荏原郡[エハラ]:2座並小
田神社[ヒエタ]
田神社[ひえだ]「譽田別命、天照大神、武内宿禰命、荒木田襲津彦命、春日大神」和銅二年僧行基がこの地に足を留め御神体を刻みて納め奉ると伝えられる。東京都大田区蒲田3-2-10 玄松子の記憶
御田[みた]八幡神社「譽田別尊 配 天兒屋根命、武内宿禰命」東京都港区三田3-7-16 玄松子の記憶
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御田八幡神社御由緒略誌 古くは稗田神社(延喜式所載)御田八幡宮、三田八幡、箕田八幡宮等称したのを慶応 元年六月稗田神社と神祗官より改称され、さらに明治五年には社号を三田八幡神社と 改め郷社に列格された。明治三十年に三田の冠称を御田の古称に復したのである。 祭神天之児屋根命、誉田別尊(応神天皇)、武内宿禰命、創立和同二年八月 初め東国鎮護の神として牟佐志国牧岡の地に祀られ(白銀三田)後に一条天皇寛弘二 年武蔵国御田郷、即ち後の麻布領窪三田の地に遷座した(三田一丁目)その後徳川氏 入国に際し奇瑞があったところから、応長十二年現鎮座地たる荏原郡上高輪村海岸を 開拓して造営の工を起した。そして細川、井伊諸大名の奉仕によって社殿その他建物 等も竣工が完うし寛文二年八月に正遷宮が行なわれた。しかるに行年も経ぬ寛文八年 二月に江戸大火のため社殿炎上の厄に遇いことごとく烏有になった。しばらく仮殿は 伊皿子坂薬師寺に置かれたこのとき篤信の細川綱利公は摂津四天王寺住大工藤原家継 に工事を監督させて寛文十二年八月に正遷宮を挙げた。爾来幾星霜諸人の崇敬すると ころである。先年戦災に炎上した社殿が当時の建築物であった。現社殿は氏子各位の 協力によって昭和二十九年に復興したものである。 |
六郷神社[ろくごう]「譽陀和氣命」東京都大田区東六郷3-10-18 神社公式
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六郷神社の由緒 当社は多摩川の清流に南面する古い八幡宮で、六郷い遅延の総鎮守として広く崇敬さ れております。御祭神は誉陀和気命(応神天皇)で、例祭日は六月三日です。 社伝によれば天喜五年(一〇五七年)源頼義、義家の父子が、この地の大杉の梢高く 源氏の白旗をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大 いに奮い、前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、当 社の創建と伝えられます。 文治五年(一一八九年)源頼朝もまた奥州征定のみぎり、祖先の例にならい、白旗を 立てて戦捷を祈願したので、建久二年(一一九一年)梶原景時に命じて社殿を造営し ました。現在、社宝となっている雌獅子頭と境内に残る浄水石は、このとき頼朝が奉 献し、神門前の太鼓橋は、景時が寄進したものといわれております。 天正十九年(一五九一年)徳川家康は、神領として十八石を寄進する朱印状を発給し 、慶長五年(一六〇〇年)には六郷大橋の竣工を祈って願文を奉り、また当社の神輿 をもって渡初式を行ったと史書にみえます。当社が八幡宮の巴紋と併せて葵紋を用い ている所以は、ここにあります。 江戸時代には、東海道をへだてた西側の宝珠院(御幡山建長寺)が別当寺でしたが、 明治維新により廃され、明治五年(一八七二年)東京府郷社に列格し、明治九年より 六郷神社と称して今日に至っております。 |
八幡神社「譽田別尊」東京都大田区久が原2-18-4
磐井神社[イハヰ]
磐井神社[いわい]「大己貴命、應神天皇、仲哀天皇、神功皇后、姫大神」代敏達天皇の二年。
東京都大田区大森北2丁目10-8 玄松子の記憶 磐井神社
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磐井神社略記 扨当社は、人皇三十一代敏達天皇の二年八月始めて経営あり、神座の正面にいますは 、応神天皇、左は大己貴命・仲哀天皇、右は神功皇后姫大神なり、社の側に【磐井】 あり、伝え云ふ土人祈願の時此水を飲むに、祈る所正しきものは、自ら清冷にして、 邪なるものは忽ち変じて塩味となる、斯る霊水なるをもつて、近国の病有る者之を服 するに其效を得ること著し故に土俗之を称して薬水と曰ふ、磐井神社の名も全く此井 有るが為なり。 其後五十六代清和天皇の貞観元年に、六十余州に於て総社八幡宮を選び定めさせ給ひ し時、武州においては当社を以つて総社に定め給ひ、宮社に列せし由三代実録に載す 、萬葉集に、アライガ崎笠島と詠めるは、此社の所在の地を指すなり、御神宝に、【 鈴石】有り、此石は、神功皇后三韓御征伐の際、長門国に宿り給ひし時、豊浦の海に て得玉ひしものにて、御船中の玉座近く置かせられ、夷狭御征伐神国豊栄の基を開き 玉ふ、又御凱旋の日は御産屋に置かせられ、御産平安皇子御降誕御在位繁昌の神徳を 以て、此石を如意の宝珠と御称美あらせられしと云ふ、其後聖武天皇の御宇、磯川朝 臣年足、宇佐宮に奉幣の時、神告に因り此霊石を授けらる、年足の嫡孫中納言豊人卿 、当国に守りたし時、神勅に因り当社に奉納せりと云ふ此石打てば、サウサウとして 鈴音あり、是れ其名有る所以なり、而して往時此神社の所在地一帯を鈴ヶ森と号せし も、亦た此鈴石あるを以て也。 