(吉礼)都麻津姫神社 (つまつひめ)
和歌山市吉礼911 ゼンリン
鳥居
交通案内
阪和線 天王寺→和歌山
貴志川線 和歌山→吉礼(きれ)下車、北西へ100m
祭神
都麻津姫命 配 五十猛命、大屋都姫命
別殿 吉礼津姫命
由緒
都麻津姫命を奉じる人々と吉礼津姫命を奉じる人々がこの吉礼の地に住み、お互いに張り合っていたとの事である。そこで都麻津姫命を祀る神社に吉礼津姫命を合祀し、東西吉礼の融和をはかったとされている。
吉礼津姫命の名は記紀には見えない。名草戸畔と同じようなシャーマンとしてのこの地の女王であったかも知れない。
吉礼が地名である。古代チャイナの礼書の周礼に「吉礼」「凶礼」「賓礼」「軍礼」「嘉礼」の五礼が記されている。吉礼とは祖先神や日月星辰などの自然神の祭祀の事である。
この地が何故吉礼と呼ばれたのか、いつ頃から吉礼とよばれたのか、今となっては知る由もない。 ツマとは出ている所の意があり、海への出っ張りに祀られた女神とか、キレとは平地もしくは海と山々との境を指すと云う。確かにそのような地形ではある。
平地の日前国懸神宮と伊太祁曽神社との間の地であり、伊太祁曽三神である五十猛命、大屋都姫命、都麻津姫命の三神が秋月の地を離れ、吉礼を通り、その奧の山東の地に遷座したのであるが、元々紀の国の豪族紀氏はこれらの神々を祖神としていた節があり、この吉礼の地に祖神として三神を祀る巫女を置いたのであろう。
それが吉礼津姫命であったと推定している。更に伊太祁曽三神分遷の時、吉礼津姫命とは別に都麻津姫命をこの吉礼の地に祀ったと見る。
都麻津姫命は五十猛命の妹神とされ、大屋都姫命と共に素盞嗚尊の子神とされる木の神である。 「妻造り」「妻入り」と言う日本の木造建築の古い様式があるが、この都麻津姫の名前にちなんでか、建築・木の加工の神としての信仰があつい。
抓津比売とも書くが、抓とは屋を造る料として木取った材の意である。
また「妻」ゆえ安産の神様としてもお参りされている。吉礼(きれ)宮とも呼ばれている。
お姿
吉礼は和歌山の平地の東端であり、山東への入り口になる。貝塚がある。 オリンピック水泳の銀メダルの橋爪選手はこの地の出である。(金は古橋、余談だが金と銀ではその後の人生行路が大きく違う。)
車の多い狭い道を入ると、そこに社がある。鳥居の横の掲示板に祭りが紹介されているが、ほとんど消えかかっている。その後ろに5m四方の池があり、島のカシの木が大きい。神社は新しく、右に五十猛命、中央に都麻津姫命、左に大屋都姫命の三兄妹が祀られている。
また西側に吉礼津姫命神社の小殿がある。奥の森はやはり深いたたずまいである。秀吉の紀州侵攻の際、廃墟となり、以降十分の一に縮小になったと言う。信長・秀吉は革命家でもあったのか神社・仏閣への尊敬の念は薄く、これらを多く焼き払っている。
日前宮も伊太祁曽も焼かれている。また、秀吉は資金稼ぎに古墳を発掘、朱を取り出したりしている。秀吉本人は豊国神社で神様になっているのは漫画であり、これぞ神罰か。
都麻津姫神社

吉礼津姫命神社
お祭
例祭 10月14日
紀伊国名所図絵から
紀伊續風土記 巻之十六 名草郡 吉禮荘 吉禮村から
○吉禮大明神社 境内 東西四十二間 南北二十二間 禁殺生
本社 八尺 五尺 拜殿 神樂所
御供所 寶殿 御手洗
清水井 鳥居
末社二社
妻津姫神社 五十猛神 大屋津姫神 社
本國神名帳名草郡従五位下吉禮津姫神
村中にあり 一村の産土神なり 此御神古書に見はるゝ所なけれは其來由を知る事あたはす 然れとも神名帳に載する時は此地に鎭り座マセる事舊き事と知るへし 往古は神田も多く境内廣大にして社殿壮麗なりしか 天正年中(1573年〜)の兵 に羅カゝリて神寶」給記皆焼亡せしといふ これより諸事衰癈して神名をも取失ひ或は山王明神と稱し又妻都姫ノ神と稱せり
其誤詳に神社考定の部に辨せり 寛文中(1661年)兩部を改て唯一となし給ひ福善寺といへる別當寺を境外に移す 社前に古き鐵の御鬮箇あり銘に奉ル寄進御神前名草ノ郡吉禮大明神と刻めり |
都麻津姫を祀る論社
高積神社
(平尾)都麻津姫神社
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