神奈備掲示板の案内とログ
神奈備掲示板
青草談話室、写真掲示板 過去ログ
掲示板のログ(平成二十年 一月 2008.1)お名前の敬称は省略しています。
[8685] 紀氏と名草 和歌山(橋本) |
2008/01/31(Thu) 23:53 [Reply] |
「旧事記」によると紀国造家は「伊太祁曽・大屋都比売・都麻比売」の三神を祀っていたが、三神を山東に遷座し日前・国懸神を祀ようになった。702年三神は分遷したがいずれも熊野古道沿いである。岩橋千塚古墳群も東部にある。向陽高校敷地内から前方後円墳が見つかっているが、殆ど削平されている。これが紀氏のものであれば、削平は許さないはず。 日前・国懸神は琴ノ浦に現れ濱宮から移った。つまり、紀国造は海から攻めてきた神(勝ち馬)に乗り換えたのだろうか? |
[8684] 紀伊の神社の分遷 とみた |
2008/01/31(Thu) 12:40 [Reply] |
秦氏とカモ氏について中村修也さんがお書きになっておられます。 その中で、題名の分祀について以下のように書かれています。
大宝2年(702年)律令の制定時代です。紀伊国のイタキソ・オオヤツヒメ・都麻都ヒメの三神が分遷させられている。 一地に極集した勢力を分散させることによる、相対的勢力の低下を図っているわけである。 イタキソ三神の分遷が行われるまで紀伊国の大神はスサノオの子のイタケルの命を祀るイタキソ神社であったが、天武朝頃に中央神の分神である日前神が紀伊大神として新たに設けられ、大宝ニ年にイタキソ三神を各地に遷座させ、日前神が紀伊国 名草郡の中心地に鎮座するという処置がとられている。
文武天皇が律令制を敷き地方諸国への支配体制を強めることになった。それには各地の豪族の勢力をそぐ必要があった、勢力の支えである神社をコントロールするため神社行政に中央が介入した。
同様に、山背国もカモ氏の上賀茂社の祭りが盛大で手を焼いた国家=中央が下鴨社を分祀させて封戸を分けて力をそいだようです。 秦氏の松尾の祭神も大山クイ神のほかに宗像神を持ってきてニ座にした。 宗教政策だとされています。
以上です。
ついでながら・・・私は、諏訪大社も中央の宗教政策が働いているような気がしますが、どうでしょうか。
須波神社を持統天皇が、諏訪神社にしました。上社と下社に分け上社は本宮と前宮に下社は春宮と秋宮にしたのはいつの時代でしょうか。
本来は洩矢が土着で居て、建ミナカタが越の沼河からやってきて、モレヤは大祝で祭を担当し、建ミナカタは政治を担当して平和にやっていたというのは地元の諏訪神社の宮司さんの話です。
宮司さんは高市という苗字ですから由緒のある方です。長屋王が殺されて先祖は下総にやってきたと仰せです。
諏訪神社も、中央にとって都合のよい宗教政策でいろいろな話をくっつけたり、分祀したりしていると疑っています。
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[8683] Re[8679]: 名草と紀氏 神奈備 |
2008/01/31(Thu) 09:49 [Reply] |
伝教大師最澄が日前國懸神宮を名草上下溝口神と呼んだと伝わっています。日前宮の古記によりますと、上宮を國懸宮、下宮を日前宮としています。
『日本書紀』朱鳥元年の記事に、天武天皇が病に倒れた時、紀伊国の国懸神、飛鳥の四社、住吉大神に奉幣したとの記事があります。この時期には国懸神が鎮座していて、日前神の名は見えません。
初期には、ヒノクマに祀られている國懸神をして日前國懸神と称したとの説があります。日前坐國懸神ですね。 これが、いつの間にか分離して二柱の神とされたのかも知れません。
日前神は『日本書紀』神代上(一書第一)に登場しています。
「大神のかたちを映すものを造って、招きだしましょう。そうして日矛を造り、フイゴを造っています。これを用いて造らせた神は紀伊国においでになる日前神である。」とあります。紀氏にあった伝承かもしれません。
なお、(一書第二)には、鏡は伊勢にお祀りしている大神としています。
『持統紀』に、持統四年に紀伊国を巡行すると出ています。この頃、中央の紀氏と地方の紀直はあわてて、天皇家の祖神である天照大神を日前神として祭ったのかも知れません。ついでに自分たちの先祖を国懸神としたのかも。朱鳥元年の奉弊は実に名誉なこととしたのでした。
藤原京の建設にあたって、伊勢、大倭、住吉、紀伊の四ヶ所の大神にたてまつっています。東西南北の大神の代表かも。なお、紀伊の大神と中身は不明。
いずれにしても、『日本書紀』を作成する頃には、日前神と国懸神の二座が並立していたのでしょう。
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[8682] トクサ 縄文の風 |
2008/01/30(Wed) 22:57 [Reply] |
鏡とか、マガタマハ、トクサで磨いたのでは
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[8681] Re[8677]: 武内宿禰の謎 神奈備 |
2008/01/30(Wed) 21:15 [Reply] |
> 今年もボチボチ投稿しますのでよろしくお願いします。
とみたさん 皆さん 寒中お見舞い申し上げます。
武内宿禰と大和の宇智郡との関係を示す資料は『日本書紀』の仁徳五十年の記事です。 天皇於是歌以問武内宿禰曰。多莽耆破屡(たまきはる)。 宇知能阿曾(内の朝臣)。 ()内は岩波文庫のよみ。
この宇知能阿曾の宇知を大和国宇知郡の宇知と読むのか、太政大臣である内大臣の内とするのかがポイントです。
宇智郡の地名としての宇知は『続日本紀』巻二大宝二年(七〇二)六月「復大倭國吉野宇知二郡百姓。」とあります。 それ以降の宇智郡は宇智と表記されています。
> 宇智はご存知のように奈良と和歌山との境、紀の川が吉野川に変わる五条市にあります。武内はこちらの内郷にいました。
神社から見ますと、武内宿禰を祭神とする神社は大和国では添上郡に二座、高市郡に一座。宇智郡には見あたりません。
> 一方、甘美内の内郷は山背つまり京都府の八幡市で岩清水八幡宮があるところです。
盟神探湯で敗北した味師内宿禰は山城国綴喜郡(京都府の八幡市)のその名も内神社に山代内臣と味師内宿禰が並んで祭られています。こちらの内はどうなんでしょうか? 武内宿禰を陥れようとした味師内宿禰も内大臣として朝廷に並び立っており、政敵だったのでしょう。そのような意味ではやはり内は地名とは言えず、
> 負けた甘美内は紀直の祖に身柄を与えたとされています。
殺される所を天皇の一言で助命さらましたが、これは内大臣としての功績に免じたものと見ています。しかし紀直の下で奴隷的な扱いを受けたのか、後の世に地元の綴喜郡でで神として祭られたのでしょう。
内宿禰の表示はこの二人のみで、以降は大臣・大連とはとして内大臣などが登場してきます。 |
[8680] Re[8676]: 地味な銅鐸 神奈備 |
2008/01/30(Wed) 21:14 [Reply] |
素人さん こんばんは。 > 地味な銅鐸は太陽光を強く反射して派手なパフォーマンスを演出する大きな鏡に激しく見劣りしたのかもしれません。
水銀を採る丹沙の粉末などで磨くとそれこそきれいな黄金色(白銀色)になったのではないでしょうか。
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[8679] 名草と紀氏 和歌山(橋本) |
2008/01/30(Wed) 20:55 [Reply] |
和歌山で古墳時代の遺跡を発掘していると河内の土器が出ることがあります。 名草上下溝口神は日前・国懸神という説があり宮井川を利用して名草の地域を開発したと言われていますが、日前・国懸神は同格であり上下というのもおかしい、紀ノ川はどうした? また、日前・国懸神と言わずにあえて上下溝口神という名称を使ったのも分かりません。伊勢神宮は内宮・外宮とありますが主と従です。普通向かって右が上座ですが!それに紀氏はなぜ2つの神を祀ったのか?先祖を祭るのであれば1つでよいはず・・・ |
[8678] 列島創世記 縄文の風 |
2008/01/30(Wed) 20:17 [Reply] |
松木武彦 (岡大准教授・考古学)全集 日本の歴史 旧石器・縄文・弥生・古墳時代 小学館 2000円 2007・11
渡邉泰治 黄金比の謎 化学同人 1785円 2007・3 読みました。私の問題意識の分野です。内容、感想紹介四諦けれど、まだ短い文が、やっと。 日本の年表、4万年前までは空白。 |
[8677] 武内宿禰の謎 とみた |
2008/01/30(Wed) 13:09 [Reply] |
今年もボチボチ投稿しますのでよろしくお願いします。
森浩一先生の僕の古代史発掘(角川選書 平成15年刊行)は、実に面白い。考古学と文献とを縦横無尽に駆使して分析されています。
武内宿禰に関して、目から鱗の説明がなされていましたので紹介させていただきます。
応神紀に、甘美内宿禰が武内宿禰を応神天皇応神天皇に讒言したことが記されています。
武内宿禰は筑紫にいて三韓と手を組んで筑紫を分離させ自分のものにし天下を手に入れようとしていると訴えたのです。
この甘美内は山背の内氏で甘美・味師の形容を付け、武内も倭の内氏で武・建の形容をつけたとされています。内郷にいた氏です。
内は8世紀に二文字好字化の流行で宇智に代えられたのです。泉も二文字で和泉と変えられたと同様です。
宇智はご存知のように奈良と和歌山との境、紀の川が吉野川に変わる五条市にあります。武内はこちらの内郷にいました。
猫塚古墳(方墳)があり副葬されているのは新技術の蒙古鉢冑や鉄具です、冑や甲を作る技術者、金メッキの技術者が朝鮮から渡ってきたらしい。それを抱えた首長墓が猫塚でしょう。
5世紀前半の墳墓です。近くに阿多という地名があり薩摩の阿多(吾田)の薩摩隼人が住んでいます。
一方、甘美内の内郷は山背つまり京都府の八幡市で岩清水八幡宮があるところです。
今も淀川と宇治川、木津川が合流している地点で古代は淀津といい海船が淀川を遡る港でした。
その近くに大住がありました。こちらは九州の大隅隼人のすんでいたところです。
紀伊の内と山背(山代)の内はいずれも内臣です。内郷もあり冑を作る工人の村の地名もあるようです。
武内宿禰の出自については、景行天皇が紀伊国への旅を卜の占いで中止した。代わりに派遣されて神祭に専念していた屋主忍男武雄心命(古事記では比古布都押之信命)が九年間滞在していたとき、紀直の遠祖菟道彦の娘影姫との間にもうけたのが武内宿禰と伝えている。
記では、木の国造の祖、宇豆比古となっている。
紀伊、菟道、宇治などの地名は和歌山だけでなく京都にもあり紀伊と山背はつながりが感じられるそうです。以前神奈備さんの投稿にあったと思いますが、岩清水八幡宮の宮司は紀の人、淀川沿いの古墳で6世紀後半の海北塚古墳横穴式石室には紀の川流域の緑泥片岩が使われている。
紀氏は紀伊にいた紀氏だけでなく、淀川水系の紀氏も念頭に置く必要があるとされていました。
なお、盟神探湯で武内宿禰は甘美内宿禰に勝ちました。負けた甘美内は紀直の祖に身柄を与えたとされています。 日本書紀、応神天皇九年の条に、筑紫と朝鮮半島にかかわった問題で武内宿禰と対立して敗れた甘美内宿禰の話があるそうです。
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[8676] 地味な銅鐸 素人 |
