1.太古、河内湾とか草香江と呼ばれる海が広がっており、これに淀川や大和川などが土砂を流しこんでいた。 七千年前から六千年前の縄文前期には、河内湾は生駒山地のすぐ西に及んでいた。 その後五千年前から四千年前の縄文中期には、淀川と大和川による堆積作用で三角州が広がり始めた。北側に天満砂堆、西側には難波砂堆が広がった。
縄文中期の終わり頃には森ノ宮遺跡に見られるように貝塚が作られていた。マガキ、マダイ、クロダイを捕獲していたようで、海の幸を楽しんでいたようだ。
約三千年前から二千年前、縄文時代から弥生前期、砂堆がさらに北にのび、河内湾は大阪湾と遮られ、水が溜まり、淡水化が進んだ。河内湖になった。
生駒山地の西麓の日下貝塚は縄文晩期の遺跡で、淡水産貝塚が出ている。森ノ宮遺跡からもカキが消えてセタシシジミ、コイなどが出てくるようになった。 弥生前期には河内湖の周辺の東大阪の広がる低湿地の山賀遺跡、瓜生堂遺跡などで稲作を行うムラが出現した。
遺跡と神社 石田神社は船の形の巨石が埋まっているとの伝承がある。古墳の石棺の蓋かも知れない。この伝承が神社をよんだのかも。
日下貝塚 石切神社 山賀遺跡 若江鏡神社 瓜生堂遺跡 石田神社
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