掲示板のログ(平成十九年 二月 2007.2)お名前の敬称は省略しています。
[8187] Re[8180]: ご案内 かまど [Url]
2007/02/28(Wed) 22:20 [Reply] 玄松子様
>すでに締切過ぎてるように見えますが。
ありゃ、ほんとですね。
神奈備様
>この松原先生は和歌山の民俗を独自に調べられておられる実に貴重な方です。
ちょこちょこ、記事など見かけたりするのでお名前だけは知っているのですが。
なかなか、現地でいろいろな人に聞かれたりしておられるようですね。
[8186] Re[8185][8183][8178][8177]数 でんでん太鼓について 神奈備
2007/02/28(Wed) 20:59 [Reply] > 余談ですが、地蔵は六道からの救済・六地蔵、伊舎那天は欲界第六天の主。六に関係すると言うのは言いすぎかも?
宮城県名取市増田の第六天神社は面足尊と吾屋惶根尊を祭神としているようですが、境内にはお地蔵さんがあるそうです。
男根石や陰陽石をして第六天と称することもあるようなので、六道からの解脱を支援?するお地蔵さんも石像であり、崩れた形になれば、第六天と見なされたのかも。
[8185] Re[8183][8178][8177]数 でんでん太鼓について 玄松子
2007/02/27(Tue) 09:54 [Reply] > 阿弥陀如来の種子(キリーク)が彫られている石はいかにも中世的な雰囲気が漂っているように感じます。
手持ちの梵字の本では、「∴」に似た種子はイロイロな地蔵を、「∵」に似たものは伊舎那天を表すようです。(他にも意味はあるようですが)。
地蔵であれば路傍の石にあるのも頷けます。また伊舎那天(大自在天)であれば東北護法神の十二天ですね。
余談ですが、地蔵は六道からの救済・六地蔵、伊舎那天は欲界第六天の主。六に関係すると言うのは言いすぎかも?
> おおっ、なんか面白そうですね!
すでに締切過ぎてるように見えますが。
[8184] Re[8181][8180]: ご案内 神奈備
2007/02/27(Tue) 09:17 [Reply] かまどさん、こんにちは。
> おおっ、なんか面白そうですね!
この松原先生は和歌山の民俗を独自に調べられておられる実に貴重な方です。時間にゆとりがあれば是非参加したいところです。
その頃、小生は白浜付近をうろうろしている予定です。
[8183] Re[8178][8177]数 でんでん太鼓について 神奈備
2007/02/27(Tue) 09:17 [Reply] 阿弥陀如来の種子(キリーク)が彫られている石はいかにも中世的な雰囲気が漂っているように感じます。
山形など東北に濃密なようですが、対極の鹿児島にもあるようです。全国的にあって古い信仰の残存確率が高い地域ゆえに残ったのか、それとも中央の影響を受けにくい地域にこそ作られたのか、これはよく分かりませんね。
五十猛、五十鈴姫、五瀬命、五十瓊敷入彦命などの神名は頭が「い」であり、『記紀』には登場しているので、時代的な考証はどうなんでしょうか。
[8182] Re[8179] でんでん太鼓について 東沢美史
2007/02/27(Tue) 01:08 [Reply] 玄松子さん
どうも、はじめまして。ホームページのほうはしばらく前から何十回となく訪問させていただいておりましたし、もちろんここの掲示板もよく読ませていただいております。
以前のような酷いアラシが最近は無くなったようで平和でいいなとおもってます。
岩手、宮城のおもに農漁村をバンワゴン車で竹細工品の門付け業をして廻ってるものです。鬼神を大事にしてきた歴史を持つ氏族が住んでた新羅神社のある旧寶江・黒沼村へも参拝というより周辺の農家へ毎年訪問するのを目的で歩いておりました。
> > 「三つ巴」と「二つ巴」の大きな大太鼓(だだいこ)がそれぞれ置いてあった記憶があります。
> 太鼓にはよく巴紋が描かれています。でんでん太鼓に限った話ではないでしょう。
ご指摘のとうりです。雅楽の大太鼓(だだいこ)、高橋克彦の小説のタイトルにもなった「火焔」太鼓などもそうですね。
> > デンデン太鼓の「デンデン」であり、あえていえば「3」を意味するはずです。
> 「でんでん」が3を表しているわけではないのではないでしょうか。
それもご指摘のとうりかもしれません。
人玉、火の玉形というのでしょうか宮城の正月では「星のたま・歳のたま」などという一般に大蛇が象を飲み込んだ形という「巴・ともえ」が、多くは「三つ」なので、強調して発言させていただきました。
太鼓を叩くということで神が活性化しますね。雷神か。ふだんは青空のようにおとなしいんですが。
> > 「三つ巴」と「二つ巴」の大きな大太鼓(だだいこ)が
> 太鼓に描かれているものは三つ巴だけではありません。二つ巴も見られます。
三度、ご指摘のとうりです。私もその主旨で書き込みいたしました。
宮内庁の雅楽部の舞いが奉納されるときは、 「三つ巴」と「二つ巴」の大きな大太鼓(だだいこ)それぞれ1個づつ合計2個が舞台の上にあったのを覚えています。
> ですから、太鼓や、ましてでんでん太鼓の「でんでん」が3を表している(あるいは意味を持っている)とは言いにくいのではないでしょうか。
すいません。自分のイメージです。私の知ってる民芸品の問屋さんが全国の土産品店などに卸してた「でんでん太鼓」はすべて「三つ巴」だった記憶があります。
ちなみに私有する昔の玩具の太鼓も一つが赤、二つが黒の「三つ巴」です。
> ついでに、お聞かせください。
> > 大修館「諸橋大漢和事典」によると漢字の「∴」は「イ」と音読みします。
>
> 「∴」を「イ」と読み、「五」も「イ」と読むからという理由で
> 「五」=「三」とおっしゃっているのでしょうか?