当社鎮座の初め延暦の頃より永正年中に至る迄六百八十年間は、神威赫然として宮中 繁栄たりしも、永正年中兵火に罹り本社末社共に皆鳥有に帰す。其後再営の功成つて 復た昔日の如く建立せしも、天文年中重ねて火災に罹り鎮座の縁起其外の書簿悉く焼 失し、是より再修ならず、神威日に衰へ、四基の鳥居は海中に倒朽し、宮地は潮波に 損缺して漸く社のみわずかに残る、其後寛文年中、神主藤原善光・別当密厳院釈栄等 悲歎に余り、社を再興す、天正十八年徳川家康関東下向の節当社に立寄られ参拝あり 、其後元禄二巳年三代将軍家光参詣の砌、寺社奉行本田紀伊守を以て向後当社を祈願 所に申付ける。 享保十巳年八代将軍吉宗、伊奈半左衛門をして本社拝殿末社共建立せしめられたり、 近くは明治元年十月十二日、明治天皇御東行御通輦の際、神祇官権判事平田延太郎延 胤をして、当社へ御代参せしめられ、奉弊料金千匹御奉納ありたり。(荏原風土記稿 磐井神社由来) |
都筑郡[ツツキ]:1座小
杉山神社[スキヤマ]
杉山神社「五十猛命 配 大日
貴命、素盞嗚命」神奈川県横浜市緑区西八朔町208
杉山神社「日本武命」 神奈川県横浜市北区中川町1084
杉山神社「五十猛命」神奈川県横浜市北区新吉田町4509
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由緒沿革 武蔵式社記に、「都筑郡吉田と云うに杉山という小地名ありて其の処に座す社実蹟な り」とあり、新編武蔵風土記稿には、「除地二段五畝、村の北方にあり、石階数級を登り て社前に鳥居を立つ、本社二間に二間半、拝殿三間に二間、南向、神体不動、村内正 福寺の持」と記している。明治六年に郷社に列格、同四十一年十一月、村内の無格社 三社を合祀した。 |
杉山神社「天照大神」神奈川県横浜市北区茅ヶ崎町2094
多磨郡[タバ]:8座並小
阿伎留神社[アキル]
阿伎留神社[あきる]「大物主神 配 味耜高彦根神、建夷鳥命、天兒屋根命」東京都西多摩郡五日市町五日市1081 阜嵐健
小野神社[ヲノ]
小野神社「天下春命 配 瀬織津比
、伊弉冉尊、素戔嗚尊、大己貴大神、瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、倉稻魂命」東京都多摩市一之宮917 玄松子の記憶
小野神社「天下春命、瀬織津比賣命」主神は饒速日命が河内国に降臨した際供奉した。
東京都府中市住吉町3-19-3 玄松子の記憶
布多天神社[フタテノ]
布多天神社[ふだてんじんしゃ]「少彦名命」昔、広福長者、神のお告げによって布を多摩川にさらして製し朝廷に献ったので、この布を調布と称した。東京都調布市長府ヶ丘1丁目8-1 神社公式 阜嵐健
大麻止乃豆乃天神社[オホマトノツノ・]
大麻止乃豆乃天神社[おおまとのずのてんじんじゃ]「櫛眞知命」丸宮明神。大和国十市郡に天香山坐櫛真命神社の元の名を大麻等乃知神と注されていることで式内社の根拠としている。東京都稲城市大丸847 玄松子の記憶
武蔵御嶽神社[みさしみたけ]「櫛眞智命、大己貴命、少彦名命」崇神天皇七年。御嶽山への修験者の登山の足溜まりが里宮として独立したと推測されている。
東京都青梅市御嶽山176 阜嵐健
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武蔵御嶽神社 日ノ出祭・この祭は鎌倉期からはじまったといわれ、かつては夜明と共に神幸祭をし たところから日ノ出祭の名がついています。御岳平に仮設した祭場に、神官や白丁( 神幸に携わる人)武者・講中の人々・信者等が集まり修祓をしたのち、神官を先頭に 、御岳平から神社までの道程(1q余り)を、螺貝・金棒・御神旗・楽人・獅子頭・ 榊・太鼓・鎧武者・鉾などがつづき、それに講中や信者らが後に参加して長い行列と なり、新緑の山道に古式ゆかしい鎌倉絵巻を再現します。白丁は白装束に黒烏帽子・ 小さな鐘をつけた襷姿、武者は重さ20s程もある鎧や兜に身をつつみ弓・槍・太刀 などを持った出立で列に加わります。神社に着くと拝殿で式典があり、拝殿前に置か れた御輿に御霊をうつし神官が社宝を持って再び列を作り、社殿の回りを3周します 。これは農村などの信仰の厚い当社の五穀豊穣・家内安全を祈って行なわれるお祭です。 |
阿豆佐味天神社[アツサヒノ・]
阿豆佐味[あづさみ]天神社「少彦名命、素戔嗚命、大己貴命」東京都西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷宮前1008 阜嵐健/FONT>
