参拝のしおり
当社の御祭神は天御影命亦の御名は大日一箇命にして創立年代は崇神天皇の御宇11 年丹波道主之命の御祭給う所として延喜式内の御社也。 当社の例祭日は往昔より大陰暦6月14日なりしに、明治の御代に至り7月14日に 改む此の例祭日は御鎮坐の祭日ならんかと推察す。丹後風土記に曰く、杜に坐す彌加 宜社文に曰く、彌加宜社は往昔丹波道主之命の御祭給う所也、杜の中に霊水あり、世 に杜清水と称す、此の杜清水は1200年前の丹後風土記に記載せる太古と変わらず 混々と湧出して、其名最も高く貴重なる御霊泉也。 |
大川神社御由緒
当神社の開創は、5世紀末の顕宗天皇元年(485)4月23日、宮柱を立て鎮祭し たところから始まったとされています。その後天武天皇元年(676)には勅使をも って幤帛が捧げられ、さらに持統天皇7年7月(693)には「祈雨の政」が行われ たことを伝えています。平安朝に入ると、貞観元年(859)には神位の昇進があり 、10世紀には延喜式内社名神大社に列し、丹後国の著名な古社であります。 下って明治5年郷社となり、大正8年府社になり、大川大明神と尊称されて来ました 。主神は保食神・相殿には句々廼馳神(木神)・軻遇実智神(火神)・埴山姫神(土 神)・金山彦神(金神)・罔象女神(水神)の五元神が祭祀されています。例祭は4 月23日、大祭は11月3日で御輿渡御、氏子から種々の奉納行事があり、伝説も数 多く、什物として室町時代「享徳二年(1453)」の銘がある特異な形の鎌鑓があ ります。 |
由緒
当社は崇神天皇の御代(前97〜前30)四道将軍の一人丹波道主王が青葉山の凶賊 蜘蛛征伐に当たり豊受大神を神奈備の浅香の森にお祀りしたのを創祀とする。 白鳳10年9月3日柳原の地に社殿を造営し、同11年越前阿良須波の里に忍び給う 高市皇子の社参をみた。 かってこの地は日下村と云い、後に春日部村と称するようになった。 吉野朝以降領主の尊崇篤く、観応元年政所より神田5段、寛正3年にも代官より神田 1段が寄進された。 慶長5年、丹波福知山の城主小野木某の兵火に罹り社殿悉く消失し、翌年領主細川忠 興が現在の布留山の地に遷宮した。 現在の本殿は一間社流造・銅板茸、文化12年の再建になる。旧郷社で府登録文化財 等の古文書を有す。 |
由緒
創立年代不祥なりと云えども上古の大社にして大日本史に加佐郡11社の内として延 喜式神名帳に録しあり。天文年間には浜村六島の激戦、天正年間には一色細川両氏の 対抗戦包囲戦等数次の兵火にあい、或は仏教旺盛時代に異説せられたる疑いあり。 神子屋敷神子田等の字を存し、貴官家の館跡と称する所あり。大宝3年3月地震3日 にして止まず。加佐郡十郷の内凡海の郷、神戸郷等の陥没と共に三宅郷の名も基根山 麓に三宅谷と字名に存して祭祀せらるるのみになりたり。 |
元伊勢籠神社のしおり
神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮眞名井原に豊受大神をお祭りして来ましたが 、その御縁故によって人皇十代崇神天皇の御代に天照皇大神が大和国笠縫邑からおう つりになって、之を與謝宮(吉佐宮)と申して一緒にお祭り致しました。その後天照 皇大神は11代垂仁天皇の御代に、また豊受大神は21代雄略天皇の御代にそれぞれ 伊勢におうつりになりました。それに依って当社は元伊勢と云われております。両大 神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮(このみや)と改め 、元伊勢の社として、又丹後国の一之宮として朝野の崇敬を集めて来ました。 |
宇豆貴(うずき)神社
