神奈備掲示板の案内とログ
神奈備掲示板
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掲示板のログ(平成十八年十二月 2006.12)お名前の敬称は省略しています。
[8077] Re[8076]: 「姫山と比賣島松原」 神奈備 |
2006/12/31(Sun) 12:02 [Reply] |
いこまかんなびさん、貴重な資料の紹介、ありがとうございます。
> 其の後を追ひ来れる夫の天日矛は、将に難波に入らんとして其の渡の神に塞へられ、入ることを得ずして多遅麻國に去れりと見ゆれば、其の留りし所は難波渡よりも内部ならざるべからす。
神話上の話で、塞えぎった渡の神とは恐らく住吉の神。大阪湾から瀬戸内海に影響を及ぼしている神ですので、難波津より内側とする理由はないように思います。
> 松林繁茂し、且水邊にして島地の観ありしが爲め、舊住地の名を之に命じて比賣島の松原と呼び、其の稱残りて後世に姫山の名を傳へしものならん。
三光神社の鎮座地は上町台地の東側で、有史時代には既に陸地であり、多分小高い丘であったと思われます。従って姫山と呼ばれているのでしょう。さてこのような土地をわざわざ比売島と呼んだのか、説得力に乏しいように感じます。
> 大小橋命を比賣島の東南方なる猪甘津の邊に葬るとせり。
御勝山古墳のことでしょうが、方角は東南と言うよりは南でしょうね。東南というなら西淀川区姫島の方が東南と言うには相応しい角度。
姫島神社の鎮座している姫島は一体いつ頃一応の島らしく水面に出ていたのかどうか、これがよく分からない所です。淀川から流れ出る土砂が積もって出来た島で、全体が平たい感じで丘らしい所はないようです。そう言う意味では万葉集の美人を祭った島ゆえ姫島となり、いつの間にか姫神が阿迦留姫神とされたのかも。
姫山は比売許曽神社に近く、有力な候補地であると言えますね。
皆さん、今年はありがとうございました。よいお年をお迎え下さい。 小生はこれから九州宮崎の天岩戸神社、高千穂神社でお正月を迎える予定です。
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[8076] 「姫山と比賣島松原」 いこまかんなび |
2006/12/30(Sat) 20:14 [Reply] |
こんばんわ。今日も仕事でした。明日はいよいよ大晦日ですね。すこしワープしてちょうど先日勉強会の配付資料で作った資料を『大阪府全誌』からそのまんま資料提供させてください。内容は興味ある人各人で解釈してと。自分の考えはまだ無いのでRe申し訳ないです。
「三光神社の所在地たる姫山は、比賣島松原の遺稱ならんか。比賣島は摂津風土記に「比賣島松原者、昔輕島豊阿伎羅宮御宇天皇之世、新羅國有女神、遁去其夫、来暫留住筑紫伊岐乃比賣島、乃日此島者猶是不遠、若居此島男神尋来、乃更遷来停此島、故取本所住之地名以爲島號」と見ゆるもの是れにして、其の遁れ来りし女神は阿加流比賣なり。 阿加流比賣の留りたる所は同記のみに依れば、一見四方環海の島なるが如し。舊志に西成郡の稗島を以て之に擬するは、同地が島なりしと島名の姫島たりしとに依れり。 然るに古事記に依れば阿加流比賣は難波に留りて比賣碁曾神となると記し、且、其の後を追ひ来れる夫の天日矛は、将に難波に入らんとして其の渡の神に塞へられ、入ることを得ずして多遅麻國に去れりと見ゆれば、其の留りし所は難波渡よりも内部ならざるべからす。 難波渡は已に第三聯合の條に於て記せしが如く、同聯合に属する難波碕の北邊なる天満川の邊なりしこと明なり。是れに依りて見れば阿加流比賣の留りし比賣島松原を稗島なりとするの説は誤れり。稗島にも姫島の稱ありしも、姫島といへるは小島の愛らしさを呼びたるより起れるの稱にして、三軒家に於ける勘助島の舊名も姫島なり。されば単に姫島の名のみに依りて之を風土記の比賣島の松原なりしとは断ずべからず。 然るに此の地は天満川以内なるのみならす、高津丘の東部にありて玉造江に瀕しければ、難波渡を経て此に留り、其の地に松林繁茂し、且水邊にして島地の観ありしが爲め、舊住地の名を之に命じて比賣島の松原と呼び、其の稱残りて後世に姫山の名を傳へしものならん。附近なる小橋里に式内の比賣許曾神社ありしが爲め、或は同社に因みて此の地に姫山の稱ありしが如く見ゆるも、同社の奮地にあらざるを以て同社とは関係なし。 阿加流比賣の留り居りしは此の地なるも、其の祭られたるは舊住吉郡の平野郷なり、居所と祭地との異れるが爲め、復た或は此の地を其の舊地たる比賣島の松原ならざるべしとの疑を生ずるあらんも、古来祭られたる人にして居地と祭地との同所ならざるもの少からず、阿加流比賣を祭れる平野郷は其の居地たらざれども、其の居地たりし此の地とは遠からず、往時に於ける廣き難波の内たりしなるべし。かつ此の地の比賣島たらしことの傍証とすべきものあり、即ち左に掲記する中臣宮處氏の本系帳是れなり。 其の記事に依れば、大小橋命を比賣島の東南方なる猪甘津の邊に葬るとせり。大小橋命は小橋里の條に記するが如く、小橋里に生れて其の地に住したる人にして、其の付近なる猪甘津に葬られ、其の墳は今の鶴橋町大字岡に現在せり。本系帳の記事は此の墓地の所在を示したるものなるを以て、付近の名地を標準の基礎に置きたるものなり。故に其の比賣島は小橋里・猪甘津と程遠からざる附近に求めざるべからず。 此の目的を以て同本系帳に記せる方位を逆に取り、大小橋命の墳より西北に當れる比賣島を求むれば、此の地を措いて之に擬すベきものなし。加之阿加流比賣の後を追ひ来れる天日矛を、古事記には應神天皇の段に記せるも、日本書紀には垂仁天皇三年の條に記し、古事記傳には垂仁天皇の御宇よりも尚往昔のことならんとせり。 古事記傳の説の如くんば、阿加流比賣の遁れ来りし當時にありては、稗島の姫島は其の未だ存在せざりし時代なりしやも知るべからず、かく観じ来れば、阿加流比賣の留りし難波の比賣島の松原を此の地なりとするは、最も穏當の推定には非ざるか。穏當の推定なりとせば、古事記に見ゆる仁徳天皇の豊楽を爲さんとして行幸し給ひし時に、雁の卵を生みし事ある日女島も此の地には非ざるか、尚後の精査を俟つになん。 中臣宮處氏木系帳考詮 中臣連大小橋臣命者、志賀之高穴穂宮治天下天皇命之御世、誕生於浪速國大縣之味原里 家牒云、那美波夜能久邇淤保賀多能阿台布能佐登 而、石村之豊櫻宮治天下天皇之御世、被賜中臣職、至于浪速之高津宮、治天下天皇命之御世 参御也 仕奉而薨去、故葬祭於同縣 家牒云、淤自阿賀多 比賣島之在東南方、猪甘津邊也、
長くてすみません。
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[8075] 姫島の松原 神奈備 |
2006/12/30(Sat) 17:50 [Reply] |
万葉集 巻二 和銅四年歳次辛亥、河邊宮人が姫島の松原にて嬢子の屍を見て悲嘆みよめる歌二首 二二八 妹が名は千代に流れむ姫島の小松の末(うれ)に蘿生すまでに 二二九 難波潟潮干なありそね沈みにし妹が姿を見まく苦しも
二二八の歌意 おとめの名は千代に伝えられるだろう。この姫島の小松が老樹となり苔のむすまでも。
二二九の歌意 難波の潟には引き潮などなくしてほしい。水に入った子のうつくしい姿をむざんに見るようなことはつらい。
中西進『万葉集』の注に、「歌経標式」に、美人の名の角沙弥(つののさみ)を誉むる歌としていると言う。
この姫島を豊国の国東半島の北にある姫島とする説もあるようですが、歌二首で難波潟が出てくるので、難波の姫島だと思います。
『安閑紀』535年、「牛を難波の大隅嶋と媛嶋松原とに放て」とあり、この島々は大阪湾でも微高地だったようです。 式内社ではありませんが、それぞれに応神天皇を祭る大隅神社、阿迦留姫命と住吉大神を祭る姫嶋神社が鎮座しています。
姫嶋神社に阿迦留姫命が祭られたのは、『摂津国風土記逸文』に「比売島の松原、昔応神天皇の御代に新羅の国に女神があった。その夫から逃れて北。筑紫の国の比売島では(新羅からは)遠いとは言えない。この島なら男神が訪ねて来るだろう。それで(摂津の)この島にとどまった。元の名をとって姫島と言う。とあるからでしょう。
尤も、応神天皇の母親の神功皇后が天日矛の数代後の裔ですから、この姫神を天日矛命の妃となった阿迦留姫命とするのには時間軸は乱れている話となりますが、神は時間を超えて降臨されるものですから不問。
この万葉歌は和銅四年ですから711年、記紀が作成されている最中です。姫の名を角沙弥(つののさみ)とし、名は千代に伝えられると言うことですから、その姫を祭神とした神社として姫島神社が創建されたのかも知れません。姓らしい角、日矛と同体のような都怒我阿羅斯等の都怒を思い起こします。
余談 二二八の歌は賛美歌と言えます。日本の国歌のルーツかも。 讃岐国狭岑島(さみねのしま)にて石中の死人を視て、柿本朝臣人麿がよめる歌一首が二二〇番にあり、「さみ」「死人」などが共通であるのも面白いし、その人麿が水中に死すのですから、何かの物語があったのかも知れませんね。
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[8074] RE[8073] ご心労をおかけしております。 倭亜布 |
2006/12/26(Tue) 18:40 [Reply] |
> 555: 蘇我稲目らを遣わせて吉備の5郡に白猪屯倉をおく (『日本書紀』) > 屯倉が置かれていない国の謎:讃岐、伊予、吉備、出雲など お陰さまで「吉備の5郡に白猪屯倉をおく」から・・・考えました。
