泊瀬女(はつせめ) いいお名前ですね。
下記は万葉集より
巻第一(ひとまきにあたるまき)
雑歌(くさぐさのうた)
泊瀬(はつせ)の朝倉の宮に天(あめ)の下しろしめしし天皇(すめらみこと)の代(みよ)
天皇のみよみませる御製歌(おほみうた)
0001 籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串持ち
この丘に 菜摘ます子 家告(の)らせ 名のらさね
そらみつ 大和の国は おしなべて 吾(あれ)こそ居れ
しきなべて 吾(あれ)こそ座(ま)せ 吾(あ)をこそ 夫(せ)とは告らめ
家をも名をも
山浜さん、こんばんは。
> 「断層を探す際には神社を探す」
確かに、葛城の古い神社なんかそういう感じですね。神社は地震で壊れやすいと言うことになりますね。
鉱脈や水脈が通っている所に獣道ができるそうです。人間も獣道を利用して、エネルギーの多い場所で神祀りをしたようです。後世には、ダウジングロッドで鉱脈(のある所水脈もある)を探し、井戸を掘ったそうで、弘法大師はその技術に長けていたようです。「昔の人の方が実は科学的だった」と言えますね。
玄松子さん 「断層では電気(電磁波)が発生するため、人の脳に影響を与え」るのであれば、この逆も言えるのかも。それが祈祷ということでしょうかね。
断層上に聖(霊)的施設が点在するというのは、「レイライン」と呼ばれるものです。イギリスのストーンサークルなどが有名です。
阪神の震災時の報道でももありましたが、断層では電気(電磁波)が発生するため、人の脳に影響を与え、幻視・幻聴をおこすというのをテレビでやっていましたね。
人が物を見、感じるということは、脳内の電気信号になるわけですから、同様の刺激があれば、無いものが見え、感じられるというのは、ありえる話です。その刺激に対する個体差が、シャーマンと凡人をわけるのかもしれません。
こんにちは
たしかに神社と断層は密接な関係にありますね。
私の大学時代での講義では「断層を探す際には神社を探す」ということがありました。断層が発生すると断層面は破砕され断層粘土ができるので、水を通しにくくなり、断層面より上流側では地下水がダムアップされ湧水が発生します。この湧水を手水として利用したことから、神社は断層上に多くある事になります。
時間の都合でじっくり見れませんでしたが、福島県の八槻都々古別神社周辺にはカタクレサイト(断層圧砕岩)があるようです。
また、春日大社の葉室宮司さんの書かれた本には、神社が断層上にあるのは断層から上がってくるエネルギーを利用するためだとあります。これは断層面にはアルファー線などが上がってくるので、このことを言っているのではないかなと思いました。それを利用した断層推定法もあります。
なにか、測定器などのない昔の人の方が実は科学的だったのではないかと思うこともありますね。
このごろはEC計などを懐中に忍ばせて、湧水や地下水を引いている手水の電気伝導率などを計っております(笑)
> 急に仕事の用事で京都に出張となりました。 京都はどこに行こうかな。
いいですねぇ、京都。晩秋の京都も良いものです。
寂しい季節は寂しい神社が良いのではないでしょうか。八瀬の崇導神社や御蔭神社、そこから叡山なんかどうでしょう。
時間がなければ、五条天神、五条道祖など、宇治拾遺などの古典に登場する神社を巡るのも一興ですね。
ちょっと行ってこようかなぁ。
泊瀬女さん、神社巡り記、楽しみにしています。
紀伊国名所図会によりますと、那賀郡山埼荘中野(黒木)村に佐伯神社が鎮座しており、祀神は室屋大連公で、佐伯宿祢大伴宿祢の同祖道臣命七世孫の室屋大連公を佐伯氏が祀ったとあります。
現在室屋大連公を祭神とする神社はこの近辺に見あたりませんが、大市姫神社改め山崎神社が鎮座しており、31柱の神を祀っていますので、この中に吸収されているのでしょう。佐伯を蝦夷と思っていましたが、ひょっとすると隼人のはやとちりだったり。
なお、山崎神社には奥津彦命、奥津姫命、火加具土命も祀られており、これは荒神社を合祀した痕跡と思われます。この近辺、竈門神社の名は見あたりません。
>A.I様。
「泊瀬女」ってどう読むのですか?どうしてこれにしたのですか?
ちなみに、私は10年前ダンスミュージックではやったマイク・ハマーと自分の苗字とからつけました。ちょっと気に入っています。
>マルヤ様。
「風炉」ってどれくらいの大きさですか?昔あった「かまど」くらいの大きさですか?あるいはもう少し大きいとか。家の中に作れますか?その絵が書かれた本がありましたら取り寄せたいので、よろしければ教えて下さい。
あと、丹生都姫神社の丹生氏についてですが、古くからあるわりに、同じ苗字の人って少ないように思います。また、昔惣神主家であった竃門氏(元丹生)の姓も、地元に2軒しかありません。それも昭和に入ってからの分家で2軒になったばかりです。竃門氏には「丹生を名乗ってもより、竃門を名乗ってもよし」との言い伝え?があるそうです。しかし、それにしても両氏とも同じ苗字の人が少ないです。これは未だに不思議な点です。丹生川上の丹生氏も何かの都合でみなさん苗字を変えられたのかも知れませんね。丹生を名乗ってはいけない理由が何かあるのか?ミステリーですね。
>みなさま
丹生祝氏家系図を見ていて分からない事があります。もしご存知な方がおられましたら教えて下さい。それは、全部ではないのですが一部の人に「号」がついています。例えば宮内、右近、治部です。決して亡くなった時の号ではありません。
半年位前から神奈備のお仲間に割り込んでいますが、A.I.という名前では何とも趣がないので、神奈備の管理人さんにお願いして名前を付けていただきました。
来月から「泊瀬女」という名でデビューします。いい名前でしょ。
ところで、神奈備の管理人さん・setohさんは博識で、すてきな名前をいくつか考えてくださいましたが、最後に「いっそ、ごっどねーちゃんにしたら」ですって。あの方って優しそうに見えてけっこうイジワルですよ。ウソウソ!!!・・・名付け親の悪口言っちゃァバチが当たります。
急に仕事の用事で京都に出張となりました。日帰りで済む用事ですが、1泊の出張費を認めてくれなければ行かないとダダをこねてOKになりました。京都はどこに行こうかな。
紅葉はまだあるかな。アハハ・・・何しに行くのかと叱られるわ。
古代史倶楽部yokosukaですが、皆様には大変お世話になっています。このたび、管理人の名前をこれまでの俗名から“日下倭人”という戒名に切り替えたいと思います。wajinさんでよろしくお願い申し上げます。
このところ地理的関係から九州勢や畿内勢力になかなか伍してゆけないものですから、当国(相模)の延喜式内社などを訪ねています。13座のうち半分くらいということになりましょうか。ところが1座で式内論社(この言葉は玄松子さんに教わりました)が7社などいうのもあって、全部回るにはもう少し時間が欲しいところです。
これまで訪ねた中で、祭神を大山祇神あるいはコノハナサクヤ姫とする神社がいくつかあり、その所在地の字名も大住だったりして、隼人勢力の関東移住かと思ってみたりします。
むろん出雲勢力、例えば大己貴神・大物忌み・稲田姫などが祭神になっているもの、あるいは畿内派のイワレヒコ・誉田別・ヤマトタケルが祭神になっているものなど様々でいずれまとめてみたい思いに駆られます。
お時間おありの折、お立ち寄りください。
紋次郎様、おはようございます。
あれから、紋次郎さんのHPも読ませて頂きました。
例によって、完全に理解出来たわけでもありませんが、いくつか気がついたことを。
やはり、日本人、日本語というのは思いっきり雑種の文化なのだということです。音韻や語彙など、いろいろな文化が重層的に醸成されて出来たのだろうなということです。(その重層性の象徴が掛詞であるとものの本に書いてありました。)昔の日本史の漫画とかだと、縄文人は完全にギャートルズみたいな感じで、日本湖が日本海になった時に取り残された人々、的な描かれ方でした。でも、どうも色々みてみると日本の言語や文化はオーストラリアの有袋類みたいなのじゃあないだろうと思わざるをえないです。古来は陸上よりも海上の方が交通の便がよかったのでしょうから。
そういうわけで、比較的一方向的になまっていっただけの印欧の言葉のような方法論で、日本語の親戚探しをする、ルーツを探るのには無理があるのでしょう。紋次郎さんのような方法論というのは大変興味深いように思えます。
今の日本の言語学の主流というのは(などと何も分からないのに恐れ多い・・・)、西洋的な学術的方法論と戦前の万世一系史観の二重の呪縛に雁字搦めになっているのではないでしょうか。
などと、大風呂敷を広げてみたりするのですが、少なくとも地名、人名、神名など古来からの言葉に関しては、今の日本語で分かると思う方が問題が多いですよね。色々な言葉でアプローチする方が、かえって核心に近づける場合は多いのかもしれません。
kammerさん
>丹生川上神社の神主は代々古来から加藤家ですか?
下社の現在の宮司さんは前川氏ですが、以前にご本人のお名前も知らずに・・・・・
「ここの宮司さんは昔から丹生というお名前ですか?」とお聞きしことが有ります。その時のお答えは「社家が何軒もあって替わってます」「何というお名前ですか?」「加藤とかです」「丹生氏ではないのですか?」「ハハハ、皆、丹生氏ですよ」・・・・・というやりとりをしたことがあります。
よく分からないので一度調べてみます。
吉野の丹生神社は不思議なことに祭神を丹生都比売としている神社はありません。あきらかに昔は丹生都比売を祀っていたと考えられる神社でも、ミズハノメやクラオカミ等の龍神・水神にすげ替えられています。松田先生の「丹生の研究」で云われる丹生都比売の大和系変化というやつですね。そして神社名すら八幡神社などに代わっている社もあるのです。
>setoh様。所で、三重県の中央構造線について、以下の内容のメールを頂きました。
なんと、すごいですね!まさに古代のミステリー。そんな風にみるとさらに古代に興味が湧きますね。
>マルヤ様。
そんなに精錬のあとがあるのですか。ほんとに、和歌山でとれた鉱石は吉野にはこんだのかも。
お墓の件、ありがとうございました。あの回答でokで~す。
Kammerさん
>吉野では水銀の精錬した痕跡はありますか
答えとしては、あります。天川村の郷土史家、大山源吾氏が調査された資料によると、
「風炉」:大漢和辞典によれば辰砂から水銀を取るための蒸留装置・・ですがこの風炉跡を示すと思われるフロ、ふろ○○と付く地名が吉野郡13ケ町村で157ケ所、そしてその分布が応神天皇、誉田別を祀る八幡系神社の分布とぴったり重なる所が63ケ所あって、その内西吉野村に風炉跡が34ケ所あることが緻密な調査で地図上に示されています。
setohさんのメッセージで言われている水銀蒸留土器は、大山先生(元中学校長)によれば「はそう」という携行用の三日タタラの道具という見解を示しておられます。
>話は変わりますが、舟型の墓ですが、私の説明不足ですが、墓は一般の人の墓です。船をかたどった墓です。
一般の人の墓は船型ではなく普通の縦型の石碑です。(この答えでよろしいのでしょうか)
kammerさん>水銀の精錬の規模
松田壽男先生の「古代の朱」に三重県多気郡勢和村丹生の丹生大師(丹生山成就院神宮寺)に水銀蒸留用土釜が残存していると出ていました。300年前のものだそうです。直径231mmです。実用か祭祀用かは不明。それほどの規模のものではなそうですね。
所で、三重県の中央構造線について、以下の内容のメールを頂きました。
丹生都姫神社-吉野丹生川上社-三重県一志郡美杉村川上の若宮八幡神社神体山の一修験業山(高宮)通称若宮断層と交わる処-美杉村丹生俣-三重県多気郡勢和村の丹生神社丹生大師-二見浦方面を中央構造線が通っていて、これらの神社はその構造線のエネルギーを封じ込めるためお祭りしたものだそうです。
たしかに、紀ノ川筋は小さい地震がちょっちゅうあります。
kammerさん>大伴と隼人
とっくにご承知のことでが、古事記の復習です。
ニニギの命の降臨に天忍日命(大伴連の祖)と天つ久米命(久米直の祖)が武器を持って御前を行っています。降臨先は九州のイメージです。
記憶によれば、久米は大伴の子分筋に当たるそうで、その久米は目じりに入れ墨をしていたそうで、南方の風習を思わせますね。大伴も久米も隼人だったとは言えないでしょうか。
> 登美(とみ)のナガスネヒコ
と書いてある所を見ると、(てつ)のナガスネヒコという豪族もいたのかもしれませんね。また登美のタンソクヒメもいたのかも知れません。最近のここに書いたのですが、古事記では登美毘古を撃つと書かれており、ナガスネヒコとは特定していません。死んだはずのお富さん、どっこい安房か津軽か、これは面白いテーマですね。
あっしの古代語追求が拠って立つ姿ァおしらせしやしたハンで、あっし流の言語考古学が神社とか神名とかにかかわる姿をいま少しラクガキさせちいただきやす。
あっしゃ、超古代とか縄文などのマジメな著作がでるたびに、その著者や出版社にA-4 で一枚にまとめた“意味の記事”を送っちいやす。そこに出ている名詞をまず披露しやしょう。希望者はおエメ頂ければお送りしやす。
ムラゲ・ムラジ・諏訪・出羽・熊野・愛宕・神田・ハムキ(鞴)・鹿島・道祖土・サイの神・くなど・三笠・芳賀・馬場・敦賀・駿河・エビス・大黒・ダンジリ・金毘羅・秩父・ウブスナ・イナリ・ナリタ・シンラ・新羅・アマ・佐賀・相模・マタギ・シカリ(マタギの頭領)・有馬・有明・カツマ・マガツ・イクマ・イクメ・イザナギ・イザナミ・アジスキタカヒコネ・イカガシコオ・ククリヒメ・スサノオ・オキクルミ・アイヌ・和気・タケル・高市・イラツコ・イラツメ・ヤマト・ヤマタイ・エカシ・エウカシ・安曇・安藤(安東)・エゾ・エミシ・八幡・ウネメ・ハツセ(長谷)・麿・タカ・花郎・ヘグリ・カツラギ・カスガ・ササキ・ササナミ・藤原・脱解・ヒョッコセ・伊達・草加・オサカベ・タタラ(以上はA-4 いちまいに纏めているもの)。
以上とその他の意味が判りはじめたとき、古代での神概念の発達が解り、童神が出て、ヒミコ・イヨに見られるクマリ信仰……続いてきのふ、インドのカースト制度がほとんどそのままの形でこの日本列島に上陸していた……を発見。
皆の衆がご執心の……タケミナカタトミ・阿波・安房・千葉・船橋・オオイ・ナガスネ・インベ・伊奈・ヒオキ・天の橋立・コノ・などなどの意味も大略のところでわかりやす。皆の衆、神様の名前の意味がワカランで、ようそんなに楽しいもんだと感心しやっせ。
ただ、あっしゃ幼稚園も出ていねぇ。漢字にゃメチャ弱いはで、神様の名前にゃフリガナを打ってくだせぇ。
> 古代の氏族の本貫、その氏族の名を名乗った時にどこにいたのか
そうですね。どこまでも遡ったらアフリカに行ってしまったりして…。
先代旧事本紀にも忌部氏のことが記載されてると聞きました。(安房神社のことも)ニギハヤヒと共に降臨した神の一人だったのでしょうか。天太玉命は。それにしても先代旧事本紀って売ってるのを見かけたことがありません…(泣)
> 課題 丹波に多沼神社[タヒチ]、河内石川郡に佐備神社(丹比郡に近い)
ちなみに私は3歳から20年ほど南河内にすんでおりました。まさに丹比郡と石川郡の境あたりです。佐備神社は富田林のかなり辺ぴなところにあったかと記憶しております。帰郷した際に行ってみようとしたのですが、どれだけ地図を見ても名が見つからないので、まだ行ったことがありません。今度は是非チャレンジしてみます。
> ついでに 常陸国に天速玉姫命神社が鎮座しています。
こちらは茨城は日立市ですね。こっちも行ってみたいと思います。(つくば市在住なのでちょっと遠いですが。)
> 忌部氏の本貫っていったいどこ?