伊邪那岐命と海神の宇都志日金折命の二神を祭る。江戸期に臼木大明神という。延喜 式内社で昔平の神社と称し平の地に鎮座していたという。1855年(安政2年)現 在地に再建した。神紋は九ツ葵 |
住吉神社
当神社の祭神を延喜五年(西暦九〇一年)栗田湾海辺に祀り住吉の浜と称せしにはじ まる。当社の造営は應長元年(西暦三百十一年)式内の名社として創建、文明元年( 西暦千四百六十九年)に建立さるに至る。途中、高妻山城主河島備前守入道社殿を修 復(明應四年西暦千四百九十五年)、江戸期元禄十二年に至って棟札を上棟、宝暦八 年本荘伊勢松坂に移封され、天保十三年社殿再建、今日に至っている。延喜式内社と して歴代の宮津藩主を始め、丹後、丹波、但馬は云うに及ばず、近畿一円代々信仰者 あまた数限りなし。 |
浦嶋神社の栞
浦嶋神社(宇良神社) 浦嶋神社は延喜式神名帳所載によると『宇良神社』と記されている。創祀年代は淳和 天皇の天長二年(八二五)浦嶋子を筒川大明神として祀る。浦嶋子は日下部首等の祖 先に当り日下部については『新撰姓氏録』の和泉皇別の条に「日下部、日下部宿禰同 祖、彦坐命之後也」とみえる。彦坐命は開化天皇の後裔氏族である。その大祖は月讀 命の子孫で当地の領主である。浦嶋子は人皇二十一代雄略天皇の御宇二十二年(四七 八)七月七日に美婦に誘われ常世の国に行き、その後三百有余年を経て五十三代淳和 天皇の天長二年(八二五)に帰って来た。常世の国に住んでいた年数は三百四十七年 間で淳和天皇はこの話を聞いて浦嶋子を筒川大明神と名付け小野篁は勅使として、勅 宣をのべたうえ小野篁は勅命をうけたまわって宮殿を御造営し、ここに筒川大明神が 鎮座されたのである。 この神社に伝わる浦嶋物語は起源が最も古く、すでに八世紀にできた丹後風土記・日 本書記・万葉集などに記載されている。このような浦嶋子の伝説は、その後長く伝え られ『本朝神仙伝』や『扶桑略記』の雄略天皇記等、平安時代の文献にも収められて いる。又、この神社に伝わるものとして『浦嶋子口伝記』『續浦嶋子伝記』があり『 續浦嶋子伝記』の巻首には「承平二年(九三二)壬辰四月廿二日甲戌、於勘解由曹局 江之、坂上家高明耳」伝記と漢詞との間に「干時延喜二十年庚辰臈一作八月朔日也」 、巻末に、「永仁二年甲午八月廿四日、於丹州筒河庄福田村宝蓮寺如法道場、依難背 芳命、不顧筆跡狼藉、馳紫毫了、」とある。これは、延喜二十年(九二〇)の制作で 、承平二年(九三二)に注を付したこと、さらに、永仁二年(一二九四)に浦嶋子物 語の発祥の地丹後国筒河庄の福田村にある宝蓮寺如法道場で書写した本が底本に用い られていることが判る。この永仁二年書写本は現存している。これらの古伝説は近世 のお伽草紙の浦嶋太郎の物語とは様相を異にしている。又、古代より浦嶋神社に対し て崇敬の念は厚く誠に顕著なものがある。 |
阿知江![]() 1500年前の創立で延喜式内社であり、住昔は当社より西南方の雲岩と云う巌石の 辺りに鎮座されてあったと云われ、西南界を阿知江峠と云いその傍流を・部川と云っ て、社号をもって地名としたと云い伝えがある 移転年月日不詳。明治3年11月再建され、同年6月2日に村社に列せられる。昭和 4年10月再建され、昭和18年5月神饌幤帛供進神社に指定された。昭和19年3 月増築される。 御祭神は長白羽命で天照大神の岩戸隠れ座したとき、高皇座霊神の命を奉じ麻を植え て和幤を作り成り給ひて祭りの代りとされ御名は、これによって給った。江戸時代に は『白ひげ大明神』と称していたが明治になって、阿知江・部神社と称するようにな った。 |
倭文神社