「出雲は賊と結束、朝廷軍に反旗を立てた。暫らくの間、一進一退の戦闘が続くが、瀬戸内を制圧した、稚武彦軍が到着、黄泉坂の激しい戦闘(黄泉の国神話のもと?)の後、出雲、山賊の連合軍を破り、出雲軍を封じ込めた朝廷軍だが、神祖スサノオの本拠地でもある出雲を跳略するわけにもいかず、双方身動きの出来ない状態がつづいた。 」 「双方協議を重ねた結果、出雲にも信望のあった倭迹迹日百襲媛を大和朝廷の上に位ずけ共立、最高位に据え裁量を与えること、スサノオ神器を持って祭祀を行うこと(三種の神器、祝詞)などを持って合意、ここで始めて大和朝廷の日本制覇(熊襲、蝦夷を除く)が完了した。 」
「4世紀から5世紀にかけて、ヤマトの大王家は吉備一族と政治的な同盟や婚姻関係を結んで、なんとか大和朝廷の配下にこの地域を組み込もうとした。 ... それを裏書きするような吉備一族の反乱が何回も生じている。 …」 「キビツヒコは異母弟の若日子建吉備津彦命(ワカヒコタケキビツヒコノミコト)と協力して吉備国を平定したことになっている。」 (婚姻による調停が成立) http://www.bell.jp/pancho/travel/kibiji/history.htm
かってはヤマト王権に対抗するほどの勢力を持った吉備一族の地に古代豪族の蘇我氏が屯倉造営に固執したのは、大和朝廷の日本制覇が完了して無いことを覗わせます。
大乱の始まり 「160年ごろ、寒冷期に入り中国、韓国、日本共に恐慌に喘ぎ、人心が乱れ、賊(鬼)が各地で暴れだした、大和傘下にあったとはいえ、四国、中国、九州の旧「倭国」に属する国々の殆どが自治国家の体制をとっていた中、日向と袂を別った出雲は、神祖スサノオを尊ぶあまり、大和の指揮下に入ろうとしなかった為、この地に於いて賊たちが、あちらこちらで暴れまわった。 」 (この頃大陸では大秦国(ローマ帝国)の影響か、乱れる。巨大な外敵の出現が調停による平定をさせたと思えます。)
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[8073] Re[8072][8071]:
白猪(白丁?) 屯倉を調べました。 神奈備 |
2006/12/26(Tue)
09:25 [Reply] |
倭亜布さん。
> 555: 蘇我稲目らを遣わせて吉備の5郡に白猪屯倉をおく (『日本書紀』)
>
屯倉が置かれていない国の謎:讃岐、伊予、吉備、出雲など
サイトの紹介よりも、上記のコメントは矛盾していますね。これを解明してから、書き込んで頂くのが筋ではないでしょうか。
皆さんは、パソコンを働かせているだけではなく、頭をも一生懸命に働かせています。
nickさん、管理者がしっかりしておりませんので、ご心労をおかけしています。 |
[8072] Re[8071]: 白猪(白丁?) 屯倉を調べました。 nick [Url]
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2006/12/26(Tue) 08:03 [Reply] |
おはようございます。 私は一日1回はこのサイトを覗かないと可笑しくなります。笑。 多分倭亜布さんのその口。いうなればお仲間。 しかし、ここはサイトを紹介する掲示板ではないので 通例の「史資料」からのデーターをアップして頂ければありがたいのですが いつもリンク集がずら〜並んで、、読むほうは疲れます。
ご配慮をお願いしていますが、なかなか改善されないご様子。 こうなると、倭亜布さんはもう完全なる病気でしょうか。 私は「苦言を呈する病気」??
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[8070] Re[8069][8068][8066]: 日神と猪 神奈備 |
2006/12/25(Mon) 09:33 [Reply] |
> この供物の白猪は、ずばり、豚のことだそうです。
みとせさん、おはようございます。 素直に考えればそうでしょうね。身も蓋もありませんが。
近江は牛では知られていますが、豚もあるのですね。
最近読んだのでは、鎌田東二さんと五木寛之さんの対話集の『霊の発見』が興味深いお話が多く、おすすめです。御歳神社と船宿寺との対話のような感じでしょうかね。
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[8069] Re[8068][8066]: 日神と猪 みとせ [Url]
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2006/12/24(Sun) 18:27 [Reply] |
> 延喜式の御年皇神の前に供えるものとして、白馬、白猪、白鷄があります。この猪は動物としての白猪であって、神の遣いでもなければ、神が姿を変えたものでもありません。
神奈備さん、こんにちは。 この供物の白猪は、ずばり、豚のことだそうです。 近江国の古い記録に、御歳神に捧げる為に養殖しているとの記録があるそうです。
伊吹山の猪は今も強力な神様であられるのではと思います^^
話は変わりますが、朝日新聞に夢枕獏「宿神」の連載が始まりました。 序の巻は「精霊の王」 以前神奈備さんにご紹介頂いた中沢新一著「精霊の王」の引用のようです。 どんな脚色がされるのか、少々楽しみにしています。 |
[8068] Re[8066]: 日神と猪 神奈備 |
2006/12/24(Sun) 14:55 [Reply] |
延喜式の御年皇神の前に供えるものとして、白馬、白猪、白鷄があります。この猪は動物としての白猪であって、神の遣いでもなければ、神が姿を変えたものでもありません。 大和の御歳神社の由緒に取り入れられている『古語拾遺』に記載の御歳神についてのエピソードで、神の怒りをなだめる供物とされているのが延喜式に取り入れられたようです。
『欽明紀』三十年(五六九)夏四月。膽津檢閲白猪田部丁者。依詔定籍。果成田戸。天皇嘉膽津定籍之功。賜姓爲白猪史。 天皇は膽津の戸籍を定めた功をほめて、姓を賜い、白猪史(しらゐのおびと)とされた。 これなどは、一応、白猪を良いものとしてのお話です。
伊吹山では強力な神であった白猪も、それ以降の時代には、すこしだけいい物程度に成り下がったのかも。
> もう少し深層を探れないものか、と気長にやってみます。 大三元さんのこのスタイル、いいですね。オリジナリティの源泉なのでしょうね。
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[8067] 十二社神社、十二所神社、十二神社 神奈備 |
2006/12/24(Sun) 09:59 [Reply] |
十二の冠を持った神社は全国で約700社、愛知県以西で120社、東の方に圧倒的に多く分布しています。
特定の職業者が営まれる講で共通の信仰対象を持つ中に、山の仕事をする炭焼きや猟師の山神講があり、十二祭り、十二様と呼んでいるのですが、その名残の神社と考えることができそうです。
熊野信仰も十二神に関係するようで、速玉大社は十二神、また熊野十二神社などもあり、これも山神信仰に端を発しているのかも知れません。 |
[8066] Re[8061][8059]: 日神と猪 大三元 |
2006/12/23(Sat) 11:42 [Reply] |
神奈備さん > 日本武尊が伊吹山でその大きさ牛の如くの白猪に出会っています。こんもりとした白い雲は時として猪のように見えることもありましょう。豚や猪に対する観念は大陸や半島の人々のほうが列島の人より尊ぶようだったと記憶しています。猪に対する最高の敬称が白雲なんてことは・・・青草にも書けない・・。
霊力の強い人は雲として登場し、その姿を見破るにはこれまた強い霊力が要る、という考え方がアイヌのユーカラにあります。私は、サルタヒコを見破ったアメノウズメの物語にこの考え方を見る思いをします。
というわけで、神奈備さんの「こんもりとした白い雲は時として猪のように見えることもありましょう」というご指摘(それ自体の説得力は正直言ってあまり高くないように思えるのですが)が興味を惹きます。つまり「白猪」が霊力の強い相手(敵)を表象しているのか、という見方が出来そうだからです。
青草度が上がってしまいそうですが、「猪」の音は「ゐ」、「ゐ」と発音する字には「委」もある。「委奴」という国名と「猪野、井野、居野」などの地名は類似度が高く、何か背景を想像出来そうに思えまして、とりあえずこれらの地名分布を見ております。九州にも多い、千葉に多いのも面白い。「ゐ」という音、それが古語で「猪、井戸、藺草、居る、坐る、座る」などを意味することは辞典に出ていることだが、もう少し深層を探れないものか、と気長にやってみます。 |
[8065] Re[8061][8059]: 日神と猪 大三元 |
2006/12/22(Fri) 17:31 [Reply] |
神奈備さん > 井と水の交換、沖縄古語の日、光、川から水が発想されたのでしょうかね。
具体的な語については別に考えるとして「沖縄古語・・・から・・・発想された」という所を、念のためもう少し精確にしておきたいと思います。(奈良・平安時代の人が「沖縄古語」を参照したのか、と誤解されるのを避けるために。)
大和側の古語と琉球側の古語はともに「和琉祖語」(仮称・弥生語)に遡れる、と仮説します。(服部四郎を参照すると西暦3世紀辺り)
そして「和琉祖語」から分離した後、大和古語と琉球古語はそれぞれで時間経過を経て、奈良・平安頃までに、異なって行った部分もあり共通点も残っている、と考えます。(更に時間が経過して近代・現代では奈良・平安頃よりも差異が大きくなっていると考えます。)