古代の氏族の本貫、その氏族の名を名乗った時にどこにいたのか、というレベルに落としても、簡単じゃないですね。神社、その分布、名前からは漠然と大宣都比売の阿波の国が浮かびます。
理由その一 延喜式神名帳の宮中神の中に大膳職坐神の筆頭に御食津神社があり、祭神を天太玉命としています。腹がへっては戦になりません。
理由その二 四国は大和王権に反旗を翻したり、将軍が派遣されて服属を要求されている記事が記紀には見えません。忠実というか、王権の田舎的な所だったのではないでしょうか。忌部氏をそこの豪族と考えれば、王権としては、玄松子さん曰わく「裏方全般を束ね」させるには打ってつけだったのでしょう。
理由その三 阿波と讃岐に共通に大麻(比古)神社、讃岐と安房共通に粟井、安房の名を持つ神社が天太玉命を祭神としています。
課題 丹波に多沼神社[タヒチ]、河内石川郡に佐備神社(丹比郡に近い)また尾張と越中に日置神社[ヒヲキ]が鎮座、日置は丹後にもいたようで、伊弉諾、伊弉冉が天に通ったとされる天橋立の神話を持って歩いたのか、渡来系が丹後から阿波にやってきたのがルーツなのか、案外、籠神社がこの謎のキイかも知れませんね。
ついでに 常陸国に天速玉姫命神社が鎮座しています。祭神は「天速玉姫命」で天棚機姫命の女で、天太玉命の后神だそうです。七夕が絡んできました。
『安房の忌部氏の祖は天富命(タケミナカタトミの命のトミと関係あるのだろうか。)とされていますが、阿波からの分家ですか?(安房から安房へ?)』
結論:分家です安房一の宮(=安房神社)の由来にはっきり書いてあります。
『だとすれば、阿波→淡路→安房というのもそれほど荒唐無稽じゃないですね』
ありえると思います。ただ私的には、黒潮に乗って紀伊半島潮岬経由で、熊野灘にもめげず行ったと思いたいです。 ところで、千葉県船橋市に船橋大神宮(意富比オオイ神社)があります。いまの宮司さんは千葉さんですが、400年近く昔は 富(とみ)氏でした。
また、あの神武天皇さんの大阪入りをはばんだ長スネ彦さんのフルネームは登美(とみ)のナガスネヒコです。来年のテーマにしようかなと思ってます。どなたか詳しい方教えて下さい。
千葉在ー死んだはずのお富さんの子孫ではないーてつ
PS.余談ですが、お富さんは実在の人で、子孫が昭和30年代は日本橋人形町に住んでたそうです。
よその言語を次から次に辞書読みをしてゆけば、「日本語・アイヌ語」との類似語を普通に吐き出す言語と、僅かしか吐き出さない言語があることが判ります。
日ユ(ユダヤ)同祖論は、かなり根づよい信仰をはびこらせましたが、そのユダヤ語(ヘブライ語)の辞書をヂカに読めば、それがどんなにウソっぱちであるかが理解できます。
安本美典著『日本語の誕生』などで紹介されている“ビルマ・ボド語群・ラールング語”での人体語の近似は、まさに人体語だけで、そのほかの潜在(あったかもしれない)類似語彙のほとんどはアンコール・ワット文明の出現によってかき消された事実を知ることができます。
そして多くのマタヤスさんたちが報告したとおり、よその言語には日本語・アイヌ語に似た語彙は普通60~80を含んでいることが推測されます。また、実際に辞書を読んでみると大略その通りです。
マタヤスさんたちが活躍した昭和30年ごろ、もし2000の類似語を含む第三言語がみつかったとしたら、それはもう、大昔の日本との近似を示す絶対不動の証拠となっていたにちがいないのです。
ところでどうでしょう。ここに1000以上の類似語彙を吐き出す第三言語があって、その言語が日本の古代の制度、天皇名、神名、地名人名に就いて適宜な意味を吐き出すとなったら……? それがネパール語だったのです。
ネパール語はさきに言ったとおりヒンディー語とは兄妹語で、その近さは「日本語 / 沖縄語」の関係以上です。根本的にちがうところは「○○する」をヒンディー語は -na を用いるに対して、ネパール語は -nu を用いる……それくらいです。縄をなう、担う、賄う、あがなう、そこなう……これらはヒンディー語系です。この言葉グセを持った集団も日本列島に上陸したこともあったかもしれません。
しかし、ここにきて香具さんの協力で、傍系ともいうべきパーリ語(サンスクリット語)系の日本列島上陸の事実が浮上したのでした。“旗”はパーリ語系です。八幡・秦氏の素性もそろそろ割れてくる文化段階を迎えています。
金属製錬の風が吹く前では、どこの氏族語でも暮らしに必要な語彙は、“同義語をひとつと看做し”、“精細に区分化された狩猟・解剖の見地でできた語彙”を除外すれば、およそ2600語彙があれば十分でした。(ニンゲン、バカね)。あっしが言うエデン語は、この“絶対数2600”の中で醸し出されているのです。
そのような古代語絶対数・絡みのなかで……「安田徳太郎200・大野晋350の持っている意味と評価」は決定されることとなりましょう。
いろいろと、あちこちハナシを飛ばしてしました。←←← もどる。
安田徳太郎のベスト・セラーぶりは、なにしろキチガイじみた爆発でした。とにかく異状でした。
しかし、それは陰謀によるヤラセではなかったか……。ここに焦点を置いて考えてみると、その2年前の山中襄太先生の偉業が光彩を放つところとなります。山中襄太先生は信州松本での民俗学会で、800もの西洋語との類似語彙(日本語との)を発表しておられたのでした。しかし、この事実はなぜか一般解説書には登場しません。小生は6年前、アイヌ語研究者からの通報で知り、びっくりしたような次第だったのです。
そのとき小生はすでにネパール語をはじめ、15ヶ国語ばかりの言語辞書を読んでいたのでしたが、とにかく山中襄太先生の 『国語辞典』(校倉書房刊 ・\10,000.-)を読んでみました。
山中襄太先生はマタヤスを軽蔑することなく、日本語と関連のありそうな語彙についての、ほかの研究者の記事を刻明にメモし、整理しておられました。この辞典には約1600の語彙項目が掲げられ“読む辞典”としての解説が施されています。
ところが、不思議とヒンディー語、ネパール語が抜けているのです。ギリヤ-ク語、ウイルタ語も辞書がなかったからでしょうか、研究者の足跡がありません。
小生の“辞書読み”は、計らずも先哲の穴埋め作業をやっていたのでした。
かむなび ことばの宝庫 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi
手置帆負、彦狭知、櫛明玉、みんな祭祀用具を司りますね。
高天原をドラマにたとえると、オモイカネがシナリオライターで、コヤネがナレーター、ウズメやタジカラヲが役者で、フトダマは小道具。
裏方全般を束ねていた、そんな感じですかね。
> 「古語拾遺」によると、天太玉命を祖神とする忌部氏(斎部氏)は、各地に分派しており、それぞれに祖神が設定されています。
そうでした。天太玉命は忌部氏の祖神でしたね。
> 阿波は天日鷲、讃岐は手置帆負、紀伊は彦狭知、出雲は櫛明玉、筑紫・伊勢は天目一箇。
> 安房の忌部氏は阿波から分派されたものです。
安房の忌部氏の祖は天富命(タケミナカタトミの命のトミと関係あるのだろうか。)とされていますが、阿波からの分家ですか?
だとすれば、阿波→淡路→安房というのもそれほど荒唐無稽じゃないですね。
今度、古語拾遺をみて、天日鷲と天富命との続柄を見ておきます。
しかし、天目一箇といえば、典型的な冶金の神ですよね。
忌部氏の本貫っていったいどこ?
(忌部氏に限らず、古代氏族の本貫って以外に知られていないですよね。)
ことばこそ文化の中核です。ことばが同じであり続けるなら、同一言語が広がっているかぎりに於て、習慣・遺伝形質はしだいに均一化されてゆきます。
日本語(沖縄語)がどこの言語と親縁が深いのか……の親戚探しが最高に盛り上がったのは昭和30~32年の「マタヤス」と呼ばれた人々が活躍した頃です。
折しも朝鮮戦争が終わって、これからいよいよ日本というアイデンティティーに立ち帰る時期でした。
当時は海外各地に派遣されたあと、引き揚げてきた兵士も青壮年で、海外で経験した「日本語と似ている言語」のことをそれぞれ本にまとめて出版したのでした。
その著述のヤリクチは、類似している70前後の語彙を“散文調”で書いてガサを稼ぎ、習慣の類似を添えて「以て、○○語は日本語に近い」という論法ばかりでした。
しかも、このテアイが次から次に現れるという始末で、最初のうちは読者もジャーナリズムも興味を示していたのでしたが、ついに処理し切れなくなって、新しい原稿が持ち込まれるたびに「ああ、またまた件のヤスダのトクさんか……」という反応を示すようになったのです。
この「またまたヤスダのトクさんか」を縮めて「マタヤス」という用語が生まれたのでしたが、その元々の安田の徳さんこそ、この一連の社会現象の火付け役だったのです。
昭和30年を期に安田徳太郎が優秀な出版会社と組んで「レプチャ語起源説」を唱えて、一大ブームを巻き起こしたのでした。『万葉集の謎』、『人間の歴史』などは、今では考えられないほどのベスト・セラーとなりました。当時、これらの本を一冊も読まなかったひとは、ボケ老人か精神病患者ぐらいなものだったでしょう。
安田徳太郎がレプチャ語とのあいだに挙げた日本語との類似語は 200内外でした。
大野晋教授の提唱は、今から20年前ぐらいでしたが、ヤリクチが同じですので、発表の時期があと15 年早やかったら、完全に“マタヤス”として葬り去られていたところでした。
かむなび ことばの番屋 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi
> 安房神社の御祭神、天太玉命はかの地にも祭られているのでしょうか?
「古語拾遺」によると、天太玉命を祖神とする忌部氏(斎部氏)は、各地に分派しており、それぞれに祖神が設定されています。
阿波は天日鷲、讃岐は手置帆負、紀伊は彦狭知、出雲は櫛明玉、筑紫・伊勢は天目一箇。
安房の忌部氏は阿波から分派されたものです。
> その人の説では、四国の阿波へ行くための道が淡路島で、その起点は天の橋立
私の聞いた話では、阿波の人が淡路をとおって安房にいったということです。
記憶がはなはだしくいい加減ですが。
そういえば、私、安房の国一ノ宮、安房神社にお参りしたことあったんだ。
安房神社の御祭神、天太玉命はかの地にも祭られているのでしょうか?
