石上神宮の後背地は都祁から柘植への広大な土地で、焼き畑農作が行われていたと思われます。
そうすると「日の谷」の名を持つ伝承の地は「火の谷」「布留の谷」ということでしょうか。銅鐸でも出土するのかも。
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>布留(ふる)の地とは焼き畑を特徴とする「火」の地 『布留=火』説、スゴイです!斬新!。そういえば、大和では古代のみならず近世までも焼畑が続いていたという記述を読んだことがあります。盛大な「火」は、また天に昇る龍に見たてることもできますね。(炎の昇竜に慈雨を祈願する例があればいいのですが。)
先日、桃尾の滝の北方にある『大国見山』の山頂に登ってきました。 布留川上流の集落の神社について『天理市史』から抜粋します。 神奈備の備考
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> 炎の昇竜に慈雨を祈願する それにしても、 神奈備の備考
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「奈良県史 神社編」で僕が数えたところ、合祀社も入れて奈良県内には28社のクズ(九頭、九頭竜、葛、屑(←ママ)、国栖、国樔)神社がありました(結構、大変でした。好きじゃなくっちゃできないですね)。このうちタケミナカタ神を祀っているクズ神社は以下の5社があり、最多でした(ABCは、香具さんが685で紹介されたもの、Dは686でsetohさんが紹介されたものです)。
一方、奈良県下でタケミナカタ神を単独でお祀りする神社は10社だけで、しかもこのうちの5社は九頭神社なわけですから、この神様をお祀りすること自体が比較的珍しい上にその半分がクズ神社である、ということになります。しかも、距離的に離れた天理市と宇陀郡の双方にあるので局所的な流行とも言えず、どうもこれらのご祭神がタケミナカタ神であるのは深い理由があるみたいです。
2つ目の祭祀の源流は、こっちが本流かと思うのですが、吉野郡にある5社のうち3社が国栖神社、国樔神社なので、クズという神社は「吉野の国栖」と何か関係がありそうだというものです。この吉野の国栖は東征の途次、神武天皇が吉野で出会った岩を押し分けながら出てくるイワオシワケ命というしっぽのある国津神の子孫です(風邪ひきさんが飲むトロ〜リ甘いのとは関係ないですよ)。このイワオシワケ命は上記3社のうちの2社のご祭神です。
岩石を祀る磐座祭祀は古代では決して珍しくなかったでしょうけど、むしろクズの人たちは岩そのものを祀ったのではないでしょうか……僕の見た桜井市にある2っのクズ神社には「これでもか」というくらい岩があり、それを見たときそう感じたのを思い出します。フェティシズム(物神崇拝)です。つまり、クズ神社にある岩石はヨリシロとしての磐座ではなく、岩がそのまま神様だったように思います。神観念はフェティシズム→霊魂→人格神(アマテラス、オオクニヌシ等)という発展をとげたとし、それぞれの段階を縄文→弥生→古墳の各時代にあてる考えがあるみたいですが、それでいくとクズの人たちは縄文なわけです。
setohさん、香具さん、習志野のてつさんいかがでしょうか。紋次郎さん、締め付ける金輪は出なかったのですよ。それにしても…、うわ〜っ長いっっ。ごめんなさいっ。
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前回の「698くず」について補足します。奈良県に土地勘のない人はつまらないかもしれないので、後はもう今回でこの話をお終いにします。 奈良県のクズ神社、28社の一覧は以下の通りです(祭神の高オカミ神の「オカミ」は、本当は「雨」という字の下に「口」を横に3っ並べてさらにその下に「龍」と書くのですが、ウ〜ン出ません。※マークで「○○神社境内社」としてあるのは合祀されてその神社の境内に祀ってありますよという意味です)。以下、特に断らない限り出典は「奈良県史 5 神社」です。
それから、もう一度見直して以下の4社が落ちていたのに気が付きました。 また、別名がクズ神社だったり、あるいは、かってはクズ神社だったという神社も見つかりました。とりあえず僕が見つけた範囲では以下の3社ですが、これは探せばもっと見つかりそうですね。33が戸隠神社で祭神がタジカラオ神とタケミナカタ神であるのが注意を引きます。
