伊豆國92座 大5小87
賀茂郡[カモ]:46座大4小42
伊豆三嶋神社[シマ](名神大。月次新甞。)
三嶋大社「大山祇命、事代主命 配 阿波神、伊古奈比命、楊原神」火山列島である伊豆諸島には23座の式内社が登載されている。御島である。祭神は伊豆諸島にかかわる神であったはずだが、鎮座地は富士山をの遥拝地としても絶好であり、大山祇神が祭神とされてきたのであろう。また駿河湾沿岸の漁民達はエビス神信仰を持っており、事代主神も祭神とする説が登場したのであろう。
静岡県三島市大宮町2丁目1-5 玄松子の記憶
由緒書
祭神 大山祇神・事代主神 大山祇神は山の神様で、山林農産を始めて殖産興業の神、国土開発経営の神である。 事代主神は俗に恵比須様と申して、商工漁業、福徳円満の神である。 由緒
例祭
宝物
社殿・境内
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参拝のしおり
伊古奈比 ![]() 最初に1日1晩で小さな島をつくりました。初めの島なので初島と名付けました。次 に、神々が集まって相談する島神集島(現在の神津島)、次に大きな島の大島、次に 海の塩を盛って白くつくった新島、次にお供の見目、若宮、剣の御子の家をつくる島 、三宅島、次に三島大神の蔵を置くための御蔵島、次に沖の方に沖の島、次に小さな 小島、次に天狗の鼻のような王鼻島、最後に10番目の島、十島(現在の利島)をつ くりました。 7日で10の島をつくりあげた三島大神は、その島々に后を置き、子供をつくりまし た。この后々や子供達は、現在でも伊豆の各島々に式内社として祭られています。三 島大神は、后達やその子供達を大変愛していましたが、その中でも伊古奈比・命は特 に愛され、いつも三島大神のそばにいました。大神は、三宅島に宮をつくり、しばら くの間三宅島に居ましたが、その後最愛の后である伊古奈比・命とお供の見目、若宮 、剣の御子を連れて再び白浜に帰って来ました。そしてこの白浜に大きな社をつくり 末長くこの美しい白浜で暮らしました。それが、この伊古奈比・命神社です。 |
由緒書
古くから来宮大明神と称し、熱海郷の地主の神であって来宮の地に鎮座し、福の神・ 縁起の神として古くから信仰され祭典は、左の三柱である。 @大已貴命は素盞嗚命の御子であって又の名を、大国主命、俗に「ダイコク様」と云 われ古代出雲の神々が海、山を渡られて伊豆地方に進出されたときに、此の熱海の里 が海、山に臨み、温泉に恵まれ風光明美にして生活条件の整っていることを愛し給い 此処に住居を定めた時祀られたと伝えられています。 A五十猛命は素盞嗚尊の御子であって、尊と共に朝鮮に渡られ、樹種を持ち帰り日本
国土に播種した神であります。当社へは和銅三年六月にまつられました。
B日本武尊は人皇第十二代、景行天皇の御代、御東征に出陣せられ、箱根路から、此 の地に軍を進められた時、住民を労り、産業を奨励した功績と、武勲を称えたゝめま つられたと伝えられる。 |
第三王子神社
当島開拓の地主神にて、始め能登男山鎮座するを貞享3年現地に転社。享保6年社殿 再興。明治8年再建。昭和50年社殿大改修。境内整備。神域広大。石段多数。風光 絶佳。参拝者後を絶えない。 |
物忌奈命神社
今按續日本後紀承和七年九月乙末伊豆ノ国言ス賀茂ノ郡有造作島本名上津島。此島坐 阿波神ハ是三島大社本后也。又坐物忌奈命即前社御子神とあるを思うに物忌奈命は三 島大社の本后にます阿波 ![]() 式社考證に古き上梁文に長濱大明神輿奉申御神者當鎮守神集島定大明神御母神也とあ るにも明かなるを思うべし。 |
泊神社
往古より式根島字泊浦に鎮座。貞享4年社殿造営、その後元禄6年、文化10年、嘉 平4年再建、更に明治39年、昭和43年社殿再建、境内整備。 明治45年、野伏若郷明神を合併合祀する。 祭神、泊御途口大后明神(久爾都比 ![]() |
由来記
