波寶神社
奈良県五條市夜中 its-mo
波宝神社を見上げる
交通案内
近鉄下市口駅 奈良交通バス 十日市 5.000mで銀峯山頂
祭神
上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、息長帶日賣命
摂社
八幡神社「應神天皇」
鳥居
由緒
夜中集落の北東、標高610mの銀峯山(白銀山)の頂上に鎮座。 俗に「神蔵宮」「ダケさん」と称し、「延喜式」神名帳の吉野郡「波寶神社鍬」に比定される(大和志)。なお神名帳卜部兼永本には「波売宝神社」と見える。
波宝神社は天安二(858)年官社に列し、従四位下を授けられ(文徳実録)、貞観六(864)年正四位下に進階しているが、いずれも同郡「波比売神社」と並記されている。
古田大明神、銀峯山大明神ともいい、近世後期には有栖川宮の祈願所となっている。
当社後方ににもと神宮寺があった。 以上『大和紀伊・寺院神社大事典』から
口碑によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、この山に休んでいると、白昼がにわかに暗闇になったので、ここの神に祈ったところ、再び日が照り、明るくなった。
地名の「夜中」はこの口碑に由来するという。
本殿正面の日食図はこのことを現しているようだ。
河内王朝の誕生の前後、その頃は朝鮮半島諸国との和平と戦争の時代でもあった。その激動の時代でも天体現象はかかわりなく起こっている。六割り以上欠けた日食の状況を示しておく。年月日、ピーク時、欠け量(時刻は同緯度の和歌山県)
368年 4月 4日 7:15 0.915
384年10月31日 8: 5 0.700
395年 高句麗の広開土王と戦うも大敗する
400年 7月 8日 12:47 0.628
403年 5月 7日 17: 4 0.719
409年 倭国の使者が夜明珠を送る(夜明珠を日光にあてて暗所へ持っていけばボーと光ると言う。)
429年12月12日 13:51 0.880
参考 北大 日食等データーベース
また役小角がこの山で秘法を行ったところ神女が現れ、国家を鎮護し群集を伝導せよと告げて石窟に入ったので、神蔵大明神と呼ばれる行場となり、大峯修験の先達が来山して入峯修行をしたとも伝わる。
「波宝神社」と「丹生都比売神」
『天河への招待』(大山源吾氏)には、「神功皇后は紀伊日高に上陸、紀和国境を越えて、吉野丹生の里、銀峯山小竹宮(シヌ)に入ったと、この地の伝承は伝える。
なぜならそこに強力な味方丹生一族の存在を興した行動に違いない。」と記している。 地の伝承は採録されたものであろうが、後は氏の想像である。
丹生都比売神の名前は「神功皇后紀」には一切出てこないのであり、『播磨国風土記』逸文に爾保都比売命が神功皇后の渡韓・新羅征伐を助けた神として登場し、紀伊國の筒川の藤代の峯にお鎮めしたことが記されている。
何故、丹生都比売神の名前が「神功皇后紀」には出てこないのであろうか、何か8世紀初頭の朝廷にとって不都合であったのだろうか。
何もなさそうである。要するに時の大和王権にはそのような伝承が伝わっていなかったのであり、紀朝臣家の一員であったろう紀清人達の史官には知られていなかった話であったと言うことであろう。
彼等は皇后が日高から小竹宮へ移り、そこで「阿豆那比の罪」の話を持ち出し、二社の祝(小竹と天野)の合葬までは記しており、紀氏の祖とされる紀豊耳の名前までは記しているのである。
紀清人は紀豊耳の名前さえ出せればそれでよかったのだろうか。
さて、海のないこの山中に「往来ふ船を看さむ」住吉神とは奇怪である。神功皇后が斎祀ったとは思えないと言うか祀られている側である。
物部の遠い祖饒速日命が祀られていた神社は蘇我物部の戦いの以降住吉神に切り替わっている場合が河内交野などに見られる。 この吉野の山中に物部の足跡はあったのだろうか。金属採取・武器製造の氏族である物部氏のこと、豊富な資源に目をつけたかも知れない。
白銀山と呼ばれたのは、この山の土が総じて白っぽいのであることによるのだろうか。
銅鉱脈が走っていたというが、丹砂(水銀)の気配は見当たらない。赤土がない山である。かの松田博士もまったく注目すらされていない。
中央構造線のまっただ中、実に不思議な地域である。
祭神が丹生都比売神ではなく、神社名も丹生神社ではない。丹生都比売神を隠す理由もない。
また波比売神社、波(売)宝神社と言う名前も、現在の祭神、山の名前、元の祭神とする丹生都比売神とも無関係のように思われる。
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拝殿
お姿
本殿は県指定文化財。
北西眼下には五条、南方には吉野の峯峯が畳重としているのが展望できる。
付近一円には銅の鉱脈が走っており、当社のすぐ下にも採掘跡があると言う。(『日本の神々4大和編』宮坂敏和氏)
本殿
本殿正面日食図

撮影 平22.3.8
お祭り
4月 3日 1日間 祈年祭(春祭り)
9月 日 1日間 日曜日 幣狭式
丹生都比売伝承
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