突然ですいません。No283について一言
『丹後一宮にその系図』=籠(コノ)神社の海部家系図は、国宝に指定された日本最古の家系図です。 私は今年初めてそのことを先達から伺いました。
その人の説では、四国の阿波へ行くための道が淡路島で、その起点は天の橋立つまり、この神社(シャレのつもり)だそうです。
古代日本語の秘密を解いてくれるネパール語とは次のようなものです。小生はこれに拠って楽しんでいます。
大野晋教授が日本語の起源地はタミル語だという新説を発表されたとき、日本の言語学者たちは、寄ってたかって,ヤッカミ200%のどぎたねぇ言葉を使って同教授をふくろ叩きにしました。
このため、人間どうしとしての話し合いの場が失われ、学会としてのタミル語の位置も据えられないばかりか、日本語の源流さがしも火が消えたままで放置されるという、野蛮国家ぶりを露呈して現在に至っています。
大野晋教授が日本語とタミル語の間に挙げられた類似語彙は 350 でした。それも日本・タミル両言語に精通した二人のスタッフを雇い入れ、10万余語が載っている辞典を精査してのことでした。ところが小生は5800語彙が載っている『基礎ネパール語事典』から1080 の類似語を得、アイヌ語とのあいだにも 440 の語彙を拾えたのでした。関連語彙がありますので「ネパール語(カトマンズ・公用語)の約半分近くが極東に類似語がある」……ということになります。
なぜこれまで、そんな“大それた”言語がみつからなかったのかといえば、答えはカンタンです。ネパール語やその兄妹語のヒンディー語は西洋言語学者の権威で“西洋語”の系統樹に収められ、そのうえ、日本の言語学者が「音韻対応」という足枷を設定して自縄自縛の愚をやらかしたからでした。
音韻とはその氏族特有の発音グセです。ですから、この現象は高地にいた農業主体のドイツ人が北へ、或いは西北(英国)へ次第々々に移動したあとでは、よその民族との混血もなければ、きれいにその発音グセの推移のあとをたどれましょう。これ理のとうぜんです。
バカといわんかアホウと謂わんか、日本の言語学者はここに見られる言語現象の法則(らしきもの)を、金科玉条として、この極東・日本に適用させてきたのでした。
かむなび 言語の殿堂 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi
>setoh様、マルヤ様
和歌山丹生氏は惣神主代替わりや天野社家中代替わりに、竃門神社(竃殿社)にて「宮入式法相済候」(昇進式典みたいなものでしょうか?)との事。しかし、この周辺には竃門神社は聞いた事がありません。ちなみに、奥津彦奥津姫を祭っています。九州には多いようで、setoh様の頂いたデータでは、奥津彦奥津姫を祭っている竃門神社と、応神天皇・玉依姫を祭っている竃門神社との2つの流れがあるようです。丹生祝氏は1200年ごろこの竃門神社(和歌山)の神主であった大伴常家を嫡男としています。これには少し疑問が。それは竃門神社は丹生氏の屋敷の敷地内にあったと思われるところです。大伴氏と丹生氏の関係はわかりません。
setoh様、マルヤ様。素人のたわごととお聞き頂ければと思うのですが、大伴氏と竃門神社と九州竃門神社から、何か隼人と関係がうかがわれないでしょうか?あるいは丹治氏と隼人は何かつながりはないでしょうか?
>setoh様。製錬技術は丹生氏にはなく秦氏が持っていた。
丹生氏には精錬技術があった痕跡は現在みつかっておりませんのでその可能性は高いと思います。ただ、地元では銅あるいは水銀の採掘をしていたとの話が残っておりこれらがどこに運ばれたかです。それらを精錬できるところまで持って行っていったとすれば、それはどこなのかですね。そうなると技術の持っていたところですから、秦氏になるのでしょうか?水銀の精錬はどれくらいの規模が必要なのでしょうか?
>マルヤ様
吉野では水銀の精錬した痕跡はありますか?あれば、もしかしたら、和歌山で採掘された水銀鉱石は吉野まで持っていったのかも知れませんね。丹生族で分担があったのかも。
話は変わりますが、舟型の墓ですが、私の説明不足ですが、墓は一般の人の墓です。船をかたどった墓です。
>マルヤ様。この吉野首・井氏から丹生氏なる者が出たのでしょうか。
その可能性もあるのですが、丹生氏は紀氏とのつながりが強く、鎌倉時代まで丹生都姫神社から和歌山市の塩竃神社(となりに玉津島神社)まで浜降りという神事を行っていました。丹生都姫が神輿に乗って塩竃神社まで行くわけです。また、紀氏は国造代替わりには新任の任命のため都に上り、その帰りに丹生酒殿神社(丹生都姫神社の遥拝所?)に新任の報告によったそうです。それらは何を意味するのかは分かっていません。ただ、紀氏とのつながりが強かったことは物語っています。
>その関わりで隼人の住むこの地へ立ち寄り、黒白二匹の犬を連れた犬飼に会ったのでょうか。
空海については、行人達がつくった超人空海伝説が多く、実際黒白の犬をつれていたかは分かりませんが、このあたりで猟師にあったとされています。それが丹生家信です。これは丹治氏(武蔵武士丹党)の系図と丹生氏の系図およびそれに関する話が一致している部分が有ることから、ほぼそうだと私は思っています。一点だけ確認したい部分は残っているのですが。昔人から聞いた話によると(ですから裏付けがあるわけではありません)、空海は初め丹生川上神社に行き、和歌山が本家なのでそちらに行くよう言われ、伊都郡かつらぎ町三谷(紀ノ川沿いにあり)を通って、天野に上り、高野山に上ったそうです。ですから、空海は吉野川沿いに歩いてきたと思われますので五条犬飼の土地を通ったと考えられます。
>丹生川上神社の神主、加藤家
丹生川上神社の神主は代々古来から加藤家ですか?つまり吉野首(角氏)と言うことですよね。もしかしたら、私の間違っている部分が修正していけそうな気がしてきました。
> 佐伯氏の出自が「さえぎ」つまり隼人か蝦夷
そうですね。讃岐に蝦夷を移住させていたと思います。
目に隈をする風習は南の方ですね。五条に隼人、隼人は犬の鳴き声、犬飼、単純な思いつきでした。
> 丹生族については、丹生地名の分布からして水銀採掘に特定
水銀と丹砂は技術的に相当の差があります。水銀の採掘は偶然の産物です。したたり落ちることがあるそうですね。通常採掘するのは丹砂です。
> 水銀採掘精練技術も渡来民技術でしょう。
製錬技術は丹生氏にはなく秦氏が持っていた。従って時代が経つとこの件の主導は秦氏に持って行かれ、丹生氏は丹生都姫の祭祀者になっていったとのことです。
マルヤさん、秦氏の件は小学館の日本民俗文化体系3 稲と鉄 に 市毛勲先生が書かれていました
おっしゃる通り、物部朝臣麻呂と物部連麻呂を同一人と見ても何も問題はないようですね。
> 記紀の述べるように、宇麻志麻遅を物部氏の遠祖とする
とは書かれていません。厳密には
古事記では物部の連の祖
日本書紀では饒速日命を物部氏の遠祖としています。
物部は祭祀の「モノ」、武具、武士モノノフで、八十氏だったのでしょうね。
Kammerさん
>丹生族について私見を言いますと、丹生族はもともと同じ一族ではないんじゃないかなと思うのです。
私もそう思います。主に水銀・朱(丹)採取する、採鉱・精錬の部族を、私は「丹生族」と表現したいと思います。古代吉野族(井光、国栖、隼人?)の内、井光の後裔が吉野首になりました。この井氏は後に井氏と角氏に分家し、この井氏から井頭(井藤、伊藤)が出て、角氏は後代に加藤と改めたと云われます。この吉野首・井氏から丹生氏なる者が出たのでしょうか。もちろん井氏の元の生業は真朱(まそお)と云われる「丹」の採取です。いずれにしても吉野丹生族の中心は井光です。
丹生の研究で有名な松田先生も注目された丹生大明神告門ですが、・・・・・丹生津比売の大御神と大御名を顕わし給いて、川上の水方の峰に上がりまして、国かかし給い、・・・・・とあるこの「水方峰」の比定地が丹生都比売研究の課題になると私は考えています。
>吉野付近のお墓は舟型ですか?
これは全く知りません(考古学的アプローチはまだしていませんでした)
Setohさん
私も犬飼寺へ行きました。大和五條の近くですね。ここは吉野川に丹生川が流れ込む、丹生川の川尻となります。それでニエモツの子、阿陀鵜飼等が住んでいたはずで、つまり隼人はこの辺りにもいたと私も思います。ところで話は少しそれますが、空海は佐伯氏ですがこの佐伯氏の出自が「さえぎ」つまり隼人か蝦夷と思われます。ハヤト、エミシ、クマソの区別はよく分かりませんが、その関わりで隼人の住むこの地へ立ち寄り、黒白二匹の犬を連れた犬飼に会ったのでしょうか?
さて、この五條市に桜井寺という寺があり、幕末に活躍した「天誅組」の本陣がありました。この天誅組に参加して大活躍した橋本若狭という人物がこの五條の出身です。彼は丹生川上神社の神主、加藤家へ婿養子に行ったのち、天誅組に参陣したのです。彼が活躍した舞台は銀峯山(白銀岳)の陣でした。吉野郡下市の大火は彼の手によるものと言われています。
kammerさん、こんにちは。
>尾張氏っていうのは、字の如く愛知県あたりの氏族ですか?
定住地は愛知県ですが、宗像族、安曇族等の海人族の一派です。丹後一宮にその系図が残されているところから、丹後海部族から別れてさらに東選したと思われます。一族出身者では、
目子媛(継体天皇第1夫人)が有名です。熱田神宮の神官家もおそらく尾張氏でしょう。
ただ葛城高千那比売が尾張連氏出身、葛城玉田宿禰の誅殺事件に尾張連吾襲が参加の所伝があるところから、定住地は葛城近辺の異説もあります。
葛城氏の本貫地の葛城に高尾張、飛鳥に小墾田の地名があるのです。
kammerさん、こんにちは。
>いろいろな鉱石採掘の一族が各地にいてこれらの一部が丹生都姫を祭り...
丹生族については、丹生地名の分布からして水銀採掘に特定してよいのではないでしょうか。
>純然たる日本独自の文化なのか...
水銀の用途は黄金精練と化粧粉のはずで、黄金装飾品が縄文期発掘品にみられず、黄金愛好は渡来文化、したがって水銀採掘精練技術も渡来民技術でしょう。産鉄技術と同様に。
> 物部朝臣麻呂・・よく似た名の物部連麻呂・・が同一人とお考えの理由はどのようなもの?
同時代の同族で同名は、考え難いのと、天武朝の八色の姓制度発布において、物部氏は、大伴氏と異なり、連姓から朝臣姓に変わった点に拠ります。ただ敵方の弘文朝臣の連麻呂が、天武朝で重用されたのかが、解せない点です。
物部氏については、記紀の述べるように、宇麻志麻遅を物部氏の遠祖とすると、神武東遷時の対峙関係からいって、
臣姓が然るべきなのに、記紀で後出するアラカヒ、オコシが連姓なのも私の疑問点のひとつです。
もっとも物部氏は大族ゆえに、臣姓物部氏と連姓物部氏が並存していたのかもと察します。
連姓氏族ではありえない外戚記事(孝元、開化天皇の后が物部氏系出の記事)がある点からも。
>マルヤ様
丹生族について私見を言いますと、丹生族はもともと同じ一族ではないんじゃないかなと思うのです。いろいろな鉱石採掘の一族が各地にいて、これらの一部が丹生都姫を祭り、一部が他の金属にまつわる神を祭った。ただ、丹生都姫をまつると言うことはもとは同じ文化を持っていたのだと思うのです。ですから、その文化が国単位なのか、それとも中国と朝鮮半島にまたがっていたのか、純然たる日本独自の文化なのかは分からないのですが。ただ、同じ文化を持っていた(丹生都姫を祭っていた)部民を丹生族と私は考えています。
和歌山の丹生氏については実際どこから来たのか、渡来人なのかどうかも分かりません。分かっているのは丹生祝氏家系図から700年代には和歌山県にいた事です。古文書の丹生大明神告門には神功皇后朝の功績で応神天皇より領地を頂いたとあります。しかし、これの信憑性を確認が難しくて事実がわからないのですが。ちなみにこの告門(のりと)には丹生都姫?の移動が書かれています。それによると、伊都郡に天降ったあと、丹生川上水分、十市の郡の丹生、巨勢の丹生、宇知郡布々木の丹生、伊都郡の町梨、忌垣豆、伊勢津美、巨佐布、小都知の峯、天野原、長谷原、神野麻国、那賀郡松門、、安諦の夏瀬の丹生、、日高郡江川の丹生、那賀郡赤穂山の布気、名手村丹生の屋、伊都郡佐夜久の宮、渋田邨、神賀奈渕、と回って今の伊都郡の天野の地に鎮座したとなっています。丹生都姫の移動というよりは丹生氏の移動だと思います。上記の地名のほかに応神天皇から美野国の美津の柏、浜木綿を頂いたようになっています。少しこれらについては疑問があるのですが・・・。
丹生氏には疑問がたくさんあります。いつから丹生氏を名乗ったのか?なぜ天野に丹生都姫を祭ったのか?なぜ丹生祝氏は川沿いに住まいしながら丹生都姫を公には一山越えた天野(現丹生都姫神社)に祭ったのか?紀氏とは古来深いつながりがあり公然と紀氏との行事を行っておきながら、丹治氏とのつながりがあるにも関わらずなぜ丹治氏との関わりが残っていないのか(狩場明神や犬飼の神、犬黒比との表現はあるが)?
多分これらの疑問が解けてくると、マルヤ様が調べられている吉野あたりに行きつくのかな、とも思っています。
なにせ文献が残っていませんから、最後は文化(民俗学)をたぐっていかないといけなくなるのでしょうね。私は民俗学はとんと無知でして。神社も文化の一つですので、非常に重要な手がかりとなりますし、証拠となります。ですから瀬藤様のHPは非常に勉強になります。民俗学的になるとかなりフィールドワークが必要なんでしょうね。とてもじゃないけど、できそうにありません。やっぱり近畿まで遠いですね。でもいつかは・・・。
マルヤ様、吉野付近のお墓は舟型ですか?