八幡野鎮座、八幡宮来宮神社は、その創建を悠久の昔に発し、以来郷党衆庶の尊崇篤 く、稲取村以北九ヶ村の総鎮守として、神威赫々今日に到った古社である。 当神社はその社名が示すように、元来は八幡宮と来宮の二神社であったが延暦年間本 殿再建の折、合殿して現在の一殿両扉の形になったと伝えられる。八幡野という地名 もまたこれに由来している。 八幡宮は誉田別命即ち応神天皇を祀る。神護景雲三年(769年)太宰の廟官阿曽麻 呂が、一国一社と定めて正八幡宮を勧請したときの伊豆国の代表八幡宮である。 応神天皇は、大陸交渉に伴ひて大陸文化を我が国に輸入し、古代にあって日本文化興 隆をはかられ、また御母、神功皇后が天皇の御幼少の時、常にお側におかれて行動な されたということからして、文化の神、母子神としての信仰がある。 来宮神社は、伊波久良別命を祀る。古来、来宮大明神と崇められた延喜式神名帳所載 の古社であり、産業の振興、開運隆昌の信仰がある。 両社共、明治初年郷社に列格された。憶えば千三百年の遠き昔この小さな村にかくの 如き立派な神域を造り、精神文化の基礎を築き、特殊な神事を絶ゆることなく継承し 、郷土の繁栄に努力してきた先人の功績を讃え、改めて深き敬意を表したい。 |
阿波命神社
阿波 ![]() |
由緒書き
創立年代康永2年11月再建の記録あり。 往古は白田来浜神社又は来宮神社とも称した。毎年12月17日より7日間酒精進の 習慣がある。 |
由緒
全国屈指の老樟が、千古の翠を湛えてそびえる、当葛見神社は、千数十年昔の延長五 年に制定された「延喜式神名帳」所載の田方郡久豆弥神社に相当するとされる古社で あります。往古、伊豆の東北部を葛見の庄と称し、当神社はその庄名を負い、約九百 年昔、葛見の庄の初代地頭工藤祐隆公(伊東家次…伊東家の祖で伊東祐親の祖父)が 守護神として、社殿を造営し、相殿に京都伏見稲荷を勧請合祀してから、伊東家の厚 い崇敬と保護を受け、神威を高めてきました。 このことは、元禄十年(一六九七年)の棟札に、「葛見大社岡村稲荷者藤原朝臣鎌足 大臣十六代後胤工藤大夫祐高公之修造也」と記されていたり、慶長十五年(一六一〇 年)の棟札に、「藤原氏伊東正世公伊東郷住人鈴木近江守仰而焼失後造立」に書かれ ていることからも判明いたします。 明治までは、代々の領主より供米が献じられ、また岡明神と称えて、地方民の氏神と して信仰されてきました。このような由緒から、明治四年、新制度に依り、旧伊東、 小室村の唯一の郷社に列格されました。 近年では、当神社近くに別荘のあった(現ひまわり苑)若槻礼次郎元首相(ロンドン 海軍軍縮会議全権)が、しばしば参拝に訪れました。老樟を賛える石碑(樟右手前) は、氏の寄進に依るものです。 |
由緒掲示板
当社の創建は、大化五年(699年)で御祭神は大山祇神で延喜式内石徳高神社(い わとこたかじんじゃ)である。 延喜七年(907年)源頼義豊前国宇佐より八幡神を勧請して以来伊豆国総社八幡と 称す。 治承四年(1180年)源頼朝此所に源家再興を祈願社兵を挙げて山木館に上る火煙 を望見すと。 頼朝神威を畏み社殿を造営し心願成就(ねがいごとのかなふ)の社なり。 |
由緒
当社は延喜式神名帳に従一位広瀬明神と有る式内社である。 その創建年月詳らかならずといえども、天平五年(七三三年)と伝う。古来より田中 郷五ヶ村の総鎮守で社伝によれば往古社殿は金銀をちりばめ壮大にして禰宜三十六人 、供僧六坊を置き、神領八町八反大五十歩永八十貫文を充てられ、隆盛を極めたが天 正十八年(一五八九年)豊臣秀吉の小田原征伐の際、兵火により社殿、宝物源頼朝、 北条時政等の社領寄進状も焼失したと慶長元年(一五九六年)及び寛永十年(一六三 三年)の棟札に記されている。所領を失いその後、伊豆国全州の勧進を以って再興さ れ、次いで寛文、亨保、明和年間に修営がおこなわれた。慶長元年の上梁文に「福沢 大明神」と有り、寛永以降は「深沢明神」と記されている。明治六年八月郷社に列し 「深沢神社」と称したが明治二十八年五月十八日、現社号「広瀬神社」に復称し明治 三十二年六月県社に列した。 例祭は、旧五ヶ村現田京、御門、白山堂、守木、宗光寺の五区により斎行され神輿渡 御、稚児行列、式三番叟等行われ六台の山車引き回しにより勇壮な「深沢ばやし」が 奏でられる。 広瀬とは、狩野川、深沢川の合流点にて瀬の広き所と伝う。 境内社 祖霊社(見目社、大楠社、若宮社、厳島社等数多く有ったが全て本殿に合祀 ) 特殊神事 御田植祭(七月十五日)御神木「大楠」に早苗を投げ上げ枝に留まる苗の 多い年は五穀豊穣とされる。 氏子 一千六百戸 境内 二千七百八坪 昭和五十九年「神社振興対策指定神社」神社本庁 昭和六十年「ふるさとの自然百選」静岡県 平成元年「天然記念物」杜 大仁町 |