当神社は祭神を天の羽槌雄の尊と申し上げ延喜式内社であって從二位に叙せられ昭和 十九年十一月二十日付け神祗院第一九第三三號を以て府社に昇格されました。 終戦後全般に社格は廃止されましたが神代の昔皇祖天照大神岩戸幽居の際諸々の神た ち深く憂虚され岩戸神樂を奏し大神をお慰めしようと香山の五百の眞坂樹に天の羽槌 雄命の織り成せる倭文(織物の名)など種々の幣を取りそへ調度を整へて捧げ給ふた ので大神深くお悦びになり再び世に出て給ひし事から後世織物の祖神として奉祀する ようになった神様であります。 当社は織物の祖神のみならず五穀豊穰病難療養商賣繁昌の霊現あらたかな神として古 来藩主を初め多くの参拝者の絶えない神社であります。 |
由緒
創祀年代 約千五百六十年前。 (1)大虫神社の由緒
(2)清寧天皇の朝
3)大虫、小虫の伝説
(4)犬鏡大明神
|
由緒
遠き神代の昔、此の真名井原の地にて田畑を耕し、米・麦・豆等の五穀を作り、又、 蚕を飼って、衣食の糧とする技をはじめられた、豊受大神を主神として、古代よりお まつり申しています。 豊受大神は、伊勢外宮の御祭神で、元は此のお社に御鎮座せられていたのです。即ち 此のお社は、伊勢の豊受大神宮(外宮)の一番元のお社であります。 多くの古い書物の伝えるところによれば、崇神天皇の御代、皇女豊鋤入姫命、天照大 神の御神霊を奉じて大宮処を御選定すべく、丹波国(現在の丹後国)吉佐宮に御遷幸 になった時、此処にお鎮りになっていた豊受大神が、天の真名井の清水にて作られた 御饌を、大神に捧げられたと、伝えられています。 その後、天照大神は、吉佐宮を離れて各地を巡られ、現在の伊勢の五十鈴の宮(内宮 )に御鎮座になりました。その後、五百六十余年過ぎた頃、雄略天皇の御夢の中に、 天照大神が現れ給うて、吾は此処に鎮座しているが、自分一所のみ居てはいと苦しく 、其の上御饌も安く聞召されぬ、ついては丹波国比沼の真名井原に坐す吾が御饌の神 豊受大神をば、吾許に呼寄せたい、と言う趣の御告げがあった。そこで天皇は、大佐 々命を丹波国に遣わし、現在の伊勢国度会郡山田原の大宮(外宮)に御鎮座あらせら れたのが、雄略天皇二十二年(西暦四百七十八年)九月のことであり、跡に御分霊を 留めておまつりしているのが此の比沼麻奈為神社であります。 古書の記録によりますと、崇神天皇の御代、山陰道に派遣された四道将軍の丹波道主 命は、その御子、八乎止女を斎女として厚く奉斎されており、延喜年間(西暦九百年 )制定せられた延喜式の神祇巻に、丹波郡(現在の中郡)九座の中に、比沼麻奈為神 社と載せられている古いお社で、此の地方では昔、「真名井大神宮」とか「豊受大神 宮」と呼ばれていたようで、古い棟札や、鳥居の扁額などにそれらの社名が記されて 居り、丹後五社の中の一社として地方の崇敬厚く、神領三千八百石あったとも伝えら れています。尚、藩主京極家は懇篤な崇敬を寄せられ、奉幣や社費の供進をせられた 事が、記録に見えています。 社殿は、伊勢神宮と同じ様式の神明造りで、内本殿は文政九年の建立、外本殿及び拝 殿は、大正九年から同十一年の長期に亘り、氏子はもとより、数百名の崇敬者の浄財 により完成したもので、棟の千木、勝男木の金色は、春の青葉、秋の紅葉を眼下に亭 々と聳える老杉の中に燦然と輝き、自から襟を正さしめる幽邃な神域であります。 |
網野神社由緒
延喜式神名帳に坐す式内社。 第九代開化天皇の御子神日子坐王を奉り、住吉大神は大阪住吉大社より分霊を受け( 1600年頃)浦島子神と共に鎮祭されている。 元宮は銚子山古墳に近い宮山にあり、享徳元年9月(1452年)現在地に遷座され る。 元の本社の社殿は現在の蚕織神社であるが、現在の本社は大正14年再建、昭和18 年に府社に昇格。 蚕織神社には養蚕神を宮中より分神をうけ、織物神は京都今宮神社の分霊を奉祀して いる。 境内神社は蚕織神社、早尾神社、愛宕神社、立脇神社、市杵嶋神社がある。 |