そのとうりです。
でもただそれだけでは視野の狭いいい加減な奴と判断されてしまいそうで心配ですが。数字の「五」や「五十」ももちろん検討研究すべき大事な言葉です。イロハ五十音の本来のルーツはとかも。
柳田の「山窩」や「いたか」、折口信夫の蛆虫と蛇、オリオン座(和名・からすき星)の三ツ星を武蔵国で「さんか星」「さんこ星」呼んでたことを紹介した野尻抱影、三つ巴に形のよく似た梵語の「イ」が刻まれた石碑、石卒塔婆・石の板碑、乞食僧「いたか」が梵語で板に書く大日如来の三摩耶形の板卒塔婆、四三(すそう)の船霊&北斗七星、曽尸茂梨の「尸」という漢字が使われてる三尸の蟲などなど民俗学の本やここの掲示板を読んだことなどを漠然としてますが自分なりに解釈し発展させ、それを踏まえて書かせていただきました。
神奈備さんにご迷惑をかけないよう気をつけてるつもりですが、つい空想がさらに飛躍してしまいます。
発展的なご指摘をいただき、ありがとうございました。また、よろしく願います。
[8181] Re[8180]: ご案内 かまど [Url]
2007/02/27(Tue) 00:09 [Reply] おおっ、なんか面白そうですね!
[8180] ご案内 MADOKA [Url]
2007/02/26(Mon) 20:45 [Reply] 和歌山文化協会(郷土研究会部・史遊会)主催 平成19年3/6日(火)〜7日(水1泊2日・現地学習と講演の旅(貸切バス使用)
伊勢神宮とその周辺
――丹生大師・斎宮歴史博物館・金剛証寺・神宮徴古館など――
日本書紀で「常世の浪の重浪(しきなみ)寄する国」と記された伊勢ノ神宮は、天照大神(アマテラスオオミカミ)や豊受大御神(トヨウケノオオミカミ)を祀る聖地とされる一方、土着の海人族の伝承する豊かな民俗や文芸に彩られています。今回は伊勢ノ神宮にひそむ尊く、美しい古伝承の鉱脈をたどります。
王朝文学『伊勢物語』の最古の写本を見ると、この物語の発端は、厳重な戒律下で神宮に奉仕する未婚の内親王「斎宮」と「狩使いの男」とが犯す禁じられた恋であったといいます。すなわち原型は、伊勢に伝わる神々や高貴な男女の「もののまぎれの過ち」・「密事」を語る古伝承の系譜に求められます。「斎宮歴史博物館」(多気郡明和町竹川503 0596-52-3800)で紀州出身の伝説上の初代斎宮・豊鋤入姫命(荒河戸畔<あらかわとべ>の娘、遠津年魚目目微比売<とほつあゆめまくはしひめ>が産む。父は崇神天皇)の足跡を考えます。また、朱の文化の拠点、「丹生のお大師さん」こと丹生山神宮寺(多気郡勢和村丹生3997 0598-49-3001)を訪ね、伊勢商人や伊勢白粉の発祥と古代水銀文化・伊勢丹と紀州天野(あまの)の丹生都比売神社や高野山の空海とのつながりを考えます。
さらに、「お伊勢参らば朝熊(あさま)をかけよ、朝熊かけねば片まいり」と伊勢音頭にも唄われるように、伊勢参宮をすませた人々は、タケマイリ(岳参り)と称して朝熊岳に参詣した。その山頂には、伊勢の南鬼門の鎮護で、神宮参拝後は必ず立ち寄る聖地とされる勝峰山兜率院(しょうほうざんとそついん)金剛証寺を訪ねます。
1実施日時 平成19年3月6日(火)〜7日(水)
2行き先 伊勢神宮とその周辺
――丹生大師・斎宮歴史博物館・金剛証寺・神宮徴古館など――
3 宿泊所 「鳥羽グランドホテル」三重県鳥羽市小浜町239-9 0599-25-4141
4講 師 松原右樹(まれき)先生
5費 用 22,000円
6 出発場所 3/6日早朝、下記の3か所から貸切バスで出発。時間厳守。
乗車地点を事前(申し込み時)にお申し出下さい。
7:30 サンピア和歌山 和歌山市西高松1-7-87・県立図書館の北隣
A 7:45 市駅 雄の橋(橋の西側に東・南海和歌山市駅向きに配車)
B 8:00 和歌山駅前JA(農協会館)西側:国体道路上
7 申 込 先 641-0052和歌山市東高松4丁目1-21 小弓場(こゆば)弘文宛
1氏名 2住所 3年齢 4バス乗車地点(@〜Bから選ぶ)の4項目をご記入の上、ハガキ等でお申し込みください。 TEL/FAX:073-445-6660
8募集人員 40名
9申込締切 2月15日……参加費振込は2/28(水)まで。
予約確認の返事がお手元に届き次第2/28(水)までに下記の口座に参加費を振込
んでください。それをもって参加を確定、旅行当日「バス乗車地点」へ直接お越し
下さい。(※なお、参加を取り消された場合は、所定のキャンセル料を差し引いた
上返金しますので、その場合、返金の振込先をお知らせ願います。)
参加費の振込み先:郵便振替口座00960-9-83072 和歌山文化協会 郷土研究部
■当日の連絡 090-6901-0537 090-1890-5800
行程表
3/6(火)サンピア和歌山(7:30)⇒市駅・雄の橋(7:45)⇒和歌山駅前JA(農
協会館)8:00⇒和歌山ic⇒関jc⇒勢和多気ic⇒丹生大師:丹生山神宮寺(多気郡