こういう考え方のもとに、奈良・平安時代の和語の意味範囲を「沖縄古語」で探ってみよう、という作業が出来るものと考えます。
具体的に「井戸」という概念を「ゐ」という音で云うことが普通になっていても、奈良・平安を基準にして更に昔には「か(は)」という音でも表現していた「記憶」があったのではないか、という推定をします。
同様に「日、太陽」を「ひ」という音で云うことが普通になっていても「か(は)」という音でも表現していた「記憶」があったのではないか、と。
「猪」と「日」を結びつける多段論法のご提案をしましたのは上記のような考え方によります。 |
[8064] 夏至と冬至 神奈備 |
2006/12/22(Fri) 15:43 [Reply] |
今日は冬至だそうです。地平線上での日の入り、日の出の角度については、下記のようにのびられており、たいして疑いを持たずに来ました。
それは夏至の日の出は冬至の日の入りと一直線、夏至の日の入りと冬至の日の出は一直線。
手元に『理科年表』がないので、下記のHPを見てみました。 http://www.nao.ac.jp/koyomi/koyomix/koyomix.html
これによりますと、東京での今年の夏至、冬至の日の地平線上の角度です。角度は北を基準として東まわりで表示。
夏至 6月21日 日の出 60.0 日の入り 300.0 冬至12月22日 日の出 118.6 日の入り 241.4
要は左右対称ではなく、1.4度ずれていると言うことです。
これは平地とか海上での話ですが、例えば50km先では1.2kmもずれるのです。何故このように1.4度の差異が出るのかですが、地軸が若干ぶれているということかも。
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[8063] Re[8062]: 日神と猪 神奈備 |
2006/12/22(Fri) 08:56 [Reply] |
> 大分宇佐神宮近くの和気清麻呂を祭祀する末社「護王神社」は狛犬です。(猪には見えなかったな)
http://www.geocities.jp/kikunosato2005/sub240.html 上記HPによりますと、下毛郡(現三光村田口)には宇佐の摂社猪山社(チョサン)が鎮座し「豊前志」によれば清麻呂が大隈国へ配流の時、猪多く来て彼を負って宇佐宮に詣で、猪は 八面山の麓に入った、という縁起譚を伝えている。 とあります。
三光村田口には箭山神社が鎮座し、清麿公を合祀していますが、多分かっては独立した猪山社だったのでしょう。
清麿公を祭神とする神社は『平成祭礼CD』によりますと、摂社を含めて22社。清麿さんは大阪では摂津職(今の知事のような役人)となって、運河を作ろうとしたようです。その縁でしょうか、河掘稲生神社の摂社に配祀されています。
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[8062] Re[8060][8057][8054]: 日神と猪 nick [Url]
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2006/12/21(Thu) 20:46 [Reply] |
> 京都の御所の西側に護王神社があり、祭神は和気清麻呂、狛犬が狛猪になっています。
当地の和気神社も「白猪」です。 大分宇佐神宮近くの和気清麻呂を祭祀する 末社「護王神社」は狛犬です。(猪には見えなかったな)
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[8061] Re[8059]: 日神と猪 神奈備 |
2006/12/21(Thu) 09:34 [Reply] |
> 日本書紀の「井光」を「ゐひか」と読む(習わしになっている)のは古事記に「井氷鹿」とあるからなのでしょう。私はこの部分の伝承が丹後風土記残欠に類似のものがあり、それと比較対照してみるに「ゐかり、いかり」と理解するのが良さそうだと思っています。 http://www.dai3gen.net/tango_yosi.htm 吉野町の吉野川の南には井光山もあり、飯貝の字もあります。「ゐかり、いかり」の読みが素直ですね。 丹後 伊加里姫命 白雲山 吉野 光井女 水光姫 白雲別神
日本武尊が伊吹山でその大きさ牛の如くの白猪に出会っています。こんもりとした白い雲は時として猪のように見えることもありましょう。豚や猪に対する観念は大陸や半島の人々のほうが列島の人より尊ぶようだったと記憶しています。猪に対する最高の敬称が白雲なんてことは・・・青草にも書けない・・。
井と水の交換、沖縄古語の日、光、川から水が発想されたのでしょうかね。
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[8060] Re[8057][8054]: 日神と猪 神奈備 |
2006/12/20(Wed) 19:05 [Reply] |
> 「和気清麻呂」が当地へ流配されるおり山中で迷いそうになった時『猪』が案内をしたそうです。
豊前国の八幡神に来た時は歩ける状態ではなかったが、立って歩くことが出来るようになったと言います。 『豊前志』によれば、清麻呂が大隈国へ配流の時、猪多く来て彼を負って宇佐宮に詣で、猪は八面山の麓に入った、という縁起譚があるそうです。
京都の御所の西側に護王神社があり、祭神は和気清麻呂、狛犬が狛猪になっています。
> 「猪」と云えば関西なら「六甲」も有名ですよね。
六甲山はじめ生駒山などに今でもいるようです。『古事記』葛城山では雄略天皇が猪にびっくりして木にかけ登っています。『日本書紀』では雄略天皇の舎人が登ったことになっていますが・・。 猪は生命力が強く、子孫繁栄の象徴のような動物なので、多分今でも金剛・葛城山系にはその猪の子孫が沢山いることでしょう。
>「猪切藪(ししきりやぶ)」ともいう。 隼人の生命力の旺盛さを獅子に例えたのか、宇佐八幡のお遣いのように和気清麻呂の時に猪が多く現れたのは面白い符合です。「しし」は宍ですが、これは猪と解してよろしいのでしょうか。
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[8059] Re[8056][8055][8054]: 日神と猪 大三元 |
2006/12/20(Wed) 14:12 [Reply] |
神奈備さん、 ご興味を持って下さり有り難うございます。 > 吉田東伍博士は吉野郡飯貝(いいがい ゐゐがい?)は『神武紀』井光(ゐひか)の地に比定されています。『神武紀』は「ここに、人が居て井戸の中から出てきた。その人は体が光って尾尾があった。」とあります。
日本書紀の「井光」を「ゐひか」と読む(習わしになっている)のは古事記に「井氷鹿」とあるからなのでしょう。私はこの部分の伝承が丹後風土記残欠に類似のものがあり、それと比較対照してみるに「ゐかり、いかり」と理解するのが良さそうだと思っています。 http://www.dai3gen.net/tango_yosi.htm
なお、吉野郡飯貝を井光に比定するのは記伝によるもののようです。(岩波、日本書紀、頭注) |
[8057] Re[8054]: 日神と猪
nick [Url] |
2006/12/20(Wed)
10:17 [Reply] |
)のイメージから天照大神が出るのか、はたまた猪も出るのか、一緒に出てくるのか、なにかあるのでしょうかね。
しゃしゃり出て恐縮ですが、
この春探訪した国分市重久の 「止上神社」と「隼人の首塚」について こんな伝承があります。 (以前もちょっとアップしたような)
http://www.google.co.jp/maps?ie=UTF8&oe=UTF-8&hl=ja&q=&z=16&ll=31.773145,130.789597&spn=0.011091,0.014076&t=h&om=1
この塚は、 別名「隼人の首塚」といい、 捕虜となって斬首された隼人族 の霊を慰たと云われる。 「猪切藪(ししきりやぶ)」ともいう。
周辺の水田を 真板田(まないただ) と呼び、 毎年、1月14日を狩猟の日として、 この日獲れた猪の肉を 33本の串に差して 隼人の霊を鎮める祭りを したと伝承される。
昔は、 「にえまつり」とか「ほぜさあ〜」 ともいい、 正月14日の「餅の日」には、 「ほぞえ祭」があったが。。
====>>「ほぜさあ〜」 という名称で呼ばれる祭りとしては、
霧島神宮の 秋の例祭(11/23)がある。 こちらはどちらかというと 「豊饒祭(豊年感謝祭)」の色合いが濃い。
#
にえ(なえ)汁:野菜などは全て刻まないで煮る。 近くには、「隼人族」の守護神を祭った 「止上神社」がある。
また話題は変わりますが 「和気清麻呂」が当地へ流配されるおり 山中で迷いそうになった時『猪』が案内を したそうです。
日本後記:延暦18年(799)二月乙未条
豊前國宇佐郡若田村 有野豬三百許 挟路面列 徐歩前駆十里 走入山中
ま、「花札」にも登場するポピュラーな動物ですから 多様な伝承が多いのもうなずけますが。 「猪」と云えば関西なら「六甲」も有名ですよね。 今の時期、「ししなべ」は温まります、これでも食べて風邪を治したい。
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[8056] Re[8055][8054]: 日神と猪 神奈備 |
2006/12/20(Wed) 09:19 [Reply] |
> 「井」の音は「ヰ」ですから「猪」と同じ音です。こんなあたりが根源かも???