熊野若宮三神社
崇神天皇の代の創建と伝え、延喜式内社の古社である。 、大日本神祇志科等に素盞鳴尊または、諸冊二神と伝える。社宝として随神 二体を存ずる。鎮座する地区名も品田(ホンデ)と云い、古い地名である。地区内に 禰宜屋敷等、神社に関係する地名が多い。 神饌幣帛科供進神社の指定を受ける。 |
熊野新宮神社
熊野三社権現と称し、郡内熊野神社の三社の一社にして、延喜式内社の古社 である。 明和8年の再建の棟札を存する。また、熊野新宮大神の休憩された大石があ り、人馬の足跡なりと云う「馬蹄岩」がある。 日「おくり火」といって、竹にたいまつをつける民俗文化財があり、京都府 文化財の指定を受ける。 |
意布伎神社
天皇の朝丹波道主命の勸請せられた處にして、式内村社で天正4年11月 村中大火に際し神社も類焼の厄にかかり、文書寶物等一切焼失せりという。海部村大 字油池にも伊吹神社あり、元油池に鎮座せるを嘉慶年間兵火の為頽廃せるにより字三 分に移轉せりとの説あれど、徴證すべき正確な文書乏しければ、その正否を断ずる事 困難なり。而して当社殿は明治22年の改築にして、明治40年3月神饌幣帛科供進 神社として本郡村社中第1位に指定せられた。 |
伊吹神社
意布伎明神と唱え尊崇された古社で、延喜式内社である。 ユウケイ)の地名は意布伎(イブキ)と称したが、和銅年間郷名を好字を撰 び、現在の油池と名付けたと伝える。 |
伊豆志彌神社
元箱森大明神と唱え、延喜式内社である。 不詳なれど、丹後旧事記等には丹後之河上麻須の創建と伝える。 神饌幣帛科供進神社の指定を受ける。 |
矢田神社
してその創立最も古し、按するに海士の地は往古神服連海部直の居住地にし て、館跡を六宮廻りという。海部直は丹後国造但馬国造等の祖にして、扶桑略記にも 丹後国熊野郡川上庄海部里を国府となすとあり。 海部直の祖たる建田背命及その御子武諸隅命和田津見命を斎き祀れるも深き 由緒の存するなり。 |
矢田八幡神社
10年四道将軍の一人丹波道主命は勅命により山陰地方平定のため丹波国( 今の丹後国)に至り、比治の真名井に館を構えられたが無事平定を祈願のため矢田部 の部民をして祖神を祭らしめられ、熊野郡では矢田神社を祭祀せられた。当初の祭神 は饒速日命、孝元天皇、その奥后内色姫命であったが、奈良朝に至り、当時の物部氏 と蘇我氏の争いからついに物部氏亡び蘇我氏の探索は当地にまでおよび矢田部一族は それを恐れ、宇左八幡宮を勤請して社名を矢田八幡と改めた。その後建武より文亀に 至る160年間は山城岩石清水八幡宮佐野別宮と称せられていた(古文書あり)。当 時佐野谷14ケ村の氏神として崇敬されてきたが、現在は佐野、小桑2ケ村(部落) の氏神となっている。明治の中葉社務所焼失のためほとんどの文書を焼失したが、焼 残り文書の一つに「神霊由来記」がある。それによると「丹後国熊野郡佐野村延喜式 神名(中間破損)矢田八幡神社十一座の内矢田神社矢田者則八幡之中略也(以下略) とあって、当社が熊野郡式内神社十一座の一社である事を示している。当社の付近に 矢田谷という地があるが、住古矢田部族の住居地であったと伝承し、今古墳屋敷跡用 水池などが残存し、時々高杯布目瓦等の出土しその一部は神社に保管してある。大正 5年12月幣饌科供進神社に指定を受けた。境内地坪2,400坪、外に宮所有山1 町1反、社殿は文政3年9月再建。孝元天皇と内色姫命の両神像(木造)は京都府文 化財保護課神島技官の鑑定にて藤原時代の作と認められ、康治(平安)2年薬師像( 木造)有り、古文書は建武2年(1335)、貞治2年(1363)、文亀2年(1 502)の3通い何れも石清水八幡宮の文書冩にして当社に関するもの、及び延享2 年(1745)豊岡県神社神主書状一巻。(式内社調査報告による) |
