丹生大明神告門(ニフタイミヤウシンノノリト)告門は祝詞の假字なり
懸幕毛恐岐皇大御神乎(カケマクモカシコキスメオホカミヲ)
○原本毛をモ 岐をキ 乎をヲ と書す 今他の祝詞の例に因りて改む 下亦或は改め域は例によりて脱たるは加ふ
歳中爾月乎撰比月中爾日乎撰定氏銀金花佐支開吉日時乎撰定氏 (トシノウチニツキヲエラビ ツキノウチニヒヲエラヒサタメテシロカネコカネハナサキヒラクヨキヒトキヲエラヒサタメテ)
○金銀の出る賞(メテ)たき日時をいふなり 然れとも上古の詞とは聞えす
當年(ソノトシ)二月春御門十一月秋御門(キサラキハルノミカド
シモツキアキノミカド 奉仕申久(ツカヘマツリマヲセク)
○當年は某年といふに同し 十一月を秋御門といふは古く一年を春秋二に分ちて冬の事をも秋といへる例あり
高天原爾神積坐天石倉押放天石門忍開給此天乃八重雲乎伊豆乃道別爾道別給天豊葦原乃國爾美豆毛給止志天 (タカマノハラニカムツマリマスアメノイハクラオシハナシアメノイハトヲオシヒハキタマヒアメノクモヲイツノチワキニチワキタマヒテトヨアシハラノミツホノクニニミツケタマフトシテ)
○大意 皇国を豊年ならしめむといふなり
國郡波佐波爾在止母紀伊國伊都郡庵太村乃石口天降坐天 (クニコホリハサハニアレトモキノクニイトコホリアムダムラノイハクチニアモリマシテ)
○庵太村は三谷慈尊院九度山邊の地名なり 天降坐し地は今三谷村榊山酒殿社其所なり石口は麓の意なり
大御名乎申波恐之伊佐奈支伊佐奈美之命之御兒天之御蔭日之御蔭丹生津比 之大御神登太御名之顕給比天 (オホミナヲマヲセバカシコシマヲサ子バカシコキイサナギイサナミノミコトノミコアメノミカゲヒノミカゲ
ニフツヒメノオホミカミトオホミナヲアラハシタマヒテ)
○天の御蔭の御蔭は御殿をいへるにて此處に隠坐の文なきは御殿を建て隠坐すへき神といふへきを省きて告給ノリへるなるへし
さて此神現身の天降ませるにあらす 御霊の天降まして著カムカゝリして御名を顕し給へるなり
川上水分之峯爾上坐天國加加志給比 (カハカミミクマリノミネニノボリマシテクニカカシタマヒ)
川上は大和國吉野郡丹生川の川上なり 水分原本は水方と書すは字形の似たるに依りて誤ると見ゆれは今改む
水分は文武紀及萬葉集に見えたり 國加加志は國を曜すにて鏡に俵れる詞なり
下坐天十市乃郡□□爾忌杖刺給(クダリマシテトホチノコホリ□□ニイムツエサシタマヒ)
品太乃天皇御門代田五百代奉給也(ホムタノスメラミコトノミトシロダイホシロタテマツリタマフナリ)
○原本十市乃郡に品田云云とあり然れとも下文に某郡帽地忌杖刺給と書せるを見れは郡の下に地名を脱し又忌杖刺給の四字を脱するなるへし
按するに高市郡に入谷村あり其地十市郡に近し 疑らくは古十市郡に属し此神の忌杖刺給へる地ならむ 其地に坐し時寄奉れる御門代なれは其處に記し置けるなり
下文皆同し御門代は神田なり
下坐天巨勢丹生忌杖刺給(クダリマシテコセニフイムツエサシタマヒ)
巨勢は大和国高市郡の郷名にして和名抄万葉集等に見えたり今越村といふ名遺れり越村の邊に丹生谷村あり是巨勢村【丹脱落か:瀬藤】生なるへし
忌杖刺は神地の四至に杖を刺て標し給へるなり