こうして名前が変わってしまったというのは、結構速い時代にクズという神様がどういう神様だか誰にも分からなくなっていたということではないでしょうか。ただし、そうした中でも、どうもクズの神様は祈雨神で岩石に関係があるらしいという観念だけが長く保たれてきた感じがします。 以上の中で磐座があるのは、僕に分かっている範囲では10、11、12、33だけです。現地に行けばもっと見つかるのかもしれませんが思ったより少なかったです。
「吉野郡の国栖の本拠地周辺」の「巨岩祭祀の痕跡がある神社」については『奈良県史 5 神社』や吉野郡各自治体の郷土史、あるいは『式内社調査報告 第二巻 京・機内2 大和A』『日本の神々 4 大和』の「川上鹿塩神社」の項をご覧下さい。 その他にも調べていて、19がある宇陀郡大宇陀町の上竜門地区には、祭神が磐押開命で背後には巨岩が屹立している岩神社をはじめ戸隠神社が2社ある等、色々興味深い発見がありましたが長くなるのでこの辺でやめます。興味のある方は調べてみて下さい。 習志野のてつさん、ごめんなさい。締め付ける金輪は見つかってました。うっかりしてました。それにしても三内丸山を見ても、縄文ってあれだけ豊かだったのにどうして弥生化したのでしょうか。まぁ気象とか経済活動とか小難しい理屈はいくつも考えられそうですが、「オラァ縄文の方が楽しいが若い衆が弥生にしたいって言うんならしょうがあんめぇ、勝手にしろっ。だけど岩神様とお柱様をお祀りするのだけはオラ、ゼッテェ止めねぇかんなっ!!」という縄文様がいたのかもしれません。それが人格神になってミナカタ神が登場したのでは!?←失敬しました。 山浜さん、岩の話、本当に勉強になりました。ありがとうございます。 setohさん、都祁村に国津神社が多いというのは示唆的ですね。気が付かなかったです。それにしても海人のネットワーク、タカクラジのネットワーク、太陽の道のネットワーク………古代を探索している途中、こうしたネットワークが現れると袋小路にならないでいつも必ず別の系へ送り届けられる感じがします。そしてその度に興奮を覚えます。 室生村の海神社(中野)から北へ4〜50分歩くと古大野というところがあり、神明神社があります(もちろん祭神はアマテラスです)。ここはアマテラスが笠縫村から伊勢へ遷座する際に休息した場所と伝えられ、神社は後に伊勢神宮から勧請したといわれています。神社の手前の小川は五十鈴川で、入り口の傍らにある清泉は天の真名井です(泉の中には神座石らしきものがあります)。神社背後の山は岩戸山といい、拝殿の後ろから石段を登ると木製の瑞垣があって、その中は幾分崩落しているものの、扉のような形をした岩の露頭があるだけで本殿はありません。箱庭のようなあまり大きくない神社ですが周囲の高燥な雰囲気と相まって、行くと身も心も洗われる気分になります。しかし今では僕はこの神社が、もともとクズの人たちの聖地で、祭神も九頭竜神かタジカラオ神だったのでは、と考えています。それが岩戸に似た磐座と倭姫命の伝承への附会から神明神社になったのではないでしょうか。境内の石段や石灯籠には年記と共に「雨降」の語があり、雨乞いが成就したので寄進したらしいことから祈雨神としての性格もうかがえ、クズ神社との類縁姓を感じさせます。この推測が正しいとすれば、海人とタカクラジ(磐座)と太陽の道のネットワークがたまたまこの小さな神社で交錯したのだと思われます。
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kokoro 石上神宮とクズ H13.4.8
以前、香具さんの調査で石上神宮の東部、布留川上流域に九頭神社が3社鎮座しているというご指摘がありました。それに対し僕は、クズ(国津クニツの転訛でしょうか?)は石フェチだった等の珍説をここにカキコした次第です。けれども、クズと石上神宮の祭祀がどう関係するかは結局、分からずじまい。その後、setohさんから静岡県小笠郡大須賀町にフルとクスの合体神社、古楠神社「布留楠天王」があると親切なメールをもらったこともあり、ずっと気にかかっていたところです。そこでもう一度、これを考えてみます。 『古事記 上』応神天皇の条で、吉野の国栖(クズ)たちが、オホサザキノ命(即位前の仁徳天皇)の腰につけている大刀を見て次のような歌を歌います。