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阿豆佐味天神社 延喜式内多摩八座の一つで、寛平4年(892年)従五位下上総介高望王の創建とい う。その後天正12年(1584年)慶長3年(1598年)の修復を経て、享保年 間(1716年〜1736年)当地方の豪族、村山土佐守により社殿の修復が行われ た。また、北条・徳川氏の崇敬も篤く、多くの神領地を寄進。北条氏照より15貫文 の地を、また徳川幕府は累代12石の朱印地を寄せた。現社殿は明治27年に改修。 明治6年郷社に列格。明治19年内務省より古社として、保存資金の下賜を受けた。 |
穴澤神社[アナサハ]
穴澤天神社[あなざわてんじんしゃ]「少彦名命」孝安天皇4年。東京都稲城市矢野口3292 玄松子の記憶
虎柏神社[トラカシハ]
虎狛神社[こはく]「大歳御祖神」東京都調布市佐須町415
虎柏神社[とらかしわ]「大年御祖神、惶根神、建南方命、事代主命、須佐之男命、味須氣高彦根神、倉稻魂命、天兒屋根命」崇神天皇の御宇。
東京都青梅市根ヶ布316 阜嵐健
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虎柏神社 創建年代久遠して不祥。虎柏神社と称し、崇神天皇の御宇神地を賜わり延喜式の神名 帳に記載された、延喜式内社である。多摩八社の一つに列した。平安時代、諏訪神社 を勧請し、諏訪宮と呼ばれ虎柏の名は、古名と心得しが、維新の際、旧名に復した。 古くは小曽木郷の総社であり、明治6年郷社に列せらる。 |
青渭神社[・・ヰ]
青渭神社[あおい]「青渭大神」付近には弥生遺跡が多い。元々が青波神社と呼ばれていた。東京都調布市深大寺元町5-17-10 阜嵐健
青渭神社「青渭神、猿田彦命、天鈿女命」東京都稲城市東長沼1054 玄松子の記憶
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青渭神社 当社創建の年代は詳らかでないが弘仁年中の創立との伝承がある延喜式神名帳所載の 多摩八座の一社で古社である。 祭神は青渭神、猿田彦命、天鈿女命を祀る。 昔は大沼明神又は青沼大明神と称した。 大祭には青渭獅子舞奉納の神事がある。 現社殿は昭和49年の造營であるが本殿は往昔のまゝで數百年を経ている。 明治6年郷社に列せられる。 |
青渭神社「大國主命」惣岳山とは近傍の神社を総管する意で名づけられた。神奈備型の惣岳山山頂に鎮座。
東京都青梅市沢井3-1060 阜嵐健/FONT>
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青渭神社 創立は詳ではない。惣岳山とは近傍の神社を総管する意で名づけられたという。第1 0代崇神天皇の御代7年国中に悪病がはやり死者が多く出たので天皇はご心配になり 、国々の神々に御祈念になられた。当社にも神地神戸をくださって祭りが行われた。 天慶年間、源経基が社殿を造営をしたと伝えられている。第60代醍醐天皇の御代延 喜式神名帳に載せられた式内社である。現在の社殿は弘化2年、多摩川沿いの26ヶ 町村の浄財をもって再建されたものである。 |
足立郡[アダチ]:4座大1小3
足立神社[アシタテ]
足立神社「猿田彦命 合 素盞嗚命、面足命、惶根命、大物主命」埼玉県大宮市飯田54 阜嵐健
氷川神社[ヒカハ](名神大。月次新甞)
氷川神社[ひかわ]「須佐之男命、稻田姫命、大己貴命 配 倉稻魂命」孝昭天皇御宇。摂社の門客人神社「足摩乳命、手摩乳命」は古くは荒脛巾社と称していた。埼玉県大宮市高鼻1丁目407 玄松子の記憶
三社一体説 中山神社 さいたま市見沼区
三社一体説 氷川女体神社 さいたま市緑区
調神社[ツキ]
調神社[つき]「天照大神 配 豐宇氣姫命、素盞嗚尊」開化天皇乙酉三月(一、七〇〇年前)所祭奉幣の社として創健。鳥居がない。境内に松の木がない。埼玉県浦和市岸町3丁目17-25 兎スポット「調神社」 玄松子の記憶/FONT>
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ご参拝のしおり 当社は延喜式内の古社にして、古より朝廷及武門の崇敬篤く「調宮縁起」によれば、 第九代開化天皇乙酉三月(一、七〇〇年前)所祭奉幣の社として創建され、第十代崇 神天皇の勅使倭姫命が当国高鼻郷の岸の清らかな岡を選び調物を納める御倉を建てら れ、武蔵野(武蔵、上総、下総、上野、下野国即ち関東一円)の初穂米、調集納蒼運 搬所と定められる。 延長五年左大臣菅原道眞参向、神社調ノ上延喜式内国祭として奉幣使来拝社と定めら れる(延喜の制国幣小社)寳亀二年辛亥六月廿日(一、二〇〇年前)宮内小輔従五位 下中臣朝臣常恣勅使奉幣を賜う。(現在行われている例大祭の起源、明治初期の暦の 改正により七月廿日に改む) |
多氣比賣神社[タケノヒメ]
多気比売神社[たきひめ]「豐葺健姫命」埼玉県桶川市篠津58 武蔵野古社 阜嵐健
横見郡[ヨコミ]:3座並小
横見神社[ヨコミ]
横見神社「建速須佐之男命、櫛稻田比賣命」鳥居の脇に小円墳が残っている。本殿も古墳の上にある。埼玉県比企郡吉見町大字御所1 「比企をめぐる」
高負比古神社[タケフヒコ]
高負彦根神社[たかおひこね]「味
高彦根尊、大己貴尊」埼玉県比企郡吉見町大字田甲1945 ポンポン山