勢和村丹生3997 0598-49-3001)⇒斎宮歴史博物館(同郡明和町竹川503
0596-52-3800)⇒外宮(豊受大神宮)⇒鳥羽グランドホテル(0599-25-4141)泊
3/7(水)ホテル⇒金剛証寺(伊勢市朝熊町548 0596-22-1710)⇒朝熊山展望台⇒神宮徴古館(伊勢市神田久志本町1754-1 0596-22-1700)⇒内宮(皇大神宮)⇒おかげ横丁(内宮前)⇒伊勢ic⇒関jc⇒和歌山着18:00予定
和歌山文化協会 TEL 073-436-3580 FAX 073-436-8747
〒640-8268 和歌山市広道20 第2田中ビル1階
担当世話人 郷土研究部会 小弓場 弘文
[8179] Re[8178][8177]数 でんでん太鼓について 玄松子
2007/02/26(Mon) 10:39 [Reply] 神奈備さん> > デンデンは小生の浅薄なる理解では、左右対称と言うのか、前後同一というのか、そのイメージで、なかなかに「3」は浮かんできません。
> 「三つ巴」と「二つ巴」の大きな大太鼓(だだいこ)がそれぞれ置いてあった記憶があります。
太鼓にはよく巴紋が描かれています。でんでん太鼓に限った話ではないでしょう。
ということは、
> デンデン太鼓の「デンデン」であり、あえていえば「3」を意味するはずです。
「でんでん」が3を表しているわけではないのではないでしょうか。
また、
> 「三つ巴」と「二つ巴」の大きな大太鼓(だだいこ)が
太鼓に描かれているものは三つ巴だけではありません。二つ巴も見られます。
ですから、太鼓や、ましてでんでん太鼓の「でんでん」が3を表している(あるいは意味を持っている)とは言いにくいのではないでしょうか。
ついでに、お聞かせください。
> 大修館「諸橋大漢和事典」によると漢字の「∴」は「イ」と音読みします。
「∴」を「イ」と読み、「五」も「イ」と読むからという理由で
「五」=「三」とおっしゃっているのでしょうか?
[8178] Re[8177]数 でんでん太鼓について 東沢美史
2007/02/26(Mon) 02:01 [Reply] > デンデンは小生の浅薄なる理解では、左右対称と言うのか、前後同一というのか、そのイメージで、なかなかに「3」は浮かんできません。
> デンデン太鼓の皮の柄かもしくは太鼓の上に「∴」のマークがあるのでしょうか。
> デンデン太鼓については、もっと調べて見ます。興味深いお話ありがとうございました。アドバイスが頂ければ幸甚です。
キリークの「イ」を視覚的に説明するためにわかりやすく子供のおもちゃを出しました。
ひらがなで「でんでん太鼓」と書くのが正しいようでした。
少し辞書、事典で引いたけどなぜか「雷神」って記述が少ないですね。
どんな村にも3、4つくらいは石碑があるのに。
でんでん太鼓の皮の模様は「三つ巴」です。
テレビで見たのですが宮内庁の雅楽部というんでしょうか、舞いを奉納するときに舞台には「三つ巴」と「二つ巴」の大きな大太鼓(だだいこ)がそれぞれ置いてあった記憶があります。
また、雷様というと近年は高木ブーさんの扮装がよく知られてるとおもいますが絵だと鉄の輪に小さな「三つ巴」の太鼓が連なってます。
大修館「諸橋大漢和事典」によると漢字の「∴」は「イ」と音読みします。
「∴」のひとつひとつの点は「犬」、「太」などの「、」です。
「でんでん太鼓」の皮の叩く部分に「三つ巴」の紋様が染められています。
昔の言葉の調べものをするとき現代の国語辞書では物足りないので、ふだんは神名や古代のことが豊富に載ってる仙台藩で学問を修めた大槻文彦の冨山房刊「言海」を利用してます。
五十猛命の「五十」は「いそ」と読みますが「い」とも読むことがあります。
これを私が梵字で「イ」と発音するキリーク、種子に結び付け「三光」や「雷神」を提示し「五十」の部分だけならともかく「五十猛命」全部を考察するかのような書き込みをしたことは少し説明不足でした。
[8177] Re[8176][8175]: 数 神奈備
2007/02/22(Thu) 11:52 [Reply] > ピカピカに研いだ鎌はむしろ稲光を伴なう雷神や風神を呼び込むためのものではと考えてもいいとおもってます。
鎌を木の幹に突き立てる風習が各地に残っていますが、同じものなのか、別のものなのか、よく判りませんが、面白い風習です。最近大きいクラゲが日本海に現れているそうで、風を切るようにクラゲを切る網のようなものがあるようですが、同じようなイメージが湧きます。
> 「一目連」と「天目一箇神」の関係
谷川健一さんの『青銅の神の足跡』引用の『勢陽五鈴遺響』に「一目連は俗称に拠れり。其実は祭神天目一箇命の名を冒して称する誤なるべし」とあります。一目連の飛行の際に雷鳴のような音がひびき光り物が渡ると記されています。
何か、イチモクサンと同じような感じです。
> 「五十・いそ」は数字の「5」や「50」をイメージしがちですがこれは東国の「さんこ」、デンデン太鼓の「デンデン」であり、あえていえば「3」を意味するはずです。