KAMMERさん
>吉野首・・・・・
吉野族(丹生)の主族は井光ですが、天武朝の時代の吉野首は井光の後裔、井角乗でした。吉野郡天川村の郷土史家・大山源吾氏によりますと、
・・・・・「吉野本族起立系譜」に敏達朝の頃、百済王が亡命してきて部民これを首にいただくとあり、「新選姓氏録」井氏系譜にも敏達天皇の朝、百済王の裔、某が落ちてきて部民が首部(オビト、ウジノカミ)にいただいたとある・・・・大和朝廷にとって吉野は禊ぎの聖地であるとする感覚を生み、これが特別行政区「吉野監」を生み出した所以でもある。このように大和朝廷が特別に重視した吉野の主は吉野丹生族につながる井氏であった。・・・とあります。
なぜか、信州が暑い。スキー場はいまだハラッパです。
> とうぜんにも道ばたの道祖神が目につくでしょうが、その道祖神のなかにリンガの形を残したものはないでしょうか? 裏にまわりこんでみると俄然出てきたりします。
この「リンガ」って、シヴァ・リンガ(男根)ですよね。
今日、戸隠に行って周辺を回りました。道祖神はかなりみましたが、露骨なのは見てませんねぇ。探せばあるかもしれません。
案内に、信州の道祖神は「男女」が特徴とありましたが。
明日は上田辺りへ行こうと思います。
> 鬼無……ひょっとしたら、ここの里には鉱物資源が皆無で、o-ni(ツノ人……金属製錬士)が寄り付かなかったのかもしれません。
戸隠に行こうと思ったのは、鬼女紅葉狩の話を読んだからなんですが、鬼無里は近いですね。鬼はいたのかもしれませんよ。ただし、紅葉の話は創作らしいですが。
戸隠神社は、大変気持ちの良い神社でした。お勧めです。
『ズボラ言語学者とネパール語』ほっつき歩くかね。
『はやと』と題するHPを発信されている nick さん、投稿ありがとうございます。
kammerさん、マルヤさん 丹生都比売 興味津々です。
思いつきですが、吉野川沿いの五条市の辺り、隼人がにおいますね。神武天皇東征の記事に阿太のウカイ部の祖の話があり、阿多隼人の祖神を祀ったと伝わる阿陀比売神社「神阿陀津比売 or 木花咲夜比売命」が鎮座しています。
また五條市犬飼町には高野山真言宗の転法輪寺別名犬飼寺があり、伝空海の墓、空海が狩場明神に御立会の霊域也とあり、隣接して狩場明神社、丹生明神社があるそうです。
南九州の空海伝承、何かあるんでしょうか。
瀬戸内さんの落書き寸前の書き込みフォローしておきます。福岡県粕屋郡久山町に天照皇太神宮(旧県社)があります。天照大神、天手力雄名、萬幡千々姫神がまつられています。古来より、建物、調度など伊勢神宮に模して作られているそうです。
巨勢氏の本貫地は現在の御所市朝町あたりにあったと思われます。巨勢の丹生谷の近くですが、そこに神名備として唐笠山(宮山)が有り、その山頂に大穴持神社があります。
この神社は神殿が無くその拝殿から遙拝するのは南方の金・銀・銅の吉野三山である(御所市史)そして、式内社で元三輪と称す(大和名所図会)とあり、祭神は、八重事代主、高照姫、美須伎速男命、美須伎建男命他です。また巨勢氏の生業は銅の精錬だったそうです。
この高照姫は別名天照姫であったと思われ、私はこのアマテルヒメに目を付けています。いずれも葛木鴨族の娘達です。古代の歴代天皇は葛木氏の女を后にしているのが殆どだからです。同神の神社として吉野郡下市町六田に大名持神社が有ります。こちらの方は妹背の妹山の方にあり、正一位の名神大社でこの地方の「一の宮」です。ちなみに祭神は大名持、須勢理比売、小彦名となっています。
古い文化は山間僻地に温存される……これ大原則です。
玄さん、いま信州でしょうか? 木々も冬支度を終えたころでしょうか。
また、おせっかい。√イザリのお願い聞いてよね。
とうぜんにも道ばたの道祖神が目につくでしょうが、その道祖神のなかにリンガの形を残したものはないでしょうか? 裏にまわりこんでみると俄然出てきたりします。
大きな幹道ぞいで見当たらなかったら、鬼無里か高遠……それでも見当たらなかったら秋山郷・切明が切り札ですね。
鬼無里(キナサ)……。キナ(世界語 ; 鬼葦)で家を葺いたサ(里)だと睨みつけました。カベまでキナの束で固めます。これ、アイヌのチセ(家……朝鮮語チセは瓦)でもこのとおりです。
鬼無……ひょっとしたら、ここの里には鉱物資源が皆無で、o-ni(ツノ人……金属製錬士)が寄り付かなかったのかもしれません。峠のむこうの塩の道、ここにはオダリ(村の名 ; 小谷……つの・男)のくびれに吹き付けるウシ(大風)を利用したオニがいたことはタシカでしょう。
塩運び人・ボッカ……ネパール語 ; bokwa(運ぶ・ひと)。
運び人をシェルパと呼んじゃぁいけねぇ~~イヨッ・ シェルパたぁ民族名にござんす。 / トルコ風呂カネ。
かむなび 言語ボロ小屋 http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi
紋次郎タンカ!
√ いつまでも ただ立ちつくす 岐かれ道 …… ナァ~ンちゃって。
岐路の岐が「クナド」などと発音されていたたぁシランかっとってん。サラセッセあがあが。だがクナドたぁ「道案内」が原意じゃぁねぇど。英語のcorner(かど・隅)のこと。ネパール語で kuna 。北海道クナシリの kuna がそれ。屋敷や四ツ辻の隅っこにも立てたので、後世の仏教童神……地蔵とこんぐらがっちゃった。
屋敷のうちにもあった……ということは大昔では水子や墓場にも関係あると思う。
吉兆を意味するサイが「サエ」とまぎらわしいにもワケがある。
これは貨幣のかぞえ方で、50 paysha が1 mohar 。2mohar で 1ルピア なんだが、mohar の har とは複数を表わすので mo・mo(日本語 ; 百……モモ)とはネパール語で sae(100)となる。sae とは一方で「幸せ」のことです。sait(吉兆)と sae は音が似ているので 100 とか 50 + 50 ということが混用・多用されました。ササ、ここはなんべんも読んでみてください。わかるから。
※ このあと『ズボラ言語学者とネパール語』と題して3回ぐらいで尻ヅしたいけど、サラセッセいいカネ。
※ 玄さん、漢字に dosadh というフリガナふったのではなく、ドサードというネパール語音に漢字を当て嵌めたと思う。√道ばたいけろ(葬れ?祭れ?) は童神であって“祖”じゃないもんな。どっちみちシナと日本は土俗宗教では“国境”はなかったもんな。ブッダを「ホトケ」にしてみたり……。
※ 朝鮮、ベトナム方面にドサードとかサイの神意識があるかどうかはオラシラン。
かむなび ことばの巣窟 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi
>マルヤ様
空海を高野山へ案内したのも犬飼明神(高野御子)でしたですね。
丹生祝氏系図より、空海上人を高野山に導き密教を守護する約束をしたのは丹生家信で
、家信死後空海上人が狩場明神として祭ったようです。その祭った場所が、家信が亡
くなった伊都郡かつらぎ町宮本か平沼田の丹生狩場神社(瀬藤様のHPにもあります)
。そして空海は土地の神として高野山に狩場明神を祭祀します。丹生氏の祭祀する丹生
都姫神社では高野明神(高野御子)として祭られています。丹生氏家系図ではこの家信
は「号宮内太郎犬山師本姓者宣化天皇後裔三位宮内丹治家義之男也丹治之系別有之也
延暦十二年丹生氏之養子成」とあり、また犬飼の神、犬黒比とも呼ばれております。
犬だらけですね。ある本では銅山を狩場と昔は言ったと言う事も書いておりました。マ ルヤ様が言うように「犬飼」が鉱山部民の頭領であれば、もしかしたら丹生氏はその当 時まで鉱物を採掘していたのかも知れません。また、丹生祝本系帳には家信の事と思わ れる記述があります。ここに牟毛津(身毛)の名が出てきます。
ちなみに、丹生家信の自宅はかつらぎ町三谷、狩猟の拠点・亡くなった所と思われるの がかつらぎ町宮本?平沼田?、丹生都姫祭祀のため時折上ったのが天野。宮本は三谷と 天野の中間ぐらいで、三谷と宮本については丹生家信の主な拠点であったと思われます。 ここに鎌八幡さんがあるのは、何か丹治氏と鎌八幡さんとの関わりがあるのではと睨ん でいます(気のせいかもわかりません)。
>丹生氏の菩提寺・丹生寺(たんじょうじ)
マルヤ様が言われているのはおそらく宝善院(元は丹生院)の事だと思います。私はこ
こに行きたいと思っているのですが、なかなか行く機会がなく行けてません。精進料理
もあって食べてみたいのですが。丹生祝氏についての文献が何か残っているとしたら
ここだけだと思いますので。(丹生祝家にはかつらぎ町三谷竃門家と天野丹生一麿家が
ありますが、丹生都姫神社が焼失した折、竃門家の文書はほとんど天野に運んでおり、
竃門家には残ってない様で、また丹生一麿家も自宅が火事で書物は残っていない様
です)。
鹿児島串木野市の冠岳徐福公園に建立され、中国からも使節を迎え盛大に開催されたようです。
http://www.minc.ne.jp/kushikino/
SETOHさん。いつも示唆に富んだ記事で嬉しくなります。
タジカラオについて私見・・・・・・・
伊勢神宮・内宮にはご存知の天照皇大神と、相殿で天手力男が祀られているといいます。
この両神はヤマトの国造りをした夫婦のタタラ神で、日本書紀では次のように投影されていると思うのです。
アマテラス---ヒメタタライスズヒメ--- 神功皇后---持統天皇 ●三角関係
タジカラオ---カムヤマトイワレヒコ---(仲哀天皇---天智天皇)
武内宿禰---天武天皇
律令体制の基礎を固め、国史の編纂を意図した、あの天武と持統が自分たちを神格化し、崇めさせない訳はないと思います。
アマテラスは持統天皇そのもの。それに「応神天皇の母は香椎宮、父は住吉大神」とも云われますので住吉大神は武内宿禰かあるいは天武天皇かも知れません。
ところで住吉大社の祝は歴代、尾張族の津守氏だったと思うので船木氏もその一族と思います。
kammerさん。
尾張氏が出てきましたので丹生族との関わりを、一部は私見ですが述べてみます。
高尾張邑の部族は、天孫族に土蜘蛛といわれ葛で絡め取られて誅されました。それでこの地方を葛城と云われるようになったそうです。この部族は採鉱の民で井光や国栖の係累と思われます。又、尾張は「尾があり」という意味があり、日本書紀の記事と符合します。私はまさか本当に尾を生やしていたわけではないと思うので、中国の「犬祖伝説」の事を言っているのだと思います。つまり井光は中国北西部の遊牧民「犬戒」の子孫だと書記の編者は言いたいのでしょう。日本列島に先住した産鉄族系渡来人が井光の先祖といえます。そして採鉱部民を「犬」といい、その頭領を「犬飼(犬養)」と呼んだと云われています。
そういえば、空海を高野山へ案内したのも犬飼明神(高野御子)でしたですね。
ちなみに高野山奥の院霊廟域と京都・東寺には高野山真言宗の守護神として丹生都比売と高野御子が奉斎されているし、又、丹生氏の菩提寺・丹生寺(たんじょうじ)が高野山にあると聞いています
(私はスクナヒコナと産鉄族の関連を調べてみたいと考えています)
石川県球洲市若山町の道祖神社は「ふなとじんじゃ」と読みますが、これは「岐:くなど」からきているのでしょうね。
最近投稿していただいた事様仮面さんの出雲の先住王朝を率いてきた頭の名がたしか久那戸の神だったと思います。道案内の神ですね。「Please どうぞ」から道祖なんちゃって。m(_ _)m。
> 玄松子さん 旅先なので
信州でしょうか。安曇野 穂高町は道祖神の宝庫だそうですね。以下に地図もあります。
http://www.icon.pref.nagano.jp/usr/azumino/azumino.html
また、豊科町には 神代文字碑 阿比留文字の碑文 巨大道祖神 高さ2m(日本一!!と思われる)があるそうです。
道祖神の話題に入りたい。でも、旅先なので、手元に資料がないので適当に書きます。
道端に祭られる神として、以下のものを見たことがあります。
・塞の神(サイ・サエ)、これは村の境界を守るものだと思います。要塞の塞。遮るかな。
・猿田彦、天孫降臨の際、道案内したことにより、旅の無事を保証する。
・道祖神、男神や男女神が彫刻されたものがあります。男根、女陰の場合もあります。元は中国道教だと思うんですが、猿田彦(+ウズメ)と混同されている場合が多いいようです。
これらのものが信仰の過程で混同され交じり合ったのではないかと思います。
他には、石敢当や庚申塚なども有名ですね。
ここで、質問。
・道祖という「漢字」に、ネパール語源の「ドウソ」という音をつけたのでしょうか。
・サイはどこからきたのでしょう。
・中国・朝鮮半島・ベトナムなど何処かに、「ドウソ」と似た音や意味の言葉はあるんでしょうか。
このあたり、かなり奥は深いと思います。論文書けますよ。
どうも。わざわざありがとうございます。
わたくし、歴史、民俗に対する知識のなさもさる事ながら、言語学に至ってはもうミジンコ並みの脳しか持ちあわせていません。なんだか、しったかぶって薮をつついて(失礼)とんでもない大蛇を呼んでしまったような感じです…。
紋次郎さんの説は「道祖(さい)」がネパール語に由来する境界を守る神である、という趣旨である…(私の理解です。)のに対し、茨城に「道祖(さい、或いはさや)」が男根というか陽物の呼び名となっているのが、矛盾しないのかな?と思ったのです。(しかし、高道祖神社にはまだ行ったこと無いんです…)昔は境界を守っていたのでしょうか。
それはそうと、日本語の語彙の中にアルタイ諸語や韓国語、アイヌ語の語彙、南方の音韻体系が残存し、或いはそれにくわえ、南インドのタミール語が決定的な影響を与えているというような説を耳にしたことはありますが、ネパール語が身近であったというのは初耳で驚きです。単なる語呂合わせでなくて、なんかどうやって、はるばる日本までやってきたのか分かるのですか?