大三元さん、興味深いサゼッションありがとうございます。 http://www.dai3gen.net/kunikakasu2.htm ですね。
神功皇后も日神ですが、日神が東に移動している最中に香坂王が赤猪に喰い殺されています。猪の登場の仕方はだいぶ違うのですが、日神と猪の同時出現の話ともとれないことはありません。
吉田東伍博士は吉野郡飯貝(いいがい ゐゐがい?)は『神武紀』井光(ゐひか)の地に比定されています。『神武紀』は「ここに、人が居て井戸の中から出てきた。その人は体が光って尾尾があった。」とあります。 水銀採掘者との見方もあるのでしょうが、猪の姿ともとれます。
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[8055] Re[8054]: 日神と猪 大三元 |
2006/12/19(Tue) 23:03 [Reply] |
> 日向(南九州)のイメージから天照大神が出るのか、はたまた猪も出るのか、一緒に出てくるのか、なにかあるのでしょうかね。
日前の語義探索時に: 『沖縄古語大辞典』によると「かは」には「皮」の他に「川、井泉、井戸」の意味と、「日」の意味が出ている。三日(みっか)などの「か」と同じ、とある。つまり沖縄古語を介すれば「日」と「溝、水、井戸」などがつながるのである。 と書きました。「井」の音は「ヰ」ですから「猪」と同じ音です。こんなあたりが根源かも???
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[8054] 日神と猪 神奈備 |
2006/12/19(Tue) 19:40 [Reply] |
来年の干支は猪です。 『播磨国風土記』の賀毛の郡の山田の里に面白い記事があります。 猪養野(いかいの) 猪飼とよぶのは、難波の高津の宮に天の下を治められた天皇のみ世に、日向の肥人、朝戸君が天照大神のおられる舟の上に猪を持参してきて献上し、どこで飼ったらいいか、その場所を賜るように求め、お言葉を待った。そこでその場所を賜り、猪を放し飼いにした。だから猪養野という。
さて、天照大神のような日神が舟に乗るの『住吉大社神代記』にも出ているのですが、日神に猪が献上されるお話はあまり聞きません。吉野裕訳の『風土記』の注には、伊勢神宮に猪の 膏や毛皮を貢納する猪飼部の話とあるのですが、何故、日向(肥後国益城郡麻部郷)の人なのか、なにかあるのでしょうかね。
上賀茂神社の伝承に、人に猪頭をかぶせて駈けさせる祭りがあったそうですが、これは狩猟民族のにおいがします。猪を狩る儀礼は大隅半島の柴祭や山ン神講の講狩などがあるそうです。 日向(南九州)のイメージから天照大神が出るのか、はたまた猪も出るのか、一緒に出てくるのか、なにかあるのでしょうかね。
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[8053] 無題 PONTA |
2006/12/18(Mon) 21:07 [Reply] |
「内野山」「島広山」で検索したら、「山」ではなく「台地」とありました。 「林」ではないですねぇ。 |
[8052] Re[8051][8050][8048][8047]: かむなび PONTA |
2006/12/18(Mon) 21:04 [Reply] |
> あの地方(茨城)では「山」という名称は「林」のことを指す。
茨城は行ったことがないので分からないのですが、平野で、山がないらしく、「山」とあっても、それは山ではなく、林を指すのだそうです。 |
[8051] Re[8050][8048][8047]: かむなび PONTA |
2006/12/18(Mon) 20:59 [Reply] |
> > > 茨城県では森のことを山というのだそうです。
あ、今、読み直したら間違いでした。すみません。正しくは、
あの地方(茨城)では「山」という名称は「林」のことを指す。 「内野山」とか「島広山」とか。
でした。 |
[8050] Re[8048][8047]: かむなび PONTA |
2006/12/18(Mon) 20:54 [Reply] |
> > 茨城県では森のことを山というのだそうです。
今読んでる平将門の本に出てきてます。 古語じゃなくて方言なのかな? |
[8049] 浪速の鯉の物語 補 神奈備 |
2006/12/18(Mon) 19:36 [Reply] |
> 住吉津は重要な港でしたが、大和への水運がなく、大きい倉庫群ができるような環境ではなかったのかも。
これは訂正します。難波の屯倉は他に以下があります。
仁徳紀 住吉郡に依網屯倉 安閑紀 三嶋郡に竹村屯倉
特に依網屯倉は今の大依羅神社付近としますと、住吉津とは3km程度の距離。
ついでに難波の津の他のもの。
応神紀 桑津 四天王寺の南東2km。 仁徳紀 猪甘津 鶴橋の東
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[8048] Re[8047]: かむなび 神奈備 |
2006/12/18(Mon) 11:03 [Reply] |
> 茨城県では森のことを山というのだそうです。
常陸国風土記には森の字が出てこないようです。社でモリとするのはあります。
山、岳、丘は出てきますし、それなりに使い分けがなされているように見えます。森を山と表現しているのかどうかはよく判りません。 |
[8047] かむなび PONTA |
2006/12/17(Sun) 17:58 [Reply] |
「かむなび」の後には「山」「森」「原」が来るわけですが、茨城県では森のことを山というのだそうです。古代では森と山を区別していなかった? |
[8046] Re[8044][8039][8037][8036]:
遠山の霜月祭 PONTA |
2006/12/17(Sun)
17:56 [Reply] |
> 万葉集 >
阿礼は地名として出てきます。荒れた云々のようです。
いづくにか 船泊てすらむ 安礼の崎 漕ぎたみ行きし 棚無し小舟 何所尓可 船泊為良武 安礼乃埼 榜多味行之 棚無小舟
「安礼(あれ)の崎」は、賀茂真淵が「新居(あらい)」(東海道新居宿。関所があったことで有名)だとし、「新居」は「荒井」とも書き、その語源は「波が荒い」と考える人もいましたが、「居」「井」は「ゐ」であって、「荒い」の「い」とは違います。(PONTA説は「新井」(新しい井戸)ですが、通説はアイヌ語の「アラウィ Arawe 泡」)です。) 現在、新居説は否定され、安礼の崎は愛知県蒲郡市西浦町の御前崎(西浦半島先端。稲村神社)か愛知県宝飯郡御津町御馬梅田(音羽川河口。御馬神社)であるとされ、、「安礼」=「阿礼」=「神の杜」の意とする説や、「荒れの崎」とする説があります。 |
[8045] Re[8042][8032]: 浪速の鯉の物語 神奈備 |
2006/12/17(Sun) 09:54 [Reply] |
とみたさん、おはようございます。大阪もいよいよ今晩から冬本番です。
> 難波掘江の開削は、仁徳期で5世紀、難波屯倉は安閑期で6世紀とされ時代の隔たりもある。
この難工事、仁徳期で完成したのかどうか、また難波屯倉は発掘の結果、どうやら5世紀に遡るようです。(『クラと古代王権』直木孝次郎ほか P.23)
11.難波宮の終焉
『続日本紀』巻廿四天平宝字六年(七六二)四月丙寅《十七》の記事 遣唐使駕船一隻自安藝國到于難波江口。著灘不浮。其柁亦復不得發出。爲浪所搖。船尾破裂。 遣唐使船が難波津で座礁したとの記事。砂が堆積してきて港としての機能が果たせなくなりつつあるようです。
桓武天皇が平城京から長岡京に遷都しました。平城京の諸門を長岡宮に移したと記されていますが難波宮の建物を移したとは記載されていません。
所が長岡京から出土した瓦は70%程度が難波京の瓦です。軒瓦だけではなく建物をそのままなのか、木材として再利用されたのか、難波京が破壊されていったのでしょう。 神崎川経由でしょうが淀川を遡って運搬できたので、平城京からよりも便利だったということ。
長岡京への遷都にともなって、難波京は廃しされました。財政再建の意味もあったのでしょうが、二都を廃止し、新しい都での新しい政治を目指したと云うことだったのでしょう。
古代的なものからの訣別がなされたように見えます。end
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[8044] Re[8039][8037][8036]: 遠山の霜月祭 神奈備 |
2006/12/16(Sat) 18:10 [Reply] |
松葉さん、こんばんは。 > 古典や祝詞によくあるところの「アレマセル」(生れ坐せる)の義ですね。
岩波文庫版ですが、古事記や日本書紀には「アレマセル」のルビはありません。
古事記 イザナギの命が禊祓をおこなって安曇や住吉の神々が生成されますが、「成れる神」との表現で「なれるかみ」と訓みます。原文は「所成神名」。
日本書紀 因りて生める神を、号けて表津少童命と曰す。「生める神」は「うめるかみ」です。原文は「因以生神」。
万葉集 阿礼は地名として出てきます。荒れた云々のようです。
住吉大社神拝詞 祓詞 御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神達 「生り坐せる」は「なりませる」の訓。
ここまでは、生成は、成るとか生めるとの表現です。次の続日本紀では、ようやく、 天皇御子之阿礼坐〈牟〉 天皇の御子がお生まれになり、と、「阿礼」が生まれる事を指してきています。ないわけではなさそう。
賀茂大社の御阿礼神事には、五色の「阿礼の幡」が立てられました。幡は呪物で、現在でも神殿に立てられたりします。八幡の神の八流の幡も呪物だったのでしょう。
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[8043] Re[8037][8036]: 遠山の霜月祭 PONTA |
2006/12/16(Sat) 18:00 [Reply] |
>阿礼はヒラヒラひるがえる物を云う神事用語です。 これは初耳です。 ぐぐったら、「阿礼=神や貴人の誕生。普段は隠れた霊性の出現」という説明は見つけました!
