西南から神社概要を紹介します。
波迦神社(はか)「神倭健尊、健部臣古禰尊 合 健御名方神」 簸川郡斐川町大字三絡208
波知神社(はち)式内社「天津彦彦火瓊瓊杵尊 配 伊弉諾尊、伊弉册尊、蛭兒命、天忍日命、 大己貴命、大年神、建御名方命」簸川郡斐川町大字三絡559
諏訪神社 簸川郡斐川町 地図からは御射山か上額頭のように思われる。cdになし。
佐支多神社(さきた)「健御名方命、八坂戸賣命」簸川郡斐川町大字荘原587
佐支多神社の記言 由緒は、遠く和銅6年の時代の書物風土記に(1200余年前)佐支多の社は、はっきりと記載してあります。 佐支多神社は佐支多の社といい、今の庄原町(上も下も)氏子でした。 前記のとおり風土記所載の古い社であります、だんだんなまって瀬崎田が佐支多にかわりついには総氏神として佐支多の社というようになったのであります。 |
諏訪神社「建御名方神 配 神功皇后、武内宿禰命 合 米原内兵衞綱廣」簸川郡斐川町大字学頭591
諏訪神社元宮 地元の福島一夫氏ならではの情報です。
信濃の諏訪大社の上社に御射山社があります。上の地図で佐支多神社の南の線路の北は御射山と言う地名です。 (地名辞典などは未調査です)
神奈備からの余談−1−
また佐支多神社の東側は「好きな」中州という地名です。
この辺りを建御名方の原郷と考えれば、やはり長髄彦との親近さを感じますね。
神奈備からの余談−2−
波迦神社と波知神社の近くの大字三絡1234に香取神社「經津主命」が鎮座、大国主の財宝危うしの図です。 それでしょうか、その三絡の西3kmの神氷に通称出雲国諏訪大明神と呼ばれる鳥屋神社(とや)「建御名方神ほか」が鎮座して、まさに事あらば撃って出るという挟み撃ちの図です。
もう一つ余談−3−
この地図の右にはみ出る感じですが、元宮の東に大黒山があります。この麓に当たる大字学頭2830に 兵主神社が鎮座しています。祭神は大国玉命となっていますが、天日槍集団のはずであり、この方面からも別の武力が迫っている感じです。
千田稔さんの『王権の海』からのお話
上記兵主神社のイメージとして、荒神谷遺跡と南西の加茂岩倉遺跡との真ん中に天日槍集団の楔が打ち込まれている。
この事は大国主系の銅剣や銅鐸を祭器とする機能は停止させられた「事件の現場」の一つとなろう、と書かれています。
また、大和の三輪の大神神社と大和神社との間に二つの兵主神社が鎮座し、一つは大兵主神社を冠している所から、
天日槍集団に始まる天的宗儀が定着した記憶すべき場所であったためによるものと思われる。
神社配置からこのような問題意識を提起されています。
氏は建御名方を祀る神社の点在については触れていませんが、それにしても、実に触発される次第です。
李均洋氏の『雷神・龍神思想と信仰』明石書店 p.318 から
龍王という言葉は中国の正史『北史・西域・波知国伝』中に見える。「波知国、在鉢和西南、云云、大池有龍王」と。
続けて唐代の詩人の「龍王」と云う言葉の入った詩を紹介、唐代には「龍王」伝説は普及していたと推定されている。引用以上
この波知国とはどこにあり、どのような国であったのか、現段階で承知していませんが、波知神社の名前との関係が面白い所です。
波知 波如 波禰
式内社調査報告から
【社名】当社は出雲風土記に云う「波禰社」に相当すると考えられる。天和三(1686)年の岸崎左久次著『出雲風土記鈔』に「波禰社、式書波知神社是也。健部郷羽根村須多禮大明神也」云々とあります。結論として、当社は出雲国風土記の波禰社で、近世以来簾大明神、須多禮大明神、また八社大明神とも呼ばれていたと考えることができる。
【由緒】正倉院文書天平十一(739)年に「波如(はね)里」とあり、波知神社は波如神社の誤りであろう。
鎮座次第は日向国の宮地伊波禰よりニニギ尊を勧請せしを持って直にこの地の名称となれり。しかるに中古以来伊の字を省き波禰と称しき。
とあります。
李均洋氏の『雷神・龍神思想と信仰』明石書店 から 九頭龍に関係する所の引用
民間伝承 龍が九頭の子供を生んだ。それぞれ:−
長男 「因牛」 音楽好き 胡弓の一種の二胡の頭に見かける。 次郎 「睚眦」殺戮を好む。太刀の柄の龍の鯉口に収まる。 三郎 「嘲風」危険を冒すことを好む。古代建築物や宮殿の角のある獣がその形状。 四郎 「蒲牢」自ら咆哮するのが好きである。梵鐘の龍頭がそれである。 五郎 「 ![]() 六郎 「 ![]() ![]() 七郎 「椒図」貝の洋に閉じこもるのが好きである。扉のノッカー、取手の飾りとして使われた。 八郎 「贔屓」重荷を背負うのが好きである。石碑を背負う亀がその形状である。 九郎 「 ![]() この九頭の子供は龍の形を失っただけではなく、各自の好みを主張した、と伝わる。 |