丸田神社
立は最も古く、垂仁天皇の代川上麻須の勧請に係れりという。大日本地名辞 書にも「延喜式丸田神社は神野村字甲山に存ず」といえるはすなはち当社なり。往古 は祭礼にも神輿ありしか慶長年中その古式を廃せりと古老の口碑にいう |
賣布神社
立は丹後一覧記等によれば、垂仁天皇の御代川上麻須の勧請に係れりという 。その延喜式内社たることは延喜式を始め大日本神祇誌神社要録等に明記せる処なり。 谷に足洗井戸といへるあり。祭神の始めて留まりましし地にて野中、安養寺 を経て女布に着き小字舟処に上陸されしという。 明和6年の造営に係るものである。 |
衆良神社
『丹後一覧記』には「垂仁天皇の朝の勸請」とあり、『丹後國式社考』には「祭神は 河上麻須良」とある。河上麻須良は古事記の「美知能宇志王娶丹波之河上麻須良女。 生子比婆須比賣命(略)」の河上麻須良である。河上麻須良と須良(須田)との関係 については、本居宣長は『古事記傅』に「河上麻須良女、河上は和名抄に丹後國熊野 郡川上の郷あり是なり、麻須の義は未だ思ひ得ず、郎女は(中略)男を郎子・女を郎 女という」とのべている。また『丹後舊事記』には「開化・崇神・垂仁の三朝熊野郡 川上庄須郎の里に館を造る。丹波道主命は麻須良女を娶る」とある。明治35年市場 村七社神社神職日下部氏は、その著『丹後國古事記略書』に「丹後舊事記ヲ見ルニ衆 良神社ハ馬次村ト有リニヨリ、此社ハ久美谷に馬地村有リニヨリ久美谷に有と思らん モアラン、雖レ然馬次ト有ハ驛馬ノ事ニテ須田村ニ有也」とのべている。 明治17年の「社寺明細帳」には、その由緒をつぎのやうに書いている。「衆良神社 ハ八坂(神社)ト相殿に祭祀ス、須良神社ハ丹後舊事記及丹哥府志ニ須良村ト有、當 國式社考ニ、須田村也、此地麻須良王ノ領也ト申傳ウ、コノ王ハ丹波道主命ノ舅也ト 有、古ハ須原村ト云トモ有、今ハ須田村也、神名帳私記ニ須田村ト有、扱此須田村川 上郷ニテ字下山ト云城跡ノ孤山有テ麻須良王之居所也ト稱シ今ニ平民之此山ニ居住ス ルヲ忌ム(但シ往事此山ニ居住スルモノ数多ク有シモ神崇リニテ永續スルコト無シト 云フ)、又殿垣(塔垣)ト云所有リ、麻須良王ノ居住地ト云傳有リ今ハ此所ハ桑畑之 中ニ有リ、此須良村之奥但馬之國ニ越ル山ヲ忍坂ト云ナリ、姓氏録ニ火明命後世ト有 、衆良神社ハ八坂神社ト相殿ニ祭祀ス、祭神不詳トイエドモ神軆ハ木像二ツ有テ社の 割ニハ大像ナリ、相殿兩神ノ神軆也ト云傳ウ、(後略)」と。 衆良神社については、牛頭天王宮(八坂神社)と麻須良皇子との話がある。須田の大 雲寺に保存されている奥書天正16年(1588)の『天龍山大雲寺記録』の記述に は「(前略)桓武天皇に御皇子豫多在しけり。第一は平城天皇、大同元丙戌に御即位 在しなり。第二は弘仁元庚に兄君の位を即せ給ふて嵯峨天皇と奉申なり。第三は、相 良皇子と奉申れり。御心悪かりなん兄君の御位を奪んと御媒叛の御企有ければ小野岑 守等の計ひにて淡路の國へ渡らせ給ふが遂に彼地にて薨じ給ふ(中略)然るに第四の 宮は摩須良皇子と奉號兄君相良天皇(皇子)之御媒叛に組せられければ丹後國に御下 り給ふ。後に御料を御許有りて都へ可歸勅使立せ給へども歸り給ふべき御心なかりし や、當所塔垣(殿垣)といふ處に玉關を御立成されて此地に居住成給ふて御年67歳 にて薨じ給ふ。後に牛頭天皇宮と奉崇しとなり。御存生の間に國家安全の為に當寺を 御建立有りて御代長久を祈り給ふ。(後略)」とある。また同記に同寺の末寺と神社 との関係を次のやうにのべている。