>比礼もタマフリの呪物で、物部氏の十種神宝にも入っています。 これは知っています。魚のひれのように振れば魂が揺さぶられて死者も蘇る布きれですね。 巫女の埴輪の写真の解説で、この巫女がまきつけている布が「比礼」だと何かの本で読んだことがあります。 布を振ることは呪術なのでしょうね。 『万葉集』の有名な歌に 茜さす 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流 があって、これを読んだときに「なぜ『袖振る』?『手を振る』ではないの?」「それを野守に見られても問題ないのでは?」と思ったのですが、万葉時代、「袖を振る」というのは「君が好きだ」という意味で、「私も好きよ」と言う時は袖を振り返したそうです。振り方も決まっていたようで、確かにそういう手話(袖話?)なら、野守に見られてはまずいなと思いました。 袖を振るとか、布を振るというのは古代では特殊な意味があったわけですが、その「比礼」と「阿礼」は関係するのでしょうか? 「阿礼」が「ヒラヒラひるがえる物を云う神事用語」であれば関係しそうですね。もっと勉強しますね。本の紹介、ありがとうございました。早速探して読んでみます。 |
[8042] Re[8032]: 浪速の鯉の物語 とみた |
2006/12/16(Sat) 12:37 [Reply] |
神奈備さん 大変興味深くこのシリーズを読んでおります。
浪速の恋さん(何で泣きはる♪)、東京の銀座の恋さん(銀座の恋の物語♪)もありますよ。鯉さんとはドンと来いです。
駄洒落はさておき、鳴滝倉庫、難波の倉庫、寝屋川の茨田、仁徳、孝徳・・・いろいろ話がつながって面白いですよ。
論文で難波・住吉と渡来人ー港の発展と管理をめぐってーを読みました。神奈備さんの話とダブります。
住吉郡は渡来人が少ない(田辺氏以外に渡来人はほとんど見られず)。住吉津は4-5世紀に栄える。津守連が運営する。
難波津も5世紀には港として栄えたであろうが住吉津を圧倒して繁栄したのは5世紀後半以降で港に関係する渡来人が定住する。堀江が開通して淀川と大和川と難波津がつながり船の行き来が便利になる。
難波津に関係した渡来人は主として東生(成)・西成の地に住んだらしい。うち三宅忌寸・三宅連(天日矛が祖)は新羅系、吉士系も新羅系の可能性が大。吉氏は航海や外交に優れ三宅は屯倉の管理運営に優れていた。
百済系渡来人が増加するのは7世紀後半、白村江の戦いの敗戦以降と考えられる。難波の東南の百済郡に住んだ。
難波掘江の開削は、仁徳期で5世紀、難波屯倉は安閑期で6世紀とされ時代の隔たりもある。 秦氏は土木工事に秀でているので、堀江も難波津も茨田堤も開削したのでしょう。 茨田と西成は10数キロしか離れていないので、秦氏の後裔の三宅氏も西成に住んだのでしょうか、秦氏は新羅の出身という説もあります(中国江南出身説その他説もありますが)のでこの周辺は新羅連合に思えます。??
ついでに、仁徳の時代はいつか、これも謎です。応神と仁徳が時代的にダブっていること、仁徳の在位年数が311-399年と87年と長過ぎるからです。 日本書紀の紀年の論文で、倉西裕子さんの推定をご紹介します。
史実との整合性から基準年が二つあります。A)応神元年は390年とする B) 雄略元年は457年です。
仁徳元年はA)を当てると、433年に B)を当てはめると313年になるそうです。
それ以外に、C)古事記には天皇の没年の干支 D)日本書紀には天皇の即位干支
が適用可能だそうです。
結論的に、仁徳元年・・・397年と推定し
在位年数は31年間。応神の没年は崩年干支により394年と推測され3年の空白を
経て仁徳が即位された。
> 6.住吉津と難波津 > > 住吉津と難波津を比較しますと、住吉津の近くには住吉大社、大海神社、船玉神社など海の神を祀る神社が多く鎮座していますが、難波津には難波坐生国咲国魂神社、坐摩神社などが鎮座、海や航海の神々は見あたりません。航海安全の祭祀や禊ぎは住吉にお願いして難波はもっぱら荷物の受け渡しなどだったのでしょう。 > > 住吉津を管理したのは津守連で『姓氏録』では火明命男天香山命之後也とあります。丹後の海部氏や尾張氏とルーツは同じようで、海神族のようです。 > > 一方、難波津の管理は難波屯倉の管理者と同じと見ていいのでしょうから、三宅忌寸で、新羅の王族の天日槍命を祖とする三宅連と同族と見ていいのでしょう。渡来系の氏族は文字や数字に明るく、倉庫管理などに力を発揮したと云うことでしょう。その分の余録も多く、それぞれが力をつける源にもなったということ。 > > 先に磐之媛のお話を出しましたが、媛が生んだ仁徳天皇の皇子が住吉仲皇子です。磐之媛は葛城氏の出で、神功皇后の母が葛城高額媛と云う関係があり、住吉と葛城とは深いつながりがあったと云うべきでしょう。 > > 仁徳天皇の後の皇位は住吉仲皇子の同母兄の履中天皇で、高津宮で即位しようとしたのですが、弟の住吉仲皇子が安曇連浜子や淡路の野島の漁師を使って履中天皇の暗殺をはかったのですが、逆に殺されてしまいました。海神系の氏族の象徴である住吉の名を頂いた皇子が敗れ去って、難波津の勢力が住吉の勢力を上回ったと云うこと。 > |
[8041] 浪速の鯉の物語 神奈備 |
2006/12/16(Sat) 11:16 [Reply] |
10.聖武天皇 続日本紀から
神亀二年(725)冬十月 天皇は難波宮に行幸された。 神亀三年(726) 十月十九日 天皇は播磨国からの帰途に難波宮に至った。 神亀三年(727) 十月二十六日 藤原宇合を知造難波宮事に任じた。難波宮の造営を始めた。 難波宮の造営は天武天皇が着手するも火災・病気により出来なかった。聖武天皇は天武の後継者を自認、事業の継承をしたと、『難波京の風景』は指摘しています。
天平四年(732)三月二十六日 知造難波宮事の宇合などに物を賜った。造営工事が完了したのだろう。
万葉集巻三 三一二 昔こそ 難波いなかと 言われけめ 今都引き 都びにけり 万葉集巻六 一〇六三 あり通ふ 難波の宮は 海近み 海人娘子(あまおとめ)らが 乗れる舟見ゆ
万葉集巻九 一七二六 難波潟 潮干に出でて 玉藻刈る 海人娘子ども 汝が名告らさね
天平十七年 八月二十八日 天皇は難波宮に行幸された。彷徨する天皇であって、難波宮に落ち着いておらず、奈良京を都としていたのかも。
天平十七年 九月十三日 天皇は「朕はこの頃病気がち。」と勅した。難波京で病を治そうと考えていたのかも。八十島祭の萌芽がみられる。
天平勝宝七歳冬十月二十一日 太上天皇(聖武)は健康がすぐれない。 天平勝宝八歳 三月 二日 太上天皇(聖武)は難波の堀江のほとりに行幸された。 天平勝宝八歳夏四月十四日 太上天皇(聖武)のお体が不調になる。
この太上天皇の難波行きは、堀江で祀りを行い、生命力を振るい起こすもの。八十島祭りの原型が見られる。
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[8040] Re[8039][8037][8036]: 遠山の霜月祭 PONTA |
2006/12/16(Sat) 01:12 [Reply] |
> > > 「阿礼(あれ)」の語源は不明だそうですが、私は「阿」=「新たな」、「礼」=「霊」だと思います。
> 素直に御阿礼(ミアレ)というところから解して、 > 「御+生れ」=「ミ・アレ」=「御出現」としても良いと思われます。
確かに、古代では「霊」は「れい」ではなく「たま」でしょうね。 京都の賀茂別雷神社(通称「上賀茂神社」)の「御阿礼祭」は「御生神事」とも言いますので、「御+生れ」=「ミ・アレ」=「御出現」が正解かな。 |
[8039] Re[8037][8036]: 遠山の霜月祭 松葉 |
2006/12/15(Fri) 22:05 [Reply] |
> > 「阿礼(あれ)」の語源は不明だそうですが、私は「阿」=「新たな」、「礼」=「霊」だと思います。
たまの出現で失礼いたします。 礼を音読の「霊」に安易に当てはめるのではなく、 素直に御阿礼(ミアレ)というところから解して、 「御+生れ」=「ミ・アレ」=「御出現」としても良いと思われます。 古典や祝詞によくあるところの「アレマセル」(生れ坐せる)の義ですね。 賀茂などで行われるミアレ神事なども、 神籬を見立てて御神霊を招き奉ることと共通するものですから、 ある意味で「霊」の降臨を請い願うものと言い換えることも可能かもw |
[8038] 浪速の鯉の物語 神奈備 |
2006/12/15(Fri) 15:44 [Reply] |
9.天武天皇
天武八年(679)十一月、初めて竜田山・大坂山に関所を設け、難波に羅城を築いたとの記事が『日本書紀』にあります。竜田山と大坂山は河内から大和へ入る主要な道です。竜田山は今はJR大和路線、大坂山は近鉄が二本隣接して走っています。 難波に設けた羅城とは、四方に設けた城壁のことで、将来の京の羅生門のはしりだったようです。 天武天皇の時代は新羅との国交も回復し、対外的な防衛ラインの意味はあまりなかったはずです。西日本の勢力が反乱を起こす徴候があったのかも。
天武十二年、「都城や宮室は一カ所だけということなく、必ず二、三カ所あるべきである。それ故まず難波に都を造ろうと思う。」との詔が出た。
天武十四年十一月の『日本書紀』に面白い記事があります。 ●官用の鉄一万斤を周防総令のもとに送った。 ●官用のふとぎぬ百匹、糸百匹、庸布四百常、鉄一万斤、箭竹二千本を筑紫に発想した。
これは戦の準備ではなかろうか。筑紫に遣わした防人(さきもり)が難破漂流した記事もあり、相手は新羅なのか、海賊なのか、はたまた隼人なのか。