まずふゆ≠フ前にふる≠ゥら。 続いて、「たまふり≠フ際に用いる道具<中略には数多くのものが用いられていたものと思う。その中で我々の忘れてならないものは剣である」『同』P233とした上で、この国栖の歌を引き、
もう一つ付け加えると、石上神宮のある天理市に八剣神社という神社があります(田井庄町西浦)。この神社のご祭神である八剣神について、『石上振神宮略抄』という本に興味深い記事があります。「夜都留伎(ヤツルギ=八剣)の神はヤマタノオロチの変身であり、そのご神体は八っの比礼(ヒレ)がある小刀子である。そのため八剣の神という。神代の昔、出雲のヤマタノオロチは胴体が一つで頭は八つあった。スサノオが剣を抜いて八段に切断したところ、八っの身に八つの頭が取り付き、小蛇となり天に昇って水雷神となり、聚雲の神剣となって、布留川上流の日の谷に降臨して鎮まったのが当社の八剣神だと伝える」というものです。 以上のうち僕が強調したいのは、@吉野の国栖が、七枝剣のように刀身が股になった剣を用いてたまふり≠行っていたこと、A布留川上流域には九頭神社が3社も鎮座しており(天理市下仁興町垣内、同市苣原町山内、同市長滝町長滝)、上代にクズ民族のコロニーがあったと推定されること、B八剣神の降臨した日の谷も布留川の上流域であり、しかもそのご神体は八つの比礼のある小刀子≠ナ、刀身が股になったフォルムをしていたらしいこと。したがって吉野の国栖が奉斎していたような形をした剣であること、C八剣神は水雷神であり、祈雨神である九頭神社と類縁性を感じること、D刀身が股になった剣として七枝剣が実際に石上神宮に伝世していること、等です。
ここからどういう結論を導くかはまだ整理が必要でしょうけど、僕は奈良県東南部の山地に多いクズ神社(九頭神社、九頭竜神社、国樔神社等)を奉斎していたのは、大和王権からクズと呼ばれていた人々であり、クズは何も吉野の国栖の専売特許ではなく、もっと勢力に広がりがあってクズ神社はその痕跡と考えています。したがって以上の@〜Dから少なくとも刀身が股になった剣によるたまふり≠介して石上神宮の祭祀にクズ民族の人たちが関与していた可能性が高いと思うのです。 ところで、石上神宮の第二相殿のご祭神である布留御魂(フルノミタマ)は現在、大阪の神社にあって、石上神宮が返還を請求しているという話をこのホームページのどこかで読んだ気がするのですが、setohさんご存じでしたら神社の名前等を教えて下さい。
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奈良県天理市、布留川上流の九頭神社(三社)の現地訪問を行いました。
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香具さん、メールありがとうございました。ナ、ナ、ナ、ナント!!僕も実は、香具さんが現地に行った翌日の5月13日に、石上神社及び布留川上流の建御名方命を祭神とする3っの九頭神社に行ったんですよ。一日ずれていたら絶対、どこかでお会いしたはずです。 |
kokoroさん、毎度お世話になります。時間差オフ会みたいですね。
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> 布留川上流域の3っの九頭神社のご祭神が建御名方神・・・ ←ビックリ [1090] 石上神宮と建御名方神 [kokoro] 05/20 布留川上流域の3っの九頭神社のご祭神が建御名方神なのは、最初に香具さんが指摘された事実ですが、やはり大変な発見だと思います。九頭神社の祭神が建御名方神であること自体が奇異であるだけでなく、合祀社等も含めて奈良県内で同神を祀る神社が10社しかなく、この神様を祀ること自体が珍しいので、さらにその意義は深まると思います。
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マルヤさん、大いに笑わせていただきました! さて、ちょっと遅くなりましたが、
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香具さん> 布留川が山中から平野へ流れ出す処、首根っこを押さえるように石上神宮があり剣の大神が鎮座するのも『暴れるなよ、暴れると使うぞ』というような象徴としての抑止力的な呪具の祭祀でしょうか。