楊原神社
鎮座地 沼津市下香貫宮脇335番地 往古の社地は今の字楊原で、永禄年中北条武 田合戦の時兵禍に罹り社殿神宝等悉く焼失、其の後天正18年(1590年)現在の 地に遷宮する。祭神は大山祇命、磐長姫命、木花開耶姫命の三座を奉斎する。主神大 山祇命(おおやまずみのみこと)は伊邪那岐、伊邪那美命の御子、磐長姫命(いわな がひめ)木花開耶姫命(このはなさくやひめみこと)は大山祇命の御子にして左右に 配祀、御祭徳は治水産業の神、特に山の神として日本一と奉賛せられております。沿 革として創立年月は不詳なれども延喜式神名帳(905年)(第60代醍醐天皇の御 代有名神社書上帳)所載にして名神大とあり、大宮大明神、又香貫大明神とも称え、 今は大宮様と云う。往古は神領五百石を有し、社家三十余家ありと伝えられ明治八年 二月郷社に列す。上香貫、下香貫、我入道の総鎮守の神として崇敬せられている。 |
伊豆山神社略誌
関八州総鎮護 当社は古来伊豆大権現、又は走湯大権現、伊豆御宮とも走湯社とも称され、略して伊 豆山又は走湯山と呼ばれていましたが、明治になって現在の社名に改称されました。 御創立の年代は、悠久の昔であって確な記録は残されておりませんが、人皇御五代孝 昭天皇の御代と伝え、延喜式神名帳に所載の火牟須比命神社は、当社のこととされて おります。 社伝によると当社は最初日金山(久地良山、万葉集にいう伊豆高嶺。)に鎮まり、次 で本宮山に移り、更に三遷して現在地に御鎮座になりました。十六代仁徳天皇が勅願 所となされてより二十二代清寧、三十代敏達、三十三代推古、三十六代孝徳、百五代 後奈良と六朝の天皇の勅願所となり、殊に後奈良天皇は御宸筆の心経一巻(昭和二年 国宝指定、現重文)を御奉納になられ、国土安穏と万民の和楽を御祈願になられてお ります。大正三年一月十三日、皇太子であられた昭和天皇御参拝の砌り、親しく若松 一株御手植えを賜わりました。今、社頭左側に亭々と聳えております。 大正七年に宮内省から基本財産の一部にと、金参万円の御下賜をいただき、又、昭和 三年秩父宮家をはじめ、高松、久迩、伏見、山階、賀陽、東伏見の各宮家から金壱封 を、梨本宮家からは日本刀一口及び槍一筋、祭祀料の御寄進をいただき、又、昭和五 十五年九月十二日に皇太子浩宮徳仁親王殿下の御参拝をいただいております。 平治の乱後、平家の手により伊豆国に配流の身となっていた、源頼朝が源家再興のこ とを当社に祈願し、後鎌倉に幕府を開くに及んで、篤く当社を崇敬し、箱根と共に二 所と称えて、幕府最高の崇敬社として関八州総鎮護とされ、社領四里四方、海上見渡 す限りの外に、鎌倉、室町期を通じて、 一、武州 吉田三ヶ村 野中村 一、相州 柳下郷 小田原寺家方金目庄 一、上州 渕名庄半分 一、豆州 丹那郷 田代郷 大田家村 春木村 蛭島郷 白浜郷 初 島領家職熱海松輪村東湯屋 山木郷 山上地 平井薬師堂 馬宮庄領家職 仁科庄内 田畠 松下田畠 一、駿州 富士村寺 聖一色 伊賀留美 一、越州 国分寺 右の 如くに社勢頗る盛え、多数の社領を各地に所有していたことが、吉野時代の文書「寺 領知行地注文」に記されておりますが、その社領範囲の広大であったことは実に驚く べきもので、当社の最隆昌期における状況を示しております。 かくて北条、足利の時代を経て徳川の治下に及んで、家康江戸開府に先立ち、二百石 を寄進し、次で慶長になって百石と、併せて三百石の朱印領を寄進して崇敬の誠を至 し、歴代の将軍も又これに傚い、明治維新に際して国に上地いたしました。 昭和三年昭和天皇御大典に際して、国幣小社に列格仰出され、官社として御神威いよ いよ高くいましたが、終戦後神社制度も廃されて宗教法人として新たに発足し、今日 に至っております。 