『紀』によれば、「12月14日に難波の大蔵省から失火、宮室がことごとく焼けた。ただ兵器職だけは焼けなかった。」とあります。それでも天皇は飛鳥で連日の宴を催しています。翌年、天皇は病に倒れます。 難波宮の復興は全く急いだ感じではなく、難波大蔵のみ復興しています。物産の集散地の役割が大きかったのでしょう。これは江戸時代までそうです。
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[8037] Re[8036]: 遠山の霜月祭 神奈備 |
2006/12/15(Fri) 15:43 [Reply] |
> 「阿礼(あれ)」の語源は不明だそうですが、私は「阿」=「新たな」、「礼」=「霊」だと思います。
「レ」や「レイ」と云う音で霊を表す表現は古代にあったのかな。何か例はりますか? 一般的には、霊はタマ、カゲ、タマシヒ、ケと云う言葉であらわされます。
阿礼はヒラヒラひるがえる物を云う神事用語です。比礼もタマフリの呪物で、物部氏の十種神宝にも入っています。
> ちなみに、私の考えは、「冬」=「殖ゆ」で、
恩頼はミタマノフユで、「霊魂が振ゆ」で、自動詞の終止形。霊が強いこと。
『日本書紀』神代上八段一書の六 是以百姓至今咸蒙恩頼 訓 是を以て、百姓、今に至るまでに、咸(ことごとく)に恩頼(みたまのふゆ)を蒙(かがふ)れり。 訳 このため百姓は皆、今に至るまで、その恵みを受けている。
参考書は『日本語に探る古代信仰』土橋寛 中公新書 一読をお奨めします。 |
[8036] 遠山の霜月祭 PONTA |
2006/12/14(Thu) 19:57 [Reply] |
「湯立て」とは、日照時間が短くなって弱った魂を強めるために湯を沸かして日本中の神々を招き、その湯を浴びることによって魂の蘇生を図る神事で、神々が湯治に訪れるという『千と千尋の神隠し』のアイデアはこの神事から生まれたそうです。(「湯立て神楽」で有名なのが、遠山郷(長野県飯田市上村・南信濃地区)の12の神社でおこなわれる「霜月祭り」です。昨日が諏訪神社で行われて、明日は八幡神社で行われます。この祭りで登場する「天伯」って天狗なんです。天白神社の祭神は天狗=猿田彦命かも。)
こういった神の魂を分けていただく神事を古代では「みたまのふゆ」と言い、これが「冬」の語源だとする説があります。「みたまのふゆ」を漢字で書くと「恩頼」で、「みたま」とは霊魂であり、「ふゆ」は「殖ゆ」「振るふ」「触るる」などに通ずる語で、「ご神霊に触れることで自らのみたまを殖やし、奮い立たせること」と解釈されています。ちなみに、私の考えは、「冬」=「殖ゆ」で、そのイメージは、「1本の草がこの季節(冬の間)に10本に増えて春になると10本の芽が出る」です。
今の時期の祭りは収穫祭ではなく、太陽の復活祭(冬至祭)なのでしょうね。キリストの降誕祭(クリスマス)にしても、正しくはオーソドクスがやってるように1/6ですが、カトリックではミトラス教の冬至祭に合せて12/25のままです。
ちなみに、お正月の「お年玉」は、民俗学では、「餅玉」がその語源であり起源だとしています。「玉」とは、「魂」のことであり(たとえば、「国玉神社」=「国魂神社」)、「年玉」とは新年を司る年神へ餅玉を供え、餅玉に年神のご神霊のご分霊が宿ったところでそれを頂くことにより、人々は新たな霊力を得て、新たな一年に備えるのだそうです。 稲とか餅って神が宿りやすいようです。白いものには神様が宿りやすいのかな。 |
[8035] 秋葉の火まつり PONTA |
2006/12/14(Thu) 19:35 [Reply] |
明日、あさって(12/15・16)は「秋葉の火まつり」(秋葉山本宮秋葉神社(静岡県浜松市)の祭)です。12/15の14:30〜「御阿礼(みあれ)祭」(稚児舞、巫女舞)で、12/16の22:00〜「防火祭」(一子相伝の秘儀を受け継ぐ3人のご神職による「弓の舞」「剣の舞」「火の舞」)です。
「阿礼(あれ)」の語源は不明だそうですが、私は「阿」=「新たな」、「礼」=「霊」だと思います。神に降臨していただいてから祭りを始めるわけで、その降臨祭を指して御阿礼祭(新しくご神霊をお迎えする祀り)というのではないでしょうか。「御阿礼祭」は、阿礼所と呼ばれる神籬を作り、そこに(神籬の中心の阿礼木の枝)に御神霊に新たに宿っていただく祭事ですから。
秋葉神は明治の神仏分離令によって、それまでの秋葉三尺坊(秋葉天狗)から、火之迦具土大神に変えられました。で、秋葉三尺坊は萬松山可睡斎(静岡県袋井市)に遷座し、今日は可睡斎(神社ではなくお寺)で、12/15に「秋葉の火祭り」が行われます。 最近では、秋葉山のような山奥まで行くのは大変なので、袋井インターから近い可睡斎へ行って済ます方が多いようです。冬の深夜のことで寒いですし、近くで済ませたいのでしょうね。(今年はたまたま12/16は土曜日ですが、平日のことも多いし、「火事防止」と言われてもオール電化の家に住んで火を見ない人にはぴんときませんからね。) |
[8034] 浪速の鯉の物語 神奈備 |
2006/12/14(Thu) 09:03 [Reply] |
8.孝徳天皇の巻
大化の改新の中心人物は孝徳天皇であったとの遠山美都男氏の説が説得力を持っています。それは鎌足は摂河泉に中臣の同族が多くおり、また孝徳天皇(軽皇子)を始め乙巳の変とその後の政変に関係した人物の多くは和泉国周辺に拠点を持っていたのです。軽皇子や鎌足との関連があったのです。それ故の政変であり、その後の難波宮への遷都でした。全てが無理なく説明できる説です。
孝徳天皇は難波に遷都して7年目にして長柄豊碕宮が完成した。豊碕宮の跡と称する神社があり、それは豊崎神社と云い、大阪市北区豊崎で、大阪駅の北1kmの地であり、難波堀江の北側となり、多分ここではないと思われます。しかし祭神を孝徳天皇としていますので、何かゆかりがあったのでしょう。
孝徳天皇は宮の建造に倭漢の一族を遣っています。倭漢は渡来人だったと云うこともあったのでしょうが、宮の建造に生国魂神社の木を伐採しています。神道を軽んじたと云うことよりも、孝徳天皇は軽皇子とよばれたごとく、半島の金属採取集団の長のような人だったのかとも思われます。乙巳の変の時、目撃した古人大兄皇子が「韓人が鞍作(入鹿のこと)を殺した。」と云っています。首謀者だった孝徳天皇のことと思われます。従って倭の国の古い信仰など気にしない人だったのでしょう。
長柄豊碕宮もやはり大阪城付近、即ち前期の難波宮に重なっているのでしょう。
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[8033] 浪速の鯉の物語 神奈備 |
2006/12/13(Wed) 13:11 [Reply] |
7.難波に宮を置いた天皇
『日本書紀』に、応神天皇が難波の大隅宮を置いたとあります。大隅宮でなくなったとの説もあります。『古事記』では、明の軽宮(橿原市大軽町)。新大阪駅の7kmほど東に大隅神社があり、この辺りとされています。しかし淀川の河口にあたり、低地の湿地で、牛の牧場ならともかく、天皇の宮には向いていません。やはり難波なら上町台地、仁徳天皇の高津宮付近が見晴らしの面でも適地でしょう。
で、仁徳天皇の高津宮はどこだったのかですが、難波堀江を掘削すること、、茨田堤の造築と云う大工事に着手したのですから、大阪城近辺だったのでしょう。『日本書紀』の仁徳三十八年に、宮の高殿から菟餓野で鳴く鹿の声が聞こえたとあり、これは北区兎我野町のことで、今では赤い火青い火の賑やかな所。
『仁徳紀十年』に、「大道を京の中に作る。南の門より丹比邑に至る。」とあります。四天王寺の南東に大道と云う地名が残っています。どうやら大道は上町筋の東側にあった道のようです。 大道から飛鳥へは大津道(応神陵の北側を通る現在の長尾街道)か丹比道(仁徳陵の北側を通る)で東に行き、穴虫峠か竹内峠を越えて、大和の横大路に合流し、下ッ道、中ッ道を経て飛鳥京に入ったようです。
全てが仁徳天皇の時代に出来たと言うことではなく、後の時代にも整備されていったのでしょう。権力者は古墳、道路、堤防と土木工事の公共事業が大好きなようで、この体質は仁徳時代に植え付けられたものかも。 反正天皇は河内の丹比に宮を作ったとあります。松原市に反正天皇を祭神とする柴籬神社が鎮座、また美原町にも同神を祀る丹比神社が鎮座、この辺りと目されていたのでしょう。 |
[8032] 浪速の鯉の物語 神奈備 |
2006/12/12(Tue) 18:11 [Reply] |
6.住吉津と難波津
住吉津と難波津を比較しますと、住吉津の近くには住吉大社、大海神社、船玉神社など海の神を祀る神社が多く鎮座していますが、難波津には難波坐生国咲国魂神社、坐摩神社などが鎮座、海や航海の神々は見あたりません。航海安全の祭祀や禊ぎは住吉にお願いして難波はもっぱら荷物の受け渡しなどだったのでしょう。
住吉津を管理したのは津守連で『姓氏録』では火明命男天香山命之後也とあります。丹後の海部氏や尾張氏とルーツは同じようで、海神族のようです。
一方、難波津の管理は難波屯倉の管理者と同じと見ていいのでしょうから、三宅忌寸で、新羅の王族の天日槍命を祖とする三宅連と同族と見ていいのでしょう。渡来系の氏族は文字や数字に明るく、倉庫管理などに力を発揮したと云うことでしょう。その分の余録も多く、それぞれが力をつける源にもなったということ。
先に磐之媛のお話を出しましたが、媛が生んだ仁徳天皇の皇子が住吉仲皇子です。磐之媛は葛城氏の出で、神功皇后の母が葛城高額媛と云う関係があり、住吉と葛城とは深いつながりがあったと云うべきでしょう。