「當寺末寺三ヶ寺有り、一は猪ヶ島神宮寺とて三 島明神の浦にあり、二は長尾山地蔵寺とて牛頭天皇(天王)の口にあり、三は比靈山 高山寺とては塔垣の向の谷に有りけれ共、かく迄没落しぬれば彼三ヶ寺をこぼち一ヶ 寺と成侍りしかとや」と。牛頭天皇(衆良神社)と長尾山地蔵寺との関係がわかる。 摩須、摩須良、麻須良、麻須良王などのあいまいさは、古事記の河上摩須と天龍山大 雲寺記録の麻須良皇子との混同から生まれたものである。「社寺明細帳」にいふ小字 殿垣は大雲寺記録の塔垣と同じ場所であり、麻須良皇子の居所であったとするのが正 しい言い傳へであらう。衆良神社と牛頭天皇宮が相殿に祀られ、河上摩須と麻須良皇 子が祭神であったが、のちに牛頭天皇宮が八坂神社と結びつくため祭神が須佐之男命 になったとも考へられる。 明治になって豊岡懸神社取調の節「式内衆良神社」と定められた。(豊岡懸は明治4 年から明治9年)明治18年に八坂神社を境内末社として分割し、別に社殿を増營安 置した。大正10年上屋を改築し、新に拝殿を設ける。 |
三嶋田神社
山下仙一郎氏編の『三嶋田神社由緒』に「往古川上谷に三ヶ所の嶋あり、その一は武 漁嶋(海士付近)、その二は婦嶋(島)、その三は生島(金谷)なり。人皇七代孝靈 天皇の御宇、武諸隅命(海部直の祖)生嶋に大山祇命・上津綿津見命・表筒男命を祀 りて三嶋神社と稱し奉り武漁嶋に中津綿津見命・中筒男命を祀りて矢田神社と稱し奉 り、田村庄矢の谷丸田山に下津綿津見命・底筒男命を祀りて丸田神社と稱し奉る。而 して人皇九代開化天皇の御宇に至りて河上の摩須が当社を崇敬した。云々」とある。 『丹後舊事記』には、「垂仁天皇の朝川摩須郎勸請なりと國名風土記に見えたり」と ある。川上(河上)摩須は古事記の「美知能宇志王娶丹波之河上之摩須良女。生子比 婆須比賣命、云々」の河上摩須であり、本居宣長『古事記傳』で「河上之摩須良女、 河上は和名抄に丹後國熊野郡川上の郷あり是なり」とのべている。また『丹後舊事記 』は河上摩須について「開化・崇神・垂仁の三朝熊野郡川上庄須郎の里に館を造る。 丹波道主命は摩須良女を娶る」と記している。須郎(須良)=(須田)と三嶋田神社 は数百メートル離れて向き合っている。 當社の別當として神宮寺があった。神社の東一町の地にジンゴ(神宮)の森がある。 元境内にあり明治維新後境外に移された石佛の背面に「永享12年庚申6月19日、 神宮寺六十六部供養−源貞總」と刻まれている。永享12年は1440年で施主源貞 總は當時の畑(金谷と同一)城主である。神宮寺は須田村大雲寺の末寺であり、『天 龍山大雲寺記録』には「當寺末寺三ヶ寺有、一ハ猪ヶ嶋神宮寺トテ三嶋明神ノウラニ アリ」とある。神宮寺は廃絶して字海士の寳珠寺に合併したと傳へている。現に金谷 ・畑の兩部落に於いて10数戸の寳珠寺檀家があるが、確證はない。 暦應元年(1338)戦功により足利尊氏から1萬餘石を與へられ、畑村(金谷・畑 はもと同一の大字であった)に居城をかまへた野村氏は、天正10年(1582)豊 臣秀吉のために滅亡するまで三嶋田神社を崇敬した。 野村氏は畑に居城を構へるや荒廃していた大雲寺を再興し、二百石の荘園を寄付して いる。大雲寺の末寺である神宮寺も野村氏との関係が考えられる。 享和3年(1803)の金谷村の記録によれば、當社はもと十ヶ村(市野々・布袋野 ・畑・金谷・須田・新庄・品田・市場・出角・芦原)の氏神であったが、その後七ヶ 村(市野々・布袋野・畑・金谷・須田・市場・出角)の氏神となり、享和3年故あっ て分離し、現在は畑・金谷・須田三部落の氏神となっている。 延寶6年(1678)2月再建の棟札、文政12年(1829)再建の棟札がある。 大正2年10月神饌幣帛科供進神社として指定される。昭和8年10月21日郷社に 昇格(『熊野郡誌』)。 |
