伯耆一ノ宮 倭文神社の栞
鎮座地 鳥取県東伯郡東郷町宮内七五四番地 JR山陰線松崎駅下車 バス藤津入口下社 松崎駅からタクシーあり。約4キロ 御祭神 健葉槌命(主神)・下照姫命・事代主命・建御名方命・少彦名命・天稚彦命 ・味耜高高彦命 由緒 安産の神として崇敬されている当神社は、伯耆国の一ノ宮である。創立年代は 不詳であるが、社伝によれば。大国主命の娘下照姫命が出雲から海路御着船従者と共 に現社地に住居を定め、当地で死去される迄、安産の指導に努力され、農業開発、医 薬の普及に尽くされたという。 創立当時当地方の主産業が倭文(しづおり)の織物であったので、倭文部の祖神健葉 槌命に当地と関係の深い下照姫命を加えて祭神としたもので、他の五柱の神は大国主 命のお子神か関係の深い神々である。 当神社に対する安産信仰は古来からのもので、数々の霊験が伝えられているが、倭文 の織物は姿を消したので、安産の信仰が残り、当神社は安産の神として、本県は勿論 広く県外にも御神徳が及んでいて、安産祈願の参詣者で社頭は賑わっている。 平安時代延喜式神名帳(西暦九二二)には、当神社の名が見え、神階は、度々昇進し 、承和四年(西暦八三七)従五位下、斎衡三年(西暦八五六)従位上、天慶三年(西 暦九四〇)には、従三位から正三位に進んでいる。 平安時代当神社にも多数の神宮寺が建立されたが戦国時代武将に社領を没収され、神 社のみを残して各寺院は四散した。 当神社には勅額と称する古額が現存し、正一位伯州一ノ宮大明神と刻されている。 往古社殿広大で千石の朱印地を有したと伝えられるが、戦国時代荒廃。天文二十三年(西暦一五五四)尼子春久社殿を造営神領七十石寄進。後 神領中絶したが、元亀元年(西暦一五七〇)羽衣石城主南条宗勝がこれを復旧した。 徳川時代は池田藩主祈願所となり祭日には藩老和田氏から境内警備のため、鉄砲六人を付され ている。 明治以降県社であったが昭和十四年に国幣小社となった。 ・・・・・・・・・・・・・ ・ 安 産 岩 ・ ・神社境内に至るまでの参・ ・道横にある。昔常に難産・ ・に苦しむ婦人が願をか ・ ・け、満願の日夢に下照姫・ ・命が姿を現され、参詣の・ ・帰途安産岩で簡単に出産・ ・し爾来安産岩と称するよ・ ・うになったと云う。 ・ ・・・・・・・・・・・・・ 例祭日は五月一日 ・・・・・・ ・国 宝・伯耆一ノ宮経塚から大正四年に発掘されたもので、東京国立博物館に納 め ・・・・・・られている。 ◎銅経筒(平安時代) 銘文中康和五年十月三日山陰道伯耆国河村東郷御座一宮大 明神の文字がある。 ◎金銅観音菩薩立像(白鳳時代) ◎その他仏像 銅鏡、銅銭。るり玉。桧扇残片。短刀刀子残欠。漆器残片。などが ある。 |
式内社 伯耆神社 波波伎神社由緒
伯耆二の宮 (旧県社) 八重事代で主命は大國主命の御子神で、國土経営の為此の地巡事の時、当社西方「ワ タラガヒ」の地に上陸され当地方の開拓殖産に務められ、天孫降臨に当っては父神に すすめて恭順潔く國土を奉献して誠忠を儘され、父神に対して孝道を全うせられ献國 後も永く皇室の護り神と成られました。其の荒神魂は青柴の巻籬内(今槙ケ木の字を 充てる)に鎮まりました。之が当社御鎮座の根源である。 |
國坂神社
一、祭神少彦名神。 一、例祭十月十五日。 律令国家時代の最後の法典「延喜式」の神名帳に伯耆六座の四番目に「久米郡国坂神 」と記載されている式内社で古い記録に次のように神階を授与されている。 承和四年(八三七)従五位下(続日本後記)。 斉衡三年(八五六)正五位下(文徳実録)。 貞観九年(八六七)正五位上(三代実録)。 この神階授与は因幡、伯耆両国を通して伯耆神(現波々木神社)大山神(現大神山神 社)と共に最も古く神祇統制の面からも当地方で最重要視された神社であるといえる 。 古来四宮大明神と尊称されてきたが明治維新の際國坂神社と改められ郷社に列せられ て今日に至っている。 |
宗形神社由緒略記
1.伝承による由緒 当神社の創建年代は不詳であるが、往古、宗形氏族が海路この 地に来着して居を定め、その祖神である三女神を奉斎して、神社を創建したものと伝 えられている。祭神御着船の地は、米子市長砂町小林(当時この辺りは入江であった 。)であって祭神の御乗船はのちに石に化したと伝えられ、この所を御船塚と称して いた。この船塚は、明治の末頃には、茅などの生えた百坪ほどの広い砂丘であったも のが、昭和の始め頃には、田圃の中に、一抱えほどの石のある葦などの生い茂った、 一坪ばかりの砂地として残されていたが、終戦後切り崩され、更に埋め立てて宅地と され、今では何等昔をしのぶよすがもない。 2.国史・文献による由緒 文徳実録ー 平安朝初期の斎衡三年(八五六)に、宗形ノ神に神位従五位上が加上されたことが記 されている。当時宗形神社は、大神山神社と供に、当地方の大社として上下の信仰が 篤かった。延喜式ー醐醍天皇の延喜二二年(九二二)に勅撰された、延喜式神祇の巻 に、伯耆国の六社として、会見郡から、胸形神社と大神山神社の二社のみ国幣の小社 として所載されている。神祇管領の勘文ー神祇管領ト部兼文が奏上した勘文に、宗形 神社は伯耆国の第三鎮守である旨が記されている。以上の如く、宗形神社は平安朝の 初期から国史に所載されており、千数百年の歴然たる歴史と伝統を有し、その御神威 は赫々と当地を照らしつヽ今日に至っている。 2.武将等の崇敬ー戦国時代になって からは、尼子・毛利・中村氏等の崇敬篤く、特に尼子晴久は、弘治二年に社地を宮ノ 谷から現在地に移して社殿を建立し、社領三百石を寄進・吉川元晴は、更に社領一二 〇石を加増寄進すると供に、太刀及び兜を奉納した。又中村伯耆守も社殿修造用材百 本を寄進している。鳥取藩主池田氏は、当社を祈願所に指定し、祭礼には必ず幣使を 参向させ、当時では、容易に許されなかった境内取締りの禁制の制札建設を、正徳五 年に裁許し、池田家の家紋を幕・灯燈に使用することをも許された。更に池田慶徳候 は、明治三年、自ら当社に参拝し、金百疋を献納するなど、武将や藩主の崇敬が極め て篤かった。 |