伊波比神社[イハヒ]
伊波比神社[いわい]「天穗日尊、譽田別尊」埼玉県比企郡吉見町大字黒岩347 「比企をめぐる」
入間郡[イルマ]:5座並小
出雲伊波比神社[イツモノイハヒ]
出雲祝神社[いずもいわい]「天穗日命、天夷鳥命、兄多毛比命 合 天照皇大神、大國主命、伊弉諾命 、伊弉冉命、倉稻魂命、菅原道眞、大山祇命、市杵嶋姫命、速玉男命、事解之男命、大屋毘古命」埼玉県入間市宮寺1 阜嵐健
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参拝のしおり 人皇第十二代・景行天皇の御代、日本武尊が東夷征伐に当たられた時、当地においで になり、天稲日命、天夷鳥命を祭祀して、出雲伊波比神社と崇敬せられた社で、今か らおよそ二千年も前に建てられた神社です。 醍醐天皇の延喜五年(九〇五)に編纂された延喜式第九巻・神名帳に入間五座の筆頭 として記された式内社です。社名の「祝」の文字は、小田原城主・北条氏康公からの 朱印状、弘治三年(一五五七)に賜り、それ以前は現存する大宝二年(七〇二)の棟 札をはじめすべて「伊波比」が使用されています。宮寺郷十八ケ村(現在の所沢市か ら東京都瑞穂町に至る)の総鎮守として、また江戸時代には、徳川家康公を始め、代 々の将軍より十石の社領を賜り当時から隆盛な社でありました。 なお、出雲大社とは所縁が深く、社紋も同じ亀甲剣花菱であり、いずれも結びの神、 生産の神として信仰の厚いものがあります。当社の森を「寄木の森」と称しますが、 出雲国の杵築湾に漂う古木を以て造られたのが寄木の造営(出雲大社)であり、天穂 日命の子孫が東国に下ったときに樹種を携えてきて蒔種したのが当社の森「寄木の森 」であります。明治初年には、出雲大社大宮司・千家尊福氏も参拝され、大きな額を 奉納されています |
出雲伊波比神社[いずもいわい]「主 大名牟遲神、天穗日命 配 須勢理比賣命、息長足姫命、豐受姫命、菅原道眞、迦具土神、素盞嗚命、建御名方命
合 大山咋命 配 大國主命、少彦名命、上筒之男命 合 大日め貴命、天鈿媛命 配 伊弉諾尊、伊弉冉命」埼玉県入間郡毛呂山町岩井2915 阜嵐健
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景行天皇五十三年八月、倭建命が東征凱旋のときおよりになり、平国治安の目的が達 成せられたことをおよろこびになられ、天皇から賜った比々羅木の鉾を納め、神宝と
し、侍臣武日命に命じて創立された社である。 歴朝御崇敬 成務天皇の代、出雲臣武蔵国造兄多毛比命が殊に崇敬祭祀され、また孝謙天皇の代天 平勝宝七年(七五五)官幣にあずかり、光仁天皇の宝亀三年(七七二)には勅により 幣を奉られ、以後歴代天皇御崇敬厚く御祈願所とされていた。醍醐天皇の御代[延喜 七(九〇七)]の頃延喜式内武蔵国入間郡五座の中に列せられた。 武士崇敬 康平六年(一〇六三)源義家が奥州を平定し凱旋の際冑のいただきに鎮め奉った八幡 大神の魂を大名牟遅神の御相殿に遷し奉られ、後に別宮を建てて八幡宮と称えられて きたが、現在は本社に合祀されている。義家は鎮定凱旋を祝し、報賽として上古、朝 廷で行われた流鏑馬(やぶさめ)騎射の古例を模して神事に流鏑馬騎射を行ったと伝 えられる(やぶさめの起こり)。(県指定民俗資料)。それ以後、例年この神事を執 行し、山鳥の尾羽の箭一本を慶応三年まで幕府に献上したのである。建久年間(一一 九〇ごろ)源頼朝は秩父重忠に奉行させて檜皮葺(ひはだぶき)に造営し、神領をも 寄附した。なお重忠も陣太刀・産衣(うぶぎぬ)の甲(よろい)を寄進したと伝える 。 後花園天皇の代永享年中(一四三〇ごろ)に足利持氏が社殿を瓦葺に造営、それも大 永七年(一五二七)六月社殿炎上、[また文禄年中(一五九〇ごろ)社家が兵火にあ い古文書などを失ったのである]大永七年に消失はしたものの翌八年、正しくは享禄 元年九月二十五日に、毛呂三河守顕繁が再建した棟札が現存している点から、再建に すぐ着手されたと考えられ、県内最古の神社建築である(檜皮葺)。天文二年(一五 三三)屋根檜皮葺大破のため瓦葺にし、天正二年(一五七四)北条氏政は大板葺(柿 葺−こけらぶき)に修営、社領十石を附せられた。天正十六年北条氏の乞により、鍾 を寄進した(文書北条氏鍾証文)。寛永年間、幕府に神符献上の際白銀二枚を寄進せ られ、以後七ケ年毎に神符を幕府に献上することを永例とした。寛永十年(一六三三 )三代将軍家光修営、同十三年には社殿を筥(はこ)棟造にし、棟上前面に葵の紋を 附し、五七の桐の紋と共に現存、また慶安元年(一六四八)八月社領十石並に境内拾 町九反五ほ畝歩を先規により寄進せられ永く祭祀修営の料としたのである。また寛永 年中、代官高室喜三郎の時から元禄十五年(一七〇二)代官井上甚五右衛門、河野安 兵衛にいたるまで毎年御供米一俵ずつ下附され、後、その例にならって毛呂郷中の地 頭所から明治二年まで毎年御供米を附せられた。文政八年九月「臥龍山宮伝記」の著 者斎藤義彦が神主幼少のため補佐して社殿解体修理。 