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信濃で最も早く史書に名が出ているのは「須波の神」と「水内の神」です。日本書紀の持統天皇五年の条に、「八月二十三日使者を遣わして、竜田の神、信濃須波の神・水内の神を祭らしむ」と記されています。竜田神は大和に鎮座する風の神で納得できるのですが、同じ時に、天皇はわざわざ使いを出して須波・水内の神を祭らしたのは何故でしょう?記録には勅使が遠い信濃に遣わした例は、天武天皇十三年二月の条に「三野王小錦下釆女臣筑羅等を信濃に遣わして、地形を看しめたまう。是の地に都をつくらむとするか」と言う奇妙なことが記されており、その後に度々竜田の神を祀る記録があります。信濃に特別な関心があったのでしょうか? 須波は諏訪の古名で須波神は、諏訪大社だろうと推測できますが、水内神は水内郡内に鎮座する神だろうと思われますが、特定できていません。 『諏訪神社旧記』には「御名方刀美神が、出雲より逃げて州羽湖に至った時、洩矢神が入国を拒み、御名方刀美神は藤枝、洩矢神は鉄輪を持ってお互いに相争ったが、ついに御名方刀美神に屈服して、洩矢神はこの地を奉献し、それからは御名方刀美神から祭政の命を受けた」とあります。『大祝信重解状』『諏訪大明神絵詞』にも同様の話が載っており、諏訪の地は洩矢神(守矢神)の所領であったとしています。諏訪の土着神が出雲から来たタケミナカタと諏訪の地の領有を争って戦ったという伝承は、『古事記』神話の話だが、タケミナカタが出雲から来たと即断はできない。タケミナカタについて、松岡静雄は海人族宗像氏の「ムナカタ」の訛音であろう(日本古語大辞典・語誌)とし、村松武雄はタケミナカタの「竜蛇形」を宗像系海人族の信仰と見る(『日本神話の研究』第1巻)古事記神話のタケミナカタは信濃に海人族が居たことの逆説明ではないかとし、志摩や伊勢の海人の居住地にタケミナカタ信仰の多いことを指摘している。『伊勢国風土記』逸文は、伊勢津彦神が天孫に伊勢の国を譲って向かった地が信濃国とある。同様の話は『倭姫命世紀』にも書いてあり、本居宣長は『古事記伝』で、タケミナカタと伊勢津彦の伝承の類似から伊勢津彦はタケミナカタの別名と見ている。日本書紀の持統天皇五年の条の記事は、風神としての須波神を祀ったもので、諏訪明神に「風の祝」と言う祭事があること、伊勢津彦が風神であり、伊勢津彦の住む外宮の神体山高倉山の隣の高神山にある神社の祭神がタケミナカタであることを傍証としている。 タケミナカタの「タケ」は「建」で「荒ぶる神」の尊称、「ミ」は「御」で敬称、「ナカタ(名方)」が神名。「神名帳」には阿波国名方郡の多祁御奈刀祢神社、信濃国諏訪郡の南方刀美神社二座が見える。大和岩雄氏は「阿波(徳島県)の名方郡の南に接する勝浦郡、那賀郡、海部郡を総称して南方と言う。御名方の意であろう。諏訪の神が南方刀美と言われ、諏訪南宮と言われるのも、阿波の南方と無縁ではなさそうである」と指摘している。また、南方の勝浦郡に事代主神社があり、諏訪神社の下社は八坂比売と事代主を祀っている。名方郡には八坂比売と似た名の天石門別八倉比売神社が見える。伊自波夜比売神社も見え、吉田東伍は「信濃諏訪神系の建御名方命の御子出速雄命の女に出速姫命あるは、伊自波夜比売神に由あり」(大日本地名辞書)として、この神を諏訪神の御子神としています。建御名方の「名方」は名方郡のタケミナカタトミ神を奉じた海人族が伊勢、尾張を経て信濃に入って諏訪湖の辺で祀ったと推測します。諏訪には古くから信仰されていたモリヤ神はミシャグチ(御左口)と呼ばれる巨木、巨岩に降りてくるナイーブな自然神を統括する神で、ミシャグチ神を奉斎する村々の連合体を統括するミシャグチ祭政の長が、後に上社神長になる守屋氏だったようです。そしてこの守屋氏が祀る神に乗っかったのがナカタ神(神名帳に載る御名方刀美神社)ではないでしょうか。 [1158] 信濃の海人族 [風来坊] 05/29 阿波国名方郡に和多津美豊玉姫神社、天石戸別豊玉神社があり、記紀は豊玉姫を海人の女としています。またワタツミは綿津見神、少童神としていずれも安曇連の祖とされている。阿波国名方郡に安曇氏が居たことは『三代実録』に「阿波国名方郡人正六位上安曇部粟麿」が宿祢の姓を賜ったと見える事から、安曇氏が名方郡を支配していた郡領級の一族と推測できます。