![]() 豊前 田川 福岡県田川郡添田町大字英彦山1 its-mo 銅の鳥居(かねのとりい) 高さ7m、柱の周囲3m。 ![]()
英彦山の信仰の発現は原始山岳信仰であろう。当山から放射状に流れ出る河川は豊前、豊後、筑前三国の田畑を潤している。英彦山を仰ぎ見る民人にとっては神霊の籠もる山として水分神の信仰をえていた。奉幣殿のある下宮の広場の上段に清水が流れており、水分神社が祀られている。 中岳頂上の上宮遠景 ![]() 英彦山の開山伝説は渡来人がからんでいる。 この伝承は、@仏教の北部九州への個人的な伝来、A魏の国の僧としているのは道教的な色彩を帯びたものではなかったか、B」恒雄とは朝鮮の檀君神話の恒雄(かんゆう)にその名を借りたのではないかとの見方がある。 中宮遠景 ![]() 続いて中興伝説がある。この寺は善正・忍辱によって始められたが、継ぐ者がなく久しく荒廃していた。大宝(701〜4)の始めに役行者が歩をしるしたがこの寺を再興するに至らなかった。弘仁十年(819)、法蓮はすでに数百歳の齢を数えていたが、ある日、鷹の落とした羽に「日子を彦と改めよ。」と記してあったのを見て、瑞兆を感じたが、はたして嵯峨天皇より勅喚があり「法蓮は邦家の彦、李朝の仙である。日子を改めて彦とし、霊山を改め霊仙寺と名づけ、九州一円を檀家とし、四方七里を寺領にあて、比叡山に準じ三千の衆徒をおいて天台の学を学ばしめ、勅願寺とせよ。」との詔を賜った。 また八幡神・香春神と彦山権現とのかかわりの物語も残っており、宇佐系・朝鮮系シャーマニズムの合体という形で徐々に進行していく様相にある。そこに天台が結びつき、天台系の彦山修験道が成立している。 鎌倉時代に記された『彦山流記』によれば、「権現は天竺の摩訶提国(まがだ)から五剣を投じ、唐の天台山を経て日本に渡来、彦山の般若窟で第一の剣を発見し、そこに八角三尺六寸の水精石となって垂迹した。その後、次々と残りの四剣を求めて熊野に移り、のち再び彦山に戻った。」と、はっきり彦山・熊野同体をうたっている。内容は『熊野権現垂迹縁起』との一致している。しかも熊野と同じく三所権現を唱えて山頂の三岳をそれにあて、南俗躰岳を釈迦垂迹、北法躰岳を阿弥陀垂迹、中央女躰岳を千手(観音)垂迹としている。それぞれの山は東西南北の四至を定め、要所要所には鎮守神大行事社が点在している。現在での福岡県嘉穂郡・京都郡、大分県大野郡・日田市などに九社を数える。 室町時代には彦山独自の修験を確立していったが、多数の衆徒をかかえることになり、天正九年(1581)の大友氏との争乱に全山が焦土となり果て、さらに豊臣秀吉によってその神領をすべて没収され、これで中世彦山は終焉した。江戸時代になり経済的基盤を回復し、豊前藩主細川忠興、肥前藩主鍋島氏の崇敬が篤く、戦禍に荒れた彦山の復興に務めた。 なかでも寛永十四年(1637)初代藩主鍋島勝茂んぉ奉納した銅華表は有名。
下宮へ登る ![]() 奉幣殿のある庭に到着、ここに清水と水分社が鎮座。また下宮への鳥居がたっている。 奉幣殿 ![]() 鳥居をくぐり、しばらく行くと下宮の社殿が左側に現れる。 下宮 ![]() ![]() ここからが長い登り道、雪ですべるし、水たまりは氷っている。アイゼンを着装して足下をかためて黙々と登る。1時間弱の急な登りを歩き、やっと中津宮へ到着、石の祠が並ぶ。宗像三女神を祀っている。 中津宮 ![]() 再びの登りだが、勾配は半分程度になったようだ。登りと少しの下りの道を二山ほど越えて最後の頂上の上宮に近づく。その前にむすび神社が鎮座、行者堂とも云うようだ。
むすび神社と関所跡 ![]() ![]()
頂上には上宮の社殿があるが、扉は完全にしまっていた。 上宮の社殿 ![]() ![]()
神奈備にようこそにもどる |