舊府神社
大阪府和泉市尾井町 its-mo
社景
交通
JR阪和線北信太駅 南東 800m
祭神
素盞嗚尊
鳥居

由緒 平成祭礼データから
延喜式内の古社であるが創建年月は不詳である。
三代実録に「貞観元年(西暦八五九年平安時代)五月七日壬戌。和泉国舊府神列於官社。同八月十三日丙申。和泉国無位舊府神授正五位下」とあり昭和四十五年(西暦一九七〇年日本万国博覧会開催の年)が奇しくもそれより千百十一年に当たる。
大阪府全志に、社名と舊府は神功皇后の御し給ひし小竹宮のありし所なるより起り社は復た其の地に鎮座せるより社名に負はせんたるならん」と記されているが論者の言によればこの地ほもと和泉国府の所在地であったところその後現在の府中町に遷された為社名に舊府と名づけたと伝える説もある。
明治五年村社に列せられ、大正四年六月二十三日葛之葉町の信太森葛之葉稲荷神社に合祠された。
翌年に至り故あって元の社殿に奉祀した。
古来疫病の神長寿繁栄の霊験あらたかな神として広く一般の信仰をあつめている。
以上 |
小竹宮
宇治に陣取った忍熊王を攻めようとして、神功皇后は紀の国の日高から小竹宮(しののみや)に遷ります。
この小竹宮については今の所四箇所の候補地が見いだせています。
その前に小竹宮での下記の一つの出来事が起こっています。
神功皇后が小竹宮に移ったその時に、夜のような暗さになってしまい、何日も続きました。神功皇后は紀の直の先祖、豊耳にこの変事の訳を尋ねました。一人の翁が言うには「このような変事を阿豆那比(あづなひ)の罪と言い、二社の祝者(神官)を一緒に葬ってあるから。」とのことでした。
村人は「小竹の祝と天野の祝は仲の良い友人であった。小竹の祝が病没すると、天野の祝が激しく泣いて「どうして死後異なる穴に入れようか」と言い、屍の側で死んでしまった。それで、合葬した。」と言ったので、棺を改めて別の所に埋めた所、日の光が輝きだした。」
と言う不思議な出来事です。
この物語ではじめて、紀直の祖の名前が、豊耳として初めて登場します。また、天野の祝としては、伊都郡かつらぎ町天野の丹生都姫神社の存在が『日本書紀』にあらわれたとも理解できます。
小竹宮についてその候補地を紹介します。
●小竹八幡神社(和歌山県御坊市薗)
小竹宮に比定するのは、社名からの推定ですが、天野祝とともに葬られて暗い世にしたとする小竹祝をこの神社の神人とし、ここには祝塚と言われるものもあるとか。
●志野神社(和歌山県那賀郡粉河町北志野
天正の時代に兵火に焼かれていた神社があり、再建されています。地名・社名からの推測。ただ、天野祝を丹生都比売神社の祝とするならば、両祝が仲がよいとする距離感にはあいそう。
●波宝神社(奈良県吉野郡西吉野村夜中)
小竹宮と呼ばれていたことがあります。大山源吾著『天河への招待』には、「神功皇后は紀伊日高に上陸、紀和国境を越えて、吉野丹生の里、銀峯山小竹宮(シヌ)に入ったと、この地の伝承は伝える。」と記している。吉野とは「よ」+「小竹:しぬ」であると言う。ここにも神功皇后にまつわる伝承が多い。地名の「夜中」も暗くなった名残と言う。
●舊府神社、小竹宮(大阪府和泉市信太)
『大阪府全志』には神功皇后縁の小竹宮跡とする。一時、阿部晴明生誕伝説の信太森神社(葛ノ葉稲荷神社)に合祀されていましたが、境外摂社として元の社殿に祀られています。
また尾井の西の雨降塚(信太雨降社)として信太森神社の合祀されたようです。
他には近くに伯太神社が鎮座、伯太神社の祭神の中に小竹祝丸、天野祝丸の名が見えるのです。小竹祝、天野祝を祭神とした神社は伯太神社以外には見つかっていません。
また泉井上神社に小竹神社と呼ばれる末社があるそうです。
社頭の白狐化石
お祭り
10月 9日 3日間 秋季例大祭
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