『新撰姓氏録』には、安曇宿祢は海人綿積豊玉彦命の子、穂高見命の後裔とあって、信濃国安曇郡に安曇部真羊、安曇部百島の名が見える。「神名帳」は安曇郡に穂高神社、川会神社(祭神は海人綿津見神)、更級郡に氷鉋斗売神社(氷鉋斗売は綿津見神の子、宇都志日金析命か?)、埴科郡に玉依比売神社(豊玉比売の妹神)が見られます。また、小県郡には海部郷があり、他に海野、塩田、塩川、塩尻など海に関わる地名が多い。童女郷もワタツミを連想します。また小県郡には生島足島神社があり、生国・足国とも書き摂津の海人氏族が祀っていた神だという。「神名帳」には摂津国東成郡に生島足島神を祀る「難波坐生国咲国魂神社」が見えるが、信濃国造(金刺舎人、他田舎人か)が6世紀後半頃に政治的要請(王権勢力の浸透)から国造の所在地である小県郡に生島・足島神(国土生成と発展の神)を祀ったものと推測できます。
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setohさん> 建御名方命の物語の形成は安曇族の信濃入りの後からかもしれませんね。
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setohさんと香具さんによる都祁村の神社レポを読んだ方なら、都祁村には国津神社という神社がいくつか鎮座していることに気が付いたでしょう。例によって最初に指摘したのはsetohさんでしたが、この国津神社という神社は、クズ族や九頭神社と関係があると思われます。そして、この国津神社について語る際、言い落とすことのできないのが三重県名張市南部から伊那郡美杉村西部及び奈良県宇陀郡御杖村東部にかけての地域です。というのも、setohさんが作成された『クズの神を祀る神社(さらサイト今年の3月にご鎮座)』によれば、全国の国津神社の約半数がこの地域に集中しているからなのです。合祀されたもの等も拾うとそのリストは以下の通りとなります(ただし、AKLOは後述する六箇山郷からはやや外れています)。 [1396] ちょいと寄り道 [香具] 07/04 紋次郎親分。長滝町の滝、まだ見てないです。次の冬場にトライ予定。
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ハンドル名を「テェタレ」さんと言う構造線にお詳しい方が、構造線の片側にクズ神、もう方側に丹生の神社が分布しているのでは、との指摘をされていました。名張の辺りは北側に当たります。また川上の若宮八幡から丹生大師、吉野方面は南側に当たります。言われてみれば、その通りで、これが紀ノ川へ出ますと、丹生が勧請されて紀ノ川の両岸に分布しているのですが、筒香、富貴、天野と名だたる丹生神社は南側、クズはどっちかと言うと北側か南側か微妙な所ですがね。要細部調査ですね。
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昨日のカキコ『国津とクズ』の続きです(『無題』になっていますが、名前を入れ忘れました)。中貞夫氏の著書『名張の歴史』にあるクズ族についての記事を紹介します。
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setohさん> この意味が分かりにくいんです。和歌山の例でいきますと、『志摩神社の場合、不明となっていた式内社の所在を元和年間(1,615-24年)に確定する際、中之島にあった小祠六所の一つであった「九頭明神」を志摩神社に定めたと言う。』とあり、クズ神社が志摩神社とされてはいますが、さりとて式内志摩神社の名前が創建時にクズ神社であったとは考えにくいという理解でよろしいのでしょうか?
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僕の7月4日のカキコ、『国津とクズ2』について、大三元さんにはやや誤解があると思うので、これに答え少し自分のカキコを補足します。
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[227] Re[216]: クズの語源 参考にならんカネ kokoro [Mail] | 2001/07/28(Sat) 02:36 [Reply] |
紋次郎さん、アマカネ!
