石と言うと、ひとつは柳田国男の『石神問答』と飛鳥の石像物が思い起こされ
る。石神問答の石神とは、シャクジと読み、社宮司、赤口、将軍、などの境の神
のことであって、そのご神体が石であってもそれはたまたまであって、石の神の
意ではない、ことを訴える手紙のやりとりである。飛鳥の石像物は素材が石であ
ってそれゆえ今日まで保存されてきたものであって、石を神仏と見なした人工物
ではない。それは丁度、神社の狛犬のようなもの。
飛鳥の開拓は蘇我氏とその配下であったような東の漢と呼ばれた渡来系の人々
によるものであった。飛鳥に宮殿を置いた最初の天皇は継体天皇の皇子であった
安閑、宣化天皇のようであるが、本格的には崇峻天皇、推古天皇の時代以降。
飛鳥坐神社の元社かも知れない酒船石は丘の上にある謎の石として名を馳せて
います。近年、その丘の北川の下に亀形石槽が発見された。また酒船石の丘は人
工の丘で、天理砂岩が積み上げられているとのこと。この丘を石上山と称したの
ではないか、との見解が和田翠氏は岩波新書『飛鳥』で述べている。天理市豊田
の石上山の石を運んできて築いた丘だからと言うこと。これを運んだるーとを、
狂心の渠と呼ぶ。この渠は何も天理市から明日香村までの13kmも造られたの
ではない。天理市からは船で布留川を下り大和川に入り、寺川、米川を上って香
具山の西まで運んでくる。ここからは渠を掘って、高低差35mを約1kmで酒
船石の丘の北川まで上っていったとの推測。この辺りにはその痕跡が残っている
と言う。 |