊野へお詣りする道はな、いたるところに難所があって、そらもうえらい道が続いてた。
そいで途中に、王子杜を建てたんや。旅人はここを仮寝の宿にしたり、一服したりして、また元気を取り戻し、奥深い山路を一歩一歩ふみしめていったんやな。
この中でも五つの王子社はかなり規模も大きく宿泊もできたらしいわ。
中辺路町の滝尻王子もその一つやった。
むかし奥州の将軍やった藤原秀衡いう人が、四十になっても子どもができやなんだんで、熊野権現へ願をかけて、一心不乱に祈ったら、不思議なことに、奥さんのお腹が大きうなったんや。
そいで七力月という大きなお腹をかかえた奥さんを連れ、熊野へお礼詣りにやってきたんやと。
ところが滝尻王子で一夜を明かした時、夢に神様が現われて
「秀衝よ、その身重な妻を連れての旅はさぞかし難儀であろう。
はるばる奥州の地より、お礼詣でにやってきたその方の信心を賞でて、里の山頂にある洞穴において子を産ませるがよい。その子はそのまま置いて、身軽になった妻をともない熊野詣でをいたせ。あとのことは心配するでないぞ。
われらが犬神(オオカミのこと)を遣わし、その子を守らせよう・・」
とお告げがあったんやと。
それから間もなく奥さんは玉のような男の子を産み落した。
不安やったけど、神様のお告げ通り、その子を洞穴に残して、夫婦は急いで熊野詣でをすませて帰ってきてみると、赤ちゃんは一匹の大きなオオカミに守られ、岩の聞からしたたり落ちる乳を飲んで、丸々と太ってたんやと。
秀衡はハラハラと涙を流し
「これぞ熊野の神々のご加護に違いなし。身重な妻を連れての旅を哀れと思われ、子どもを預って下されたんじゃ・・」
と感動してな、お礼の気持をこめて立派なおやしろを建て、小太刀・ヨロイ・カブトなども献上し、後々までの修築の費用として黄金のツボを近くへ埋めたそうな。
この赤ちゃんは立派に成長して、後に忠衡となり、奥州落ちしてきた源義経を助けたそうな。
ここは熊野の霊域の入口といわれ、今でも王子社の裏山の上には、この乳岩が残ってて、女の乳房によう似たもんを供えると、乳がたんと出るちゆうて参拝する人もあるんやとい。
王子社 滝尻王子神社 西牟婁郡中辺路町栗栖川859 祭神 皇大神
天神崎の猩々[しょうじょう]
日本ではじめてのナショナル・トラスト運動に成功した田辺市の天神崎のあたりの海の美しさはまた格別やわな。
黒潮のもたらす海の幸もようけあってな、むかしの書物には「田辺湾でカツオがたんと釣りあげられた…」て書いてあるはどや。
そんな美しい海が広がる近くの浜に、一人の気立てのええ若者が住んでた。
幼ない頃に両親を失ってしまい、これというはどの後見者もなく、まぁ一人で気楽に育ったらしいわ。
嫁さんを世話してやる人もなかったよって、のんびりと一人暮らしを楽しんでたんや。
この若者には、ひとつの特技があった。
なにか…ちゅうと、笛を吹くのが大層うまかったんや。そいでな、漁師さんや山行きの人らから頼まれたその日の仕事を終えると、いつも笛を手にして天神崎へ行き、そこいらの岩に腰かけて、気のすむまで吹き鳴らすを日課のようにしてたんやしょ。
ある日の夕暮れ時分のことや。
若者がいつもの場所で笛を吹いてると、すぐそばの岩陰に美しい娘さんがいてな、その笛に聞き惚れてるんや。
若者は驚ろいて
「これは失礼しました。このようなつたない笛をお聞き下されていたのですか・」
と尋ねると、その娘さんはニッコリ笑い
「とてもすばらしい音色ですね。お願いですからどうか私のために,もう一曲お聞かせ下さいな」
と頼むんや。若者は心よく承知して、得意の一曲を聞かせると、娘さんは大層喜んで
「実は私はこのあたりの海に住む猩々(類人猿の一種)の娘なのです。あまりのお上手さにびっくりしました。お礼といってはなんですが、釣道具をさしあげましよう。これはエサをつけなくても、どんどん釣れますから・・」
ちゅうてな、自分の髪の毛を抜いて、それに針をつけてくれたんやして。
(へ~え。そんなうまい道具があるんやろか・・)
若者は半信半疑で、すぐそばの釣り場でためしてみると、こら不思議、サバ、タイ、カツオなどなんでも釣れてくるんや。
この若者はのちに白浜へ移り、その道具を八幡神社へ奉納したというわ。いまでも天神崎に「猩々」という釣り揚があるんやが、これはその若者が、猩々の娘から貰った道具で、最初に釣りをしたとこやというで。
関連する神社 堅田八幡神社 西牟婁郡白浜町堅田2731 祭神 應神天皇
栗栖川の大蛇