2008/01/29(Tue)
22:04 [Reply] |
>
柳沢遺跡からは、地元の栗林式と北陸の小松式土器が出ていますので、交流(流通)経路は明らかに日本海です。そして時代は弥生中期。"聞く銅鐸"の時代ですね。 >
出雲で青銅器の大量埋葬が行われる頃、大和盆地の銅鐸祭祀も終焉しているようです。 詳しくないので青草です。 末期には錫の量が非常に少なくなり、赤銅色で音も鈍くとても地味なものになったようです。自然銅は石英中に産出しますから古代の日本でも入手可能と思われます。合金用の錫の入手が問題であったと思われます。国産化でしょうか。 錫の多い初期のものは銀色、黄金色に輝きとても派手で、音も高く賑やかなもので古代の人々を驚かしかしずかせる道具としては優れていたのではと思います。 地味な銅鐸は太陽光を強く反射して派手なパフォーマンスを演出する大きな鏡に激しく見劣りしたのかもしれません。 素人のつまらない思い付きです。 |
[8675] ホリエモン と サンカ精神 焼尻紋次郎 |
2008/01/29(Tue) 14:38 [Reply] |
オレの母方は代々飛重台、久住台に生えるすす竹伐採を請け負ってきました、 確かなことは分らなくなりましたが、その関係で、季節労働者をかり集めるところから、サンカ衆ともつきあいがあったはずです。 従姉妹たちは、ぜんいん竹細工を編む技術を持っていました。 おふくろの姉が買い取った家屋は、炊事場が母屋から離れて建てられていました。この建てかたはサンカの特徴といわれています。
四道将軍みたいな組織をもち、組織の一つひとつにカミ(一)をもつなど、これはありし日の出雲帝国の運搬部門(兼諜報)のなごりではないかと思えます。 小生が“運搬”と置いたは、彼らがサンカと呼ばれているからです。サンカを山窩と漢字にしたのは三角寛さんですが、彼らの呼称はサンカと、ハッキリしていました。 sar- とは「動かす」というネパール語で、これが san へ音転したものと見受けられます。 カは牛か、猪か、画家、建築家のカ(人、人びと)です。
小生が注目するは、彼らの特殊用語に「ひとをからかう」という意味で、ハロー、ハケンの二つが遺っていたことです。 普通に考えれば、どこの社会でも人をからかうのは許されることではないと思うが常識でしょうが、「あのへん」はちょっとちがうのです。 テレビも紙芝居もなかった時代ですが、あのへんの冗談は夫々の個性をお互いに賞味することが、とてもキツイのです。からかわれる方もそれを承知でからかわせて、座を盛り上げます。 また一人ひとりは固有のふざけのセリフを持っていて、それを聞いた周りの者も「あ、また云うた」ぐらいにニヤニヤして聞いています。
そういった精神性の伝統がホリエモンに濃縮していた……と、小生は信じています。 経済だろうと政治だろうと、ホリエモンにとってはふざけの対象だったのではないでしょうか。
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[8674] Re[8670][8669][8667]: 木の国にいきたい 和歌山(橋本) |
2008/01/28(Mon) 19:00 [Reply] |
> > > 奇の国で森あがってますね。2月3日、気の国散策したいので、良いところ教えて下さい。 さらに付け足すと 道成寺、安珍・清姫の絵解き説法があります。 南方熊楠記念館、神社合祀に反対した熊楠の資料があり神社合祀反対の原稿があったと思う。 |
[8673] Re[8659]: サンカ かたばみ [Url]
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2008/01/28(Mon) 14:14 [Reply] |
三角寛氏の原本は読んではいませんが、三角寛著作をベースにする田中勝也氏のサンカ研究、アンチ三角の筒井功氏、その他柳田国男氏などのサンカ関連は若干。 その程度ではありますが、農業に従事せず定住しない民がいたことは事実でしょう。 農民とつかず離れずを保つようにみえるのは農耕具生産を糧にしていたためだと思っています。 狩猟の様子はみえない、ただし道具製作材料を介して木地師とはつながるかもしれません。
ウメガイ・・なんかの作業用具であった可能性はあるかもしれないけれど・・
飛躍しますが(^^; その源は・・農業には関与せず「物」を扱っていた氏族の配下(部)の人々だ、と考えています。 (金属資源を探す山師もこれに含まれる) その氏族が王朝での権力争いに敗れて放逐されたとき、その配下はどう行動するか。 新たな支配に服するか、服すを嫌って自立の道を選ぶか。
自立を選んだ人々、それがサンカの祖と考えています。 遡るなら弥生にも遡りえる(田中勝也氏のサンカ研究参照)。 そのあたりの雰囲気が三角寛氏の「お話」になっていったのだとみております。
なお、田中勝也氏にはウエツフミ研究があります(ウエツフミは大分県臼杵市の文化財に登録されたようです)。 ウエツフミすべてを閲覧できます。 http://cgi.coara.or.jp/~fukura/uetufumi/index.html 私は記紀に準じる重要資料とみております。 記紀と異なるのは九州系の伝承とみえること、編者がおそらくは個人であり編纂がいつであるかはっきりしないこと。 (編者は記紀の内容の影響下で編纂したとみています) 偽作という論もあるけれど、記紀だって似たようなもの(^^;
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[8672] サヨ姫 縄文の風 |
2008/01/28(Mon) 13:03 [Reply] |
余談ですが、連れ合いは、サヨちゃんといいます。日本で最後に残ったすべて手織り、高バタ機使いますけど、麻を手で裂いて紡いでーーー麻織り、伝承工芸にされ た奈良晒しー麻布の織りを伝えていこうとしてますが、若い後継者はいません。 カンミソを織るハタオリ姫です。 植物繊維の中で比較した時、麻の特徴、他の繊維にないものは、金色。 アサ、大麻、の語源との関係これいかに? なにか、自慢してるみたいで、そうです、写真を載せれないのがざんねんです。 梅見の時期にでも当方に来られれば無料で拝観可能です。 |
[8671] Re[8666][8663]: サヨ姫 くず |
2008/01/28(Mon) 11:58 [Reply] |
> 聞く銅鐸は世界同時株安ではありませんが、列島同時埋納となったように思われます。 > http://kamnavi.jp/log/ugamononobe.xls >紀伊と科野、日本海でつながるとすれば、やはり出雲経由と言うことでしょうね。
ちと思うところをまとめてみました^^(ながいっす。)
弥生中期、聞く銅鐸の時代。大和では纒向遺跡に先行する、唐古・鍵遺跡の時代。
唐古・鍵には紀伊、近江の土器、滋賀南部、そして糸井川のヒスイも入っています。 紀伊−大和−伊賀−琵琶湖−日本海へというルートが存在し、同時代の紀伊と長野で青銅器の 埋納形態が酷似する事は、祭祀そのものも共通していたものと思います。
祭祀形態を示す遺物として、唐古・鍵遺跡と、隣接する清水風遺跡出土の土器片に描かれた、 ○戈と盾を持つ羽飾り(鳥装か)をつけた戦士。(戈は銅戈であったでしょうか。) ○両袖を持ち上げ(袖振りの所作か)、鹿モチーフの衣服をまとい半裸の(性器が描かれる)巫女の土器片。 土器片は種籾などの貯蔵に用いた壺と見られ、"袖振り"の巫女は稲モミの復活を願う農耕儀礼に関わっていたものと思います。
神話、伝承に見られる、関連と思われる巫女をまとめてみました。 @稲籾と鹿に関連した巫女。 賛用都(サヨツ)比売 「播磨国風土記讚容郡」 鹿の腹を裂いてその血に稲モミを浸すと、そのモミは一晩で発芽した。亦の名を玉津日女。 A五穀の種子と鳥、ヒレ振りの巫女。 ・ 狭姫(島根県益田市) 五穀の種を持ち赤雁に乗って曽茂利から狭姫山(比礼振山)に飛来した。母は大宣都比売命。 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/6109/iwami.html Bヒレ振りの巫女+三輪山(苧環)型神婚譚の複合。 ・松浦の佐用姫 「肥前国風土記」 任那に赴く大伴狭手彦に褶振峰へ登って褶を振りつづけた。 松浦(唐津市菜畑遺跡には縄文時代晩期後半の水田跡が見つかっている) http://homepage2.nifty.com/amanokuni/sayohime.htm C岩手県 胆沢・江刺地方 掃部(カモン)長者伝説 ・掃部長者の妻が大蛇に化身し、生贄として松浦から小夜姫が呼ばれるが経をとなえて難を逃れる。 掃部長者の先祖は長髄彦の兄、安日彦とも。 D岩手県 盛岡市玉山区 ・よろず姫 よろず姫が大蛇被害の人身御供と決まった。姫の経文の結果、被害は治まる。 玉山金山との関連ありかも? E大和国十市郡庵知村の東(天理市庵治町)「日本霊異記」「女人の悪鬼に点されて食らはれし」 鏡作造の女”万(よろず)の子”が新婚初夜に鬼に食われる話。 http://www5f.biglobe.ne.jp/~dayfornight/hoken_kogitsunemaru/01oni/01oni.html
まとめ。 @〜Bは稲の伝播と鳥、鹿への信仰から生まれた姫と考えられないか。 祭祀に袖(ヒレ)振りの所作を伴ったのではないか。 Cはその伝説が東北に伝わっている。伝えたのが長髄彦の兄とされる安日彦ならば、大和盆地の支配層入れ替わりに伴ってものかも^^ ここまでは(サ)サヨが共通します。アイヌ語でもお粥はサヨ。
D、Eのヨロズ姫は稲作よりも鉄、金属精錬に関する部分を強くした伝承ではないか。 聞く銅鐸が鏡への祭祀に変わった後の贄の姫で三輪山型神婚譚、蛇婿伝承に繋がる。 このヨロズが栲幡千々姫命(万畑豊秋津師比売命)のヨロズに通じたものなら、原初は機織りの姫でもあったかも。 原初的な農耕祭祀から稲作への祭祀に、そこに金属祭祀が複合される。 本来復活を支配する巫女の神格はやがて、たんに金属神に食物を供する巫女(ウナリ)へと落ちていったのではないでしょうか。 サヨが出雲系でウナリ(的神格)は吉備経由かと思います。
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[8670] Re[8669][8667]: 木の国にいきたい 神奈備 |
2008/01/28(Mon) 09:43 [Reply] |
> > 奇の国で森あがってますね。2月3日、気の国散策したいので、良いところ教えて下さい。 > そういえば、高速が開通しましたな!昔は御坊までだったのに、まだ通ったことがないけどどんな風景だろう? > 和歌山よりですが湯浅の町並みなんかどうですか、伝建地区に指定されたし湯浅の醤油蔵見学なんか如何ですか?由良には興国寺もあります。
さらに付け足すと > 梅で有名なみなべ町の紀州南部ロイヤルホテルに前日催しに参加します
珍婚さん必見 白浜町 歓喜神社 入場料が要る神社です。 磐座ファン 串本町潮岬 潮御崎神社 ここの宮司さんはハンサムな独身です。 田辺市の鎮守 田辺市湊 闘鶏神社 弁慶ゆかり 源平合戦の勝敗左右の神社 擧立する磐座 有田郡吉備町 田殿丹生神社 神奈備山と白山権現の組み合わせ |
[8669] Re[8667]: 木の国にいきたい 和歌山(橋本) |