神谷神社
神谷神社の主神、丹波道主命はまたの名を丹波比古多多須美知能宇斯大王と伝え、社 記・古書によれば、第十代崇神天皇御宇10年9月(BC88)、天皇は天下を征するため、 丹波道主命を山陰(丹波)、大彦命を北陸、武淳川別命を東海、吉備津彦命を山陽( 西海)に印授を授い4人の将軍を四道に派遣することとなった。世に呼んで四道将軍 と総称する。 その四道将軍中、随一と言う神谷太刀宮の祭神、丹波道主命が鎮撫のため、山陰地方 に向われるに際し、出雲大社を奉斎する出雲地方の人々の心を和らげ、前途の平安を 祈願し、但馬の国境である神谷の里に出雲国より、八千予神、天神玉命、天種子命の 三座の御魂を迎え、久美谷川の清流の川上に社を創建奉斎されました。 丹波道主命は山陰地方平定後、国人となって永くこの久美浜の地に留まり、幽邃の地 で海をかけ野をひらき人心の安定に当られ、遠き都人にとって常世につながる幻想の 隠国熊野の郷、河上庄(現川上地区)の豪族の娘、河上麻須郎女を妃として四子をも うけ給い、その御一人日葉酢媛は第十一代垂仁天皇の皇后に上がられました。命が去 られた後、佩帯されておられた神剣「国見剣」を神璽として奉安し、小谷の里に出雲 国の神々を合せ祀り、神谷太刀宮大明神と称え奉るを創始とする。遠く奈良時代にさ かのぼる。 醍醐天皇の代に制定された「延喜式」神名帳(927年の法令)に登録される、郡内最 大の境内地、本殿を始め、境内外に十余の社を鎮祭し、「神谷太刀宮」「太刀宮」と 通称される古社である。「道ぬしの神のみことの言向けし つるぎの太刀の宮居かし こし」爾来、久美浜小谷の里を神域として、丹波道主命の功績尊崇は永く後世に及び 、丹後、丹波、但馬一帯の衆庶から尊崇されて、神域、社殿も宏壮であったが、中世 に一時衰退、荒廃したが、神谷太刀宮の信仰は後世に承け継がれて、当国を領する武 将、近々の城主、久美浜代官などに尊崇されて、田地の寄進、社領の安堵により旧に 復すると共に近郷の衆庶の信仰次第に篤く、町衆の台頭と共に、神域社殿を整備し、 本殿は天明元年(1781)入母屋造妻入向唐破風付檜皮葺を再建、出雲地方に見られる 大社造の特徴を備え屋根組み、各所の彫刻など神社建築の秀作で特に「太刀宮造」と 呼ばれる独特な建造物である。 昭和60年5月京都府文化財の指定を受け洗練された和風建築であり、他の付属建物 も年代は新しいとは申し乍ら豪宕な神門と共に神域の樹木も自然風景に溶け込み、荘 厳に大きく寄与し、聖なる造型を作り上げている。神職も由来は明らかでないが、代 々相継ぎ現在に至っている。近世に久美浜代官所、明治初年に久美浜県の設置により 、地方政治、産業の中心地であったため、近郷の衆庶から、あつい尊崇を受ける社で 、丹波道主命を主神として奉斎する全国唯一の神社である。明治6年郷社に列し、明 治40年3月神饌幣帛料供進神社の指定。明治42年1月会計法適用神社の指定を受 ける。 |
村岳神社
当社は延喜式内社で字奥馬地に鎮座する古社である。古書によると村岳神は太刀宮の 臣下で、社地撰定を命じられる、良地有るもこの事を秘し復命するも、のち露見し太 刀宮憤り剣を抜いて追う。村岳神逃れて小字石仏の大石の影に隠れ、太刀宮誤って大 石を切る。村岳神和を願い、両神大根を下物として和睦の宴を開く。この地をナガラ ガイと言い伝える。以後、神谷太刀宮の例祭りに奥馬地より大根を奉納するを例とす る。太刀宮境内地にこの大石を「剣岩」として保存し事績を伝えている。 |
聴部神社
当社は、字友重地区の氏神である。延喜式内社でもと、聞部神社と云う。神名帳考證 に菊理媛命水分神と記す。 明治45年神饌幣帛科供進神社の指定を受ける。 |