籠神社この
京都府宮津市字大垣30 ゼンリン
籠神社のさざれ石。
交通
北丹後鉄道天橋立駅から天橋立を通って行く。参道とされる。バスでは一ノ宮。
祭神
彦火明命
配 天照大神、豐受大神、海神、天水分神
奥宮 摂社 真名井神社「豐受大神」
注釈
神社庁cdの由緒
神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮眞名井原に豊受大神をお祭りして来ましたが、
その御縁故によって人皇十代崇神天皇の御代に天照皇大神が大和国笠縫邑からおうつりになって、之を與謝宮(吉佐宮)と申して一緒にお祭り致しました。
その後天照皇大神は11代垂仁天皇の御代に、また豊受大神は21代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました。 それに依って当社は元伊勢と云われております。両大神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮(このみや)と改め、元伊勢の社として、又丹後国の一之宮として朝野の崇敬を集めて来ました。
由緒
延喜式内名神大社で月次、新嘗を奉ぜられた。神社発行の由緒略記によれば、主神の彦火明命はまたの名を天火明命、天照御魂神、天照国照彦火明命、饒速日命、また極秘伝によれば山城の賀茂別雷神とも異名同神であり、その御祖の大神(下鴨)も併せ祀られているとも伝えられる。
彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡、辺津鏡を賜り、大和国、丹波・丹後地方に降臨されて、これらの地方を開拓したとされる。
また由緒略記には、十種神宝を将来された天照国照彦火明櫛玉饒速日命であると言い、また彦火火出見命の弟火明命と云い、更に大汝命の御子であると云い、別に丹波道主王とも云う。
すざましい由緒ではある。それだけに古い神社であろう。大陸、半島の窓口であり、また筑紫、出雲から近畿への入り口でもあった。
当神社の祭神は海人族の崇めた神であり、その後の王権とのかかわりの中で様々な神々との同盟あるいは反目の中から上記の様な伝承が生じたのであろう。神一柱が八百万の神でもあると云うことである。
丹後半島には浦島伝説がある。少し北側の伊根町の宇良神社には玉手箱が所蔵されている。半島を西へ廻っての網野町には島児神社と網野神社がある。
「日本書紀」には「雄略二十二年、丹後国の餘社郡の筒川の人、瑞江浦嶋子、舟に乗りて釣りす。ついに大亀を得たり。便に女になる。」とある。
丹後国風土記には「与謝郡日置里、筒川村の筒川嶼子」とある。開化天皇の子の日子坐命の後裔とされる。この辺から物部のにおいもしてくる。また、筒川の筒は住吉三神の筒男との関連など、海人族の活躍の広さを思わせる謎の多い神社ではある。
なお、ここの神社の極秘伝には祭神が賀茂別雷神とも異名同神とも記されており、賀茂別雷神は饒速日命也等との怪説の根拠になっているようだ。
国宝に指定されている「海部氏系図」は日本最古の系図として、古代史の貴重な資料である。
たたずまい
成相山の麓に鎮座、社殿は大きく、唯一神明造りで、30年毎に御造替の制となっている。やはり心の御柱がある。
社叢は広く、豊かである。
社殿の風景
境外から見た本殿
お祭り
葵例大祭 4月24日 太刀振神事
『平成祭礼データ』から
神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮眞名井原に豊受大神をお祭りして来ましたが、その御縁故によって人皇十代崇神天皇の御代に天照皇大神が大和国笠縫邑からおうつりになって、之を與謝宮(吉佐宮)と申して一緒にお祭り致しました。その後天照皇大神は11代垂仁天皇の御代に、また豊受大神は21代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました。それに依って当社は元伊勢と云われております。両大神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮(このみや)と改め、元伊勢の社として、又丹後国の一之宮として朝野の崇敬を集めて来ました。
以上 |
参考書
日本の神々7「山路興造」(白水社)
古代丹後王国はあった「伴とし子」東京経済
公式籠神社
物部氏ホームページ
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