![]() 沖縄県宮古島市平良東仲宗根 地図 ![]()
此の御嶽には皷祢里(こねり)祭が行なわれていた。その由来は祢間伊かり(根間伊嘉利)が竜宮から伝授されたというもので、一七二七年の『薙正旧記』に記事がある。「中古迄は行なわれた」とあるが、これは王府への気兼ねからの表現で、近世までも行なわれたという見方もある。
伊かりは父の死後、その墓所で庵(いおり)を作り泣き暮らしていたが、その孝心が天に通じたのか、漲水の天川崎という所に父が蘇生したという夢を見てその地に行ったところ水際に髪毛之筋長さ七、八尺のものがあり、余りに長いので不思議に思っていたら何処からともなく美女が一人あらわれ、夜部(ゆうべ)此所でかもじ(添え髪)を落としたがもしや拾われたのなら返してくれと言うので渡してやると美人は海に飛びこみ姿を消す、伊かりは余りに不審に思えたので翌朝もその天川崎へ行く、美人はまたも姿をあらわし、弁明して言うことには、そなたの孝心の心があついのは竜宮界でもよくわかっているので、竜宮界では孝行の祭りを授けようということになり、竜宮の使いでわたしがやってきたとのこと、それはありがたいというので一緒に海中に沈んだが、気がついてみると金銀をちりばめた宮殿に着いていて、様々なもてなしをうけ、そこで漲祢いりの祭を授かり、″此の祭を十三年廻りに一度九月のうちに先祖所で祭ったならば、天地之願御加護、先祖の霊神は上天し、島は豊かになり、子孫は繁盛するから、怠ることがないようにせよ”との教えがあった、礼拝をしていとまごいをしたところ、すぐに先の女の導きがあり、夢のような気分のうちに天川崎に戻っていた。
一七四八年の旧記の『宮古島記事仕次』、『根馬氏家譜正統』にもある話である。竜宮から先祖祭の方式皷祢り(こねり)祭を授ってきた伊かりは墓所を因って草木を植え御嶽を立て、その前での皷祢りをはじめ、それが、その後うけつがれたということだが、実際いつまで行なわれたかは、明らかではない。今は行われてはいない。
この祭りは沖縄本島から伝来したもの、また久高島のナヅキという男性中心の神事に似ているということなどがいわれる筈だが、さらには此の起源を遠く琉球以外に求めるのもでてこよう。竜宮伝説の根源の解明にもつながるものである。
![]() 昭和のはじめに、外聞御嶽を斜めにきるように走る道路が設けられ、それにともなって福木などの巨木の生えていた大きな御嶽の敷地はイビと前庭に限られるようになり、伊かりが仕立てた杜は消えていた。この小さくなった御嶽のわきで野菜などの物売りが立つようになったが、それがもとになって、平良市の降雪市場が開設されるようになったのは1968年である。御嶽の敷地にその東南隣の地所を加えてスラブ建て平屋一棟が立ち、御嶽のイビは建物の裏手の方にひっそりと置かれるようになる。その前年の十一月に宮古文化財を守る会(民間団体)が結成されたが、その頃は古墓が荒らされ、墓の中にあった陶磁器等が採り出されて売られる等、神霊をおそれる観念が低下し、御嶽を隅に追いやることが平気で出来たようだ。同じ十一月に、もう一つの公設下里市場の木造の建物が火災にあった。市場づくりのため外聞御嶽の木を切り倒した人について、「目が木の枝にさされ、しばらくして自分が飼育していた馬にカマれ病院がよいをしていたが行方が知れなくなったという」(仲間井佐六『宮古お嶽集』)話がのこつている。
丁度祭の準備をしているのか、天幕がはってあり、まさか御嶽とは思っていなかった。通りがかった方に聞いたら、ここだよと教えてもらった。宮古島の人々は実に親切で道を教えてくれるのも詳しく言ってくれる。
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