下坐天宇知郡布々支丹生爾忌杖刺給比クダリマシテウチノコホリフフキノニフニイムツエサシタマヒ)
下坐の二字原本に脱す今例に依りて稍ふ 宇知郡は今の大和国宇智郡なり郡中布々支といふ地詳ならす
宇智郡丹原村に丹生川神社あり
下坐天伊都郡町梨乃御門代天(クダリマシテイトノコホリマチナシノミトシロ) 十四ノ圖一ノ里一ノ坪同二ノ坪同三ノ坪員八段 御田作給天(ミタツクリタマヒテ)
○町梨今詳ならす 疑らくは入郷村なるへし 註ノ十四圖は十四條といふに同し
一里は方六町の地をいふ 一ノ里の中にて一二三の三坪にて神田合せるをいふなり
下坐天波多倍家多村乃△字堪梨云(クタリマシテハタベケタノムラノアサナタヘナシトイフ) 十五圖二ノ里四ノ里坪二百五十六歩同里五ノ坪二段六十歩并ニ 天沼田云(アメノヌマタトイフ)十五圖一ノ里 二ノ坪三百十八歩同キ里 四ノ坪三段七十二歩 御田作給(ミタツクリタマヒ)
波多倍家多村は今の大野村の邊なるへし 又天沼田里も堪梨里に接して大野村領なるへし
今詳ならす
下坐天忌垣豆爾御碓作其田稲乎太飯太酒作楽豊明奉仕天(クダリマシテイカキヅニミウスヲツクリソノタノイネヲオホイヒオキニツクリアソビトヨアカリツカエマツリテ)
○忌垣豆は斎垣内の義にして斎は斎杖の斎に同し 今那賀郡細野荘に垣内村あり
村中丹生社あれは忌垣内は垣内村なるへし
上坐天伊勢都美爾太坐(ノボリマシテイセツミニオホマシ)
伊勢都美の地詳ならす
上坐天巨佐布乃所忌杖刺給比(ノボリマシテコサフノトコロイムツエサシタマヒ)
○今伊都郡古佐布荘下古佐布村に明神の坐し地あり 樹を伐り不浄を入るゝ事を禁す
下坐天小都知之峯爾太坐(くたりましてヲヅチノミネニオホマシ)
小都知峯は當社の東八町にありて今訛りて大つゝか峯といふ 古佐布より三十町許に當る
上坐天天野原爾忌杖刺給比(ノボリマシテアマノゝハラニイムツエサシタマヒ)
○天野原は今の宮地なり
下坐天長谷原爾忌杖刺給比(クタリマシテハツセノゝハラニイムツエサシタマヒ)
○那賀郡長谷荘宮村丹生社ある地ならん
下坐天神野麻国爾忌杖刺給比(クタリマシテカムノマクニニイムツエサシタマヒ)
神野真国は那賀郡の荘名なり真国荘宮村に高野明神あり 是忌杖刺給へる地なるへし
按するに下文に那賀郡の名初めて見ゆれは忌垣内長谷原神野麻国告門を書ける頃は皆伊都郡なりしにや
下坐天那賀郡松門所爾太坐(クタリマシテナカノコホリマツトノトコロニオホマシ)
猿河荘田村の艮一里餘友渕荘界の山上猿河谷村の内に古名松戸といふあり
下坐天安梨諦夏瀬丹生爾忌杖刺給比(クタリマシテアリタノナツセノニフニイムツエサシタマヒテ)
○安梨諦古くは安諦とありしを後に梨の字を添へたるなるへし 安諦は在田郡の古名なり
夏渕は在田郡田殿荘出村の小名鳥居の中白山の麓に丹生明神の森あり 今猶夏瀬の森といふ 其東に丹生村あり 東南に丹生圖あり
下坐天日高郡江川丹生爾忌杖刺給比(クタリマシテヒタカノコホリエカハノニフニイムツエサシタマヒテ)
日高郡川上荘に下江川上江川の二村あり 村中に川あり即江川といふ
其源真妻山の麓の尾続き切目荘松原村に真妻明神の社あり 土人丹生の真妻明神といふ 是江川の丹生社なるへし 今松原村の隣村に丹生村あり