驚愕するお話です・・・・・・・( ̄□ ̄;)!!・・・・・・・・
デンデンは小生の浅薄なる理解では、左右対称と言うのか、前後同一というのか、そのイメージで、なかなかに「3」は浮かんできません。
デンデン太鼓の皮の柄かもしくは太鼓の上に「∴」のマークがあるのでしょうか。
五十猛神の『日本書紀』での登場シーンは三兄妹神のセットです。
分解すれば、大屋都彦、大屋都姫と抓津彦、抓津姫の4神を加算したら、男神が統合されて五十猛神になってしまったような状態かなとも思っています。
韓国でバスガイドから聞いた話ですが、韓国内のインターネットの情報に、素盞嗚尊が二人の娘と50人の兵士をつれて出雲に行ったとの内容の伝承が載っているそうです。どこまで信頼を置けるかどうかです。サイトの発信者としては「うかつに信用すれば世間で恥をかくかも」と思っています。勿論、神奈備サイトのことで、他の方々のサイトを指しているわけではありません。念為。
デンデン太鼓については、もっと調べて見ます。興味深いお話ありがとうございました。アドバイスが頂ければ幸甚です。
[8176] Re[8175]: 数 東沢美史
2007/02/22(Thu) 01:59 [Reply] 数字を連想させる神々の名からは、なにかとてつもない古さと懐かしさを感じます。
「一・いち」は陸奥音では「いづ」となり、どうしても「出雲」や「伊豆」をイメージしがちです。
神奈備さん
>天目一箇神と言う神がいます。谷川健一氏によれば金属精錬の熱火が目に焼き付いて片目が見えなくなった金属精錬師を神とすると言います。この場合は、目が一つですから、一は意味があるのです。
「1」のつく神さまというとまず「一目連」が思いつくし、さらに信州の「竜田神」を連想してしまいます。
宮城の栗原郡では信州と同じく田んぼに「風切り鎌」を長い竹に縛り建てます。
民俗学の事典などでは秋の収穫期に台風の被害に遭わないようにとの農民の願いが込められてるということですが、ひでりや稲束が乾燥しないという悩みの多かった昔の農山村のことを考えると、ピカピカに研いだ鎌はむしろ稲光を伴なう雷神や風神を呼び込むためのものではと考えてもいいとおもってます。
そうだとすれば、強い風が必要となる太古の野鍛冶師さんにも都合が良いような・・・。
発音の似てる「一目連」と「天目一箇神」の関係はわからないけど。
「2」は対、ペア−の神さま。陰陽、大極図、伏羲と女禍。
近畿のニ上山と陸奥の日高見神社は発音酷似。
「3」は変かもしれないけど陸奥新羅神社の「五十猛命」。
仙台藩の学問だけではないとおもうのですが「五・い」または「五十・いそ」は数字の「5」や「50」をイメージしがちですがこれは東国の「さんこ」、デンデン太鼓の「デンデン」であり、あえていえば「3」を意味するはずです。もちろんこれは青草ではありません。
よくキリーク、種子などで郷土史の先生たちに「い」と呼ばれてる、漢字で言うところの「∴」のことではないかと常々私はおもってました。サンスクリット語の発音でも「イ」とか「イー」と呼ばれてますね。
維新後に塩釜神社に無理に遷座させられた陸奥の宮城郡岩切に元々鎮座してた「志波彦神社」近くには昔「岩戸三光宮」もありましたがデンデン太鼓の「デンデン」が「∴」、あるいは「∵」の配置で「巴・ともえ」形に彫られていました。
鎌倉期から室町期の石碑らしいのですが、この場所で先日3基も見つけました。
こんな例はまさか陸奥だけではないとおもいます。関東など東国ならどんな村の道端にもある、またはあったはずの石碑です。
カタカナの「ヰ」かもしれませんが平仮名なら「ゐ」か「い」であり、こちらでいう中世の伊澤氏や伊達氏の「伊」であるとしたのはどんな宗教指導者あるいは修験者たちの学識、知恵だったかわかりませんが公立図書館で最近、諸橋轍次の大修館「大漢和辞典」で引いたところ漢字の「∴」=「伊」と解説!!してたので「3」の解釈である程度いけるのではないでしょうか。朝鮮半島の「伊猛命」と同じく「∴猛命」でも無理はないと考えます。
庚申の「三尸」は「さんし」と発音するとおもいますが宮城の庚申講などの講中ではではたいてい「さんこ」と発音し、キリスト教徒も神道も仏教徒も近所同士隣組なかよく「さんこ汁」を作り食べるので知らない馬鹿はいません。漢字の「三尸」が「三戸」とある時代に間違ったのかもしれません。腹の中でゴロゴロ虫が鳴ったらお正月の御霊飯を干してできた「あられ」を食べ腹痛を治すとよく言います。ゴロゴロと鳴るのは雷様「雷神」ではないか。
「湯殿山」「月山」でおなじみ出羽三山の石碑も千葉など関東から陸奥にかけ里の道端でやたらに目に付きます。これも宮城の民家の掛け軸やデンデン太鼓の「∴」または「∵」と配置が同じく「羽黒神」が女神となりますが3神のトリオ神です。ちなみに大和(やまと・だいわ)三山と出羽三山の発音似てる。
これも私の説なんですが陸奥栗原の式内名大社「志波姫神社」の3神が地図上の30kmに南北一列に並ぶ神社の配置は九州福岡宗像社の辺津宮、中津宮、沖津宮の3姫神を彷彿とさせるので、数もだいじですが配置も重要だと考えてます。