明治以後 明治四年には社領を奉還し、逓減禄を賜わり明治六年毛呂郷中の惣鎮守の故をもって 郷社に列し、明治二十二年八月二十日内務省より保存資金壱百円を下賜され、同三十 八年五月十八日上地林壱町九反八畝二十四歩境内編入許可、三十九年四月勅令により 神饌幣帛料供進することを指定され、同四十一年九月会計法適用指定、大正三年九月 建物模様換認可をえて本殿を往古倭建命創立及び武蔵国造崇敬当時の旧地に遷殿し、 中門祝詞屋を新築し、拝殿再営、透塀増延、大正五年十月模様換工事落成、千家男爵 参向された。昭和十三年七月4日当社本殿国宝指定、戦後文化財保護法制定により重 要文化財建造物として指定され、昭和二十五年九月五日境内地譲与、測量、調査等に 一年余日を費やして報告書作成大蔵省に提出中央審査を経て、九千百八拾五坪〇四勺 を譲与許可された。 |
物部天神社に合祀 式内物部天神社に掲載
中氷川神社[ナカヒカハ]
中氷川神社[なかひかわ]「素戔嗚尊、奇稻田姫、大己貴命、少彦名命」崇神天皇御宇。氷川神社の中央に鎮座。
埼玉県所沢市大字山口1850 阜嵐健/FONT>
中氷川神社「素戔嗚尊、奇稻田姫、大己貴命、少彦名命」埼玉県所沢市大字三ヶ島字宮ヶ谷戸2-1691 阜嵐健
廣瀬神社[ヒロセ]
広瀬神社「若宇迦能賣命」埼玉県狭山市大字上広瀬1612 阜嵐健/FONT>
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参拝のしおり 遠く景行天皇の御代、日本武尊命東夷を征討の折り、当地が大和国川合の地に酷似せ りと称し親ら幣帛を奉り、広瀬の神を斎き祀り武運長久国家安泰を祈誓せられしより 創始せりと言う。文徳天皇の三年六月、武蔵国広瀬の神を官社に列すと見え、延喜式 内社に挙げられ武蔵国四十四社に数えられる。以後、宝蔵寺火災の際焼せられ古文書 等の記録を焼失せしも崇敬益々加わり、年代の久しき間少しも変遷無し。 明治六年、郷社に列せられ、同七年県社に昇格す。同四十二年、境内の北隅に有りし を現在地に本殿を移し拝殿を新築し、その他社務所神楽殿の施設を整えり。大正九年 、本殿の覆殿を再築し、昭和七年、神楽殿を改築。昭和十五年、紀元二千六百年記念 事業とし太鼓楼を新築せり。昭和五十年、社容整備を始め外柵、玉垣、祭器庫、神輿 舎、摂末社等の改築修繕等もなり、社容いよいよ整い現在に至る。 |
物部天神社[モノゝヘ]
物部天神社国渭地祇[くにいちぎ]神社天満天神社「櫛玉饒速日命、八千矛命、菅原道眞 合 合 日本武尊、天穗日命、倉稻魂命、應神天皇、宗良親王、小手指明神」日本武尊東征のおり創建、北野天神社と言う。埼玉県所沢市北野703 阜嵐健
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参拝のしおり 当社は、日本武尊東征のおり創建したと伝えられ、物部天神社・国渭地祗神社ともに
延喜式内社です。一条天皇の御代に菅公五世の孫武蔵国司菅原修成が勅命を奉じて、 京都の北野天神社より、菅公の分霊を勧請して、坂東第一北野天満宮と定められたと
云われています。今より約970年前、長徳元年のことであり、この時から北野と呼 ぶようになったと伝えられます。 その後、源頼義、義家、奥州追討の宿願によって、総社を建立し、更に建久6年9月 に源頼朝が正八幡宮を勧請して、総て九社を修造し、同時に一宇を建立し延喜式内の 諸神を祀り諸神堂と称し、この時の大宮司は上毛野元重、社領は二百貫文増加され二 千二百貫文になりました。 その後、建武・延元の戦乱に兵火に罹り、延文元年足利尊氏が諸社を建立しましたが 、再び罹災してしたが、後に加賀守大納言利家公が社殿を再興し、菅公御自筆の法華 経、宗近の太刀、黄金二百枚を献納し、武運長久を祈り、境内に梅一本を献栽したの で、今も大納言の梅として保存されています。 徳川幕府になって、家康は、宮司栗原右衛門太郎を召出し、伊勢守(社寺を管理する 神官)に任じ、繁栄したと記されています。 境内は、現在よりはるかに広く、多くの末社諸神堂があり、天保年間の天神社絵図に よりますと、東西及び北側に二十五社描かれております。 |
國渭地祇(神)社[クニヰチ・・]
物部天神社国渭地祇神社天満天神社に合祀 前掲
埼玉郡[サイタマ]:4座並小
前玉神社2座[サイタマ]
前玉神社[さきたま]「前玉彦命、前玉姫命」古墳丘上に鎮座。埼玉県行田市大字埼玉字富士山5450 阜嵐健
玉敷神社[タマシキ]
玉敷神社[たましき]「大己貴命 配 天照大御神、豐受大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、軻遇突智命」文武天皇の大宝3年(703)東国道巡察使多治比真人三宅麿により創建。埼玉県北埼玉郡騎西町大字騎西552 古代であそぼ