2008/01/27(Sun) 22:56 [Reply] |
> 奇の国で森あがってますね。2月3日、気の国散策したいので、良いところ教えて下さい。 そういえば、高速が開通しましたな!昔は御坊までだったのに、まだ通ったことがないけどどんな風景だろう? 和歌山よりですが湯浅の町並みなんかどうですか、伝建地区に指定されたし湯浅の醤油蔵見学なんか如何ですか?由良には興国寺もあります。 |
[8668] √♪ 兵の歩みのたのもしさ ・♪ 焼尻紋次郎 |
2008/01/27(Sun) 12:10 [Reply] |
旦那、阿備 とは「備ちゃん」の謂いでは? 出雲の「おくに」の“お”、おへまの“お”。『阿 Q正伝』などもあった。
南方とのつながり ; タガログ語に nene があったヨ。これは女の子を呼ぶときの愛情こめた呼びかけことば。ネェちゃんと同根だろう。 タガログ語では「オイ」と呼びかけたら「オー」と返事しま。
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[8667] 木の国にいきたい 縄文の風 |
2008/01/27(Sun) 11:26 [Reply] |
奇の国で森あがってますね。2月3日、気の国散策したいので、良いところ教えて下さい。連れ合いと2人、車で新婚、いや珍婚旅行。私たちはいつまでも、恋愛中です。月ケ瀬と同じく、梅で有名なみなべ町の紀州南部ロイヤルホテルに前日催しに参加しますので。竜神村、玉置山、熊野本宮大社には行きました。 |
[8666] Re[8663]: 紀伊と科野 神奈備 |
2008/01/27(Sun) 10:38 [Reply] |
> 出雲で青銅器の大量埋葬が行われる頃、大和盆地の銅鐸祭祀も終焉しているようです。
聞く銅鐸は世界同時株安ではありませんが、列島同時埋納となったように思われます。 http://kamnavi.jp/log/ugamononobe.xls
> 和歌山県有田市山地地籍出土銅戈群との類似点が指摘されていました^^
紀元前1〜2世紀のもののようですね。
有田市山地は、五十猛神を祀る立神社、また式内社の須佐神社(松前健氏はスサノヲの本拠地とされる)に極めて近い地域です。そうしますと、紀伊と科野、日本海でつながるとすれば、やはり出雲経由と言うことでしょうね。
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[8665] Re[8658][8655]: 九州の紀の国とは 神奈備 |
2008/01/27(Sun) 10:11 [Reply] |
> 大名草彦命、この「大」も意富あるいは多臣のオホとみたいところです。 > オホ一族の名草の彦、大彦命の場合はオホの統領であって地名等を付して識別する必要はないわけです。
なるほど。多臣とは! よくわからないのですが、葛津国造になっら若彦ですが、祀られている神社は『平成CD』によりますと以下の通り。
越前国今立郡 春日神社 下総国岡田郡 桑原神社 肥前国松浦郡 八阪神社 肥後国 合計22社 肥後国の場合には、神社名に阿蘇が付いているのが半分、また健磐竜命をも阿蘇若彦と呼んでいるようで、若彦と言う神名でどうこう言えないと思っていましたが、大名草彦命を多臣との関連でとらえるならば、若彦も生き返ってくるかも知れません。 また、多氏と秦氏とは近い関係にあり、紀氏は辛島氏と同じく、秦氏の一分岐かも知れないので、案外つながっているのかも知れません。 サジェッション、ありがとうございます。 |
[8664] Re[8661][8657][8656]: 名草 神奈備 |
2008/01/27(Sun) 10:11 [Reply] |
> もう一つ面白いのは、古代寺院が紀ノ川平野の周辺部にあり中心部では見つかっていないんです。
紀ノ川の北側が多いように思います。これは南側の地形の関係と和泉地方との繋がりからかと思われます。
また、相当以前に話題になったのですが、名草郡の古いと思われている八幡神社も、その分布は中心部を避けているようです。蘇我氏などが大和勢力の拠点として勧請したものかも知れません。紀氏に遠慮して遠巻きにしたのかも。
> 熊野古道も紀ノ川平野の東、伊太祁曽神社の横を通っています。まるで紀氏(日前・国懸神社)を避けているかのようです。
平安・鎌倉の時代になりますと、紀氏の力もそれほどではなく、また泉南から入って海南市に抜けようとしますと、伊太祁曽神社の鎮座する山東平野を突き抜けるのが回り道にはならなかったのでしょう。その熊野古道を通りつつも、奉弊使を日前宮に差し向けているようです。
> 九州と関係があるのであれば、その中間の四国や中国地方(瀬戸内)にその痕跡はないのでしょうか? ペギラさんの「紀氏の謎」に、瀬戸内海での紀氏一族の分布の状態が記されています。 これは名草に拠点を持った紀氏が瀬戸内に展開していったのが多いでしょうが、中には九州から紀伊にやってくる足跡もあったのかも知れません。 http://homepage1.nifty.com/moritaya/kisi.html |
[8662] Re[8658][8655]: 九州の紀の国とは 縄文の風 |
2008/01/27(Sun) 01:11 [Reply] |
> 大名草彦命、この「大」も意富あるいは多臣のオホとみたいところです。 > オホ一族の名草の彦、大彦命の場合はオホの統領であって地名等を付して識別する必要はないわけです。
ログ集の大田のところ少しずつ読んでいますが、大田田根児は、オオ タタネコと オオ氏説(オホ)。 太安麻侶の多神社と同族ですかと大神神社関係者に当たっていますが、否定されます。でも飛鳥、奈良時代に一族名が同音、しかも王と同音を、いかに考えるか? 興味が尽きません。 大彦命も同じオオーオホ族か |
[8661] Re[8657][8656]: 名草 和歌山(橋本) |
2008/01/27(Sun) 00:18 [Reply] |
余談になりますが、私が子どもの頃ルバング島から戻る前ですが小野田さんのお宅に何度も伺ったことがあるんです。実家が小野田家と付き合いがあり、お宅には白黒の写真があり小野田さんだったのかも知れません。昭和20年代からルバング島で生きているという話が復員兵から伝わっていたそうで、36年まで何回か捜索したが発見できず、あきらめていた所突然現れたのです。祖母が仏壇の前で手を合わして泣いて喜んでいたのを覚えています。
さて、名草は和歌山市と海南市にわたる地域であったようで、おそらく和泉山脈から長嶺山脈までの広範囲だったでしょう。以前に話題になった海南市の室山もそこにある室山古墳は岩橋千塚にみられる石梁のある古墳の南限ですので紀氏の勢力範囲、すなわち名草の地域と一致します。 名草山の中腹に西国札所の紀三井寺が770年に創建されたのもなにか理由があるのかもしれません。創建した為光上人は同じ年、海南市に禅林寺を創建しています。 長嶺山脈が壁になっていたのかも知れません。東は伊太祁曽神社がありますから名草は和泉山脈から長嶺山脈東は伊太祁曽までの範囲ということになります。 もう一つ面白いのは、古代寺院が紀ノ川平野の周辺部にあり中心部では見つかっていないんです。熊野古道も紀ノ川平野の東、伊太祁曽神社の横を通っています。まるで紀氏(日前・国懸神社)を避けているかのようです。 九州と関係があるのであれば、その中間の四国や中国地方(瀬戸内)にその痕跡はないのでしょうか? |
[8660] 水の遺跡 縄文の風 |
2008/01/26(Sat) 21:18 [Reply] |
神奈備さま 写真掲示板の難波の宮の水の。さすがですね。石切神社の近くの水遺跡。水乞いの山、生駒山。教わるばかりです。 そして興福寺、春日大社。山添村大西塚ノ本遺跡。伊賀、城之越遺跡で発掘された謎の穴開き土器。(3年前発掘、山添村歴史民俗資料館に展示) 東西一直線上で、水を祭るラインかな。太陽の道と対で、私、水のラインと名ずけました。 千田稔 飛鳥ー水の王朝 中公新書 に連なるものです。 |
[8659] サンカ 縄文の風 |
2008/01/26(Sat) 20:29 [Reply] |
沖浦和光 幻の漂泊民・サンカ 筒井功 サンカの真実、三角寛の虚構 読まれましたか、サンカについて私素人です。というより箕つくり、山の民そして、大和高原の小倉(古い地名です)小椋氏との関係勉強したいです。基本的な本少しずつ。ウメガイの実在について? |
[8658] Re[8655]: 九州の紀の国とは かたばみ [Url]
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2008/01/26(Sat) 19:29 [Reply] |
新年のごあいさつ程度のつもりでしたが・・(^^;
総じて考古学上でも「出雲は神話にあらず」の考え方を加えて解釈しなければ出土物のありようを説明できない、と思っています(記紀の呪縛かな)。 出雲の国譲りとはなにか(持論AD50頃)、神武は九州しか統一していない(持論AD50頃)。 九州勢力の出雲制圧(大和侵略)はAD250頃の事象である。 この3つが弥生のメイン。天孫降臨はさすがに情報あいまいなのでおいておきます。
大名草彦命、この「大」も意富あるいは多臣のオホとみたいところです。 オホ一族の名草の彦、大彦命の場合はオホの統領であって地名等を付して識別する必要はないわけです。
神八井耳命の母は媛踏鞴五十鈴媛、事代主命の娘。 多臣族の祖の神八井耳命は天孫と出雲のハーフの祖となります(^^; 神武と大国主命は叔父甥の親戚。 先代旧事本紀に神武の家臣として天日方奇日方命が登場し、天日方奇日方命は事代主命の子、媛踏鞴五十鈴媛と兄妹。 倭国建国以降(出雲の国譲り以降)では天孫と出雲は縁戚になっていた。
これらの系譜が正しいならば、ではありますが弥生のありようを考えるベースのひとつがここにあります。 系譜は流れなのでいじりにくい。 先祖伝承はそれぞれの氏族のものであって他者(支配者など)の干渉を受けにくい。
ましかし、どこの世界でも支配者の自著は信用しにくい(^^; インチキしても支配者にメリットがなさそうならば事実の可能性が高いか、といったところ。 (その点、中国史書は現王朝が旧王朝のことを書いていて信頼度が高い)
神奈備さんの武内宿禰関連情報は持論の補強になっております。 弥生初期での北九州は朝鮮半島の伽耶地域とも切り離せない関係がある(歴史としてのスサノオ尊の追放)。
紀ノ川沿岸には朝鮮半島系の土器が少なからず発掘されて国内系土器と共存しています。 北九州からやってきた半島系の人々がいた。 資料確認していないのですが前期無文土器が紀ノ川から出ており、これは弥生早期に遡る可能性があります。 (スサノオ尊をはるかに遡る→大年神時代か) 少し後になると島根半島や琵琶湖周辺からも出るようになります(まだ土器年代が確定とはいいがたい)。
陸路を進む場合はその速度はきわめて遅い。目的地の定まった旅行ではありませんから世代単位で田畑を耕しながら少しずつ、になると思います。 しかし海路をとる場合は別です、年単位ではるか遠方へ到達可能、遭難しなければ。 東北に稲作が登場するのは近畿より早く北九州と大差ない、日本海沿岸の海路で伝播でしょう。
弥生初期に海路で出雲系文化の人々が到達したひとつが和泉山脈の北側と南側(紀ノ川)だったのではないか。 当時の大阪湾沿岸は湿地帯で淀川系の河川の洪水もひんぱんで上陸困難で人の住める地域ではありません。 生駒山脈を越えれば肥沃な奈良盆地があったけれど非農耕の縄文系が山沿いに住むのみ。