暑中お見舞い申し上げます。旅行・出張ですっかり遅くなってしまいましたが、7月16日の『クズの語源 参考にならんカネ』へのレスポンスです。 > クズ(どんな字だったか忘れました)は宮廷の楽士を勤めていたという記録があるのでしょうか?いや、風説でもいいのですがネパール語 KUSLE は楽士です。末尾の LE には馴染みがありません。LI(人)の変化態とみていいでしょう。 『国栖の翁』という伝承をご紹介します。 「昔、大海皇子が吉野山におられると、ミルメ・カクハナなどが、不意に山を襲うた。皇子は敏くそれを察し、夜中に山を落ちて、国樔の川辺をさまよっておられた。敵はたちまちその後を追って、皇子に迫った。 川には橋も舟もなかった。皇子は進退きわまった。ちょうどその時、ひとりの漁翁が川舟に乗って現れた。皇子は急に言葉をかけて、漁翁に頼まれた。漁翁はうなずいて、とっさにその舟を河原に伏せて、皇子をおおい、船底にはぬれ着物を引っ張っておいた。 やがて敵がかけつけて、翁に皇子のゆくえをなじった。そこへまた付近の犬が一匹出てきて、鼻をクンクンといわせながら、しきりに舟のまわりをかぎ始めた。これではならぬと思って、翁は相手の大将ミルメ・カクハナのすきをねらって、一撃にこれを打ち倒した。 手下どもは、この勢いに恐れて散り散りバラバラに逃げうせた。 こうして、翁は皇子の危難を救い、付近の和田の岩屋に案内して、粟飯にウグイの魚をそえてさしあげた。すると、皇子はウグイの片側だけを召し上がり、残りの片側を水中に投じて、いくさの勝敗を占われた。魚は勢いよく活きて水中をはねまわり、皇子の戦勝を予示した。 皇子は大いに喜び、一首の歌をよまれた。 世にいでば腹赤ハラカの魚の片割れも くずの翁がふちにすむ月 腹赤の魚とはウグイのことである。この魚は、産卵期になると、腹が赤くなるからということである。 皇子は、他日帝位についたら、これをシルシに持って参上せよと仰られて、錦旗と鼓胴とを翁に賜わった。それで翁は、その後大和浄見が原の宮に参上し、勅によって歌曲を奏し、桐竹鳳凰の装束と御製とを賜った。 その御製に、 鈴の音に白木の笛の音するは 国栖の翁がまいるものかは その後、恒例として代々参内しては歌曲を奏していたが、いつとはなしにそのことが絶えた。翁の子孫はこの典礼の湮滅することを憂えて、寿永四年(※ただし、寿永は1182〜84年まで)正月、新たに地を占って社を営み、天武天皇を祭り、毎年正月十四日、古曲を奏して現今におよんでいるという(高田十郎氏他編『大和の伝説』)」 これをみるとクズの人たちが歌曲をよくしたことが伝わってきます。また、新たに地を占って社を営み、天武天皇を祭≠チたというのは、おそらく吉野町南国栖にある浄見原神社のことと思われます。当社の由緒も紹介します。 「南国栖、吉野川の右岸断崖上に鎮座する旧村社で、天淳中原瀛真人天皇(天武天皇)を祀る。毎年旧正月十四日伝国栖翁の末裔の人々によって国栖奏が奉納される。国栖奏とは石押分の末孫の翁筋の人々が朝廷の大儀に御贄を献じ、歌笛を宮中の儀鸞門外で奏した故事に則ったもので、舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、謡翁五人の計一二人で奏上する。当日の神セン(←センは食<wンに巽≠ニいう漢字ですが、出ません)は腹赤の魚(うぐい)、醴酒(一夜酒)、土毛(土地の特産物としての根芹、山菓(木の実)・栗・かしの実)、毛瀰(かえる)である。 岸壁に建つ神殿は、神明造一間社。石灯籠のうち享保五年(一七二〇)の刻銘のものが古い。国栖奏の第四歌に かしのふに、よくすをつくり、よくすにかめる、おほきみ、うまらに、きこしもちをせ、まろがち と歌う(『奈良県史5神社』P626より)」 また、関連がみとめられる、吉野町窪垣内の御霊神社の由緒も紹介します。 