天野山金剛寺 丹生・高野明神
大阪府河内長野市天野町 its-mo
河内名所図絵の明神
右中央を下社、中央は拝殿、その左上は鐘楼、頂上に丹生・高野明神と水分明神(左)

交通案内
南海高野線、近鉄河内長野線 河内長野駅 天野経由行きバス 天野
祭神
丹生明神、高野明神
丹生高野明神の下社
天野山金剛寺について
聖武天皇の勅願により行基が開いたとされる。天平年間(729〜749年)。 弘仁年間(810〜824年)に空海が修業をしたとされるが、その後は荒廃した。
永万元年(1165年)のある日の夜、高野山の僧阿観上人の夢枕に高野明神が顕れ、「河内の天野山に伽藍を建立せよ」と言われたとの伝承が出来てる。
実際のところは、永万元年(1165年)に阿観上人が後白河法皇とその妹の八条女院の帰依を受けて再興したとされている。 この八条女院は真如親王筆の弘法大師御影を高野山から天野山御影堂に遷したので、女に禁制の高野山と対比して、女人高野と呼ばれることになった。
なお、女人高野としては大和宇陀の室生寺の方が名高いが、これは江戸時代の将軍綱吉の母桂晶院の寄進などにより弘法大師信仰の高まりによるものである。
高野・丹生明神
紀の国では丹生・高野明神と丹生を先に言うのだが、天野山についての説明文では高野・丹生明神と高野が先行する。 高野山でも高野明神の方がよく祀られたそうだが、時代背景であろう。
阿観上人は統治に承安2年(1172年)に高野明神・丹生明神を勧請、また元々この地の地主神である水分明神をも金剛寺の鎮守として祀ったのである。
丹生高野明神の上社(三間社流造、檜皮葺、屋根に千鳥破風をあげ唐破風)と朱色の水分社(一間社春日造、檜皮葺)府指定文化財
府指定文化財の拝殿と鐘楼

丹生都姫伝承
古代史街道 紀ノ国編
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