和泉山脈の北側はよい土地で当面は奥地に入る必要はなかったが(後の池上曽根遺跡などに発達)、紀ノ川河口に上陸した人々は紀ノ川を遡ってもっとよい土地を探索したんじゃないか。 半島系土器は奈良盆地へ抜ける橋本市、五條市付近の出土です、奈良盆地を発見するのはこちらの方が早かったかもしれない。
これらの行動が五十猛命伝承(植林≒大屋彦命)の源になっていると考えています。 伝承が失われておかしくない年月の経過だけれど、出雲の流れを引く人々が古墳時代にも北九州〜瀬戸内〜紀伊に関与し、応神以降も勢力を持っていたので消えずに残ったのではなかろうか。
応神パパがだれかはおくとして・・ 書紀は大和における最初の天孫系支配者、開化と崇神(純粋に近い天孫系譜)を中枢におき、ハーフ系譜(多臣族、北九州メイン)の存在を隠そうとしている。 応神も仲哀の子とするために必死の努力(^^; (後の雄略登場も類似と見ています)
「日本根子」の尊称は孝霊175-204〜開化225-248で登場し、記紀編纂時代の元明707-714、元正715-723で尊称に「日本根子」が再登場するのも書紀編纂目的と天皇系譜に密接な関係があるからだと考えています。 (聖武724-748でいったん消え、弘仁810-823で再登場・・その後にもごたごたがあったのでしょう(^^;)
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[8657] Re[8656]: 名草 神奈備 |
2008/01/26(Sat) 10:17 [Reply] |
> 和歌山市南部に名草山がありこの山を囲むように名草彦、名草姫を祀る神社が沢山あります。
おっしゃる通りです。名草山はその昔は島でした。周辺が湿地帯になって、七つの原ができ、これを阿備(アビ)の七原と称し、葦などの根元に褐鉄鉱(スズ)がなったようです。阿備が阿鼻叫喚のアビであれば、名草戸畔の最後にふさわしいネーミング。長髄彦のお兄さんが安日彦(あびひこ)、三国志の劉備玄徳の幼名が阿備。
名草は菜草であり、葦のように根元にすずができる草を言うとは真弓常忠『古代の製鉄と神々』に載っていました。
さて、昨年来名草戸畔を調べておられるなかひらまいさんのグループはルバング島から帰還した小野田寛郎さん(氏は名草戸畔ゆかりの宇賀部神社の社家の傍流)ですが、小野田家に伝わっている名草一族のことについて、名草一族は大分から海を渡ってやって来た海人族という話をされていたそうです。 参照 http://nagusatobe.exblog.jp/
大分の国東半島と紀氏とは後の世でも関わりが大きかったようですし、紀氏の流れの中に含まれる丹生一族も丹生の大産地であった大分から中央構造線を通って紀の国に上陸したようです。名草一族もその一環だったのかも知れません。 |
[8656] 名草 和歌山(橋本) |
2008/01/24(Thu) 23:40 [Reply] |
和歌山市南部に名草山がありこの山を囲むように名草彦、名草姫を祀る神社が沢山あります。この辺を三葛と総称します。すぐ南には浜の宮神社があり祭神は天懸神・国懸神ですが、紀氏の祀る神が日前・国懸神ですから天の神・国の神を祀るということになります。名草山に天の神が降り立ったのかも? |
[8655] 九州の紀の国とは 神奈備 |
2008/01/24(Thu) 08:33 [Reply] |
『肥前国風土記』藤津郡 能美の里に土蜘蛛が三人。景行天皇は侍臣の紀直の祖稚日子を派遣して誅殺させようとしましたが、土蜘蛛は叩頭(ノミ)して命乞いをしたとあります。鹿島市能古見が遺称地。
『国造本紀』には、葛津立国造「成務期に紀直同祖大名草弟彦命児若彦命を国造に定めた。」とあります。「葛津立」は「葛津」と見ていいでしょうし、「大名草弟彦命」は「大名草彦命」と見ていいと思います。大名草彦命の子に武内宿禰の母となった山下影媛の父親である宇遅彦がいますが、宇遅彦と若彦とは兄弟と言うことになります。
確認できていませんが、葛津郡である佐賀県鹿島市に若彦命を祭神とする木宮社が鎮座していたと下記のHPに記載があります。 http://homepage2.nifty.com/ihmm/sub11-33.html 玄松氏さんの手持ちの資料には、木宮社の名は見えないそうです。 若彦命を祭神とする神社は佐賀の伊万里に1社、肥後国(熊本県に22社、これは阿蘇若彦命が建磐龍命のことで、こちらを祭神としている可能性が大きいと思われます。
鹿島市の北側は杵島郡でここには和歌山の紀州の国魂である五十猛神に縁の古い神社が鎮座しています。同じ杵島郡には武雄市があり、武内宿禰ゆかりの地です。往古の紀の国は杵島郡と見ていいのでしょう。杵島の島は地域・縄張り、すなわち杵国で紀国です。
神功皇后が西の海(北の海のこと)に国が見えないとのことで、磯鹿の海人−名草−を遣わして見させたとあります。草と言う名の人を遣わしたと解釈する方も見えますが、人の名を出すのにいちいち「名は**」としていません。ここだけ名草を名は草と読むのは道理にあいません。名草の海人は大名草彦につらなる人だったのでしょう。
磯鹿の海人とは安曇系の海人で、『肥前国風土記』では値嘉の郷の隼人と思われる者が住んでいる島に安曇連百足を派遣していますが、安曇も隼人の言葉を理解したからでしょう。即ち隼人と同類だった。
紀直の祖の大名草彦もまたその系統の人物であったのでしょう。後世でも紀氏は良い馬を持っていました。値嘉島の白水郎たちは馬や牛に富んでいるとあります。紀直は隼人系と見ていいのでしょう。そうしますと山下影媛にも隼人の地が流れていて、武内宿禰さんも褐色の偉丈夫だったのでしょう。 |
[8654] 山下影媛2 神奈備 |
2008/01/23(Wed) 21:29 [Reply] |
景行天皇は九州中部の土蜘蛛退治を行いましたが。筑前の伊都国と熊襲とには手を着けなかったようです。
『筑後国風土記』の逸文に、生葉の郡の条があり、「昔、景行天皇が国巡りを終わって都にお帰りになると云々」とあります。生葉とは今の浮羽のようです。九州の中心のような場所で、交通の要衝の日田の南西にあたります。ここを景行天皇の「都」と言っているのです。
九州を制覇しようとすると、先ず、大陸の玄関口としての伊都国はほしい所。何故、手をださなかったのか不思議なとこです。とりあえず考えられることは、一応の友好関係にあったのかも知れないことです。
景行天皇の九州制覇のお話は作戦が書かれていたり、順々に土蜘蛛を退治していく実務的なお話になっています。当時の九州の王権は神権政治の段階から一歩抜け出していたのかも知れません。 所が、『日本書記』では、次ぎの九州でのお話は、仲哀・神功の物語で、彼らの物語では、船を魚が助けた話など神話の時代に逆戻りの話になっており、神権政治から抜け出してはいません。おそらくは九州より未発達の地域王権に伝わった伝承を元にしているのでしょう。それが大和王権。
地域政権の連合体であった我が国は継体天皇の頃、東国と大和一円がまとまり、その余勢をかって九州の政権を圧倒したのでしょう。それが筑紫君磐井の乱となっていますが、大和側の一方的侵略だったのです。
仲哀天皇は九州の熊襲を征伐する出陣に皇后を同行させています。仲哀の父親とされている日本武尊も東国へは妃の弟橘比売を同行していますので、この親子はそれが自然なやりかただったのでしょうが、一般的には戦場に同伴させるのは不自然のように思います。例えば、神武天皇の東征では吾平津媛は同行していないようです。
さて、途中で出迎えを受けたり、祟っている神を祀ったりしながら岡津に到着。伊都県主の五十迹手が出迎えて、恭順の意を示していることになっています。九州の景行天皇がまとめた中部九州も黙認していたように記されています。大和王権からの進軍ですから、九州としては黙っているはずがないのが常識。
仲哀天皇が神罰を受けてなくなったことになっていますが、大和と九州の両軍の戦闘があり、戦死したと考えるのが自然です。その戦いの足跡は神功皇后が松峡宮(朝倉郡三輪町)、御笠(太宰府)、層増岐野(夜須)と転戦の記録が書かれています。
『住吉大社神代記』に「是夜天皇忽病發以崩〔之〕於レ是皇后與二大神一有二密事(俗曰夫婦之密事通)」とあります。 鹿児島県鹿児島郡三島村の黒尾神社の祭神は住吉神です。武内宿禰とハンドルネームであろう黒男は鹿児島では住吉大神のこととなっていました。応神パパとは武内宿禰と思っていいのでしょう。
皇后がこの状態で大和に帰ろうとし、また皇子を連れていくとなりますと、従来の大和王権の皇子達はあわてたのでしょう。しかし、一人は事故死、もう一人は武内宿禰に簡単に騙されて死んでしまいます。純朴な人々だったのでしょう。
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[8653] Re[8651]: ウ ズ かたばみ [Url]
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2008/01/22(Tue) 18:10 [Reply] |
ごぶさたです。
無数にある事象のひとつを取り出してそれに解釈を加える。 いろいろな解釈とその選択があるはずですが、多くの可能性の一部分の選択から進めると袋小路にはいりやすいと考えています。
ウズ、単に翻訳すれば「貴あるいは珍」でよいと思います。 ただし、貴とはなにかに踏み込めば、場所によって時代によって人によって、用法はいろいろでてくるはず。 黒い顔、色白ではないという用法なのに「黒」だけを取り出すと・・部分を取り出す場合の危険性だと思っています。
それを避けるために大きな筋道(歴史の流れ)を想定して、無数にある事象がその流れに包含されるかどうか(説明できるかどうか)をメインにして進めています。 包含できない事象ができるだけ少なく無理の少ない流れ、それが事実に近いだろうという考え方です。 包含できるならその事象についてはとりあえず概略だけでよしとしておきます、すべての事象を掘り下げることはできませんし。 (分業とそのコラボレートが必要)
確実な事象なのにそれを包含できない場合は流れの筋道を修正する、あるいはその事象の方が偽である可能性を探ります。 考古学的出土物は確実な事象です(出土物についての様々な解釈は別です)。 神社伝承などはこれに次ぐ事象、ただし時代の流れの中で変化している可能性があります。 そういった事象をシンプルに説明できるかどうか、その繰り返しが私のやりかたになっています。
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[8652] Re[8649][8648][8643][8641]: 山下影媛 かたばみ [Url]
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2008/01/22(Tue) 09:14 [Reply] |
>邪馬台国の東遷
これも同意でもあり異でもあるのですが(^^; 青草の継続にて失礼。
東遷(移動)ではなく領土の奪取(拡大)だと解釈しています。 倭国連合(九州)の抗争と勢力減退の中から新天地を求めての拡大(四道将軍、持論AD250頃)を図った。 書紀はそれを神武の九州統一(持論AD50頃)に移し重ねて書き換えた。