猶当社は明治以前においては、久しく神仏習合の社であって、役小角をはじめ、弘法 大師、多くの山嶽仏教徒や修験者が入峰して、修行を積んだ霊場で、後白河院の御撰 に成る染塵秘抄に「四方の霊験所は、伊豆の走湯(伊豆山神社を指す)信濃の戸隠、 駿河の富士山、伯耆の大山。」と著され、東国、東海における第一の霊場として聞こ えていたことがしられます。 御神徳 一切の生物の親神として、生命の充実、発展の御守護を土台として、国の護 り、産業、事業、経営の護り、良縁の護り、殊に禊道、錬成の御導きの御神威は著し く、火防鎮火、温泉守護の御神徳弥高くまします。 社殿 源頼朝の再興以来、将軍又は領主の寄進により、度々改修されておりますが、 現在の社殿は昭和六年より同十一年に亘り、内務省の手によって本殿、拝殿、階殿、 神饌所、手水舎、雷電社等の修造、並びに整備が行われました。建物は総朱漆塗、一 部極彩色で、細部の彫刻等は見事な出来映えです。 境内社 東鑑に光の宮と記されている摂社雷電社、摂社本宮社、末社白山社、同足立 社、同結明神社が鎮座。又、飛地境内社として摂社走湯神社があります。 神木梛及び神湯梛の湯 社頭の左右に梛の木があり、この葉を所持すれば願い事必ず 叶うといわれ、又、男女の仲を結ぶ外、交通安全、災難除、入学成就の守りとして信 仰されております。 梛の湯の源は、社殿横の宝物庫に近く在り、歌人の左左木信綱博士が、神木梛に因ん で「梛の湯」と命名されました。御神威によって湧出した神湯で、社務所に引湯し、 奉仕者の潔斎に用いております。 宝物 後奈良天皇御宸筆心経一巻(国重文)古剣一口(国重文)八稜鏡各六面(県文 )経巻、経塚出土品(県文)神像、古文書等百余点。 付近名勝 般若院、興亜観音、走り湯、岩戸山、日金山、十国峠、伝斉藤別当実盛の 墓、伊豆山温泉。 参拝順路 JR熱海駅から伊豆山神社前までバス(伊豆山神社行、又は七尾行)で約 七分。駅前バスターミナルから発車、別に伊豆山温泉経由、神社行の循環バスもでて います。 |
由緒掲示板
当社は延喜式神名帳(927年)伊豆国那賀郡井田神社にて、伊豆国神階帳従四位上 ゐたの明神に相当すとなす。 往古、大古久明神と称し、永禄十三年(1570年)修造、慶長十二年(1607年 )の上梁文に井田荘七箇村鎮守井田明神として村の産土神であり、農漁商工の守護神 とし尊崇され、境内には数百年を経たうっそうたる神林があり、その面影がうかがわ れる。 社傍の井立山妙田寺は往古当社の別当なるべしと伝えられる。 明治六年八月 村社に列す 境内 二百七坪 社殿 本殿 権現造 檜皮葺く、向拝に彫刻を施す 雨覆兼拝殿流造 社宝 永禄十三年(1570年)棟札 |
由緒掲示板
当社の創建は古く延喜式神名帳(972年)伊豆国那賀郡二十二座の内、部田神社に て伊豆国神階帳従四位上へだの明神に座すと云う。 古来西伊豆地方の総鎮守とし、近隣の尊崇厚く氏上社とし、農漁商工業の守護神、福 の神とし、崇敬厚い。 境内には千数百年経た神木うっそうとし、南隣の妙法山蓮華寺は往古当社の別当なる べしと伝えられる。 天正二十年(1592年)九月再建、明治六年八月郷社に列す。 境内 四百二十四坪 社殿 両部造 |
由緒掲示板
当社の創建由緒等詳ならざれども、増訂豆州志稿によれば、延喜式神名帳伊豆国那賀 郡二十二座の内、国玉姫命神社にて伊豆国神階帳従四位上もろき姫の明神に座すとな す。 もろき姫、国玉姫、橘姫は同一神でもあろうか、現称諸口は、もろきと同語にて古来 当社を弁天と称し、女神なること明らかなり。航海及漁業者の守護神とし崇敬厚く海 上安全、大漁満足を祈願し、諸船この沖を通過するという。 応永八年(1402年)三月再建 明治十二年八月村社に列す 現社殿は昭和二十八年四月改築 社宝 応永八年三月吉日棟札 鰐口武蔵国吉見郡久米田郷施主等敬白 諸口大明神 応永八年霜月十五日とある(日本金石年表に見える) |
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延喜式神名帳目次
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