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玉敷神社由緒 当社は第42代文武天皇の大宝3年(703)東国道巡察使多治比真人三宅麿により 創建されたと伝えられ、平安時代の前期第60代醍醐天皇の延喜5年(927)に公 布された律令の施行細則「延喜式」にその名を記す千有余年の歴史をもつ古社である 。以後時代を経て戦国時代末にいたり天正2年(1574)越後の上杉謙信が武蔵国 に出兵のおり当時正能村(現騎西町正能)にあった当神社はその兵火にかかり消失し 古記録社宝などはことごとく烏有に帰した。したがってその間の神社の記録はつまび らかでない。 江戸時代に入って元和年間(1620前後)騎西城城主大久保加賀守の時現在の地に 遷座し以来明治に至まで当神社は「勅願所玉敷神社 久伊豆大明神」と称され、埼玉 郡(現南北埼玉郡)の総鎮守、騎西領48ヵ村の総氏神として崇められその厄除開運 、家内安全、五穀豊穣などの御神徳は広く信仰を集めていた。この広い領域にわたる厚い信仰は今日にも受け継がれ2、300年以前の昔に始まる当神社神宝による独特 の祓の行事「お獅子様(オシッサマ)」が今もなお当騎西町を中心に県東北部の23 市町村と群馬茨城両県の一部の地区にまたがる広範な地域で行なわれている。また当 神社には300年を超える伝統をもち江戸神楽の原形を伝える「玉敷神社神楽」(文 化庁選択・県指定無形民俗文化財)が保存され年4回祭礼の日に素朴で優雅な舞を披 露している。 |
宮目神社[ミヤメ]
玉敷神社境内社の宮目神社[みやめ]「大宮賣神」埼玉県北埼玉郡騎西町大字騎西552 阜嵐健
男衾郡[ヲフスマ]:3座並小
小被神社[ヲフスマ]
小被神社[おぶすま]「瓊瓊杵尊 配 木花咲耶姫命、彦火火出見尊」安閑天皇御宇。埼玉県大里郡寄居町富田1508 阜嵐健/FONT>
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小被神社 略誌 由緒 富田邑は、第27代安閑天皇の朝、郡家郷富田鹿、塚越に居住せしに始り、 富田鹿が郡内鎮護のため創祀せりと伝承。 延喜式内社 第60代醍醐天皇延長5年編纂された有名な書物に登載されて居ると云 事。本年より数えて1063年前。 男衾郡総鎮守。 旧村社。 |
出雲乃伊波比神社[イツモノイハヒ]
出雲乃伊波比神社[いずものいわい]「須佐之男命 配 三穗津姫命、譽田別命、天兒屋根命、天太玉命、天穗日命、天照皇大神、軻遇突智命」埼玉県大里郡寄居町大字赤浜723 阜嵐健
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八幡塚御由緒 宮乃井の由来 |
出雲乃伊波比神社「武甕槌命」埼玉県大里郡江南町板井824 阜嵐健
稲乃賣神社[イナノヒメ]
稲乃比売神社[いなのひめ]「稻田姫命、素盞嗚命、大己貴命、少彦名命」埼玉県大里郡寄居町鉢形2338 阜嵐健
播羅郡[ハラ]:4座並小
白髪神社[シラカミ]
大我井神社[おおがい]「伊邪那岐命、伊邪那美命 配 大己貴命」埼玉県大里郡妻沼町大字妻沼字大我井1480 玄松子の記憶
白髪神社[しらひげ]「白髮大倭根子命 配 天鈿女命、猿田彦命、倉稻魂命 合 須佐男之命」埼玉県大里郡妻沼町大字妻沼字女体1038 武蔵の古社
田中神社[タナカ]
田中神社「武甕槌命 配 少彦名命、天穗日命」埼玉県熊谷市三尻671 阜嵐健
楡山神社[ニレヤマ]
楡山神社[にれやま]「伊邪那美命」孝昭天皇の御代の御鎮座という言い伝え。正面大鳥居の脇の楡の古木一本は、代々御神木と崇められ、樹齢七百年とも一千年ともいわれる。埼玉県深谷市原郷336 楡山神社公式HP 玄松子の記憶/FONT>
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楡山神社御由緒 【御祭神】 伊邪那美命。一柱。夫の神の伊邪那岐命と共に、国土や山川草木の神々をお生みにな った神。「国生み」の神。末子に火産霊神(火の神、愛宕様)をお生みになって後、 鎮火の法を教え悟した神。 【鎮座地】 埼玉県深谷市大字原郷三三六番地。 旧埼玉県大里郡幡羅村大字原郷。 旧武蔵国旛羅郡旛羅郷原ノ郷村。 古くは旛羅ノ郷(はらのごおり)といっていたのを、近世に漢字を改めて原郷とした という。 【御社名の由来と御神木・御神紋】 御社名の由来は、御神域一帯に楡の木が多かったことによる。正面大鳥居の脇の楡の 古木一本は、代々御神木と崇められ、樹齢七百年とも一千年ともいい、現在は埼玉県 の文化財(天然記念物)に指定されている。 当社の御神紋の「八咫烏」は、初代神武天皇の東征の際、南紀の熊野から、翼の大き さ八尺余りの八咫烏の道案内で、大和に入ったという故事から、当社が熊野権現とい われた時代に定まったものともいわれる。 【御創立と沿革】 五代孝昭天皇の御代の御鎮座という言い伝えがあった。 延喜年間(平安時代)、醍醐天皇の御代に朝廷の故実やしきたりをまとめた書「延喜 式」の「神名帳」の巻に、「武蔵国旛羅郡四座」のうちの一社「楡山神社」とある。 すなわち朝廷より幣帛を賜った古社であり、「延喜式内社」といわれる。 旧原ノ郷村は、旛羅太郎道宗の再興になる地域である。旛羅郡の総鎮守、旛羅郡總社 といわれ、御社名を旛羅大神ともいった。 