ど素人な質問で申し訳ありませんが、教えて頂ければ大変ありがたいです。
あかがねの親分 maphi ra ァ~。貴重な情報ありがとさんにござんす。
高道祖と書いて「○○サヤ」……は尻ませんでした。あがあが。
サンヤーシは修行者、ヤシロは神の結界(囲み)。ya = 神 ですので sait ya は完全に「サイの神」かと思えます。語形が ya sait とならなかったのは、かなり時代が降っての命名かと思います。
すでに「道祖土」から「道祖」が分離し、「道祖シン」があちこちで作られ始めていた時代での慣用によるもの(地名)ではないでしょうか。
つくば山麓には、ヤマトタケルが「くぬぎの木」がたくさん繁っているのを見て、軍をとめて武器をイフキさせたという言い伝えがありますね。“あかがね”のおメガネで見て、その武器は青銅器だったか鉄器だったかは、わからないでしょうか。
クヌギをなぜクヌギというか……はわかります。 ku(イフキ) nu(する)gi(木)。
つくばには「追い越し」など、古い地名がたくさんあります。今後もご指導宜しく願い上げます。
※ sait は「吉兆」です。吉兆を意味するネパール系語彙はこのほか4~5あります。博打好きだったのでしょう。
※ 「ya sait ぐれ(狂う)」でいちおうの回答になっているみたいですが、「飲んだくれ」のダクレがネパール語にあります。
※ maphi は「赦すこと」 -ra は強調末尾辞です。いずれもネパール語です。
かむなび ことばのアバラ屋 ; http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi
> 浦和には道祖土という地名があります。
はじめまして。突然のレスで失礼致します。
茨城県下妻市には、高道祖(たかさい)神社があります。(地名もたかさいです。)
「さやりぼう」と呼ばれる男根型のもちを夫婦で作り、奉納すれば夫婦円満になるという祭りがあります。境内にも大きな石像があるようです。
近くには道祖(さや)神社があり、同様の祭りを行っているということです。
学がないので、小生には判然としないのですが、紋次郎さんの御説とはちょっと違う例になってしまうような気もしますが。
浦和には道祖土という地名があります。この漢字みて「どうそど」と讀むひとはアタリマエ。これを「サイド」と讀むひとは狂ってるのだが、日本の正式発音は「サイド」です。
しかしこれにはワケがある。ここ国境ちかく(集落の出はずれ)に集落を護る「サイの神」が立てられるからです。普通は藁人形ですが、大昔では丑の刻まいりのときに使う小さな人形だったことでしょう。
道祖土と書いたのは「どうそど」に似たことばがあったからです。それはネパール語の dosadh(国境近くの場所)でした。この dosadh は dos(とがめ立てする)と adho(めくら)に分解できます。小生はこの adho は日本の安曇、小豆沢、蝦夷などの語源を構成していることかと睨つけています。遮光器土偶は生まれたばかりの、目が見えない段階の嬰児の顔でしょう i-adho と置いたらエゾ神です。
いまひとつぜひ訴えたいことは、「日本人やろが、日本人やったらお茶漬けやろが」の末尾の「ガ」です。このガもネパール語にあります。
そこで皆さんにご協力をお願いしたいのですが、子供やイヌなどがイタズラをしたときには「ちょッ!」と言いませんか。「チョガ!」はどうでしょう。
おれ、ガキのとき引っ越してきた2軒となりの主婦から「チョガメ!」と言って追っ払われそうになったのでした。まだ5歳ぐらいでしたが、オレは「ナンカァ・コンツキショ~」と言って。そばにあった豆炭の燃えカスを掴んでそいつにコツヶ(投げつけ)ました。力いっぱい投げても5mぐらいしか飛ばなかったことを記憶しています。それ以来、国民学校を終わるまで、その主婦がオレのケンカ相手でした。
dos は日本語化するときには to になるはずです。これがネパール、シナ、朝鮮の発音クセ(拗音化)にかかると cho になります。cho・ga は自然です。「チョガメ」の末尾の「メ」は「目」でしょう。
dos と チョガメ……咎め はこのような関係にあります。
戸隠……とうぜんにも現地でも“文字ヅラ”に惑わされて、アマの岩戸伝説がついてまわっていることでしょうが、「トガ」には上のような意味がありうることを考慮にいれておくべけれんや。
石 kohr(掘る)ドメ……イシコリドメの「ドメ」は「問い質す目(役職名)」……かなりバレて来たのでは
ないでしょうか。
戸隠は急がないのなら、4月20日~5月上旬に行くと、日本一の景観が待っていますよ。(紋次郎旅籠連名)。
いまなら日本最後のサイの神が鳴子温泉の北・「おにこうべ峠」で見られます。サイノカミを作った菅原さんたちは鹿島樣と呼んでいます。
現・埼玉県庁所在地の旧名は鹿島台でした。縄文海退を写した地名でしょう。
昔の新嘗祭に当たる勤労感謝の日、奈良は雲一つない小春日和でした。
葛城古道を散策し、高鴨神社へよりましたが宮司さんは高天彦神社の新嘗祭でお留守でした。
「カンナリ現象」のお話は聞けなかったのですが、拝殿での柏手には見事なやまびこ(木霊)が返ってきました。
他にもいくつかの神社で試して見たのですが、高鴨神社ほどの木霊の応答はありませんでした。
神社で柏手を打つときにはミミを澄ませましょう。
はじめまして、kammerと申します。
私も丹生について調べている一人です。以前児童小説「丹生都比売」と言う本を読みま
した。舞台は壬申の乱の吉野で、草壁皇子と丹生族の少女との物語でした。この著者が
この小説を書かれた動機は「ロマン紀行 壬申の乱」と言う本を読んだところからだそ
うです。これは丹生族と壬申の乱の関わりをフィールドワークを重ねて書いた本だそう
です(現在絶版だそうです)。「丹生都比売」と言う本を読んでから壬申の乱と丹生族
との関係に興味を持ち始めました。ですから、マルヤ様のHP楽しく拝見させていただ
きました。今後も見させていただきたいのでHP更新されましたら教えて下さい。こち
らのHPは私1日に3回見てますので。
ちなみに、広島市にも神功皇后ゆかりの爾保姫神社があります(丹生都姫ですね)。 私は丹生については、和歌山県伊都郡の丹生氏の方面から調べております。丹生氏の 血縁は事実として、紀氏・大伴氏・丹治氏です。あと血縁と思われる氏族として中臣氏 ・物部氏・門部連。そしてちょっと疑わしいが身毛(むげつ)氏。これらにプラス大伴 氏・紀氏とのつながりから葛城氏も含めて関連を調べています。丹生族と言うことにな れば、国巣、吉野首なんかも入ってくるんでしょうね。尾張氏、巨勢氏については私は 全く知らないので、もしよろしければ丹生族との関わりを教えて下さい。
尾張氏っていうのは、字の如く愛知県あたりの氏族ですか?確か「ささ踊り」という踊
りがあったと思います。ちなみに、和歌山県伊都郡にもあります。関東にも丹生神社に
「ささら囃子」?というのが残っているそうです。吉野はどうですか?
今後ともいろいろと教えて頂ければと思っております。
玄松子さんから手力男神に関する話題がでました。
マルヤさん、投稿ありがとうございます。素晴らしいページができましたね。この『ようこそ吉野へ』に
> タジカラオもスミノエノカミも息長氏と関連があり・・とあります。
船木氏の出身地とされる伊勢は三重県多気郡多気町に佐那神社がありここで「天手力男命」を奉祭していたようです。また船木氏は住吉大社の神職をつとめていたそうですから、息長足姫と密接な関係を持っていると言えます。紀伊国伊都郡丹生川上の天手力男意気続々流住吉大神を祀ったのは船木氏でしょうね。伊都郡丹生川上の鉄資源が乏しくなって播磨へ移動したそうですね。(真弓常忠 古代の鉄と神々)
船木氏は産鉄の役割があり、さらに船の材料の木材調達の役割もあったのでしょう。力仕事ですね。だから手力男神を祀ったのでしょうか。
ついでに、伊太祁曽神社も江戸時代には日抱尊として手力男神とされていたことがあったようです。この伊太祁曽神社の鳥居の側に櫛石窓・豊石窓が門番的に祀られています。国津神をも守るんですね。手力男神と同じ神というのも不思議な気がします。
戸隠神社のことを調べていて、雑感です。
手力男は、力の強い神、天孫に随伴してきた神です。天岩戸屋で戸を開けました。
別名、天石戸別神、又の名を櫛石窓(いわまど)・豊石窓です。
単純に考えて、渡来神です。しかも力が強いということは身体も大きいのではないかと考えると西アジア出身(イスラム系)かもしれない。イスラムというと「オープンセサミ」のアラビヤンナイト。戸を開ける呪文でした。「いわまど」という別名は「ムハマド」を連想させる。
ということで、勝手な妄想が始まったので、戸隠へ行って来ようかな。
瀬籐さんこんにちは。掲示板へは初めて書き込みさせていただきます。
メールでは何かとアドバイスいただきありがとうございます。しばらくメールはしていませんでしたが、悪戦苦闘してホームページを作っていました。又ご教示いただければ幸いです。
「神奈備へようこそ」ファンの皆様こんにちは。
私もファンの一人で古代史に興味を持っています。特に神功皇后と丹生族に興味があり神社巡りをしています。どうぞよろしくお願いします。
URL: http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/
私は故あってカリフォルニアに来て約20年、出身は鹿児島県大隅半島の志布志という港町です。
1. 檳榔[ビンロウ](あじまさ)とは今日では、枇榔[ビロウ/ビロー]と呼ばれています。
志布志の沖合い4kmにその名も枇榔島という檳榔[枇榔]およびその他の亜熱帯性植物の繁茂する島があります。この無人島は島全体がその植生から国の天然記念物になっていますが、夏休みの間は志布志から定期船が出ています。こどもの頃良く遊びに行きました。檳榔[枇榔]は棕櫚とか椰子にそっくりでその仲間と思います。
志布志(http://www.synapse.ne.jp/~shibushi)のサイトに枇榔島の写真が出ていますが、残念ながら枇榔樹のアップはありません。http://www.synapse.ne.jp/~shibushi/play/kankou/index.html#2を参照くだされ度。
(余談ですがこの島は志布志からみるとひょうたんの形をしており、「ひょっこりヒョータン島」発想のモデルになったとか...)