侵略の最たる因は弥生以降の九州の人口急増と寒冷化に伴う飢饉と混乱(内紛)。 AD100頃から寒冷化が始まっており、新羅本紀には倭人の飢饉が書かれています。 (倭国争乱時代が寒冷化のピークで、温暖化が始まるのは応神時代、九州勢力の復活)
四道将軍、大彦命、武渟川別命(大彦命の子とされる)、吉備津彦命、丹波道主命。 このあたりに武内宿禰系譜とされる系譜が近畿へ入る最初があるのではないかなあ(後には大王継承の内紛も生じる)。 開化将軍と崇神将軍も四道将軍の同列にあるのだけれど、書紀では近畿にすでにある大王系譜としているわけで、当然ながら書けない。
ではその総大将は・・倭迹々日百襲姫。 記紀は三輪山の神々まで消すことはできず、大物主命と倭迹々日百襲姫の婚姻=箸墓説話を書くことで出雲勢力がそこに存在したことを神格化(時代をあいまい化)して表現した。
現実問題としては「祭祀者の崇神」が大いに苦労しているわけです。 崇神らが昔からそこにいたのであれば今更混乱することもなく、自らの神を今更あちこちに移転するのもおかしい。 考古学的には唐古・鍵遺跡と纒向遺跡の文化的不連続の説明も必要です。 (ゆえに記紀の神武東征説話をこの時代に持ってこようとする論もでてくる、神武東征の呪縛)
環境と地形から人々がどう動くかといった推定(シミュレートもどき)からの解釈をメインにしていますが、なるほど北九州には黒を名に持つ社がたくさんあるのですね。 北九州ならどこのだれがやってきてもおかしくない、諸葛孔明信奉者がいてもおかしくない(^^;
黒といっても真っ黒ではなく褐色が混じるといったところだろうと思います。 色が黒くて東南アジアっぽい顔立ちの知人がいて、空港で別室に呼ばれること少なからずでした(^^;
>面白いのは誉田大神は龍田大神には勝つのですが、鹿島大神に負けてしまいます。本当に応神天皇でしょうか。
龍田大神を志那都比古命とし、鹿島大神を武甕槌命とするならば新しい神?のほうが強くないとうまくないだろうなあ(^^; 書紀編纂時代の背景(大和朝廷の勢力図)を現しているのかも。 ただし、海運者(住吉大神)は時代を通して王朝の範疇には収まらない別格の実力者だったのかもしれないですね。
余談 西都原の地名の初見は新しいようで男狭穂塚への道の途中にある1817石柱に「寺原西都原」のようです。 地名最古は1173石貫神社申上口上書に「可愛田原」、次いで1558妻宮縁起書に児湯郡斉殿原笠狭崎」とあるそうです。 (西都原古墳群/北里泰道 これらの源資料は現在は失われているそうです) 可愛田原、笠狭崎などからは当時の記紀解釈による地名が存在したことが推定できそう。 斉殿は齋殿、斎場と解することもできそう。 地名登場由来だけでも、いつどこでだれがなにをしたか、があってやっかいそうです。
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[8651] ウ ズ 焼尻紋次郎 |
2008/01/22(Tue) 08:56 [Reply] |
かたばみさん、読んでいますが、ハナシの 3%もオレの蓄積には繋がりません。 どだい、無いのですからシカタねえか。
おととい、キカイ・オンチのオレが、満州語のサイトをみつけました。Google で「満州語」で叩いたら出てきたんです。 それによりますと iju に「頭・指導者」の意味これありとか。
ただし、ウズメの命については、十ぐらいの意味がでますので、上の uju を100%信用して適用するは危険かと思います。 髪かざりもウズといったのかな? ノーヘル症ものですが。 文字をみて“黒”とあるのでこれを即、英語のblack と思うのも危険じゃないかナ? あんがい「鳥神」かもしれまへん。 わからんが、「ミミ」また然り。ミミがつく地名は宮崎県の東北、海岸よりにあります。北海道ウトナイ湖周辺にも。
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[8650] Re[8641]: 山下影媛 神奈備 |
2008/01/21(Mon) 21:38 [Reply] |
自己レス。
『聖なる光』と言う写真集が出ています。 http://holy-brilliance.net/holy-brilliance/index.htm
撮影は奥聖さんと言う方で、数年前から不思議な光が見え始め、写真にとれるようになったそうです。それでも絞りなど相当注意して、かつ現像も難しいようです。町の写真屋さんにお願いしているそうです。また、デジカメには写らないそうです。
奥聖さんとは宮古島のホテルで相部屋となり、いろいろとお話ができました。インチキをするような人には見えませんでした。
彼と話をしている際、武内宿禰の母親とされている山下影媛のことに話がおよんだ際、彼のヒラメキは山下は熊襲と関係あるのではと言っていました。具体的なことには触れなかったので、その後ボチボチと調べていますが、まだ出てきませんが、黒男=武内宿禰でもありそうなので、何かあるのかも知れません。ヒントを頂ければ幸甚です。
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[8649] Re[8648][8643][8641]: 山下影媛 神奈備 |
2008/01/21(Mon) 11:21 [Reply] |
> 武内宿禰の出自は、景行大王が足を踏み入れることのできなかった地域、別系が支配する北九州だと思います。
武内宿禰が『風土記』に登場するのは、逸文の残る『因幡国風土記』で、式内大社の宇倍神社の由緒にもなっている、武内宿禰の終焉の地としている条だけのようです。 私は肥前国の武雄温泉辺りで生まれたものと思っていますが、『肥前国風土記』には景行天皇の事跡は書かれていますが、武内宿禰については出て来ません。『日本書紀』『古事記』には、和歌山の紀の国として書いてあるので、その後にできた風土記には書けなかったのかも。
奥野正男著『邪馬台国の東遷』には、北九州の地名 平群 曽我 羽田 基肄 葛木 巨勢をあげています。その地名を冠とした氏族は武内宿禰の子孫として大和王権内で活躍しています。
−−−九州北部の地図と地名−−−『邪馬台国の東遷』から 博多湾 / −−−−−−/ 曾我 平群 羽田 背振山地 ======= I 甘木 ==I基肄 武雄 巨勢 I葛木 −−−−−+−−−筑後川 有明海
> 武内宿禰系とされる巨勢氏は万葉で黒い顔を揶揄されており、これらの系譜には「黒媛」が少なくとも二人います。
葛城氏と羽田氏に黒媛がいますね。
また、武内宿禰自身も黒*神社の祭神として登場しています。
大分県宇佐市 宇佐神宮摂社黒男神社 大分県中津市 薦神社摂社黒人社 大分県日田市 玉垂神社<通称>黒男社 大分県東国東郡国東町 黒雄社 福岡県浮羽郡田主丸町 黒島神社 福岡県築上郡築城町 八幡神社摂社黒男殿神社 福岡県大野城市 黒男神社 福岡県糟屋郡久山町 黒男神社 福岡県福岡市 鳥飼八幡宮摂社黒殿社 福岡県福岡市 棉津見神社摂社黒津神社
なお 佐賀県武雄市 黒尾神社「神母景媛」は母親を祭神としています。 鹿児島県鹿児島郡三島村 黒尾神社「住吉神」です。
http://www.genbu.net/data/buzen/kohyou_title.htm 八幡古表神社での神相撲では住吉大神が全勝優勝をするのですが、この色は黒いようです。相撲には武内宿禰は登場していません。面白いのは誉田大神は龍田大神には勝つのですが、鹿島大神に負けてしまいます。本当に応神天皇でしょうか。
武内宿禰と住吉大神、つよい繋がりがありそうです。応神パパ? |
[8648] Re[8643][8641]: 山下影媛 かたばみ [Url]
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2008/01/20(Sun) 20:52 [Reply] |
>景行天皇の足跡は中部九州であって、薩摩・大隅と筑前とには足を踏み入れていません
非常に重要な部分であり、おっしゃるとおり足を踏み入れることのできない地域だったのだと思います。
>筑前には邪馬台国の後裔(多分伊都国)、南九州には狗奴国の後裔国が頑張っていたのかもと思っています
同意でもあり、異でもあり(^^; 邪馬台国は魏志倭人伝に書かれる倭国を構成する多数の国のひとつ、どこにあったかは置いておきます。 北九州は諸外国への出入り口であり、先進文化がまずやってくる地域。 そこにあったのが伊都国や奴国で日本海沿岸諸国との交易も盛んだったはずです。
関連事項を広げて青草・・周辺事象とつながるかどうかが重要なのでちと長くなります。
魏志倭人伝に書かれる「ふたつの奴国」のうちの「南の奴国」が神武の出自である鹿児島だと考えています。 これが後漢書に書かれる「倭奴国」「倭国の極南界」の奴国です。 魏志倭人伝に多数登場する「なになに奴国」は神武が九州の北征(+若干の東征)途上で神武に従った国。 九州統一(倭国連合)を達成して神武が建国したのが北九州の奴国。
奴をヌと読むのは呉音、漢音はド。 伊都国とは神武時代では委奴国イドコクであり奴国と不可分とみます。 そこに登場するのが「漢委奴国王」の金印、AD57頃。
中国最初の辞書である説文解字の成立はAD100頃。AD57頃では国あるいは種族を示す「倭」の文字はまだなく、稲作の民の朝貢であるために光武帝は金印に「委」を用いた(AD100以前の書物に倭の文字を発見していません)。 後漢書成立はAD440頃であり「委奴国イドコク」を国の意として「倭奴国」と書き改めたものと考えています。
神武の出雲系の后の子の綏靖大王と神八井耳命(綏靖大王の兄)に謀殺されたのが神武の隼人系の后の子の手研耳命と岐須耳命、その后の故郷は阿多の名から隼人の薩摩大隅でしょう。 綏靖大王に子が謀殺されたゆえに早々に倭国連合から離反し、倭国連合のひとつである隣の宮崎と敵対していたと考えています。 これが魏志倭人伝で邪馬台国と昔から仲が悪かったと書かれる狗奴国。
北九州はいろいろな氏族の混合地域であって内紛の源にもなり後の応神大王登場につながってゆく。 (日本海沿岸諸国とも交易を以てつながりが深い、むろん朝鮮半島とも) この時代の耳ミミの呼称をもつ一族にも注目です。多臣族(オホ、神八井耳命の子孫)もそのひとつ。
武内宿禰の出自は、景行大王が足を踏み入れることのできなかった地域、別系が支配する北九州だと思います。 寿命については私の年代仮定であればせいぜい90歳程度で実在人物だと思います。
武内宿禰系とされる巨勢氏は万葉で黒い顔を揶揄されており、これらの系譜には「黒媛」が少なくとも二人います。 これらの本来の祖ははるか天孫降臨にまで遡り得る渡来人だとみています。 厳密には(より深い青草では(^^;)呉楚七国の乱から逃れてきた中国系貴族の系譜。 紀氏も山東半島付近にその名があります、おそらくは葛城も渡来系(徐福とつながるかもかも(^^;)。
波多氏も滅亡時の始皇帝系譜(朝鮮半島在)につながるかもしれないと思っています(^^; ただし、雄略以降の秦氏はこれとは別です、当時の製鉄などの技術者、商人や楽人など平民の渡来人であって、後に有力になってから系譜が一本化されて貴族系譜に接続した。 書紀はこれら渡来系の祖を武内宿禰(開化系譜としている)に集約して書いているだけ。
武内宿禰自身も渡来系かもしれませんが、日本海沿岸との関連から開化系譜ではなく書紀のいう四道将軍のひとり大彦命系譜であり出雲系譜とのつながりが濃い人物とみています(宿禰の尊称のありようにも注目)。 (この「四道将軍の戦」が開化崇神の大和制圧を示唆する書紀での唯一の痕跡)