仁徳天皇の後の皇位は住吉仲皇子の同母兄の履中天皇で、高津宮で即位しようとしたのですが、弟の住吉仲皇子が安曇連浜子や淡路の野島の漁師を使って履中天皇の暗殺をはかったのですが、逆に殺されてしまいました。海神系の氏族の象徴である住吉の名を頂いた皇子が敗れ去って、難波津の勢力が住吉の勢力を上回ったと云うこと。
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[8031] 浪速の鯉の物語 神奈備 |
2006/12/11(Mon) 18:35 [Reply] |
5.大津 住吉大社の鎮座地は住吉大神が「吾が和魂をば大津の渟名倉の長狭に居け。」と託宣した現在の住吉大社の鎮座地ですが、この中の大津とは住吉津を指しています。古代史に於ける大津とは国家的な港であったようです。住吉津以外に筑紫の大津、難波の大津、琵琶湖の大津があります。
住吉大社の西側にも堆積した砂堆が細井川によって一部が切られ、ここに海から船が入り、『住吉大社神代記』に云う朴津水門(エナツノミナト)が船着き場だったようです。
万葉集巻六−九九七 住吉(スミノエ)の 粉浜のしじみ 開けも見ず 隠(コモ)りてのみや 恋ひ渡りなむ
雄略天皇の時代に呉の国から漢織(アヤハトリ)、呉織(クレハトリ)、衣縫兄媛弟媛らを伴って住吉津についたとの伝承があります。仁徳天皇の時代に難波津は出来ていたことになっているので、こちらを利用してもいいのでしょうが、まだ住吉津が渡来人を迎える港だったようです。
住吉大社から東に磯歯津路(シハツミチ)が出来ており、途中の須牟地社(住道社)で祓いを行ってこの国の人間と見なしたようです。『忌部記文』に「須牟地の神酒を賜うて穢を祓はない者は日本人ではない。」とあります。一杯飲め、そうしたら仲間と認めようと云うことのようです。一杯飲んだのは杭全神社の摂社になっている赤留比売命神社だったとか。昔は住吉大社の子神(摂社)でした。
住吉津は重要な港でしたが、大和への水運がなく、大きい倉庫群ができるような環境ではなかったのかも。
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[8030] 浪速の鯉の物語 神奈備 |
2006/12/10(Sun) 19:09 [Reply] |
4.大型の倉庫と屯倉
難波宮跡が公園となっている法円坂から16棟の大型倉庫跡が発見されました。上町台地の北と西に下がりかける場所で、大阪湾からも難波津からもよく見えた場所です。これらも5世紀後半の建築で、河内が開墾されつつあり、倭王権が難波堀江に対外政策もあって置かれたものと推定されています。 またこれより少し前の時代ですが、紀ノ川下流域で大型倉庫7棟が立てられています。鳴滝遺跡です。これも倭王権が紀ノ川を水路として使っていた証なのでしょうが、難波に統合されたようです。それだけ難波堀江開削の大阪への影響は大きかったようです。 倉庫とは限らないようですが、屯倉が難波にも置かれています。建物が建っている屋敷地がヤケで、それの美称が付いたものですが、建物の中には倉庫もあったことでしょう。
難波屯倉は『日本書紀』に安閑天皇元年(534)、天皇の妃の物部木蓮子の娘の宅媛の名を伝えるために難波に設けられ、馬に曳かせて田を掘り返し耕す馬鍬を使う農民をつけたとあります。屯倉は各地に設けられました。倭王権の支店兼倉庫と云う存在でした。
難波屯倉の場所はよく判っていませんが、西成区津守や難波宮付近と推定されていますが、やはり難波津にほど近い難波宮付近が便利だったと思います。
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[8029] 浪速の古代の物語 神奈備 |
2006/12/09(Sat) 08:50 [Reply] |
3.茨田の堤と浮気
『仁徳紀』に、難波堀江を掘って南の水を西に流したとあり、続いて、北の河の塵芥を防ぐために茨田の堤を築いたとあります。堤のの工事丸いヒサゴを浮かべて沈めば神の意志、沈まなければ偽りの神と云って、人柱にならずに済んだ物語があるほどの難工事だったのです。茨田の堤の目的は、淀川からの水の流入を防いだものと、『難波京の風景』に出ています。淀川の水は天満砂堆の北側を流れ出たのでしょう。今の神崎川。 『仁徳紀』には、続いて皇后の磐之姫が熊野に行っている間に八田皇女を召されたことを、難波の渡しで聞き、難波の大津の岸に寄らずに、そこから引き返し、川を遡って山城方面に行かれたと出ています。『難波京の風景』では、難波堀江を抜けて淀川に出たとあり、茨田の堤の工事はもっと後世だったのかも。小生は『難波京の風景』が日本書紀の文を読み誤っていると思っています。
なぜなら『日本書紀』仁徳三十年九月「時皇后不泊于大津。更引之泝江。自山背廻而向倭」とあるからです。引き返して神崎川に回って淀川を登って行ったと云うこと。この時には既に堀江も茨田の堤も出来ていたのでしょう。同時に工事がなされたと考えられます。
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[8028] Re[8027][8024]: かむなび nick [Url]
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2006/12/09(Sat) 06:26 [Reply] |
> > 神はそこに住んで常駐している存在ではなく、祭りの時だけそこに降臨する存在だからである。
古代からの神々は、海の彼方や山岳から降臨されるそうですが 近年の神々は常駐型ですね。 当地の場合「島津義弘」「東郷平八郎」「南洲翁」しかり。 何かしらの功績を残された偉人なわけで。 |
[8027] Re[8024]: かむなび 神奈備 |
2006/12/07(Thu) 22:08 [Reply] |
> 神はそこに住んで常駐している存在ではなく、祭りの時だけそこに降臨する存在だからである。
神降ろしをおこなって神が降臨されるのですが、どこからかから降臨して頂くわけで、普段はどこかに居られると云う考え方があります。例えば柳田国男さんは田の神は収穫祭の後は山に帰ると云われています。その山はまさに神奈備山です。 従って、神奈備とは、神が隠る(カミガナバル)と云うことの名詞形だと思っています。
PONTAさんの「神の火が燃え立つ」と云う考えも面白い発想ですね。タタラの為に夜遠し火を燃やすの神秘的だと見た場合もあるようですし、左義長を儺火(ナビ)と云った場合もありますね。 |
[8026] 浪速の古代の物語 神奈備 |
2006/12/07(Thu) 11:53 [Reply] |
2.ドロドロの地
河内湖の出口は天満砂堆の北側となり、今の新大阪駅付近の狭い所でした。なかなか排水が進まず、洪水がよくおこっていました。河川は南北方向に流れ、東へ行くにはその河川を越えなければならず、陸上交通も不便で、地形としては悪い地形と云う状態でした。
このような状態では政治・経済・文化の中心にはなりにくいハンディを背負っていたのです。そこで5世紀後半に難波堀江が掘り抜かれたのです。上町台地の北に堆積した砂堆を掘削して河内湖から大阪湾に流れ出るようにしたのです。砂堆を掘ったので、比較的掘りやすかったと云うことです。後の世に和気清麿さんが上町台地そのものを掘ろうとしましたが、失敗しています。 難波堀江は現在の大川と見なされています。
この運河は極めて重要なもので、これによって大阪の意味が変わったのです。
水害の減少は河内平野を開墾できる地にしました。 大阪湾から船を直接入れ、淀川・大和川を遡れるようになり、畿内の中枢部と直結できるようになったのです。 畿内 瀬戸内海 東アジアに直結した。 倭の五王の間、難波津はその堀江の中にあって、国家の港であったのです。 |
[8024] かむなび PONTA |
2006/12/06(Wed) 20:50 [Reply] |
「人里近く、姿優美な山、神々が降臨され、鎮まる山。かむなび。」ということですが・・・。
*「かむなび」についてまとめてみました。文体は学術論文調にしてみました。
「かむなび(かんなび)」には、「神名火」「神奈備」「甘南備」等の漢字が当てられ、ネットで検索すると、「神が住む山(霊山、神体山)」の意、「神が住む森」の意、「神が住む場所」の意と異なる解説がされているが、どれも間違いである。神はそこに住んで常駐している存在ではなく、祭りの時だけそこに降臨する存在だからである。
「かむなび」を『万葉集』から拾い出してみる。 ○「甘南備乃三諸山者(かむなびの三諸の山は)」(13/3226&3227) ・「神名備能三諸之山丹」(13/3228) ○「神名火乃淵者淺而(かむなびの淵はあせにて)」(6/969) ○「神奈備乃伊波瀬乃社之喚子鳥(かむなびの岩瀬の社(もり)の呼子鳥)」(8/1419) ○「神南備能淺小竹原乃美(かむなびの浅小竹原のうるはしみ)」(11/2774)
これから分かるように、「かむなびの」は神が依りつく山・淵・森・野原につける枕詞だと思われる。(「枕詞」には特定の1語にしかつかないもの(例:味酒の(うまさけの)→三輪、神風の→伊勢)が多いが、複数の語につくもの(例:うつせみの→世、人、命)もある。もちろん、「かむなびの」が枕詞だと主張しているのはPONTAだけであって、正式に枕詞だとは認定されていない。)