2. 鹿児島にはこの他、薩摩半島の坊津か知覧あたりにやはり枇榔島という島があるとか聞いています。そういえば知覧には豊玉姫神社がありましたっけ。
3. 隼人と椰子 - 感じ入りました。サーフしておりましたら京都の月読神社に隼人の記載あり、今度日本に帰る機会あれば、=http://www2.webkyoto.ne.jp/~kyt-fsci/joho/kobetu/syaji/no4_sy2.html およびhttp://www.asahi-net.or.jp/~wr5t-nmr/pub/ohsumi.htm
頓。
> アマカネ
どうも、事様仮面です。本日、貴方様のHPを拝見致しましたが、総じてここのHPに書き込みをされている皆様は、かなり本格的でレベルの高い方々ばかりのようで、私の書き方に至らない点が有ったようで、どうもすみませんでした。また、アドレスについては、私本人の物ではなく、友人の事務所の機械を借りてやらせて貰っている都合上、事務所の迷惑になっては申し訳ないので、どうか、ご容赦下さいませ。それでは……。
PS.「setoh」様、アドレスの一件でのフォロー、どうも有難う御座いました。
A.I.さん> 面白いとは思うけど、私はあまり重要なこととは考えません。
とおっしゃられても次の様な事例は太陽信仰の名残とか古墳や神社の由緒から歴史的な何かが得られるかも知れないと思っています。
穴師坐兵主神社の場合
弓月岳頂上、上社の跡地、現下社、箸墓古墳後円部中心、前方部中心が一直線に並ぶ
新屋坐天照御魂神社(福井神社)の場合
神社から見ると西河原の天照御魂神社が冬至の日の出の方向に、 上河原の天照御魂神社から見て夏至の日の出の線上にこの神社は鎮座している。
鏡作天照御魂神社
立春の前の日の節分に三輪山頂上から朝日が出、立春と立冬の夕日は二上山の鞍部に落ちるとの事で、立春と立冬の観測地であった。
宮古の伊多神社から八尾の鏡作天照御魂神社と小坂の麻気神社とは一直線上。
250 怪傑事様(ことさま)仮面さんの E メールアドレス がありますよ。
アマカネ
現代はキチゲェが多すぎる。ウンジュ(沖縄 ; あなた樣)はまんざらのキチゲェたぁ思われませんでしたハデ、シガ(鼻汁……ネパール語)ひっかけやしたぞ。
そーゆーこと(言い訳)言うぐらいなら E メールアドレスぐらいは書きなせぇ。
玄松子さん、ありがとう。韓竃神社の話を聞いて、イブキ神社の名も出たんだけど「イブキ・・・そりゃそうね」と納得した覚えがあって、でも記憶がバラバラになってました。
猪の目洞窟・韓竃神社・意布伎神社・荒神谷・加茂岩倉でいいんだ。どうも納得がいかないので出雲に問い合わせようかと思ってたところです。記憶力が怪しくなってきてるから面白い話を聞いたらメモしなくちゃいけないんだけど、その時は記憶したつもりになってるのよ。訂正に次ぐ訂正でお恥ずかしい。何かが1本の線上に並ぶという考察はよくあることだけど、どうなんでしょうね? 面白いとは思うけど、私はあまり重要なこととは考えません。レポートしておいて変だけどね。掲示板に報告する時はもう少し慎重にしますね。教えて下さってありがとうございます。
> 荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡を結んだ線上にある神社は、イブキ神社ではなく
その線上(韓竈-X-荒神谷-加茂岩倉)のX地点に、意布伎(イフキ)神社(現在伊努神社に合祀)がありますよ。こっちだと思いました。
21日に書いた出雲の情報。荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡を結んだ線上にある神社は、イブキ神社ではなく韓かま神社でした。かまの字は和歌山のかま山神社と同じかまです。字が見つからない。
> 特攻隊の付託を知れ
> のっけから「仮面」たぁナニゴトぞ
初めまして。貴方様の御指摘は、私が、無責任な、所謂「覆面投稿」を意図して、
故意に名乗っているものと解釈してのものと推察しますが、そうではありません。
このネームは、日頃から通り名として用いている愛称であり、他意はありません。
そもそも、この呼称は、友人が出雲国の美保神社前の出店で買って来てくれた、
えびす様(=事代主)の面を付けて、私が、地元のお祭りの折りに踊った事に
由来し、祭りの際に面を付けて踊ると言うのは、日本古来の伝統芸能である、
お神楽でも昔から行われている事であり、決してふざけている訳ではありません。
また、”怪傑”については、私が神話の研究者であり、疑問の点を解決して行く
という所から、研究仲間がが付けてくれた呼称です。このネームは、他のHPでも
常用しているものですが、貴方様の気に障ったのでしたら、すみませんでした。
PS.ちなみに、”事様”とは、私が崇敬する、事代主(えびす様)に対する、
敬意と愛情を込めた呼称です。私の研究仲間の命名で、私も気に入っています。
★「出雲大社「巨大神殿」は対抗意識の産物だった」
■Web現代 11.15-11.21
http://kodansha.cplaza.ne.jp/mgendai/2011/frame11.html
東大寺大仏殿よりも高い、幻の巨大神殿はやはり存在していた。当時の建築技術を超
えて、なお作り続けた古代出雲人の謎を辰巳和弘同志社大学助教授が分析レポート。
折しも神社の立地と祭神についての投稿を頂きました。
これは難しいテーマですね。A.I.さんが書かれているように重要な場所とも関係しているでしょうし、地下を水脈鉱脈が通る道筋に作られることもあるでしょう。磁場の特異点なんかは神霊を感得しやすいそうですね。他に神奈備山の真西であったり、堤防決壊の場所であったり、宮殿の跡であったり様々でしょうね。
>大物主と事代主は解りますが、五十猛神が何故
元々から三柱の神を祀っていたのでしょうかね。来待神社の由緒を教えて頂きたいものですね。今解っているのは神社名鑑の崇神天皇の頃大和から勧請だけです。神々の国に大和から勧請と云うのもおかしそうな話ですね。玄松子さんの来待神社のページでは「御神体は石らしく」とあり、磐座信仰が出発だったのかも知れませんね。所で出雲風土記では川の名前がありますが、中世は「来海」と書いたそうですね。寄りつき神の信仰もあったのでしょうか。「神国島根」がほしいですね。
>トミ族 スサ族
元サンケイ新聞でしたか富さんと云う方のお話ですね。
> >本当です。当時、出雲はトミ族が先住者として王朝を築いていたが、スサノオの一族が
> 渡来し、大国主系はスサ族の支配を受ける事となったのです。
通説と違うようですが、その説は誰が言っているんでしょう。
どのような根拠で、そうなのでしょう。
それとも、僕が知らないだけで、それが「通説」なのでしょうか。
「記紀」が正しいとは言いませんが、一応、一般的だし、誰でも手に入れることができます。
「記紀」と違う論の場合、その出典を上げ、説明するところから、話ははじまります。
「記紀」では、五十猛と事代主は、大国主を介して、関係があります。
事代主は大国主の子であり、五十猛の父・素戔嗚は大国主の(義)父、あるいは祖です。
大国主は、大屋彦(五十猛)に助けられてもいます。
現在の神社の祭神は、多く、「記紀」に由来します。
創始とは異なる場合は、勿論あります。
> > 事代主はスサノオ尊に滅ぼされた大国主系です。
> これは、初耳だなぁ。本当?
本当です。当時、出雲はトミ族が先住者として王朝を築いていたが、スサノオの一族が渡来し、大国主系はスサ族の支配を受ける事となったのです。つまり、トミ氏族の王朝が出雲の第一王朝、スサ族が第二王朝、国譲り後はホヒ族の第三王朝と言う訳です。そして代主は、トミ氏系の者なのです。現代に続くトミ氏の後裔も、事代主の子孫です。
出雲で聞き込んだ話。荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡を結ぶとウップルイ(十六島)猪目洞窟に当たり、その線上の山の上(何という山か忘れた)にイブキ神社というのがあり、鰐淵寺もこの線上にあるとか。十六島付近には銅の鉱脈があるとか。猪目洞窟は黄泉の国の入り口との伝説があって、行ってみたけど気味の悪い所です。このあたりは今でも時々密入国者が入ってくるほど潮流の関係で韓国・中国から船が流れ着くそうです。出雲特有の北西の強い風が吹くと野だたらには格好の場所かも。大陸との交流、大量の青銅の剣や矛や銅鐸。銅の鉱脈、イブキ神社・・・何だろうね。こういう関係はA.I.は不得意で、聞きかじりの無責任な情報です。
他にも須佐神社の宮司さんから聞いた話。出雲大社と熊野大社、須佐神社と佐太神社を線で結ぶと荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡のあたりでクロスするとか。地図で線を引いてみたけど、ちょっとずれます。
特攻隊の付託を知れ
のっけから「仮面」たぁナニゴトぞ
> 事代主はスサノオ尊に滅ぼされた大国主系です。
これは、初耳だなぁ。本当?
どうも、初めまして。美保の岬より参った、事様仮面です。実は、気になる神社がある
ので、みな様の御意見を伺いたく、参上しました。さて、最近遺跡発見の上地震で騒がれている出雲の国ですが、ほぼ同時期に造られた三つの重要な遺跡、即ち「荒神谷遺跡」、
「加茂岩倉遺跡」、「田和山遺跡」の三点を結んだ中心点に、「来待(きまち)神社」があります。三輪山からの勧請と伝えられるその祭神は、”大物主”を主宰神に”五十猛”
と”事代主”の二神が脇を固めています。大物主と事代主は解りますが、五十猛神が何故祀られているのかが解せません。
一説によると、両神は、共に”言葉”を司る神であり、
五十猛神が”五十音”を作り、事代主が文字の読み書きを教えた、と言います。しかし、両神は明らかに系統を異にし、五十猛神はスサノオ尊の子神であり、事代主はスサノオ尊に滅ぼされた大国主系です。
いったいこれは、どういう事なのでしょうか? 是非とも、みな様の御意見をお聞かせ下さい。今後ともどうかよろしくお願い致します。それでは。
アドレス:<micaleen@themis.ocn.ne.jp>,まで、どうかよろしく~
檳榔樹、枝のない頂上から葉っぱの出ているイメージですね。椰子は上に似ていますね。
速玉大社の椰の木は頼朝が植えたとか、これは普通の照葉樹みたいですね。
姫路市林田町下伊勢にに式外の椰神社があり、伊勢津比古命(火明命)が祭神とされています。檳榔-椰子-なぎ 変な関係ですね。
> 吉野祐子さんによりますと、宇麻志摩治命とは南方産の蛇を象徴する檳榔[ビンロウ](あじまさ)から出た名前であり、
「檳榔」って何?そう思って、ネットで検索したら、ほとんど、台湾の噛みタバコみたいなものしか出ないんですが、古事記・仁徳天皇の歌がありました。
「おしてるや 難波(なには)の崎よ 出(い)で立ちて 我(わ)が国見れば 淡島(あはしま) 淤能碁呂島(おのごろしま) 檳榔(あぢまさ)の 島も見ゆ」
枕草子にも、「檳榔毛(びらうげ)の車などは……」とあります。
どんなものなんでしょう。当時の人には一般的なものだったのでしょうか。
椰子の一種なんだろうなぁ。
そういえば、京都の「隼神社」は、今「椰の宮」と同じ境内にありますね。隼人と椰子というのは考えすぎだろうなぁ。
> 栗栖と物部、偶然ではありませんね。
物部一族に、栗栖連というのがいます。
河内の栗栖神社は、栗栖氏の氏神を祀ったものだそうですが。
栗の名がでたところで 私の大好きな神社 肥前 一ノ宮
千栗(チリクと発言)八幡宮 最高ですね。
村の鎮守1000年の時を越えたものを感じます。
吉野祐子さんによりますと、宇麻志摩治命とは南方産の蛇を象徴する檳榔[ビンロウ](あじまさ)から出た名前であり、南方出自の大王の意味があるそうです。
鹿児島県曽於郡志布志町に乙姫様を祭神とする枇榔[ビロウ]神社が鎮座しています。乙姫は海人族の比売神ですから、物部と無関係とは言えませんね。
南方 鹿児島 檳榔 乙比売 宇麻志摩治命 十種神宝 丸に十字 島津 とstoryができそうですね。
玄松子さんの芳名録に「丸に十の字紋」を「十種紋」とも言うとして、これを「クルス」としてガッカリされちゃいました。以降の話は神奈備でやります。
栗栖と名のつく神社の約半数は物部の祖の「宇麻志摩治命」を祭神として残っています。
式内 河内国 栗栖神社(現八尾神社)
紀伊国 栗栖紀氏神社(現丹生神社に合祀)
尾張国 栗栖神社 です。
雄略天皇と赤猪子の話のなかの歌謡に
引田の若栗栖原 若くへに 率寝てましもの ・・
とあり、解説には若い栗の木の原とあります。
青森の縄文遺跡からは栽培したと思われる栗の木の原が出ています。古代にはどこにでも栗林があったのでしょうかね。
高松市の栗林公園から遠くない所にも「火明命」を祭る神社が二座鎮座しています。
栗栖と物部、偶然ではありませんね。
A.I.です。性懲りもなく、神社巡りをしています。
今回は出雲です。今年3月に出雲の宍道湖の北側を中心に回りましたので、出雲パート2として17日から19日まで宍道湖南側をかけ回ってきました。出雲も神社が多くて、旅の予定を立てるのも大変です。そして狂乱のかけまわりとなります。式内社に加えて出雲風土記の神社にも興味をそそる所が山盛り、そのうえに古墳やら遺跡やらゴロゴロ。少しずつご報告しましょう。
A.I.が神社巡りする時はいつもお天気に恵まれるのですが、今回は天気予報は最悪で私のお天気運もこれまでかと諦めて覚悟を決めて行きました。でもねデモネ・・・雨の羽田を飛び立って出雲空港に着いたら薄日がさしているのよ。出雲空港で声出して笑っちゃたわ。3日間の旅の間1回も傘をさしませんでした。出雲はちょうど神在月、八百万の神様がお集まり、神様達が応援して下さっていると思って感謝しつつ・・・
> どなたか和歌山・竃山神社の近くに住んでいる方、おられませんかねぇ。
自己レス。
神紋(図案)なので、電話では聞きにくいと思って遠慮していたんですが、やっぱり神社に聞いてみようと思い、先ほど電話しました。
七五三で忙しい時期ですが、宮司さんに丁寧に細部まで細かく教えていただきました。
お騒がせしました。
最近神社へ詣でると七五三の関係でしょうか宮司さんがおられることが多いですね。
七五三のお祭りの客(というのかなー)を待つ暇つぶしになるのか、「まーあがってお茶でも」と誘われることが続いています。今日の織物神社の宮司さんは86才とは見えない雰囲気で、市会議員を引退してから神職の資格をとられたようです。やはり迷うことがあると神託を頂けるそうです。
こんにちは 狭手彦さん
> 物部朝臣麻呂・・・よく似た名の物部連麻呂・・・は、同一人ではないでしょうか
あなたが同一人とお考えの理由はどのようなものでしょうか?
年齢的には同一人としても無理はないようですね。
setohさん、こんにちは。
物部氏の七転び八起き物語 http://www.kamnavi.net/mn/monohst.htm の物部朝臣麻呂・・・よく似た名の物部連麻呂・・・は、同一人ではないでしょうか。
古代の熊野の人々は鬱蒼としている樹海やそこから流れ来る熊野の川などの自然に神を感じ、祈りを込めたのでしょう。従って当初は「家津美御子」とか「素盞嗚尊」とかの祭神の名前はなく、熊野坐神でありました。それが樹海の盛り上がりを祀るがゆえに「木津御子」と呼ばれるようになり、木々を司る神として神話から素盞嗚尊や五十猛命の名を人格神としての祭神名とされたのでしょう。
また三重県の熊野市には産田神社、花窟神社が鎮座しており、イザナミ命が火の神を生んだ所、イザナミ命を葬った墓所とされており、熊野とどちらが先かは解りませんが、神話からの神名の交流があったようですね。
焼尻紋次郎さん、
00/11/18投稿の石川県能登半島の邑知、鹿島、鳥屋の地名のもとは、本当なのですか?