康平年間(一〇五八〜一〇六五)、源義家の奥州征伐の時、成田大夫助高は、当社に 立ち寄って戦勝を祈願したという。代々成田家の崇敬篤く、現在の社務所の屋根瓦に は○に一の成田家家紋も残っている。 徳川時代には、旧社家の没落と共に別当天台宗東学院の管理する所となり、熊野三社 大権現と称したこともあった。当時より節分の日の年越祭は盛大であり、「権現様の 豆蒔」などともいわれた。幕末の元治元年に「旛羅郡總社」と書した幟旗が今に伝わ る。 明治に入り、御社名を楡山神社にもどす。明治五年、旧入間県八大区の郷社に制定さ れる。 大正二年、中絶していた年越祭を再興。以来戦中戦後の一時期の中断はあったが、毎 年当日は巨万の賽客で賑わい、追儺の神事や「おだまき」という地域伝来の花火(現 在は普通の花火)などの行事が夜遅くまで続く。大正一二年県社に昇格。 【御社殿等】 ○御本殿。春日造、欅桧楡材、造営年不祥。明治以前は屋根は桧皮葺で千木と鰹木が あり、柱などに葵の紋金具があったという。 ○御拝殿。明治四十三年御再建。 ○神楽殿。昭和十年参宮記念造営。 ○社務所。明治十年修造。元別当東学院御堂を改修したもの。 【深谷市指定文化財】 ○鳥居扁額。楡材。佐々木文山筆、熊野三社大権現と記す。 ○石笛(いわぶえ)。海産天然石、長さ一尺一寸。 ○和琴(わごん)。 【末社】(大正元年八月合祀) ◆知々夫神社(八意思兼神・知々夫彦命) ◆伊奈利神社(豊受毘売命、大地主命・埴山毘ME命)地神社を合祀。 ◆八阪神社(須佐之男命) ◆大雷神社(大雷神、伊邪那岐命・伊邪那美命)三峯神社を合祀。 ◆手長神社(天手長男命) ◆大物主神社(三輪大物主命、少彦名命)金刀比羅神社、怡母神社を合祀。 ◆天満天神社(菅原道真公、市杵島毘売命、岩長比売命、木花佐久夜毘・命)市杵島 神社、富士浅間神社、小御嶽神社を合祀。 ◆荒神社(火産霊命・奥津比古命・奥津比売命、御穂須々美命、天津児屋根命・斎主 命・武甕槌・比売命)諏訪神社、春日神社を合祀。 (注)文中のNAは、成田家家紋の「○(丸)に漢字の一」。 |
奈良神社[ナラ]
奈良神社「奈良別命」埼玉県熊谷市中奈良1996 玄松子の記憶
賀美郡[カミ]:4座並小
長幡部神社[ナカハタヘ]
長幡部神社[ながはたべ]「天羽槌雄命、埴山姫命」地元では丹生様と呼ぶ。綺日女命にかかわる。機織は人にみられてはいけない神聖な営みである。埼玉県児玉郡上里町長浜1370 阜嵐健
今城青八坂稲實神社[イマキアヲヤサカイナミ]
天神社「稚産靈神、豐宇氣毘賣神、大山祇命、日本武尊」埼玉県児玉郡上里町五明871 阜嵐健
熊野神社「家都御子神、御子速玉神、熊野久須美神 合 倉稻魂命、菅原道眞、若山咋命」埼玉県児玉郡神川町八日市527 阜嵐健
阿保神社[あぼ]「大己貴命、素盞嗚尊、伊弉冉尊、瓊瓊杵尊、大宮女大神、布留大神」埼玉県児玉郡神川町元阿保1 阜嵐健
七本木神社に合祀[しちほんぎ]「譽田別尊、倉稻魂命、菅原道眞」埼玉県児玉郡上里町七本木3237 阜嵐健
長幡部神社に合祀 前掲
皇大神社に合祀[こうだい]「大日
貴命」埼玉県児玉郡上里町長浜494 阜嵐健
今城青坂稲實荒御魂神社[イマキアラサカノイナミアラミタマ]
皇大神社に合祀 前掲
七本木神社に合祀 前掲
熊野神社境内今城青坂稲實荒御魂神社 熊野神社の祭神「奇御木野命、奇稻田姫命、大物主命、譽田別命、倉稻魂命、菅原道眞、少彦名命、多紀理毘賣命、
狹依毘賣命、多岐都毘賣命、天之穗日命、火産靈命、伊弉冉命、天津日子根命、天照大御神、河菜姫命、表筒男命、中筒男命、底筒男命、菊理媛命、伊弉諾命」境内社は確認できていない。埼玉県児玉郡上里町提1204 阜嵐健
阿保神社に合祀 前掲
長幡部神社に合祀 式内長幡部神社に掲載済み
今城青坂稲實池上神社[イマキアラサカイナミノイケカミ]
今城青坂稲実池上神社[いまきあおさかいなみいけがみ]「氣吹戸主命 合 豐受姫命」和銅年間の創立。埼玉県児玉郡上里町大字忍穂字稲実225 阜嵐健
今城青坂稲実池上神社「淤迦美神、豐受毘賣命、罔象女神、埴安姫命」埼玉県児玉郡神川村大字関口字池上38 阜嵐健
皇大神社に合祀 前掲
七本木神社に合祀 前掲
長幡部神社に合祀 式内長幡部神社に掲載済み
秩父郡[チゝフ]:2座並小
秩父神社[チゝフ]
秩父神社「八意思兼命、知知夫彦命 配 天之御中主神」四宮秩父大明神。御神降石と呼ぶ巨石がある。武甲山遥拝の聖地であろうとされる。埼玉県秩父市番場町1-1 玄松子の記憶
椋神社[ムク]
椋神社[むく]「猿田彦大神、武甕槌命、經津主命、天兒屋根命、比賣神」景行天皇御宇、日本武尊が伊久良と云う処に御鉾を立て猿田彦大神を祀り給いしと云う。現社と旧社地の延長に鍛冶山があり山中に奥社が鎮座する。論社は共通して全面に川を見おろす位置にあり、神体として石棒を祭っている。埼玉県秩父郡吉田町大字下吉田7377 玄松子の記憶
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由緒記 (2) |
椋神社「大己貴命 配 猿田彦命」埼玉県秩父市蒔田字宮ノ平2842 玄松子の記憶