「4」は地図上の配置でいったら信州の諏訪大社。
「伊達(いたて・いで・おだつetc)」というと政宗をイメージされるのがふつうでわかりづらくなってますが、私があちこちで書いてます。「伊達」の本来の民族的意味あいもご理解ください。
PONTAさんも引き続きよろしくお願いいたします。
[8175] 数 神奈備
2007/02/20(Tue) 19:50 [Reply] 全ての根元は”数”と言う説もあるそうです。それほど数と言うのは魅力的なものです。
ある数が必須の神の名と言うものを思い起こしてみました。
例えば 1
天目一箇神と言う神がいます。谷川健一氏によれば金属精錬の熱火が目に焼き付いて片目が見えなくなった金属精錬師を神とすると言います。この場合は、目が一つですから、一は意味があるのです。
葛木一言主神と言う神は雄略天皇に対して「あはマガゴトも一言、ヨゴトも一言にいいはなつ神、葛城の一言主の大神なり」と答えたのであるので、まさに一言の一に意味があります。
2
二荒山大神の「二」は補陀洛の補のことであり、発音としての意味のみ。
3
三寶荒神(竈の神)は仏法僧の三体を守る神とされており、一応「三」には意味がありそうです。
[8174] こんなところにお湯がアフレテル(±0±)
MADOKA [Url]
2007/02/16(Fri)
02:59 [Reply]
まあ!!(+0+)
青草に書いたのに!(?0?)
こんなところにお湯がアフレテル(±0±)
びっくりするじゃーーあーりませんか(=0=)
お騒がせしましたm(。。)m
古跡人さん 京都情報ありがとうございます
お湯みそぎ修業にまたまいるとおもいます
古跡人さんは古墳に詳しい方です!(^^)
古墳情報 書き込みまってまーーす
(#0#)/(^0^)/(*0*)/
[8173] お邪魔します 古跡人
2007/02/15(Thu)
21:50 [Reply]
とうとうここに来てしまいました。
MADOKAさん、プログ見さしていただきましたです。
京都!市内まで遠征されていたんですね!
京都は私の地元、意外とこの街古い銭湯が探したらあるんですよ!
大黒湯は有名で、昔のお風呂屋さんの風情がいっぱい残っていて、入っていても落ち着くんやなぁ〜
案外街の中心部は、古い家が残っているんですが銭湯は意外と少ない、以外かもしれませんが街の外側(左京区・北区・南区・伏見区)のほうが、案外と残っているんです。
特に左京区は、京大なんかの大学がある関係で、古くからやっている銭湯があったんですが、このところの学生マンション住まいが多いので、銭湯は一時の時よりも減ってしまいました。
私の住んでいる南区は、古くから住んでいる人が多い関係と、家に風呂がないところが多いのか?結構残っています。
伏見区も銭湯の古いのが結構あって、中には大正の初めからやっているお店もあり、穴場的なところもありますよ。
時間があれば行ってみてください。
因みに私は、南区にある柳井湯というところに行っております。
最近女湯の面積広げて改築したので、ゆっくり入れるはずです。
ここの良いのは、入り口入ったら前庭があって鯉が池に泳いでいるところです。
[8172] Re[8171]: 入浴してきました
大三元
2007/02/15(Thu)
10:15 [Reply]
は。お招きに応じて入浴してきました。
まぁ、なんのことだか、わかんないのですが、そんな詮索せずにノンビリつかっていればヨロシイということでしょうね。
[8171] ご無沙汰しております!&御案内(*^0^*) MADOKA
神奈備
2007/02/14(Wed)
21:19 [Reply]
青草にMADOKA
さんから投稿がありました。
実はワタクシ ブログを立ち上げました(*^0^*)
それでは 大三元様 各位様
御入浴券でございまーーす!!
下記 クリックして
御入浴!!下されたし(^^)\
http://ameblo.jp/2626150
[8170] Re[8168]: 御船神社に行ってきました。 神奈備
2007/02/11(Sun) 09:25 [Reply] > こんにちは。御船神社参詣後に検索してこちらにやってきました。この神社について色々疑問があったのですが、まずアラカワトベとこの神社は関わりがあるのでしょうか?
のぶさん。こんにちは。
『古事記』に以下の記事が載っています。『日本書紀』もほぼ同様の記事。
木国造(キノクニノミヤツコ)、名は荒河刀弁(アラカハトベ)の女(ムスメ)、遠津年魚目々微比売(トホツアユメマクハシヒメ)を娶(メト)して生みましし御子、豊木入日子命(トヨキイリヒコノミコト)、次に豊○<金へんに「且」>入日売命(トヨスキイリヒメノミコト)。
三船神社の由緒には、「人皇十代崇神天皇の皇女豊耜入日売命の創祀と伝えられ」とありますので、
> まずアラカワトベとこの神社は関わりがあるのでしょうか?