返坐天那賀郡赤穂山乃布気云所爾太坐天(カヘリマシテナカノコホリアカホノヤマノフケトイフトコロニオホマシテ)
品田天皇奉給物淡路国三腹郡白犬一伴紀伊国大黒小黒一伴此犬口白代赤穂村布気田千代美野国乃三津柏又濱木綿奉給(ホムタノスメミコトノタテマツリタマヘルモノアハヂノクニノミハラノコホリノシロイヌヒトトモキノクニノオオグロチグロヒトトモコノイヌノクチシロアカホノムラノフケタチシロミヌノクニノミツカシハマタハハマユフヲタテマツリタマヘリ)
○那賀郡田中荘に赤尾村あり 赤尾村より東南四町許に長田荘上田井村あり 上田井村の東六七町許に深田村あり 是古名の遺れるなり
深田村の坤四町島村領に風森大明神社あり 若一王子丹生明神等を祀れり 是太坐し地なるへし 三腹今三原と書す 此御代に屡狩し給へる地なり
其事詳に日本紀に見えたり 白犬一伴は行宮の辺に飼置給へる田犬一伴なり 美野国は備前郡御野郡なり 此郡古国なりし事は国造本紀に見えたり
遷幸天名手村丹生屋乃所爾夜殿太坐(ウツリイデマシテナテノムラニフヤノトコロニヨドノオホマシ)
品田天皇依奉給御代■■道餘梨千代奉給也(ホムダノスメミコトノヨセタテタマヘルミトシロ破損ミチアマリチシロタテマツリタマヘル)
○名手今の那賀郡の荘名となる名手荘より名手川を隔てゝ西の方に上丹生谷下丹生谷の二村あり 古は名手村の中なりしなるへし 今上村の西に丹生明神の神社あり
是夜殿建給へる地なるへし 品田天皇以下一本に注文とするに従ふ道の上一本に一字空(アケ)たるに従ふ 文意詳らかならす
遷幸天伊都郡佐夜久乃宮爾太坐然而則渋田邨乃御門代御田(ウツリイテマシテイトノコホリサヤヒサノミヤニオホマシシカシテスナハチシフタノムラノミトシロミタ)
廿四ノ圖一ノ里七ノ坪一町八ノ坪一町九ノ坪六段四ノ坪三段五ノ坪三段六坪二段 作給天神賀奈渕所爾楽豊明奉仕給也(ツクリタマヒテカムカナブチトコロニアソヒトヨアリツカエマツリタマヒ)
佐夜久の宮は伊都郡官省符荘に佐野村あり 此地なるへし 然面則の三字此祝詞には似つかはしからぬ詞なり
渋田邨今伊都郡富田荘にありて西志富田東志富田の二村あり 古文書に渋田と書す神賀奈渕は志冨田村の邊紀ノ川の淵の名なるへし
則天野原爾上坐皇御孫乃命乃(スナハチアマノハラニノボリマシスメミアマノミコトノ)宇閇湛乃任爾 於土乎波下爾堀返下土乎波於堀返太宮柱太知立奉給比高天乃原爾知木高知奉朝日奈須輝宮夕日奈須光留宮爾世長杵爾常世乃宮爾静坐止申 (ウヘノツチハシタニホリカヘシシタノツチヲハウヘニホリカヘシオホミヤハシラフトシリタテマツリタマヒタカマノハラニチキシタカシリマツリアサヒナスカゝヤクミヤユウヒナスヒカルミヤニヨノナガキネニトコヨノミヤニシツマリマセトマヲス)
天野原は今の神地是なり 皇御孫の命は 天皇を称し奉る 字宇閇湛乃任爾六字考ふへからす
朝日奈須夕日奈須の奈須は如くにて宮を称ふる発語なり 世長杵は常世宮に対したれは世長(よなが)の杜の意にて神地を称ふる詞なるへし
杵は木根にて木の生たてる神地をいふなり 常世宮も又称へたる詞なり
皇御孫乃大御神爾依奉給大御門代太飯大酒黒黄千取白黄千取御贄千稲引並天奉止申須 (スメミマノオホミカミニヨセマツリタマフオホミトシロオホイヒオホキクロキチトリシロキチトリニミニヘチシネヒキナベテタテマツルトマヲス)