なお、大彦命はオオではなく本来は多臣オホとみています。すなわち神八井耳命の系譜。 開化の兄とされますが、書紀が北九州の大王(応神の祖)を開化系譜に取り込んだものとみております。 (書紀は大王系譜一本化のために常にこれをやっている(^^;)
武内宿禰の母の祖は宇豆彦(珍彦)とされ、ウズとは貴いこと。貴族の系譜であることを示すものと思います。 しかしこのあたりの関連はもはや不可知だと思います、ウズが尊称となって複数の宇豆彦がいたかもしれないし。 (後の太秦をウズマサと読むのもこれの変形だと思います)
>継体陵とされている今城塚古墳から三つの石棺が出ていますが
どれがだれの古墳であるかの確定は容易じゃないからなあ。 現状の推定は記紀の記述ベースですから多くがはずれだと思っています。少なくともみんな掘ってみないと(^^;
葬送を現すと見える舟形埴輪を理念上の祭祀とみなす論がありますが、現実に遺骸を九州へ運ぶ状況を写したものだと考えています。九州の石を使うのと同じ意識によるものです。 (西都原、多数の古墳群のみで住居痕跡がない・・埋葬専用地だった可能性をみる) (なぜ西の都の地名なのかいまのところ不明)
東国原知事さん、がんばって発掘にも予算まわせるようになるといいんだけど(^^;
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[8647] 勉強開始 縄文の風 |
2008/01/20(Sun)
20:25 [Reply] |
書き込みを少しずつ読んでいってますが、勉強になるので、おもしろくて朝になってしまいます。神奈備ノート作ってメモしてます。 <1153>墨縄は今も建築では必需品です。曲面上に簡単に直線が印せます。 1112 香具山の案内人のおじさんから香具山のハニ土をいただいたのを棚にお祭りしてます。 1111 サギ鳥は田の魚や昆虫を食べるため田にたくさん来ます 茂在寅男、元気老おじさん、ご高齢の為、関西でのご講演は、しりごみされてます。又、お願いしてみます 気がついた事すこしずつかきます す |
[8646] Re[8645]: 蛇足 和歌山(橋本) |
2008/01/20(Sun)
00:18 [Reply] |
> つまらない夢想 >
西暦478年、雄略帝が中国に送った上奏文で日本を封国と呼んでいるのでおそらく、属国としていいかと考えました。
柵封体制ですね。 渡来系氏族や技術者が日本にやって来たのも柵封体制の戦略の1つかも? |
[8645] 蛇足 素人 |
2008/01/20(Sun)
00:02 [Reply] |
つまらない夢想 西暦478年、雄略帝が中国に送った上奏文で日本を封国と呼んでいるのでおそらく、属国としていいかと考えました。軍事活動の概要にふれ半島での高句麗との攻防も記載されています。蛇足ですが、朝鮮から漢字博士を戴かなくても中々の名文と思われます。 半島の軍事活動が順調であれば、凱旋者もありこれらを国内の最前線に投入しての領域の拡大も推定され国内統治も順調に行ったのでは考えた次第です。凱旋者の地位の向上も予想されます。 宋書−倭国伝 使を遣わして上表す。いわく、 「封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬(みずか)ら甲冑をツラヌき、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土を廓(ひら)き、畿を遐(はるか)にす。累葉朝宗して歳に愆(あやま)ず。臣、下愚なりといえども、忝なくも先緒を胤(つ)ぎ、統(す)ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道百済を遙(へ)て、船舫を装治す。しかるに句麗無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷を掠抄し、虔劉して已まず。毎に稽滞を致し、以て良風を失い、路に進むというといえども、あるいは通じあるいは不(しか)らず。臣が亡考済、実に寇讐の天路を壅塞(ようそく)するを忿(いか)り、控弦百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄(にわか)に父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ。居(むな)しく諒闇にあり兵甲を動かさず。これを以て、偃息して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎賁文武功を効し、白刃前に交わるともまた顧みざる所なり。もし帝徳の覆戴を以て、この彊敵を摧(くじ)き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃かに自ら開府儀同三司を仮し、その余は咸(み)な仮授して以て忠節を勧む。」と。 詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に除す。 http://www2.plala.or.jp/cygnus/R7.html コピーばかりで済みません。
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[8644] Re[8635]: 敵から・・・ 神奈備 |
2008/01/19(Sat) 11:05 [Reply] |
> 今城塚古墳から三つの石棺
一つは阿蘇ピンク石 後は、二上山の白色凝灰石 と、播磨地方の流紋岩凝灰石
> 阿蘇ピンク石は埋葬者の故地
先祖の地の石とすれば、継体天皇は応神天皇の5世の孫とされていますので、九州産の石と解釈できます。 残りの石からは故地祖先の地とすれば、安閑と宣化天皇にはなりませんが、継体天皇の権力を引き継いだ親族には違いないでしょう。
先祖と限らずに、ピンク石はきれいだし、加工が容易で、ビジネスとして売っていたのでは、と思っています。
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[8643] Re[8641]: 山下影媛 神奈備 |
2008/01/19(Sat) 11:03 [Reply] |
> 紀直遠祖の莵道彦[ウヂヒコ]の女子の影媛[カゲヒメ]を娶って、武内宿禰が生まれた。」とされていますが和歌山市内には宇治という地名も残っていますし、宇須(ウス)とい地名もあります。何か関係があるのかも?
和歌山市宇須 宇須井原神社「宇須彦神」この宇須彦とは権根津彦(珍彦)のことのようです。
紀直遠祖の莵道彦を祀っている神社はこれまた和歌山には見いだせません。どうやら九州。
豊前国宇佐郡 大分県宇佐郡院内町大字下船木に 高並神社「菟道大明神 配祀 仲哀天皇 神功皇后 應神天皇 建内宿禰命」が鎮座しています。紀氏と縁があるとされる国東半島のつけねです。
『日本書記』によりますと、神功皇后が和歌山で、夜のような暗さになって何日も続いた「阿豆那比の罪」の変事に遭遇しています。この時、皇后は紀直の祖豊耳に「何故?」と質問しました。豊耳は知らないようで、土地の翁に尋ねました。と言う記事がのっています。小竹と天野の祝者を同じ穴に埋葬したことが原因だったようです。
地元で起こった事件を知らないとは豊耳は余所者だったのでしょう。九州の紀の国(基肄郡とか杵島郡とか彼杵郡とか)からやって来たのかも。そう言う意味では紀直の祖の豊耳とは、豊国の耳さんかも知れません。豊かな耳を持つおじさんであるのかも。紀氏系図では莵道彦の曽孫にあたります。
何れにしろ、耳族は九州西南部へ渡来、からは南方系の人々で、海や金属に関わりを持っていたのでしょう。
> 日前・国懸の神はどこからか来たことになる。紀伊の神では無い?
どっかから来て紀伊の神になったのでしょう。寄りつく神、訪れる神、多いのでは。
> 山下影媛を祭る神社が紀伊に無いのも不自然ではないのかも?
紀伊の神でしたが、九州へ行っちゃったと言うことがあるのかどうかですね。 佐賀県武雄市朝日町 黒尾神社「神母景媛」 福岡県小郡市力武 竃門神社「山下影姫命」 福岡県宗像郡玄海町 葛原神社「武雄心命 影姫命」 新潟県西頚城郡名立町 江野神社 「影姫命 武内宿禰 屋主忍男武雄心命」 武内宿禰や武雄心命に引っ張られてついていったこも知れない神社が2社、そうでないのが2社。
母親を神として祀っている例として、継体天皇の母の振媛。『平成CD』で見ますと、 福井県坂井郡三国町 三國神社摂社富理姫宮 福井県坂井郡丸岡町 国神神社 福井県坂井郡丸岡町 高向神社 福井県南条郡南条町 羽太神社摂社振媛神社 滋賀県高島郡安曇川町 三重生神社
振媛の故郷の越前が4社。嫁ぎ先で1社。母神はあまり漂流しないようです。
もっとも、景行天皇の2番目に妃となった八坂入媛は 生まれ故郷に岐阜に4社、景行天皇が都をおいた九州に3社。景行天皇と共に祀られています。妃は漂流するのかも。漂流しても故郷にも祭られています。
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[8642] Re[8639][8638][8637][8635]: 敵から・・・ 素人 |
2008/01/19(Sat) 00:53 [Reply] |
神奈備さま、いつも読ませていただいています。 > > > 石棺の材料に九州の石を使うのは祖先の故郷の石だから。 > > 阿蘇ピンク石ですね。継体陵とされている今城塚古墳から三つの石棺が出ていますが、その内の一つが阿蘇ピンク石。 > > この三つの石棺についても、『百済本記』の「日本天皇及び皇太子云々」の記事の通り、三人まとめて死んで葬ったのかも。継体の出自と阿蘇とがどう結びつくのか、面白いところです。
すごい青草です。 つまらない事ばかり考えているのですが、阿蘇ピンク石は埋葬者の故地と考えています。4,5世紀ごろは日本は中国の属国に甘んじていたように思います。中国の命令で楽浪郡の中国人支援のために朝鮮半島への出兵を強制され半島での高句麗との戦闘の為に九州の軍団が派兵されたのではないかと考えています。北方騎馬民族との弓射騎兵戦で弓の優位性で大きな成果を揚げたのではと夢想しています。これらの凱旋者が大陸の高度文化と馬、弓射騎兵戦などの軍事技術を持ち帰り、軍事専門家等として各地で徐々に勢力を拡大したなどと考える次第です。 これら大陸凱旋者との関係で阿蘇ピンク石の棺を考えてはいけないでしょうか。 日本が独立したのは聖徳太子の時代でしょうか。 |
[8641] 山下影媛 和歌山(橋本) |
2008/01/19(Sat) 00:05 [Reply] |
> 神社で単純に考えますと、母親とされる山下影媛を祀る神社は北西部九州にあっ て、和歌山には見えない所からの疑問でした。 、
紀直遠祖の莵道彦[ウヂヒコ]の女子の影媛[カゲヒメ]を娶って、武内宿禰が生まれた。」とされていますが和歌山市内には宇治という地名も残っていますし、宇須(ウス)とい地名もあります。何か関係があるのかも?
武内神社は、紀氏の勢力地から少し離れたところにあり伊太祁曽神社に近いです。伊太祁曽神社は元々日前・国懸神社の地にあって社地を譲ったと社伝にあります。 なんだかややこしくなってきた・・・では日前・国懸の神はどこからか来たことになる。紀伊の神では無い?山下影媛を祭る神社が紀伊に無いのも不自然ではないのかも?