と言うことでしたら、あると言うべきでしょうね。
江戸時代に作られた『紀伊国続風土記』にも「天照大御神の御霊代を戴き奉れる豊鋤入姫命の母君の産土なれは此神を祀れるも深き由繰ある事なるへし」と述べています。
しかし、現実には深い霧の中の古代のことで、どのような創祀の物語があったのかは、創建時期も含めてよく判っていないのが本当のことだと思います。ロマンですね。
[8169] Re[8166]: 無題 アパ 神奈備
2007/02/10(Sat) 19:52 [Reply] > 千草神社
千種神社 戦前は百草神社ですね。
> 日本霊異記に舞台にもなっていますし・・・
物部麿が牛になって酒を返すお話に出てくる岡田村主のことですね。
大三元さん
> 調べてから書けば良かった(^^;)
弘法も筆ですか。なんかちょっと( ^_^)。
[8168] 御船神社に行ってきました。 のぶ
2007/02/10(Sat) 17:14 [Reply] こんにちは。御船神社参詣後に検索してこちらにやってきました。この神社について色々疑問があったのですが、まずアラカワトベとこの神社は関わりがあるのでしょうか?
[8167] 2世紀後半の倭国大乱=孝霊天皇の吉備平定 ななし [Url]
2007/02/10(Sat) 01:56 [Reply] 2世紀後半の倭国大乱
孝霊天皇の吉備平定
卑弥呼(百襲姫)誕生
[8166] 無題 和歌山 [Url]
2007/02/10(Sat) 00:05 [Reply] 大山というのはどうやら室山のことのようですが、地元では大山とは言わないです。この山に登るには室山郵便局の前を70mほど西に歩き右手に車1台が通れる位の細い道を入ると登り口があります。中腹には岩橋型古墳がありますが、岩磐などは見られません。横を流れる亀の川流域には且来八幡神社や千草神社、宇賀部神社があり、岡田八幡神社の裏山からは初期須恵器が採集され周辺からは銅鐸型土製品、鳥形木製品が出土し、考古学や祭祀面から興味のある地域です。日本霊異記に舞台にもなっていますし・・・
[8165] Re[8161]: アパ hotel? 大三元
2007/02/09(Fri) 09:10 [Reply] 神奈備さん
「鴨」中国の上古・中古音も ap に近いものでした。調べてから書けば良かった(^^;)
> 今昔文字鏡から
> 鴨 韓音 ap
> 波 韓音 pha
>
> 鴨波は appha あは あはは と聞こえた人がいたのかも。
>
> 近くに 望理の里 まがりのさと
> 望 韓音 mang 理 rii
>
[8164] すみません PONTA [Url]
2007/02/08(Thu) 23:03 [Reply] 延喜式の時代は大和朝廷ではないですね。
単に朝廷。政権。
[8163] Re[8158][8157]: 阿波々神社の祭神 PONTA [Url]
2007/02/08(Thu) 23:01 [Reply] > 阿波比賣命では式内社になれなかったのでしょうか。式内社にする時に祭神名が考慮されたのでしょうか?
式内社の選定基準って何かな?
・社殿があること(熊野那智大社は当時社殿が無かった?)
・大きな神社
・大和朝廷に貢いでる
かな?
[8162] Re[8158][8157]: 阿波々神社の祭神 PONTA [Url]
2007/02/08(Thu) 22:57 [Reply] > 現在、祭神として天石戸別命の御子で八重事代主命の后神である阿波比賣命となっていますが、これを否定して諏訪神とする理由は何でしょうか?
そういう可能性もあるかなと。忌部氏の痕跡をあまり聞かないので。(阿波比賣命の本地仏は千手観音なら問題ないです。)かといって諏訪神も聞かず、仏教的な話ばかり。
てか、阿波々神社は延喜式の頃は有名で、その後衰退し、また盛り上がってきたので、衰退してる時=仏教が盛んな時に祭神が分からなくなったのでしょう。江戸時代は「祭神不明」の神社でした。どうして現在、祭神が阿波比賣命になっているか教えて下さい。(今、またサイトの記述を書き換えました。)
>望 韓音 mang 理 rii
韓音は百済音と言われる呉音とか漢音とはまた違うんですね。
豊川市に望理神社があるので気になりました。
[8161] アパ hotel? 神奈備
2007/02/08(Thu) 16:40 [Reply] > しかしどうして「鴨」が「あは」なんだろう。
今昔文字鏡から
鴨 韓音 ap
波 韓音 pha
鴨波は appha あは あはは と聞こえた人がいたのかも。
近くに 望理の里 まがりのさと
望 韓音 mang 理 rii
[8160] あはは 大三元
2007/02/08(Thu) 11:08 [Reply] 播磨風土記 加古郡 鴨波里 (中略)故曰 粟々里
というのと関係ないかしらね。
しかしどうして「鴨」が「あは」なんだろう。
[8159] Re[8156]: 無題 神奈備
2007/02/08(Thu) 09:40 [Reply] > はじめまして、和歌山在住です。
はじめまして。和歌山生まれです。よろしくお願いします。
> 近くに室山と言う山があり、
海南市黒江に〒室山局がありますが、その辺りの山としますと、船尾山の尾根の端付近の山でしょうか。
室山や神室山も神奈備山と同じく、神の隠る山の名前でしょう。
したがって、お書きのようにある方向から見て美しい姿に見えていたらそのような名前で呼ばれることはよくあることと思います。
例えば、大和で有名な神奈備山である三輪山ですら、主に西の方向から見た場合、きれいに見えますが、南側からですと尾根が巻向山につながっているようで、言うなればただの山のように見えます。
黒江には北側に大山と言う山があって、東の国主神社から見ますときれいな神奈備山に見えます。おそらく西側から見てもきれいに見えるでしょうね。
以前に登って見ようと周辺をうろうろしたのですが登り口が分かり難くあきらめました。
> 海を意識しているのでしょうか?