栗栖川村(いまの中辺路町栗栖川)であったお話やして。
むかしむかし、ここに和泉国から移ってきた矢敷孫左ヱ門ちゅう人が住んでてな、猟師をしてたんや。
ある日のことに、愛用の鉄砲をさげて、観音の滝のあたりまでくると、なんとなく獲物が近くにいるような気がするんやしょ。
・・ま、これが永年のカンちゅうやつやろな。
そいで岩の陰へ隠れてじいっと待ってると、案の定、大イノシシが現われた。
そこで鉄砲にタマをこめて一発で仕止めようと狙いを定めた一瞬、背中の方でポキリと木の技の折れる音がしたんや。
不思議に思うてふりむくと、そこにはなんと十七、八の美しい娘がいてな,無心に木の枝を折ってるんやしょ。
(おもしやいな、こんな深い山に娘さんがいてるはずはないし・・)
と怪しんで、グルリと鉄砲を回して、そのますかし(鉄砲の照準するます型の鉄)からのぞいて見ると、なんとその娘さん、実は大蛇が姿を変えていたんや。
(註=鉄砲のますかしから覗くと、いかなる魔性のものが姿を変えていても、たちまちもとの姿に戻ったところが見える・・といわれる。)
こりゃあ逃げることもできやんな・・・と思うた孫左ヱ門さんは、そのままズドーンと一発ぶっ放したんや。
充分に手応えはあったんやが、たちまち山はどう-つと地鳴りして、あたり一面にもくもくと霧が湧きだし、なんにも見えやんよになってしもた。
孫左ヱ門さんは、命からがら家へ逃げ帰ったんやが、その日から病の床についてしもうて、三年あとに死んだんやと。
そいで死ぬ前に
「わしも猟師や。あの一発は絶対に当ってる。もう三年たったら観音の滝のそばへ行って見よ…」
と云い残したそうや。
それから三年たって、家の人がそこへ行ってみると、なんとメッパ (薄板を曲げて飯を入れるようにした容器、まわり二尺ぐらいまで、深さは三寸はど)はどの大きさのウロコ三枝が落ちてたんやとい。
そいでそのウロコを持って帰り、お寺と産土神へ納めたということや。
よはど大きな蛇やったんやな。
王子社 滝尻王子神社 西牟婁郡中辺路町栗栖川859 祭神 皇大神
蟻通しの神様
紀州の田辺やかつらぎ町には、蟻通神社ちゅう立派なお宮さんがあらして。
蟻通してなんのことやと尋ねる人も多いんで、今日はひとつそのお話をしよかの。
むかし、むかし。
日本の帝のところに、唐土(もろこし:中国)の王様から、むつかしい問題がもちこまれたんやて。
まず第一問というのは、つやつやと削った六〇センチはどの木を出してきて
「どちらが先っぽで、どちらが根の方か」
そんなもん分かるはずあるかよう。
次には「七曲りの玉にヒモを通せ・・」という。
「七曲りの玉」ちゅうのは、丸い玉でな、こっち側から見ると、小さい穴が開いてるし、あっち側にもまた小さな穴が開いてるんやけど、もちろん真っ直ぐに通っているわけではなく、玉の中をグネグネと一回って向う側に出てるらしいわ。
そんな妙ちくりんな玉に、どないしてヒモを通せるんや。皆はもう弱ってしもた。
その頃、老人はみんな山へ捨てよという命令がでててな、なんにでも経験が深くて知恵のあるお年寄りは、一人もおらなんだ。
さあ、若い人らは弱ってしもたんや。ところが中に一人だけ、年老いた両親を捨てるにしのびず、山奥に小屋を建てて住まわせ、絶えず食べ物などを届けてた若者がいてな
「いま帝さまをはじめ皆様が困っていられるが、何か良い知恵はありませんか」
と尋ねると、そこは年の功で、すばらしい知恵を授けてくれたんや。それで早速、帝さまの前で披露し、実験されることになったや。
どんな知恵を授けられたかってか? まあ待ちよし、これから話をすらよ。
まず川の中へ木を投げこむと、そら当然、流れていくわなあ。その流れる先の方が、この木のアタマのほうやったそうな。
それから七曲がりの玉に糸を通すためには、まず大きなアリをつかまえてきてな、その体に細い細い絹糸を結びつけ、片一方の口に蜜をぬりつけておいて、そいでアリを放すと、その蜜の香りにひかれてな、どんどん玉の中へもぐりこみ、とうとう片一方の出ロヘ出てきたんやと。
無事、ヒモが通ったわけや。
帝が褒美をやろうと云うと、若者は「年老いた両親を家で養わせて下さい…」と頼み、それからあと、お年寄りを捨てることは無くなったと。
蟻通しの神はこれにちなんで、知恵の神さまクモノカネノ命を祀ったらしいで。
関連する神社 蟻通神社
関連する神社 蟻通神社 伊都郡かつらぎ町東渋田790 祭神 思兼命
参考文献
和歌山県史 原始・古代 和歌山県
日本の民話紀の国篇(荊木淳己)燃焼社