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[8640] Re[8637][8635]: 敵から・・・ 和歌山(橋本) |
2008/01/18(Fri) 23:23 [Reply] |
もう一つ、 兄が死んで弟から名前を貰う。 神武天皇は兄が死んで天皇になった。 なんだかどこか似ていませんか 古代では兄が祭祀を弟が権力を継承したようですが、?兄と弟というところに何かありそうに思います。 |
[8639] Re[8638][8637][8635]: 敵から・・・ 神奈備 |
2008/01/18(Fri) 21:48 [Reply] |
> 神奈備さん、ごぶさたしています。
かたばみさん こんばんは。こちらこそです。
景行天皇の事跡を調べていたのは、元々、武内宿禰についてどのように考えていけばいいのかの試行錯誤の一つでした。神社で単純に考えますと、母親とされる山下影媛を祀る神社は北西部九州にあって、和歌山には見えない所からの疑問でした。
> だから長期間にわたって「景行朝」が九州におかれていた。
景行天皇がライバルだった五十瓊敷命をそのままにしておいて、これだけ長く大和を留守にするのはいかにも不自然。九州の土蜘蛛退治を行った景行天皇は大和王朝の天皇とは別人で、『日本初期』の景行天皇は大和と九州とそれ以外の地域の大王の統合された姿と思えます。
また、景行天皇の九州の足跡で不自然なのは熊襲討伐の話で、討伐したのにまた日本武尊を討伐にやっています。熊襲は奈良時代まで抵抗しているようで、景行天皇・日本武尊の熊襲討伐はありえないと思います。 景行天皇の足跡は中部九州であって、薩摩・大隅と筑前とには足を踏み入れていません。筑前には邪馬台国の後裔(多分伊都国)、南九州には狗奴国の後裔国が頑張っていたのかもと思っています。
> 石棺の材料に九州の石を使うのは祖先の故郷の石だから。
阿蘇ピンク石ですね。継体陵とされている今城塚古墳から三つの石棺が出ていますが、その内の一つが阿蘇ピンク石。
この三つの石棺についても、『百済本記』の「日本天皇及び皇太子云々」の記事の通り、三人まとめて死んで葬ったのかも。継体の出自と阿蘇とがどう結びつくのか、面白いところです。
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[8638] Re[8637][8635]: 敵から・・・ かたばみ [Url]
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2008/01/18(Fri) 15:05 [Reply] |
神奈備さん、ごぶさたしています。 新築予定が延び延びになって古代史関連の資料が段ボール箱にはいったまま(^^;
記紀の説話を歴史化するには、まずはその年代の仮定と補正をやらないとなにもできないと思っています。 どう仮定するかはいろいろな論がありますが、マイルストーンになりうる考古学的な発掘を心待ちにしています。 記紀がまるっきりの嘘でないならつながってくるなにかが出るはず。 (それをひねり曲げる解釈もでるでしょうけれど)
現状での私流の解釈は以前とまったく変わっていません(以下敬称略)。
画像:神代から古代
倭国大乱で倭国(九州)が崩壊しつつあり、卑弥呼は日向〜宮崎にあった。 (中国の魏と呉の抗争に連動、卑弥呼はむろん魏側) 日向から海路で大和(当時の出雲勢力の中枢)を制圧したのは開化225-248〜崇神248-273である、です。 (こちらは呉側かもしれない→神武呉泰伯の子孫論)
すなわち景行311-333などその系譜の故郷は日向にあり、書紀に書かれる景行の遠征は崩壊した故郷の復興だ、と考えています。 だから長期間にわたって「景行朝」が九州におかれていた。
石棺の材料に九州の石を使うのは祖先の故郷の石だから。 日本武尊が蛮族(熊曽)から名をもらうなどはありえないはずですが、それが日本武尊の祖先の系譜であったなら話は違います。
いまのところ状況証拠をならべてできるだけ不自然の少ない流れになるかどうか、しかないのですけれど。 (記紀の神武東征説話の呪縛から逃れればそれだけで多くが解決(^^;) |
[8637] Re[8635]: 敵から・・・
神奈備 |
2008/01/18(Fri)
08:58 [Reply] |
>
敵から名前を貰ってその名を名乗るというのも変な話のように思います?
そうですね。後の世では、名前を貰うと言うことは、従うと言うことと同意かと思われます。『日本書紀』では16歳の小碓命は童女に女装しても似合うような若者だったので、従うと言う意味ではなく、子供に飴をやるような気持ちだったのかも。 貰った本人も小碓とか日本童男ではもう一つと思っていたので、日本武尊自身も気に入ったのでしょう。
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[8636] i-nam(褒美) 焼尻紋次郎 |
2008/01/18(Fri) 06:38 [Reply] |
バルサの木で作った筏(コンチキ号)に乗って、1947年、ペルーから西のマルケサス諸島をめざしたハイエルダ−ルと、仲間の 5人はタヒチまで辿り着き成功をおさめましたが、その前に 5人はラロイア島で島のことばで、それぞれ名前を贈られました。そのときNO 2の実力酋長のツブホエが、島びとにも理解できない言葉で、 5人の壮挙を讃える演説をやりました。これが最後に話された現地の土着言語だったとおもわれます。 オセアニア広く類似する言語とは、仏教思想を広めようとしたインド方面からやってきたバラモン僧侶たちが形成した跡だと、小生は考えています。
名前を贈る習わしは、日本でも功労あった武将にもみられます。安あがりですよね。 ネパール語で「ほうび」は i-nam といいますが、それは「 nam(名前)すること)という意味に還元できます。nam(名前)は族際語です。
「熊襲の梟雄にへさ」のニヘサもネパール語で「いっぱい」という意味です。 この場合の「熊襲のクマ」とは、同族連合のシンボルに立てたクマル(少年神)で、クマソとはそのクマル共有の so(神域)だと考えられます。
この伝承は、ヤマトタケルなる青年がもともと言語文化を同じくしていた同族だったことを物語っているのではないでしょうか。 或いは、ヤマトタケルになった青年その人がクマルだったのかもしれません。
すこし、想像の羽根を伸ばしすぎたでしょうか。 ★ ハイエルダ−ルはニ度も現地語での名前をもらいました。 ★ タガログ語で、筏はバルサです。どうなってるんだろ?? どんな木でも長いあいだに、皆、沈んでしまうのですが、バルサの木は、なかなか沈まないのです。、
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[8635] 敵から・・・ 和歌山(橋本) |
2008/01/17(Thu) 21:51 [Reply] |
>熊曽建兄弟を暗殺した際に、熊曽建弟から倭建御子の名前を貰っています。
敵から名前を貰ってその名を名乗るというのも変な話のように思います?武力で倒したのではなく、国譲りならば分かりますが・・・ |
[8634] Re[8633]: 御窟考 神奈備 |
2008/01/17(Thu) 09:22 [Reply] |
> 谷川健一氏
86歳ですか。既に全集が出ています。最近の著作はどうするんでしょうね。
全く話は変わりますが、景行天皇には80人の子供がいたと『日本書紀』にでています。 その前後の天皇の子供の数は、『日本書紀』では崇神11人、垂仁10人、成務0人、仲哀3人、応神20人、仁徳6人。 どうやら数人の人物をまとめて景行天皇としたのかも知れません。特に続く成務天皇の事跡は嘘のようです。景行天皇と成務天皇は共に皇位60年となっており、兄弟での統治を二人に引き延ばしたとの意見もあるほどです。
景行天皇の妃とその子供を見ますと、播磨稲日大郎姫は吉備播磨の関係、八坂入媛・水歯郎媛は美濃近江、五十河媛・高田媛は讃岐伊予、日向髪長大田根・襲武媛は九州と地域別になっています。これらの地域の大王の事跡をまとめたものと思われます。
『古事記』での景行天皇に面白い記事があります。 倭建の命の曽孫 須売伊呂大中つ日子の王の女 訶具漏比売を娶る。
倭建の命とは日本武尊のことで、景行天皇の皇子の小碓命が熊曽建兄弟を暗殺した際に、熊曽建弟から倭建御子の名前を貰っています。その倭建命の孫の訶具漏比売を娶っています。ロリコンも時代を超越しすぎています。 倭建命の事跡もまたもっと古い英雄のものを頂いたのかも。 |
[8633] 御窟考 縄文の風 |
2008/01/15(Tue) 23:34 [Reply] |
季刊東北学13号(2007,11) 谷川健一氏の日本民間信仰史研究序説 連載中の みむろ考 読まれましたか。昨秋講演に来ていただく予定でしたが賞いただいて多忙のため暖かくなってからに。86歳でも、颯爽とされてますね。今は山の民研究されてます。 |
[8632] 何もない、空虚な聖域 焼尻紋次郎 |
2008/01/15(Tue) 14:49 [Reply] |
風連洞の前を通ったときには、根室の風連湖の風連かとビックリしたよ。 アイヌ語 hure(赤い)。だが、いまは朝鮮語の phur∂η(青い)。r∂ηは色。 よっぽど立ち寄ろうかと思ったが、時間に追われていたのでパスしました。
姫島の洞窟は、この世のものとは思えないぐらいにすばらしいらしい。 青の洞門というのは、洞窟なんだろうか、トンネルだけのことかな? 玖珠町の親戚先に青野がおるとばってん。
縄文の風さん、鬼面洞の“メン”は顔の面と解しちゃ、おえりゃせなァよナア。
古代人は、木のウロにしろ、ハコにしろ、なにか物質で囲まれてはいるが、その実、なぁ〜んにもないウツロに神聖を感じとったらしい。
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[8631] 岩屋 日メ坂鐘乳穴神社 縄文の風 |
2008/01/15(Tue) 13:40 [Reply] |
高知大学生地底の世界さまよっている様ですが、懐かしい所です。学生時代、岡大ケイビングクラブ結成され、新見の鐘乳洞はしらみつぶしに測量されていかれました。 当時は神社があり古代の記録の意味すどおりしてました。今から青春時代の続きです。のでよろしく。 |
[8630] Re[8629]: 岩屋 神奈備 |
2008/01/15(Tue) 09:23 [Reply] |
> 九州には岩窟は多いですね。
沖縄の泉玉洞窟、山口県の秋芳洞など有名な鍾乳洞がありますが、大分県の風連鍾乳洞はその美しさで有名ですね。『古風土記』では出雲に窟がよく出てきます。九州では、肥前国松浦郡の大家嶋に鍾乳洞でできた窟のお話が出てきます。
沖縄の泉玉洞窟と珍々洞を写真掲示板にアップしておきました。
修験で言いますと、吉野の奧の七尾山蛇の倉の洞窟は垂直に20m、登り切ると奧に若干のスペースがあります。ピラミッドの原型を思わせます。 http://kamnavi.jp/as/yosino/janokura.htm |
[8629] 岩屋 和歌山(橋本) |
2008/01/14(Mon) 23:18 [Reply] |
九州には岩窟は多いですね。以前大分に住んでいたことがあるんですが、下宿の近くの古墳のことを「鬼の岩屋」と呼んでいました。『託宣集』にも「般若の岩屋」というのが出てきます。修験道や仏教は修行の場だったようです。時代により岩窟や岩屋、洞窟に対するイメージは違うようですね! |