こんばんわ! 初めまして えかわさんちから、やってきました
ちょっとお伺いします。と言うか、教えて下さい☆
熊野本宮大社の主祭神は、”家津美御子大神”ですが、別名 スサノオ命 と聞いたのですが・・・ イザナギの子供で、天照大神の弟だそうですが・・・
そうなのですか? ちょっと調べたのですが、よくわからないし・・・
もしそうならば、どうやって熊野の神になったのでしょうか・・・?
その辺の流れがわからないのですが・・・
すみません おわかりでしたら教えていただけないでしょうか・・・
宜しくお願いします
陸繋島文化があるとすれば、尾道から愛媛への島々(今はしまなみ街道)が思い浮かびますね。
大三島の西や忽那島があり、後に河野氏や村上氏の水軍になった伊予水軍がありました。物部系の国造越智(乎知)の水軍でしょう。
聖徳太子の伝説に道後温泉に治療に来ているのは、上記水軍への統制力アップとか云われますが、物部に囚われての道後温泉かも知れません。家康と今川。蘇我物部戦争の序曲だったと言えるでしょうね。
どなたか和歌山・竃山神社の近くに住んでいる方、おられませんかねぇ。
竃山神社に参拝した時に、菊紋を見たんですが、五瀬命だから、「菊紋」だよねぇ、と納得して、ろくに調べなかったんですが、「神社名鑑」を見たら、「子持ち三つ柏」とあります。
「子持ち」というのは、小さいものが附属しているということですが、「三つ柏」にどのように附属しているか、イメージできないのです。
う~ん。今回の和歌山参拝は「忘れ物」が多い。
> ネパールには「神の化身・クマリ」がイマ(坐)す。少女神です。
熊野では、新宮周辺を神邑(かむろ)と呼んでいました。
遊郭などで働いている少女の前髪を切り揃えた髪型は、「禿(かむろ)」と云いますよね。
八瀬童子など神に仕えるものは、たとえ大人であっても、童形をしおり、髪をたらして「禿(かむろ)」にしています。
少年・少女は神に近い存在とする思想・背景があるのでしょう。ただ、神そのものではないような感じです。神の周辺か。
ちなみに、老子は牛に乗った童として登場するのではなかったでしょうか。
島根県邑知町から磨製石斧製造跡がみつかったことを知り、「ああ、やっぱり……」と思いました。
ヒミコがクマリだなどとも誰も言いませんが、この日本列島が陸繋島文化で開けたことも、誰も言いません。
陸繋島文化のことは、地図を凝視すれば誰にも思い付くことです。地球の気温が寒かったり暑かったりするたびに、低い分水嶺は水路で繋がったり小高い(?)峠みたいになるのを繰り返すわけです。
そのような、低い分水嶺が日本列島には佐賀~熊本~福岡県に30数カ所もあります。
例えば、石川県の邑知地溝帯に人口水路が確保されてなかったら、舟は危険な外洋に出て大きく迂回しなければなりません。かりに水路と水路が繋がらなくても、地方の親分の采配(顔・信用)によって、徒歩で荷物を担げば同じ効果が得られます。
日本列島の自然は、放っておいても、他所と比べて物凄い高水準の文化を、急速に醸し出させる地形を呈していたのでした。
邑知という言葉は「神官」の名前になったりしてまぎらわしいのですが、佐賀県唐津の南にも相知(おうち)とあって、古い縄文のあとを写しています。島根の邑知は陸繋地帯にいた豪族が移転してきた場所だと思われます。
舟の航行の安全を見守る神は鹿島さまです。さいきん 鹿島とは k ⇔ h の音転で「神の目」だと気がつきました。インド~アジアに広く用いられている casma(めがね)は「神の目」でしょう。⇒ 柏原、橿原、香椎
能登半島の邑知地溝帯中央部の鹿島町に御注目ください。対岸に鳥屋(ネパール語 ; 組合)町もあります。塩の道・ボッカ(ネパール語; 運び人)の拠点はここだったにちがいありません。アマカネ
かむなび言語分館 http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi 玄松子さん・サラセッセ made アマカネmade
ネパールには「神の化身・クマリ」がイマ(坐)す。少女神です。クマリの末尾のイが女性を表わしています。チベットに少年神がいますことは周知の事実です。
少し、古代や神社を調べたら、わが日本には少年神がすぐに浮上してきます。習慣とことばが導くところに従って判断すれば、少年神「クマル」のほうが先で、日本の「熊野」は少年神の系統です。
ネパールのクマリは「ある事情」によって、少年から少女神へと切り替わったことが判ります。「ある事情」は小生には解っていますが、ここでは書けません。 E メールで答えます。
ところが日本には、峠にイマ(坐)して降水量を配分する「ミクマリ神」が伝えられていました。この「クマリ」の末尾の「イ」こそ「ヒミコの遺跡」だとしかならないはずです。
JAMAT-AI(邪馬台国……ポリス連合)がヒミコの後継者まで選んで連合の象徴としてクマリを立てた事実は物凄い熱い注目が寄せられてしかるべきでしょう。
ネパール語 KUMAR は、お隣りのパーリ語では KOMARA となります。このパーリ語勢力も日本列島入りをしています。この勢力も MARA を斬りおとして KO だけで代用させたおとが判ります。KO に霊(HI < PI)とワレメちゃんの MI がついたのが「ヒミコ」……そうしかなりません。⇒ 巫女
現代の皇室は日本国民一人ひとりの「統合の象徴」……よかったんでしょうカネ。われら20世紀末人カネ。
かむなび言語分館 http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/youibbs.cgi……玄松子さん made
ホームページ作りの話が出ていましたが、簡単と言えば簡単でしょうが、難しいと言えば難しいものです。
この掲示板に投稿していただいた内容はログで保存・公開していますので、皆さんが書きっぱなしでも取り出せます。ホームページを作られる時にはご利用下さい。
最近のワープロソフトは写真も貼り付けることができます。このようなものに神社参詣記などをまとめておかれますと、そこからホームページ用に変換もできますので、蓄積をされたらよろしいかと思います。
パソコンの腕があがってきたら(経験と勉強の積み重ね)挑戦するのも面白いですよ。神社巡りも先に見所を調べて置いて行くようになり、より充実しますよ。
織姫に関する伝承は、天人女房型である場合が多いので、羽衣伝説と絡んで、なかなか面白いかもしれませんね。
また、天安河との関係もあるかもしれません。それに、天照自身、ある意味で織姫ですよね。
織姫は、「異界から来た女房」、「神に奉仕する巫女」、その混合、に分類できるかも。
饒速日命の天の川とは、離れてしまいそうですが。
> それがある神社の名前を聞き取れなかったのです。和歌山とだけ聞こえたので、
橋本の西光寺ってお寺じゃなかったでしょうか。他にも神社にあるのかもしれませんが。
そのTVが世界ふしぎ発見(TBS 11・11)なら、やはり、和歌山の橋本です。
ここに番組内で紹介された記事があります。西光寺の苅萱堂(かるかやどう)ですね。
http://www.tbs.co.jp/f-hakken/mystery710_2.html
もう一つ。発見。これは、和歌山放送のページです。地図もありました。二月に公開されているようですね。
http://www.wbs.co.jp/wibc/deepspot/026/index.htm
神奈備掲示板MLのみなさんへ。
玄松子です。
連続投稿がみっともなかったので、瀬藤さんにお願いして、一本にしていただきました。おさわがせしました。
初めまして。しがない一女子高生です。今、テレビで人魚らしきミイラを見たんですが、それがある神社の名前を聞き取れなかったのです。和歌山とだけ聞こえたので、どこの神社か教えて欲しいのです
「丹」は和訓で「に」、「丹生」を「にふ にゅう」と読むのもも訓です。あっちでは「たん」「たんじょう」以外の「にゅう」に近い音はあるのでしょうか。
さて、紀北と南紀では同じ樹の国と云っても植物相が違うような気がします。雨量も違います。そう云うことで、南紀の自然に圧倒されることがありますね。
神社の探し方ですが、新しいバイパス沿いにはありませんよ。旧道が山裾を通っている所が狙い目ですね。木々の様相が周囲と違う所をお探し下さい。調月には大歳神と夫婦神の大多羅乳女神社が鎮座しています。この村は調月さんという方がが開いたそうです。秋月は名義詳ならずです。
>雄略天皇系の王朝が五十猛・伊太祁曾と名前の粧いを変えて紀伊に来た
違うように思いますが、念のため一度調べてみましょう。
> ついでに「入」の漢字は「丹生」に通じ、「丹」は鳥居の形そのものですね。
図書館で『漢字源』を見てきました。「丹」の字源は、土中に掘った井形の穴から赤い丹砂を掘り出すところだそうです。「井」や「丼」に近い形ですね。
サラセッセは11月4日の書き込みでモノスゲェことほざいていらっしゃった。すなわち「ハツセの枕詞は コモリクのである」ことと、「雄略天皇は長谷の朝倉にいた」である。
この「コモリク」の一語は、こんごもっと追求しなければならないが、その語源がわかった。
サラセッセからこう書かれた当初は何のことかワカラなかった。しかし、サラセッセがおっしゃる「(山に)籠る」ではないことは、のっけから歴然たり。
今のあっしにワカランことの73%はパーリ語が正確な答えを出すようになった。
ネパール語での kumar(少年神) はパーリ語で komara となっている。困ったので「マラ」をちょん切ったのだ。
もともと称愛語は世界的に cho で、極東では bo になっていた。日本語の ko は cho ににているが、いちおう孤立していた語彙だったのだ。少年神 ko に再び o(神)をつけた語形が「こう」だったのだ。 ⇒ 高知、河内、河野、高麗、鴻巣、古賀、小山。「木枕」にぐぐぐっと接近カネ。
日本語の造語では外来語彙末尾の l, r はちょん切る。komara の末尾のa はパーリ語の癖音であってネパール語は kumar どまりで a はくっついてない。
すると koma とは「少年神」で「熊野」と同じ意味だったのだ。熊野は東のほうで、紀伊、吉野は koma 系統の少年神だったのだ。
コモリクの「mo」は広域を意味する。よく「国」と訳されるが、それは錯覚を招くのでよくない。同じ系統の言語は谷や平野のかぎりにひろがる。それら広域が mo である。だから、ここでは「コモ」は「パーリ語系少年神が支配する地帯」と置こう。
lik はアイヌ語に入っている。ただし、いちばん相応しい訳は「高み」で、形容詞か名詞かハッキリしない。北海道・陸別がそれ。この lik はネパール語、パーリ語では lok となる。アイヌ語に入った lik に近いのはネパール語のほうで lok-sewa(助けあげる……sewa な日本語と同一)があるが、基本的には「この世、世界、地上」である。
mi-lok神の意味はもう、おわかりだろう。
これが沖縄では o が言えないので「ミルク」になっている。ギリヤ-ク語にも入っていてミルクといえば「バケモノ」である。
長谷の枕詞「コモリク」とは「少年神支配の領域」の訳でいいだろう。
サキタマ古墳出土の鉄剣に刻んであった文字のワカタキルとは、学者の推定では雄略天皇のことだと一致していた筈。ならば、雄略天皇系の王朝が五十猛・伊太祁曾と名前の粧いを変えて紀伊に来た……がバッチリ出やんしょう。倭の五王のあとも血統での政権交替があったことを物語っている。
その雄略天皇がいた土地が長谷(ハツセ)なら、ハツセ(王)とは雄略天皇のことであった。
長谷の朝倉にいた……a(大)chakra(王)。これまた雄略天皇が「大王」にふさわしかったことを謂っている。同時に磐井のラン(戦争)のときの、新羅と組んだ大王の土地が福岡県朝倉郡朝倉町であったことを教えている。
縄文時代のハイテク木組みで注目されたのが「櫻町遺跡」だった。
皆の衆、神様の名前の意味も、その神社の名前の意味もワカランまま、よう続くのう。カンシンするよ。神社参りをする前にゃあっしにその意味をかんさせなせぇ。
たまには30分でもいいハンデ「紋次郎を信じてみよう」という気になっちやっちおくんなせぇ。
前が前だ。言語学者があまりにもバカ揃いだったハンデ、その気持ちワカル・ワカルあるよ。
だが、神社参りのオモシロさが 10倍にもなるんだゾォ~~。ゾォ~カネ。
また黙っちゃおられんごつなっち ユカの上に這いあがっち来たバイ。ユカちゃん喜びんしゃい。
サラセッセは資料ファイルの神様であり、資料摘出の神様……これは先回お報せしたとおり。
だが、サラセッセは千里眼~透視の神様でもあらせられるハンデ、ここに皆の衆にお報せしやす。
いままでもそうだったが、実にタイミングよく、さりげなくあっしの前途に猛烈きわまるヒントを呈示してくれやす。
今回は「五十猛神が九州と深いかかわりがあった」とぬかした。これはなぜ「takat(力・権力)の神」が ta・kir (意味は同じ…… ⇒ ワカタキルなど)へと変身しなければならなかったのか……の疑問点にみごとに答えている。
i・takat に当時はやりの o(神)をつなぐと「いたかと」になる。これじゃ神様、サマにならねぇ。
後背霊とか指導霊というものは、ほんとうにあるのかもしれぬ。伊太祁曾様のお導きカネ。
なお、お待たせしやしたが、『甦った伊太祁曾神』シリーズは大きなヤマを越え、五十猛・伊太祁曾ともにその内意が浮上し、御名の意味が甦っちいやす。詳しくは当ホペ左下(ユカの下)『伊太祁曾の客人』=『紋次郎ほっつきある記』にて。
あと2~3回で終了の予定ざんす。アマカネ。
> 五十猛命一覧の東日本岐阜編の途中にあります。
ありました。
ちなみに、昼休みの発想・イメージは、天津神を奉じる集団が、畿内に侵入し、土着の神々を周辺へ追いやったとしたら、東は琵琶湖、南は紀ノ川、北は大江山、西は吉備あたりかな、というものでした。
東・北・西には鬼が居ます。和歌山には鬼の伝説がありませんか?