○大御門は大和国千(十の誤植か)市郡に坐し時より以下依せ給へる御門代をいふ
大飯して造れるを後まても奉れるなるへし 黒黄は濁酒 白黄は清酒なり 酒をささといふ事古書に見えたり 今伊都郡三谷荘三谷村に丹生酒殿明神あり
古より當社の末社なれは此社にて造り奉れる古例なるへし 取は秀樽(ホタリ)の樽の転語にて樽をいふなり 引は例の誤にて列並天なるへし
所奉仕大飯大酒者伏香不為取 見不為清浄奉仕止申須皇御孫命乃依奉給太飯止田長御世爾済奉仕支 (ツカエマツレルオホイヒオホキハフシテカゝシトモセストリテクミヒミントノセスキヨラカニツカエマツラントマヲス スメミマノミコトノヨセタテマツリタマフオホイトタナカノミヨニオサメツカエマツリキ)
○止はとての意にて 天皇の寄給へる太飯とて最尊ひてなり 田長の田は発語にて田の字を書けるは仮字なり
馬爪至限鹽末至限天雲乃可皿立限依奉給也 (ウマノツメノイタラシキハミシホナリイタラシキハアマクモノカヘタツキハミヨセタテマツリタマヒ)
末は沫の誤なるへし 可皿立原本可乙立と書せり 今改む 可皿立は壁立にて祈年祭の祝詞に見えたり
遠国乎波千尋田久縄乎以弖懸依給比荒国乎波太御佩以天平給比白雲乃退居青雲乃枯引限物代乎依奉給也 (トホキクニヲハチヒロタタナワヲモテカケヨセタマヒアラフルクニヲハオホミハカシモテタヒラケタマヒシラクモノソキヰアヲクモノタナビクキハミモノシロヲヨセタテマツリタマフ)
久原本の之と書るは訛なり 今改む 枯は棚の誤なるへし 物代は供物の品をいふ
曳立者天止等久打積者国止等久谷古久乃佐度限物代乎依奉給止申須 (ヒキタテバアメトヒトシクウチツメバクニトヒトシクタニコクノサワタルキハミモノシロヲヨセマツリタマフトマヲス)
谷古久は谷苦久の誤か 又苦久を古久ともいへるなるへし ○以上上代の祝詞なり
以下は後世に書きそへるなるへし
暫くは歴代天皇の 奉給える 物、神階 などが 物語られる (詳細は略する 瀬藤)
又 皇天皇奉賜佛舎利入玉壺
是より以下は上代の祝詞のさまにあらめ
太御佩太御弓杵箭并幣帛明妙照妙海山物者鰭狭物鰭廣物如横山打積
(オホミマカシノオホミユミキヤ シテグラアカルタヘテルタヘウミヤマモノハハタノサヒモノハタノヒロモノゴトクヨコヤマノウチツミ)
海山の物とあるは舊海山物者毛荒物毛和物 鰭狭物鰭廣物とありしを省きたるならん
太酒者瓶於高知瓶腹満済(オホミキハミカノヘタカシリミカノハラミチテトゝノヘ)
原本に迸於高知 酒海とあれと決して誤なれは今改つ
汁爾毛 爾毛儲備天所奉乎平久聞食賜天 皇天皇乃太寳御坐月日止共平久文武百官諸国々宰等国造七郡乃至干品部神民百姓百壽全保福壽豊稔守給邊止恐恐毛申志賜止申 (シルニモカヒニモマケソナヘテレレタテマツヲタヒラケクキコシメシタマナヒテ スメラ オホタカラノミクラツキヒトトモニタヒラケクモムムノモゝツカサモロモロノクニノミコトモチタチクニノミヤツコナゝコホリ シナヘシミオホムタカラニ マモリタマヘトカシコミカシコミモマヲシタマハクトマヲス)
国宰は国司なり 国造は紀国造なるへし 七郡は本国の郡数 品部は雑戸 神民は神戸の民なるへし
|