「かむなび」が「神聖な山」の意味であると勘違いされるようになったのは、神道考古学の提唱者である大場磐雄氏が『祭祀遺蹟』(角川書店、1970年)の発行後のことであろう。同氏は、神体山(神が籠っている御神体)を山の形態から「神奈備型」と「浅間型」の2つに分類するともに、「神体山」の古称が「神奈備」であるとしている。 「神体山」の古称は「かむなび山」であり、「かむなび」は前述のように「山」以外にも使われる。「かむなび」が「神体山」の意味であるならば、『万葉集』の「甘南備山丹(かむなび山に)」(13/3230)の訳は、「神体山山に」となってしまう。
さて、以前の万葉学では枕詞は語調を整える意味無き言葉として訳さないことになっていたが、現在ではある言葉を引き出すための意味を持つ言葉であって訳すようにしているものの、研究が進んでいないために訳せないものが多い。「かむなびに」は(枕詞だと考えられていないこともあって)「神が降臨する場所の」「神が依る場所の」と訳しているが、「び」に「(降臨する、依る)場所」の意味があるだろうか。「備」(「備わる」→「依る」)として、「神が降臨するという」「神が依るという」と訳すのならまだ理解できる。PONTAでは、一歩研究を進め、「かむなび」に「神な火」と漢字を当て、「な」は「の」の意味であるから、「祭祀の時には神の火が燃え立つ」と訳すことを提案している。古代の祭祀は火を伴うものであったからである。神体山の頂上の磐座で火が焚かれ、炎や煙が立ち上がり、遠くからはあたかも火を噴く火山のように見えたことと思われる。
「神はそこにいない。祭りの時にだけそこにある依り代に宿る」というが、現在では常におられる場所もある。たとえば、三輪山(前述の『万葉集』の「三諸山」)は、古代では山頂の磐座で祭祀を行う山であったが、万葉時代にはすでに大物主命が三輪大神として常駐されている。(一説に、三輪山の古代の神は蛇であるとか、山頂にニギハヤヒが葬られ三輪大神は饒速日命であるとかいわれている。)この意味では、『万葉集』の「かむなびの三諸の山は」は、「古代の祭祀の時には神の火が燃え立ち、現在は三輪大神が鎮座される三輪山は」と訳すべきであろう。
*PONTAでは、神道を「火と水」の側面から検討することが多いです。ですから、「かむなび」の解釈もこうなってしまいます。
*不勉強ですので、「このことはすでにA氏がBという本の中で書いている」というのであれば、ご指摘下さい。 |
[8023] 続 「五十猛神」 倭亜布 |
2006/12/03(Sun) 21:33 [Reply] |
「素盞嗚尊が言うのは「韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」と。そこで鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となしたとある。これに近い話ですが、人間の体から穀物などが出てくるのは、南方系の神話に多いですね。縄文時代の土偶もそういう為のものだったんでしょうね。 」 http://www.kamnavi.net/itakiso/kenkoku2.htm 伊太祁曽さんの風土記 より
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[8022] RE[8019] 志磨神社 倭亜布 |
2006/12/03(Sun) 19:39 [Reply] |
RE[8019] 志磨神社 > 先代の宮司さんが亡くなった頃からでしょうか、だんだんと寂れ、樹木は伐採され、残された切り株が悲しい感じがします。 あすかさん初めまして、 志磨神社の「樹木は伐採され、残された切り株が悲しい感じがします。」ですが私的に神社が創建された時の周辺は焼畑(焼却さてた焼け野原)との考えです。 それ以前の日本は広葉樹林で針葉樹は渡来人が植林したのでは?との考えです。 「座間という地名の起こりを伊参(イサマ)からとするのが一般だが、伊参の存在位置や範囲に明確なものはなく、むしろイガシリ=座間説の方がはっきりしている。 ... このとき、五十猛神は多くの木種を新羅国で植えることなくそのまま日本に持ってきた。 ... 五十猛神はそ の意味の木の神でな く、大地に生える樹木のすべてを司る神である。 ●五十猛神は、高天原を追放された父の素盞鳴尊と共に朝鮮半島の新羅国へ天降り、層尸茂梨(ソシモリ=現在の韓国江原道春川群の午頭山とされる)の地に住んだ。天から天降るとき、五十猛神は多くの樹木の種を携えてきた。新羅国で暮らすことを嫌った素盞鳴尊は、土の船を作って日本に渡った。このとき、五十猛神は多くの木種を新羅国で植えることなくそのまま日本に持ってきた。そして国土全体にその種を植えたので、日本には青々とした樹木が茂る山々が連なるようになったという。神話から、古くから各地で祀られていた名もない樹木の精霊が五十猛神として信仰されるようになった。また全国をめぐって植林事業を終えた五十猛神は、その後は紀伊国(和歌山県)に移ったとされる。紀伊国といえば山が連なり樹木生い茂る、日本でも有数の木材の生産地である。」 http://www.geocities.jp/widetown/otona_08051_i.htm 古代の渡来人は日本の国作りの為 国土の焼却から始めたのではとの考えです 如何でしょうか。
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[8021] 共立 神奈備 |
2006/12/03(Sun) 09:00 [Reply] |
昨日、古代を偲ぶ会の席上で、ある方が面白い質問をされたので紹介しておきます。
『魏志倭人伝』の「其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼」のなかの「共立」の理解のしかたについての質問でした。
普通は以下のように訳されています。(小南一郎氏訳) 「その国では、もともと男子が王位についていたが、そうした状態が七、八十年もつづいたあと、倭の国々に戦乱がおこって、多年にわたり互いの戦闘が続いた。そこで国々は共同して一人の女子を王に立てた。その者は卑弥呼とよばれ・・・」
質問は大大和古墳群の初期のものはヒコヒメ制を伝えているのではないか、なぜならばよく似た大きさの古墳がペアで並んでいるし、大王のみの古墳とすれば、数が多すぎるように思える、との石野博信氏のお話があった後でした。
質問は、「共立一女子」の解釈で、当たり前の状態として男子の王がいたが、戦乱がおさまらないので、「男子王と共に女子王をも立てた。」と理解できないかとのことでした。 石野先生は考古学の方で、2〜3世紀の中国語について詳しい方に聞いてみましょうとの答えでした。 |
[8020] Re[8019]: 志磨神社 神奈備 |
2006/12/01(Fri) 19:58 [Reply] |
> それと、ごめんなさい、細かいことですが、「志摩」ではなく「志磨」が正しい字ですm(_ _)m
あすかさん、ご指摘ありがとうございます。 平安時代の資料は志磨と志摩が混在、江戸時代は志摩、現在は志磨になっていますね。訂正させて頂きました。 また、何か見つけられましたら、ご指摘下さい。
> 先代の宮司さんが亡くなった頃からでしょうか、だんだんと寂れ、樹木は伐採され、残された切り株が悲しい感じがします。
そのようですね。社前にはなかった住宅がいくつか出来ています。神社もご苦労されているようです。応援していますので、頑張ってほしいところです。
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[8019] 志磨神社 あすか |
2006/12/01(Fri) 16:20 [Reply] |
はじめまして。 和歌山市に住むあすかと申しますm(_ _)m 志磨神社の近くに住んでおり、いつも何気なくお参りしていましたが、ふと、詳しく知りたくなってネットで検索しているうちにここにたどり着きました(((^_^; (他にも色々神社仏閣めぐりをしているのですが、お恥ずかしい話、雰囲気でお参りしているだけで…(>_<))
「かつての鎮守の森の常緑樹には、楠、銀杏、樫、杉等が密生し、見事であったが、現在その雰囲気はない。」の記載、ごもっともです(T_T) 私が小さい頃は本当に緑が多かった記憶があります。 参道で遊んだり、祭は市内では有名ですごい人出でした。
先代の宮司さんが亡くなった頃からでしょうか、だんだんと寂れ、樹木は伐採され、残された切り株が悲しい感じがします。 鳥居越しに見る風景は変わってしまいましたね。
参考になりました。ありがとうございます。
それと、ごめんなさい、細かいことですが、「志摩」ではなく「志磨」が正しい字ですm(_ _)m
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[8018] Re[8017]: nick さん気づきました(^.^)(-.-)(_ _) nick [Url]
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2006/12/01(Fri) 08:39 [Reply] |
> http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/syuku/syukub.htm > ・・・・このようなところから謎が解き明かされると考えております。
おはようございます。 これって運勢サイトでは。 この掲示板は「出典」「根拠」もしくはバックデーターの無い論考は ご遠慮された方がベターと申している訳で。 そうでなかったら「青草」で如何。 管理人さんも以前忠告されたように記憶していますが。 |
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