[8628] ウソを貫き通すための文字記述 焼尻紋次郎 |
2008/01/14(Mon) 19:06 [Reply] |
酒のんでモノイイするはイケンねぇ。
わがツーカーの野郎に「白土(しらつち)」てえ姓の野郎がいるのです。そいつの目は青く、皮膚は白人そのものでんねん。 本人がここの板知ったら、そりゃぁハラかく(怒る)こと必定なれど、なぁ〜〜ん(沖縄弁 ;ヌ〜〜ン)かもた(構うた)ことあるか。 大阪にいやす。いちど見やすけぇ?? 色目人とはこういうヤツのことではなかろうか。
それから……、千曲川そいの断崖のネズミ(地名)には、優秀な泉が湧き出ているのではないだろうか。玄どんはどしてるんだろなァ。ネズミとは“泉”じゃないだろうかと、気になりはじめやした。……スミ(sumi=泉?)ヨシね。
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[8627] 鼠の石窟 神奈備 |
2008/01/14(Mon) 14:12 [Reply] |
『日本書紀』の「景行紀」に鼠の石窟と言う言葉が出てきます。
景行天皇が大分県速見村に着いた時、速津媛が迎えて、「この山に大きな石窟があり、鼠の石窟といい、二人の土蜘蛛が住んでいます。一人を青、もう一人を白といいます。」と報告しています。
要するに土蜘蛛を鼠に例えているようです。
この事は『常陸国風土記』にも、「茨城郡」の項に、「国巣は鼠のごとく隙を窺ってかすめ盗む。」との表現があり、王権に従わない先住民をそのように侮蔑的な呼び方をしているようです。
『景行紀』の九州の土蜘蛛退治の旅は12年から19年と8年間に及びます。この期間は大和を留守にしている事になり、五十瓊敷命を追い落として、かつ83歳の遠征となり、実に不自然な九州旅行です。
『景行紀』の九州制圧の物語は大和の日代の宮(奈良県桜井市穴師)に居た景行天皇とは別の九州の大王のお話を景行天皇の業績として載せているのかも知れません。『古事記』には、景行天皇の九州制圧の話はなく、倭建命の熊曽建二人の暗殺と名前をもらう話があるだけです。
九州の大王とは磐井の先祖かもしてれせんし、伊都国王の末裔かも知れません。
「神社と古代史」のテーマから見ますと、景行天皇を祀る神社は『平成祭礼CD』で見ますと、九州に47社、四国中国以東で24社。九州の大王も景行天皇という名前に変わってきて祀られているようです。下記の神社は『日本書紀』や『豊後国風土記』に出てくる景行天皇にゆかりの地名を冠にした神社です。
大分県竹田市 祢疑野神社 直入県の禰疑野に三人の土蜘蛛と『紀』にあります。 大分県直入郡久住町 宮處野神社 土蜘蛛を討つために行宮を置いた場所と『豊後風土記』にあります。 宮崎市村角町橘尊 高屋神社 日向国で行宮をたててお住みになったと『紀』にあります。景行十三年に高屋宮にいること既に六年とありますが、九州へ来たのが景行十二年ですから、つじつまがあいません。
つじつまの合わないお話は、仲哀天皇は日本武尊の皇子となっていますが、日本武尊は景行四十三年以前に亡くなっており、それから景行時代は17年、成務天皇の四八年に皇太子となっています。時に三十一歳とあります。即ち日本武尊がなくなってから34年以上経過してから皇子が生まれるはずがなく、この辺りは武内宿禰のとんでもない長寿もふくめて年代と人名は混乱しているとか天皇を創作的に挿入しているのか、よく吟味がひつようなようです。
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[8626] 初めまして 縄文の風 |
2008/01/11(Fri) 06:22 [Reply] |
始めて青草掲示版に投稿しました。よろしく。 |
[8625] Re[8623][8621][8620] [8619]: 鼠によせて 中国の伝説 神奈備 |
2008/01/10(Thu) 09:57 [Reply] |
京都の東寺には弘法大師が刻んだとされる大黒天の像があります。
大黒天を日本に持ち込んだのは空海とか最澄とされていますし、密教の天台真言両宗では、守護神・地主神として祀られました。特に真言宗では大国主との習合が進んだようで、弘法大師が大国の字を大黒と改めたと伝わっています。
大国主は稲羽(赤裸の兎がいた所)へ行く時にも大きい袋を持たされており、また天下を巡る際にも、大きい袋に旅支度のものを入れていたので、大黒さんも大きい袋を肩に掛けた姿となったのでしょう。
大黒天は農神・富の神で、米俵の霊ですが、梵語で摩詞迦羅といい、密教では大日如来の忿怒の形であるとされています。大日如来の印相は天法輪でその中に月日をおさめるので、太陽を抱いた大国主像があってもいいようですね。
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[8624] Re[8622]: 鼠の伝説
神奈備 |
2008/01/07(Mon)
16:56 [Reply] |
>
中国では火の中に住む火鼠の話もあります。日本にもこの火鼠の皮で作った衣だったかな?3人の貴族から求婚され1人にこれをてに入れるよう課題を出した話がありますね!(良く知られている話で、その話のタイトルが思い出せない)
多分、カグヤ姫でしょう。
>
鼠は確かに害虫ですが、繁殖力があり繁栄と結びつくし、穀物との関係から逆に穀物を与えてくれるという考え方が発生してもうなずけます。鼠が住んで居ると言うことは、食べ物が豊富だということも言えるのではないでしょうか?
逆も又真なり。おっしゃる通りですね。 大黒さんは台所を司ると言われ、豊穣の神ともされており、お寺の奥さんのの呼称になっていますが、本来は暗黒の支配者でもあって、その遣いはやはり鼠とされています。豊穣と鼠は結びつくようです。 大黒さんと大国主は習合していますので、狛鼠があるのもその辺からかも。 |
[8623] Re[8621][8620] [8619]: 鼠によせて 中国の伝説 チョロ |
2008/01/06(Sun) 00:04 [Reply] |
> 渾然としているのかも。
なるほど・・・ありがとうございました。
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[8622] 鼠の伝説 橋本 |
2008/01/05(Sat) 21:32 [Reply] |
アフリカでは人間が穀物を最初に手に入れた話として、天に昇った鼠が穀物を食べ、その鼠が地上に落下して死んだ鼠の内臓から穀物の種を蒔き穀物を手に入れたという話もあります。 中国では火の中に住む火鼠の話もあります。日本にもこの火鼠の皮で作った衣だったかな?3人の貴族から求婚され1人にこれをてに入れるよう課題を出した話がありますね!(良く知られている話で、その話のタイトルが思い出せない) 鼠は確かに害虫ですが、繁殖力があり繁栄と結びつくし、穀物との関係から逆に穀物を与えてくれるという考え方が発生してもうなずけます。鼠が住んで居ると言うことは、食べ物が豊富だということも言えるのではないでしょうか? |
[8621] Re[8620] [8619]: 鼠によせて 中国の伝説 神奈備 |
2008/01/03(Thu) 20:45 [Reply] |
京都市の鹿ヶ谷に鎮座している大豊神社の摂社に大国社があり、コマ鼠が鎮座していryそうです。ここの神社の場合には、鼠が大国主を野火から助けたとの伝承からのことだそうです。
> 浪速区の「大国主神社」の摂社「日出大国社」なんですが、狛犬ではなく「こまねずみ」で、拝殿では太陽を抱いた大国主命が俵の上に乗っていて、その関係が不思議に思ってたのですが、鼠小姫命と保食神の関係と同じなのかもしれませんね。
日出大国社のコマ鼠は、俵をかかえるのと打ち出の小槌を持っているそうですが、七福神の大黒様が俵の上の立っていたり座っていたりですから、そのイメージなのかもしれませんね。 それよりも太陽を抱くとはどう言うことなのでしょうね。出雲大社のは大国主が海の波の上の玉を見ている像があったようですが、自らの幸魂・奇魂が丸い玉なのでしょう。これを三輪山に祀ったのですが、この山はまた日の神を祀っているともされています。渾然としているのかも。
> ある部族では飢饉の時鼠が穀物を人に分け与えた伝説があります。この神は渡来系かも?
面白いお話ですね。鼠は穀物の10%を食べると言われています。飢饉の原因の一つのはずです。
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[8620] 中国の伝説では・・・ 橋本 |
2008/01/03(Thu) 19:50 [Reply] |
奈良県北葛城郡広陵町に鎮座している小北稲荷神社の祭神は倉稻魂神と鼠小姫命となっています。鼠小姫命は保食神に供奉した神との説明ですが、穀物の神に鼠が奉仕するとは不思議なことです。 鼠は中国でもあまり良くは語られていないようですが、神格視されていたようで、ある部族では飢饉の時鼠が穀物を人に分け与えた伝説があります。この神は渡来系かも? |
[8619] Re[8618]: 鼠によせて チョロ |
2008/01/03(Thu) 19:10 [Reply] |
明けましておめでとうございます。 ご無沙汰しておりますが、これからもよろしくお願いいたします。
> 穀物の神に鼠が奉仕するとは不思議なことです。
最近気になっていた神社もそのようで、気になってました。 浪速区の「大国主神社」の摂社「日出大国社」なんですが、 狛犬ではなく「こまねずみ」で、 拝殿では太陽を抱いた大国主命が俵の上に乗っていて、 その関係が不思議に思ってたのですが、 鼠小姫命と保食神の関係と同じなのかもしれませんね。 |
[8618] 鼠によせて 神奈備 |
2008/01/03(Thu) 15:33 [Reply] |
明けましておめでとうございます。ことしもよろしくお願いいたします。
奈良県北葛城郡広陵町に鎮座している小北稲荷神社の祭神は倉稻魂神と鼠小姫命となっています。鼠小姫命は保食神に供奉した神との説明ですが、穀物の神に鼠が奉仕するとは不思議なことです。
『日本書紀』などでは鼠はあまり尊敬されているようには見えない動物です。
景行天皇十二年 土蜘蛛の棲む石窟を鼠の石窟という
皇極天皇二年 鼠は穴に隠れて生きているが、穴を失ったら死なねばならぬ。 これは、聖徳太子の子供の山背大兄王らを殺すべく、蘇我入鹿が自ら出動しようとした際に、古人大兄皇子が止めた言葉で、入鹿を鼠に例えたと受け取れます。
宝亀五年 賊の行動は、まるで犬や鼠が人に隠れてこそこそ物を盗むときのようです。
『万葉集』には、「死にたる人は生ける鼠にしかず。」の意の歌があります。
また、鼠の集団移動は遷都があるとか砦を造るとかの前触れと思われていたようです。
大化元年 孝徳天皇は都を難波長柄豊碕宮に移された。鼠が難波の方に向かったのは、都遷りの前兆だったと老人たちは語り合った。
白雉五年 中大兄皇太子らは孝徳天皇を置いてきぼりにしたまま、倭の飛鳥河辺行宮におはいりになった。夜、鼠が倭の都に向かって走った。
白い鼠は祥瑞と思われていたようです。
神亀三年 京職は白鼠を、大倭国は白亀を献上した。
神護景雲二年 恩智の神主廣人が祥瑞の白い鼠を献上した
『古事記』 根の国で大国主が野を焼かれ出口がなくなっていた時、鼠に教えられて、鼠の住処の穴に逃げ込んで助かったというお話がのっています。鼠とは根の国に棲む動物とされていたのかも。
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