怨霊と御霊
天台座主慈円『愚管抄』 怨霊とは現世で果たせなかった復讐を、冥界で果たすために登場する存在で、相手を攻撃するだけではなく、世の乱れをも引き起こす存在。
縄文の昔、埋葬方法に屈葬があった。死霊の再生による災いを恐れた。現在まで通じる気持ちである。
養老四年(720)隼人反乱の鎮圧で亡くなった隼人の慰霊のためにはじまった宇佐神宮の放生会
不比等の息子の藤原四兄弟の陰謀で自死させられたい長屋王の祟りで四人共天然痘で亡くなった。
仏教には死後の世界の体系があり、成仏できずにさまよう霊魂を得道させる方法を持っていた。
大化の改新の変で殺されたの蘇我入鹿を祀る神社にはより威力の強い素戔嗚尊が合祀されている。
年表
770 | 宝亀元 | 光仁天皇即位(天智天皇の孫)聖武の皇女の井上皇后、他戸皇太子は聖武の孫。、 |
772 | 三 | 光仁j天皇を呪詛したとして井上皇后と他戸皇太子を廃す。 |
773 | 四 | 山部皇太子(光仁と渡来系高野新笠の皇子)が立太子。式家藤原良継の娘の乙牟漏東
宮妃になった。 |
| | 式家藤原良継と弟の百川が実権を握る。 |
774 | 五 | 蝦夷が桃生城を攻撃する。以降三十五年戦争となる。 |
775 | 六 | 四月。大和国宇智郡(五條市)に幽閉されていた井上皇后と他戸皇太子が同じ日に没した。 |
| | 『水鏡』井上内親王は現身のまま、龍になったと言う。 |
| | 五月。地震。備前国に飢饉。野狐が朝堂院の藤原朝臣魚名の席に座った。 |
| | 六月。日照り。 |
| | 七月。参河・信濃・丹後に飢饉。下野国都賀郡に黒いネズミが数百匹出現し数十里の草木の根を食べ尽くした。 |
| | 八月。和泉国が飢饉。野狐が内裏の門にうずくまった。伊勢。尾張・美濃で異常な風雨があり、人民三百人と馬牛千頭あまりがナガされた。三十日 大祓えを行った。 |
| | 十月 地震。僧二百人に大般若経を読ませた。大祓を行う。 |
| | 十一月 日向・薩摩で風雨強く、桑や麻が全滅。 |
776 | 七 | 五月 災害や変異がしばしばおこるので大祓をした。 |
| | 八月 大風は吹いた。諸国に蝗の害があった。 |
| | 閏八月 壱岐島で風が吹き、稲の苗を損なった。 |
| | 九月 瓦・石・土塊が内裏の庁舎や京中の各所の屋根に自然に落ちてきた。20日続いた。 |
| | 十月 地震。 |
777 | 八 | 二月 讃岐国で飢饉。 |
| | 三月 宮中でしきりに奇怪なことがおこるので、大祓をした。 |
| | 六月 隠岐国で飢饉。 |
| | 七月 伯耆国で飢饉。 |
| | 十一月 天皇が病気になった。 |
| | 十二月 山部親王は病気がちになった。井上廃皇后を改装し「御墓」と偶した。 |
780 | 十一 | 蝦夷反乱。多賀城陥落。以後30年以上戦争が続く。 |
781 | 十二 | 光仁天皇病のため譲位、山部皇太子が桓武天皇として即位。同母弟の早良親王を還俗し
て立太子。 |
783 | 延暦二 | 桓武、交野の柏原で天帝を祀った。長岡京の真南。 |
784 | 延暦三 | 藤原種継ぐを派遣し、長岡京造営着工、遷都。 |
長岡京への遷都の決意
天武系の天皇は都した平城京を放棄し、天智系の天皇の時代となったことの宣言。
寺院や僧侶の力が強く働き、貴族達の権力争いの平城京を捨てたい。
井上廃皇后と他戸廃皇太子の怨霊を恐れていたので都を遷したい。
785 | 延暦 四 | 藤原種継が夜間に新京を視察中に射殺される。 |
| | 大伴・佐伯氏と東宮の側近がクーデターに関与、首謀者は一月前に死んだ大伴家持。 |
| | 連座したと見なされた早良が廃太子となる。淡路への配流の途中で死去する。抗議のため
水食を断ったか、絶食を強いられた。遺体はそのまま淡路に運ばれ葬られた。 |
| | 桓武の皇子安殿親王が立太子。上記の事件を桓武が利用したとの見方がある。 |
| | 桓武は験担ぎの人。迷信・俗信を信じやすい。後に、御霊信仰の虜になる。 |
787 | 六 | 桓武、ふたたび交野の柏原で天帝を祀った。 |
788 | 七 | 三月 板東諸国より5万の兵士を多賀城に集める。七月 紀古佐美を鉦夷大将軍に任命。 |
| | 四月 五ヶ月間日照で水不足となった。天皇は自ら降雨を祈念すると雨が滂沱と降った。 |