「窪垣内集落の東端の高地に鎮座する旧無格社で、国栖翁の祖、権正政国を祀る(『吉野郡史料』)という。明治の明細帳には祭神不詳とある。この地方では国栖奏発祥の古跡と伝えている(『奈良県史5神社』P625より)」 ところで、この伝承は、吉野の国栖について非常に示唆的であると思われます。ミルメ・カクハナが登場する前段は、いうまでもなく、壬申の乱前夜の政治状況を背景にしているとみてよいでしょう。そしてその場合、その内容を真に受けたとすれば、挙兵までの一時期、吉野宮で生活していた大海人皇子が、吉野の国栖の援助と保護を受けていたことを示唆すると思われます。あるいは、そもそもが大海人皇子が吉野宮に入られたのも、彼らを頼ってのことだったかも知れません。 『日本書紀』天智天皇十年十二月三日の天皇崩御の記事の中で、殯モガリに際して流行した童謡ワザウタが3っ紹介され、その1つは次のようなものです。 赤駒アカゴマノ、行憚イユキハバカル、真葛原マクズハラ、何伝言ナニノツテコト、直吉タダニシエケム 【訳】赤駒が行きなやむ葛の原、そのようにまだるこい伝言などなされずに、直接におっしゃればよいのに。 以上の訓み下しと現代語訳は宇治谷孟氏訳の『日本書紀(下)』P241によりますが、同書は訳注で、この歌について「近江方と吉野方の直接の交渉をすすめるものか」としています。とすればあるいは赤駒が行きなやむ葛の原≠フ葛≠ヘ、大海人皇子周辺にいた吉野の国栖勢力のことを揶揄する懸け言葉になっているのかもしれません。 また、『古事記』の応神条で吉野の国栖が、大雀オホサザキノ命(即位前の仁徳天皇)に、紋次郎さんが懸け言葉が多いとして注目された先がササけた剣を褒める♂フを奏上していますが、折口信夫はこの奏上について、大嘗祭における、吉野の国栖の服属儀礼だったとする興味深い説を述べています(『原始信仰』等)。この説はなかなかに説得的な感じがするのですが、とすれば恒例として代々参内しては歌曲を奏していた≠ニいうのは、単なる宮廷儀礼に際してだけではなく、代々天皇の大嘗祭においても行われた可能性があります。そしてその場合、『国栖の翁』の伝承によれば、この慣例は天武天皇の御代から始まったことになります。 さて、記紀では、この応神条の国栖の歌と東征の途次、神武天皇が吉野の国栖の祖、石押分之子に出会う話が吉野の国栖の記事の全てだと思いますが、これらを真に受けると、天皇家と吉野の国栖の交流は、弥生時代終末期に開始され、古墳時代中期も盛んであったことになります。しかしむしろ『国栖の翁』の伝承の方がより真実を伝えていて、吉野の国栖と天皇家との交流は、大海人皇子が吉野宮に居たときに始まる、と考えた方が自然ではないでしょうか。 『古事記』応神条にある国栖の歌の記事は、前後の文脈と関連があまりなくて、何か唐突な感じがします。また、神武天皇が石押分之子に出会う記事も、『古事記』の場合はともかく、『日本書紀』の場合は東征のさなかに、わざわざルートから外れた吉野に天皇が物見遊山で出かけて行ったように書かれていて、やはり違和感があります。『日本書紀』のこの説話は、どうも吉野の国栖や井光のことを話に出したいために、強引に東征の話に挿入されたと考えると実に納得できます。こうしたことから、記紀の神武条や応神条にある吉野の国栖の記事は、逆境で雌伏していた時期の大海人皇子を支えた吉野の国栖を、記紀編纂の際、天皇家がその功績を認め、彼らの由緒を深めるために作られたのではなかったでしょうか。 また、逆の見方をすると、吉野や宇陀地方に入ってからの神武東征の記事には、壬申の乱における大海人皇子の行程の記憶がかなり混入しているのかもしれません。もっとも、これは先人の誰かがすでに言い出していることかもしれませんが。 |
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