山をかけるとか山を張るというのは今や試験の時の用語ですが、漁船が魚が釣れるポイントを探すのにも判りやすい山が選ばれたようです。そういう意味では海から見て神奈備山に見えるのはよい目標だったのでしょう。
写真掲示板に海から見た大山と船尾山の風景を乗せています。
[8158] Re[8157]: 阿波々神社の祭神 神奈備
2007/02/08(Thu) 09:39 [Reply] 阿波々神社の祭神
阿波々神社には参詣したことがないのでよく分かりませんが・・・。
粟ヶ岳の頂上に鎮座していたそうで、海からもよく見えた山のようですね。
現在、祭神として天石戸別命の御子で八重事代主命の后神である阿波比賣命となっていますが、これを否定して諏訪神とする理由は何でしょうか?
阿波比賣命では式内社になれなかったのでしょうか。式内社にする時に祭神名が考慮されたのでしょうか?
阿波の国には事代主神社が鎮座、2社が式内社となっています。また天石戸別を社名に持つ神社の天石門別八倉比賣神社、天石門別豊玉比賣神社などが鎮座し、阿波の国にゆかりの神社のように思えます。
阿波の人々は海を通って安房に行っていますので、粟ヶ岳は目標とした山だったかも知れませんね。
[8157] 阿波々神社の祭神 PONTA [Url]
2007/02/08(Thu)
05:26 [Reply]
式内・阿波々神社の祭神について考えてみました。(うどんを食べながらはフィクションです;)
PONTA説は、「阿波々神社の祭神は諏訪神。だからこそ式内社に選ばれた」「諏訪神は蛇(はは=波々)神で、信仰の対象とされる巨岩の穴に棲んでいたが、仏教が盛んになり、蛇信仰や巨石信仰が薄れて、巨岩は仏教の殺生禁止・因果応報を説く蛇身鳥の棲みかとなった」です。
[8156] 無題 和歌山
2007/02/07(Wed)
22:11 [Reply]
はじめまして、和歌山在住です。子どもの頃から神社に興味を持っていましが、体系的な勉強はしていませんが宜しくお願いします。ここのHPをみている近所の神社が登場するので親しみを感じます。最近まで文化財の仕事をしていました。近くに室山と言う山があり、山の尾根の端にあたりどこから見ても神奈備に見えないのですが、ただ西(海)から見ると綺麗な神奈備型をしています。海を意識しているのでしょうか?
[8154] Re[8153][8151]: 倭五王 神奈備
2007/02/06(Tue) 19:06 [Reply] 福島雅彦さん、ご無沙汰しています。
なるほど、職掌名ですか・・。
> 姓は阿毎、名は多利思比狐
これは姓と名と明確に書いてあります。姓は天、名は帯彦、確かに固有名詞とも思いにくい名前です。
> 伊奘諾尊・伊奘冉尊から続く「伊」姓かと。
サナギ、サナミ・・銅鐸世代の神々を思わせます。
平安時代の『日本書紀』の講書の記録の『日本書紀私記』には、「この国が姫氏国と言うのはどうしてか」の問いと「始祖の天照大神は女神、さらに神功皇后が女帝だったから」と答えが出ているそうです。
この質問のベースには太伯伝説(皇祖は呉の太伯の二番目の弟の子孫が日本に移り住んだ。呉は姫氏)があるそうです。(『日本の古代:倭人の登場』から)
姫氏は読みとしては紀氏などと同じくキノウジとなるのでしょうが、箕氏朝鮮の箕氏にも通じているのかも知れません。
[8153] Re[8151]: 倭五王 福島雅彦
2007/02/05(Mon) 20:52 [Reply] > 同時に五王の名として、讃・珍・済・興・武と一文字であるのも、倭国の王らしくない名前に思われます。邪馬台国の時代でも卑弥呼・卑弥弓呼・難升米など、推古天皇の頃には倭王あり、姓は阿毎、名は多利思比狐、阿輩雉弥など、一文字の五王は一体どこの王達だったのでしょうか。
※お久し振りです。時々お伺いしていました。
『隋書』以前の中国正史には倭王(倭女王)の固有名詞は登場していない、と思います。
*「卑彌呼」「難升米」「阿毎多利思比孤」等は職掌名である、と。
唯一例外は「壹與」が卑彌呼職に即位前の固有名詞として登場している、と。
それは、「塞曹掾史張政」が後見して即位に立会っているからである、と。
*「倭の五王」は、倭國の伝統として「氏・姓」を隠している、と。現天皇家にも其れは受け継がれていて苗字はありません。
「倭の五王」は、伊奘諾尊・伊奘冉尊から続く「伊」姓かと。
*大伽倻國(彌烏邪馬國)の建国王・伊珍阿豉王⇒「伊・珍」も倭人か?と疑っています。
[8152] Re[8148][8146]: 遮光式土偶? PONTA
2007/02/05(Mon) 01:44 [Reply] > 生後間もなく死んだ子供のホルマリン漬けの標本を図書で見たことがあります。
> 医学書などは恐ろしいので見なくていいとおもうけど遮光器土偶に似て目が巨大化してるのがありました。
私も目は胎児に似てると思いますよ。でも、胸が出てる胎児はいないでしょ(笑)
[8151] 倭五王 神奈備
2007/02/04(Sun) 20:55 [Reply] 難波地域に古墳がいくつか存在しています。上町台地の尾根筋にも多くの古墳があったものと思われていますが、その後の上町台地の開発や市街化で破壊されてきたのでしょう。四天王寺に豪壮な長持形石棺があるのですが、ここは荒墓と呼ばれていた土地です。四天王寺は古墳の上に築かれた寺院だったのです。