> 陳腐な発想と謙遜するわけにもいかず・・・
五十猛命一覧の東日本岐阜編の途中にあります。
飛騨を日田として、木曽に相当する所なんかは? 五十猛命は九州に縁が深い神様です。
>それと乗鞍山頂に祀られていることからヒントを得ました。
あれっ。神奈備サイトに書かれてましたか。
昼休みに、ホームページ作成について考えていて、思いついたんですよね。
で、検索したんですが、出てこなかったんで、誰かが書いていたり、陳腐な意見だったらいやだなぁ、と思って訊ねたんですが。
紀伊続風土記に「手力男ノ命をおもひよせ日出貴孫等妄作の御名抱腹に堪さる事なり」とあります。
それと乗鞍山頂に祀られていることからヒントを得ました。先に誰かが云っているかも知りませんが、小生は寡聞にして承知していません。
考古学会の足の引っ張り合いは凄いものがあるようです。古い地層からでたものについては、蟻が引っ張り込んだのだろうとまで攻められて、なかなか認められないケースもあるようです。
今回の場合のように、石器にはおかしいと思った人がいてもなかなか論証しにくいようですが、やはり健全な反対勢力と言うものは必要ですね。
歴史の偽造は、何もこれが初めてではありません。権力者の場合は常です。中共でも毛沢東の葬儀は主に四人組が主役だったはずですが、画像からも消されています。
アマチュアの強みは学者の世界での地位とらわれない発想ができることにあるのでしょうが、このような人物が現にいるということも事実でしたから、やはり無責任な所があると言われてもやもうえないことですね。
中国の雲南省ハニ族には聖樹信仰が生きています。
村の聖樹の前に、木を「入る」の字の形にした門を作り、上部の二本の木の接した所を藤づるで結わえ、足下は石を置いて固定させている。神官はそれをくぐり抜けて祭祀におもむくそうです。
以上は引用、以下は瀬藤のお話。
田圃で苅った稲を干す三本の木のものを低くして二本にしたイメージですね。
この木を立てると鳥居の原型になりますね。鳥居のルーツかも知れませんね。
ついでに「入」の漢字は「丹生」に通じ、「丹」は鳥居の形そのものですね。
この件につき、玄松子さんからコメントを頂きました。勝手に載せますよ。
土地や場所を「囲う」という発想・思想は、定着農耕を営むようになって以降ですから、稲との関連は重要かもしれませんね。
さすが玄松子さんです。雲南省は稲作のルーツですし、聖樹は稲作を主業とするハニ族のまさに稲作の神だそうです。
野上八幡宮歴代記の「大和国此木ノ嶺」もしくは「大和国比木の嶺」とはどの辺りを云うのでしょうか。宇佐から手向山に勧請の途中に平群郡(生駒市高山町?ここは添下郡)に一旦は落ち着いてから向かったと云われます。奈良で最初の八幡宮ですね。手向山もここも「ヒの木」とは縁がないように感じています。
>前々から「ハセガワ」という名前もあった
「ハツセ」と云う土地の地形を「長谷」と云う表現が説明していると云うこと。
すなわち、「ハツセ」への枕詞は「コモリクノ:隠国の」であると云うことは四方を山に囲まれた場所を「ハツセ」と云ってきたことがあって、それは長い谷であるとの認識があったということです。
隠れ里みたいな所ですから、長髄彦には向いている感じですね。かの雄略天皇も長谷の朝倉にいたそうで、本当は「蛇のように狡猾で陰険な男」だったのかも。
ちょと前、この掲示板においでなすった国生ニシパ……あっしのアタマに電燈がともったハンで、ハメちゃっておエメ文通してた……ら、3日まえ「これ見よ」とパーリ語辞典を送ってくれた。
見てびっくり。パーリ語系統のインド人もこの日本列島に来ていたとしか思えない言語証拠が散らばってるじゃんか! その一つだが、それが古代奈良王朝にかかわる badsaha (王)である。
この語彙の末尾の saha とか ha はあっしの分析力にはほど遠いものだった。とにかく、これが「ハツセ」になったことだけは間違いない……と、思ってきた。
ところがパーリ語辞典をみたら、この最後の ha はなんらかの意味(おそらくは“コト柄”)を表わす末尾辞で、格別に語幹に響く影響力はないものだと断じることができるところとなった。
これによって、インドにいたカニシの一部が、インド本部から分離して、東方シナ方面へすすんだ、その年代までが割れてくるのだ! しかも、すでに王朝を持っていて東進したらしい。
「セ」というのは川の流れの音を写した日本列島土着の語彙だっろうか。ハッキリしたこたァオラシラネ。だがセセラギの ragi (しらべ)はネパール語である。とにかく「セ」は流水だから「谷」の意訳をやられてもモンクは言えねぇ。だが、長谷のナガは何のカンバセあってここに採用されたのか……。
だが、皆の衆、カンタンだった。 naga はパーリ語で「山」なのだ。そのとき王がいた周辺には「ナガセ(意味は山の瀬)」みたいな地名か人名があったのだろう。そして前々から「ハセガワ」という名前もあったのだ。後世、意味が解らなくなっととき、漢字を知っている学者が、このハセガワが川であろうと、まず「○○川」とアテ字して、セには「谷」を、「ナガ」には「長」をアテ嵌めたのだった。
ハセガワとはハツセ ka(の)wa(人)だったのだ。或いはもしかしたら「 kawwa(カラス)wa」の約まったものかもしれない。いずれにしろハセガワは「王」「王族」である。
へただなぁ、おれ。説明がなっちゃいねぇ。だが、奈良王朝が栄えた土地を次に指摘するので maphi raァ~。
室生……mul(ムラへと音転。水脈を抑えたトップ)+王。
櫻井……chakra(王) i (場所)
上の二つ(いずれもネパール語)の中間に「ハツセ」がある。“ナガ”スネヒコはここにいたのだ。
だが、生産の本場は山辺郡都祁村を中心にした一帯だと思われる。古代の稲作は水ひきの関係で山よりの地帯だったろう。都祁(つげ)……アイヌ語解釈の正念場カネ。
丹生神社の「三野国の注で吉備と書かれている事」について
「丹生祝氏本系帳の校訂と研究」(田中卓氏)より、
「応神天皇も吉備に行幸されてゐるので、美乃国が吉備の三野県と言う説は、尤である。
ただ”三野国に在る牟毛津”と言う「ムケツ」が、美濃国の牟義都国造・牟宜津君とや
はり関連あるやうに思われ、三野県と美濃国の関係については、更に考ふべきものが
あらう。」
おそらくは、この文献から注に吉備と書かれたのではと思うのですが。
せとう様 ごぶさたです。
長谷丹生神社、丹生狩場神社みさせて頂きました。地元でありながらいってみたい神社
でした。長谷丹生神社は今年5月に行きましたが、丹生狩場神社は行けませんでしたの
で、それだけに瀬藤様のHPを見て感動しております。
>そらくは空海の時代に高野山や麓を支配していた豪族の長・・・
丹生祝氏家系図からは丹治家信が丹生氏の養子となり、その後空海を高野山に導き
、家信の死後、空海は家信を皮張村に狩場明神として崇えたとなっています。
疑問はこのあたりを支配していたのが丹生氏であったのか?と言うことですね。可
能性は高いのですが、丹治氏が支配していた可能性もなきにしもあらず。あるいは
紀氏かも。
丹治氏は丹生祝氏家系図にも「号宮内太郎犬山師本姓者宣化天皇九代之後裔三位宮内
丹治家義之男也」とあり、犬山師ですから、これから犬飼の神になったのかも知れま
せん。だから、丹治氏支配の可能性もあるかと。ちなみに、空海に密教の守護を約束
したのは家信です。犬から鉱山師をまとめていた長だったのかも知れませんね。
>狩猟とは関係がなかった?。 このあたりは分からないのですが、なぜ皮張村にて葬られたのか?ですね。三谷にも 天野にも近いことを考えると、皮張村を中心に狩猟活動をしていたのかも知れません。 (自宅の三谷に近く、祭祀で時折行く天野にも近いところ) やじりなどを研いだ石も残っているようですし。また、銅山のことを「お狩場」といっ たそうですので鉱山師とのつながりも考えられますね。もと丹治氏の出ですから可能性 は高いかと思います。ですから、私は猟師でもあり、鉱山師でもあったのではと思って います。
>蔵吉人と云う人を犬飼・・・ これは「丹生祝本系帳」に書かれている部分ですが、この本系帳については偽作の部分 も多く、どこまで信用してよいのか分からないというのが本音です。ただ、これには 空海が高野山に上ったときの伝説の部分と似ているところもあり、家信以降の加筆だと 思います。ですから、家信の事を何かの理由でごまかしながら書かれているのではと にらんでいます。ですから丹治氏の事について調べてみようと思っております。
>長谷丹生神社の祭神の「大黒人」と「蔵吉人」と、似ていますね。
恐らくは「大黒人」は「犬黒比(いぬくろひ)」→「犬黒人」→「大黒人」と変化した
のではないかとにらんでいます。
おそらくは空海の時代に高野山や麓を支配していた豪族の長が、空海を導き、その結果として百合野に葬られた後、狩場明神との稱號を貰ったと云うことですね。その地が皮張、川張と云われていたから狩場明神といわれたので、狩猟とは関係がなかった?。(家康の狩りが好きだった。)
応神天皇の頃美濃国(毛原の神社では 吉備と注あり)から蔵吉人と云う人を犬飼として差し遣わされた云々とあります。犬飼とは鉱山師を云うとか。
所で、長谷丹生神社の祭神の「大黒人」と「蔵吉人」と、似ていますね。
あかねさん こんばんは
「大工道具の歴史」を読まれた動機に興味がありますね。
kammerです。ご無沙汰しております。
先日、「知ってるつもり」で空海をやってました。改めてすごい人物だと思いました。
さて、本日は高野山に祭られている丹生明神に関して私が今感じている疑問を書いてみようと思います。勝手なことを書いておりますが少しおつきあいを。
1)高野山の丹生明神・狩場明神の勧請は誰がしたのか?
空海が勧請したとも言われているが、この両神が高野山文書に出てくるのが(偽書ではないとされているもの)900年代の造営の時で、当時勢力をもっていた坂上氏であるとも言われています。
坂上氏であれば、何故坂上氏が丹生明神を勧請したのか、その動機が思いつきません。また、狩場明神(丹生(丹治)家信)も坂上氏が勧請したのか?全く動機がみつからない。
空海であるのであれば、ある程度筋は通るが、文書にはそれを裏付けるものは残っていない。
空海死後の高野山僧侶が地元の人々の協力を得るべく勧請したのかも知れない。
しかし、それならば丹生明神だけでもよかったのではないか?
2)武蔵武士丹党(丹治氏)が祭る丹生明神はなぜ丹生津姫ではないのか?
丹治氏がまつる丹生神社の祭神は丹治家影を丹生明神としている。丹生津姫ではない。丹生祝氏に養子に入った丹治家信は家影の孫である。その子武信が武蔵国に配流され、そこから丹党が生まれる。
丹治家信が天野に丹生明神を持ちこんだのであれば、天野大社の丹生明神は男神(なぜなら丹治家影だから)でなければならない。逆に、もともと天野で祭っていた丹生明神を武蔵で祭るのであれば、武蔵の丹生明神は丹生津姫でなければおかしい。
恐らくは、丹生明神(丹生津姫)はもともと空海が来る以前から天野で祭られていたのだろう。丹生(丹治)家信が空海を高野山に導き、密教を守護する約束をしたことから家信は死後空海によって狩場明神と呼ばれるようになった。空海が丹生明神と狩場明神を勧請したこと、高野山開山の伝説で丹生明神が山王であることから、後世家信の子武信が何かの理由で狩場明神が家信であることから、その上の山王こと丹生明神を家信の祖父家影にしたのだろうと推測する。徳川家康を大権現として祭るのと同じようなものなのかも知れない。
私の推測も丹治武信がなぜ丹生明神を家影にしたのかという動機がみつからないので勝手な推測に過ぎない。つまり、推測で言うのも難しいくらいの謎と言うことであろうか。
もしかしたら、空海が天野に丹生明神をもちこんだのかも?まさか・・・ほんとだったりして。
以上について何か知見がありましたら、みなさまのお知恵をお貸し頂ければと思って書きこませて頂きました。
>玄松子様 八幡社造営に蘇我氏の影というのは思いもよらない考えでした。仏教擁護派の蘇我氏ならではですね。
>福島様 八幡(やわた)製鉄所は明治34年(1901)福岡県遠賀郡八幡村に日本初の製鋼一貫製鉄所と本にでています。応神天皇は筑前うみの宮生まれで福岡県とは関係が深そうです。
>あかね様 はじめまして。紀伊の鍛冶に関する情報ありがとうございます。鍛冶の方はこれから勉強するつもりだったので参考になります。
発足以来のログです。
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