| | 五月 夫人の藤原旅子が薨じた。 |
789 | 八 | 五月 アテルイ率いる蝦夷軍と激突し、朝廷軍が大敗する。 |
| 八 | 十二月 皇太后高野新笠が薨じた。 |
| 九 | 閏三月 皇后 藤原乙牟漏が薨じた。 |
| | 七月 後宮の坂上又子が死んだ。 |
| | 九月 皇太子(安殿親王)の健康状態が良くないので、京内の七ヶ寺に読経させた。 |
791 | 十 | 七月 大伴弟麻呂を鉦夷大使に、坂上田村麻呂を副使に任命。 |
792 | 十一 | 六月 安殿皇太子の病は早良親王の祟りとの占いがあり、親王の墓所に墓守を置いたが管理をしっかりしなかったので祟りが起こった。塚の周りに空堀を堀、ケガレから守った。 |
| | 六月 長岡京の南門が大雨により倒壊した。 |
793 | 十二 | 長岡京から山背国葛野郡への遷都を決意。 |
| | 葛野郡の地主神である賀茂神に遷都を告げる。伊勢大神宮に報告。 |
平安京の設計

『鬼がつくった国日本』から
北に船岡山(標高112m)を背にして、天子の座である大内裏を置き、一辺4〜5km程度の方形に領域を囲い込む。
東西の中心に朱雀大路と朱雀門、その 先に羅城門。両門は上に大きい空間を 持つが階段は置かれていない。
羅城門の東西に東寺と西寺が置かれた。
朱雀大路は北の船岡山と南の甘南備山 (京田辺市)を結ぶライン上に作られた。
都の最南端(九条大路)は母である高野新笠の陵墓の東延長線上にある。
四神相応 青龍(東)、白虎(西) 朱雀-鳳凰(南)、玄武ー亀と蛇の合体(北)
北 鞍馬・貴船 御霊鎮めの蓮台野東 鴨川 上賀茂、下賀茂社
北山 大原を越え若狭。 東山 北陸道 東山道、東海道。西山 丹波から山陰
道。南 水(巨椋池) 水路または陸路で山陽道、西海道、南海道。
神泉苑
方位を司る大将軍八神社
794 | 延暦十三 | 10月28日 平安京への遷都の詔を下す。 |
| 十四 | 正月の踏歌節会での音楽 む新京楽 平安楽土 万年春 |
796 | 十五 | 毘沙門天を本尊とする鞍馬寺を建立 |
797 | 一六 | 『扶桑略記』正月 興福寺僧善珠の事績について述べている。
早良親王が廃太子されてしまう時に、諸寺に使いを遣わし、後生のために読経してくれるように頼んだが、みな拒否されてしまい、菅原寺にいた善珠だけが親王の運命を悲しんで礼仏を行い、前世の残業のために今こうした状況になってしまったが、ここで仇を絶ち、怨を結んではならないと使者に告げた。使者がこのことについて報告すると、早良は聞いて歓び、処罰されることを恐れないことを述べたと言う。そしてその後、早良の亡霊がsばしば安殿親王を行い、前世の残業のために今こうした状況になってしまったが、ここで仇を絶ち、怨を結ん悩ませたとき、善珠が以前早良に説いたことを思い出させ、悩乱の苦しみから脱させようとして般若経を転読して無相の理を説くと、祟りは鎮まり、安殿の病気は治ったという。
つまり善珠は早良の怨霊を調伏したのではなく、仏法を説いて聞かせることよって鎮めたの である。 |
800 | 十九 | 三月 富士山が噴火する。七月 早良親王に崇道天皇を追贈。 |
802 | 二十一 | 十一月 坂上田村麻呂を鉦夷大将軍に任命。 |
| | 七月 蝦夷のアテルイとモレが坂上田村麻呂に降伏、二人は処刑された。 |
804 | 二十三 | 七月 空海・最澄の乗った遣唐使船が肥前国を出発する。 |
| | 十二月 桓武発病。 |
805 | 二十四 | 八月 最澄が帰国、病気平癒を祈願する。 |
| | 十二月 徳政相論 参議藤原緒嗣と参議菅野真道に徳のある政治方針について論じさせ |
| | た。天下の苦しみは鉦夷と造都にある。二つを止めるべきとの緒嗣の意見を採った。 |
806 | 大同元 | 三月 桓武天皇が死去。平城天皇が即位。 |
| | 死の当日 崇道天皇の奉為に、永く件の経(金剛般若経)を読ましむ。 |
『日本後紀』即位護、政治に心し、造都と鉦夷を行った。多くの支出をともなったが、後の世の基礎を築いた。
病や災害が起こるから、怨霊が出てくる。
,参考文献
『平安京遷都』川尻秋生 岩波新書
『妖怪と怨霊の日本史』田中聡 集英社新書
『怨霊とは何か』山田雄司 中公新書
以上 |