椋神社「猿田彦命、大己貴命、天下春命 合 菅原道眞、大山津見命、素盞嗚命、大山津見命、武御名方命、大地主命」埼玉県秩父市蒔田字宮原2167 玄松子の記憶
椋神社「猿田彦大神」埼玉県秩父郡皆野町野巻363 玄松子の記憶
椋神社「猿田彦命、八意思金命、大己貴命」埼玉県秩父郡皆野町皆野238 玄松子の記憶
兒玉郡[コタマ]:1座大
金佐奈神社[カナサナ](名神大)
金鑽神社[かなさな]「天照大神、素盞嗚尊」二宮。祭神に日本武尊をいれる説、また金山彦尊とする説がある。日本武尊御東征の帰途、伊勢神宮にて倭姫命より賜った火鑽金を室ケ谷に鎮めたのが起源。御室山麓に鎮座、本殿はない。埼玉県児玉郡神川村二宮750 玄松子の記憶
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北武名勝史蹟案内しおり 武蔵二宮金鑽神社 神川町大字二宮鎮座 神社境内は八町うち一町半が神体林で木柵 がまわっている。拝殿切妻流造、祝詞舎中門があり、義家橋、駒つなぎ石、義家旗掛 銀杏がある。景行天皇四十一年日本武尊東征の折、御姨倭比姫命より賜った火鑽金火 打石を御室山に収めて天照大神素盞嗚命二柱を奉斎し、尊は欽明天皇の御時配祀され た。貞観四年官社に列せられ、延喜式内名神大社に列した。九郷用水守護児玉党五十 六族の鎮守であり、徳川時代朱印三十石、明治十八年四月官幣中社に列格した。勅使 参向六回、社宝には義家奉納の琵琶二面がある。 |
大里郡[オホサト]:1座小
高城神社[タカキ]
高城神社[たかぎ]「高皇産靈尊」境内には6百年以上の樹齢の欅が数本あり、御神木も欅である。
埼玉県熊谷市宮町2-93 阜嵐健/FONT>
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高城神社の由緒 御祭神高皇産霊尊を祀る高城神社は創祀奉斎の年代は定かでありませんが、奈良朝以 前であろうとうかがわれる。延喜式神名帳に「大里郡一座高城神社」とある。旧社殿 は豊臣秀吉が小田原城を攻めた折、豊臣軍勢の石田三成、浅野長政の兵士等が忍城( 現行田市)攻略するに当り、当神社も災を被り焼失した。天正18年(1580年代 )のことである。現社殿は寛文11年(1671年)忍城の閤老阿部備後守忠秋公が 式内社であることを認め、伊藤伊織、野沢忠兵衛を奉行とし、甲良豊前を棟梁として 造営された社である。大正5年4月に(旧)県社に昇格し、これを記念して建築され た神楽殿・社務所及び神主の住宅は昭和20年8月14日(終戦前夜)熊谷大空襲に より焼失した。昭和37年には拝殿の屋根葺き替え工事、昭和47年には高城記念館 (社務所)、そして昭和55年には幣殿改築を行い、昭和58年には境内東側の玉垣 、平成2年には正面から西側の玉垣改修を行う。御祭神の御神徳については、神道の 古典、古事記の上巻の冒頭に「天地のはじめておこりしとき高天原に成りませる神の 御名は天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神なり」とあり、この三柱の 神は天地創造の神として知られている。「むすび」の神として信仰、「産」から安産 の神、「生産」「産業」「建築建設」の神として信仰を集めている。又境内には6百 年以上の樹齢の欅が数本あり、御神木も欅である。宝物として天国剣刃、鎧、蹴まり 一式、オランダ鏡、神道流古文等々がある。境内には摂社、末社9社があり、天神社 の特殊信仰をもつ社がある。 |
高城神社「高皇産靈神」埼玉県大里郡大里村高本562 阜嵐健
比企郡[ヒキ]:1座小
伊古乃速御玉比賣神社[イコノハヤミタマヒメ]
伊古乃速御玉姫神社[いこのはやみたまひめの]「氣長足姫命、大鞆和氣命、武内宿禰」埼玉県比企郡滑川村大字伊古1242 阜嵐健
那珂郡[ナカ]:1座小
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神社[ミカノ]
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神社[みか]「櫛御氣野命、櫛
玉命」埼玉県児玉郡美里町広木1 阜嵐健/FONT>
| 当社の創立は詳かでないが延喜式神名帳に所載の古社であって古来旧那珂郡の総社と 称されて居りました。「延喜式神名帳とは、人皇六十代後醍醐天皇の延喜の年代の頃 中央に於て全国の神社を調査し纏めた書物が完成された。この本を延喜式神名帳と云 いこの書物に登載され居る社を式内社と云います。」神階は往古は不明であったけれ ども享保八年正一位の神階を授けられ宝暦八年に建設した碑に正一位みかの神社とあ り。神領は徳川幕府の時代に地頭より除地四段八畝歩を寄附せられ尊敬最も厚かった 。祭典は春秋二季に行い毎年秋の例祭に新米を以って濁酒二・を造り之を撤し其の一 は秋季例祭に於て新酒と交換し何れも神供として其の神事に与る氏子に信徒に分与す ることが例であって往古より明治中期まで行い来られる。古式の神事でありましたが 現今は中止されて居る。尚宝暦十三年御本殿の改造の棟札は残って保存されて居る。 |