現在でも確認されている古墳があります。難波では4世紀の古墳は見あたらず、5世紀代に100m超の古墳が作られていますが、6世紀になりますと殆ど作られなくなります。
5世紀は倭の五王の時代であり、古市、中百舌鳥古墳群の被葬者が推定されるのですが、難波の古墳は倭の五王のものではなく、その関係者の古墳であったのでしょう。
倭五王が南朝の宋に献使朝貢しましたが、畿内からも九州からもどこからもそれらしい遺品は出土していません。安東将軍・倭国王等の称号は得たようですが、まさか手ぶらで帰ってきたわけでもあるまいし、不思議なことです。
同時に五王の名として、讃・珍・済・興・武と一文字であるのも、倭国の王らしくない名前に思われます。邪馬台国の時代でも卑弥呼・卑弥弓呼・難升米など、推古天皇の頃には倭王あり、姓は阿毎、名は多利思比狐、阿輩雉弥など、一文字の五王は一体どこの王達だったのでしょうか。
[8150] Re[8149]:[8145]若草山山焼きとヤマトタケルノミコト 神奈備
2007/02/02(Fri) 11:49 [Reply] > 若草山の若草=青草でした。
そう言えば河内の日下の真西に若草山があります。
淡路島の一宮町に草香地名があります。一宮町は伊弉諾神宮が鎮座する地。
また奈良県桜井市のJR巻向駅の北側は草川と言う地名です。近くの太田に他田坐天照御魂神に比定されている神社が鎮座しています。
クサカ地名には日下(=日本)の意味が含まれていて、それを承知の上で東遷していったのでしょう。最後にはこの国の呼び方になりました。
日本と書いて、「ひのもと」もしくは「やまと」と読むのが正しい国名の読み方であり、「にほん」「にっぽん」は共に間違いと考えるべきでしょう。種もクサと訓みます。種は物事の始まりです。クサには病と言う意味もあります。クサイは臭いの臭い。
> 草薙の劔
薙ぎはナーガと見ると長物で蛇(八岐大蛇)、蛇の臭いのする太刀なのかも。
『日本書紀』には、日本武尊が野火にやられそうになったのは、冬の十月のことで、季節としては妥当な枯れ草の頃です。
> 「枯草」=「火」=「日」
火と日とは甲乙で違う発音だったように記憶していますが、自信はありません。神名の火明命は天照御魂神と同体と見なされており、天照大神以前の本来の日の神だったとの説があります。火と日はつながります。
[8149] Re:[8145]若草山山焼きとヤマトタケルノミコト 東沢美史
2007/02/02(Fri) 01:57 [Reply] 気に入っていただいてよかったです。青草?かなと思いましたが思いきって投稿しました。自分的には若草山山焼きの風景が勝手に浮び深夜眠りの心に燃えてました。
私のところは純農村地帯ですが、これ見た農山村に住んでる方のなかにはヤマトタケルノミコト・倭建命のことを連想した人がいたのではないでしょうか。
こちらでは、例年3、4月にもなると土手原の枯草に火を点けて枯草を焼く風景がよくみられます。年配者のなかには嬌声を上げる人もいて結構、興奮する農作業です。予想より乾燥してたり風が急に出て山火事になり消防車が何回か出動することも毎年のことです。
話しは地元神社のことになりますが近くの月山神社参道入り口に「天照大神」と彫った3bほどの石造がありますが、「照」の漢字の下の点4つの「れっか」が「火」となって彫ってあります。
アマテラスには日のイメージのほかに火のイメージも昔の人は持ってたようです。
仮定→皮留久佐=春日、もしそのままでいくと「日」=「草」かなと連想したくなります。ふつうは音を表すための表音漢字としての役目が多いので漢字の意味から探ることはどうかなともおもいます。
でも、ヤマトタケルノミコト・日本武尊が東国征討へ向かう途中の相模にて、敵が枯草に付け火したため火に廻られ危うく命を落とすところだったが、「草薙の劔」で草を切って脱出したという話しをつい想いおこす。
仮定→「日」=「草」=「日」=「枯草」=「火」=「日」
焼けた土手原は清浄な土壌となりやがて春には新芽が萌えます。
若草山の若草=青草でした。
[8148] Re[8146]: 遮光式土偶? 東沢美史
2007/02/02(Fri) 01:53 [Reply] > 遮光器土偶のことでしょうか?
> だとしたら、目は大きいけど、ギラギラ輝いてはいません。目は閉じてますよ(笑)。
国津罪は近親婚の禁止について、特にうるさく厳しかったということです。
生後間もなく死んだ子供のホルマリン漬けの標本を図書で見たことがあります。
医学書などは恐ろしいので見なくていいとおもうけど遮光器土偶に似て目が巨大化してるのがありました。
[8147] 岐佐神社の赤石 PONTA
2007/02/01(Thu) 04:50 [Reply] 岐佐神社の赤石についてまとめてみました。
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/index8.htm
の「岐佐神社」からお入り下さい。
先輩のフィールドノートには、
・「赤石の正体は傍示石」とありましたが、工事の人が奉納したのではないかと思います。
・「遠州七不思議の清明塚の使用目的が津波防止から疱瘡防止に変わった理由は不明」とありましたが、津波はもうこなくなって目的が果たされたので、疱瘡防止に転用されたのであり、その理由は疱瘡神が赤いものが嫌いだと信じられていたからとしました。