乙訓郡、葛野郡、愛宕郡、紀伊郡、宇治郡、久世郡、綴喜郡、相樂郡、
乙訓郡[オトクニ]:十九座 大五座 小十四座
羽束師坐高御産日神社[ハツカシニイマスタカミムスヒ](大。月次新甞。)
羽束師坐高御産日神社[はずかしにますたかみむすび]「高皇産靈神、神皇産靈神」鎮座は雄略天皇二十一年。高皇産靈神を祀る式内社五社の一つ。京都府京都市伏見区羽束師志水町219-1
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羽束師略記 御鎮座と由緒 当社の御鎮座は、雄略天皇二十一年丁己(四七七)です。「続日本紀」大宝元年(七 〇一)四月三日条に「波都賀志神等の御神稲を今より以後中臣氏に給へ」とあって、 羽束師神社についてみえる最も古い記録ですが、「三代実録」貞観元年(八五九)九 月八日条には、「羽束志神、遣使奉幣、為風雨祈焉」とあり、風を鎮め、潤雨を祈願 する神さまとして崇敬されていたことがうかがえます。近年当社西方の長岡京四条四 坊に当る旧址から、祈願の際献じる土馬が発掘され、話題を呼んだのは興味深いこと です。 この地は桂川及び旧小畑川等諸河川の合流点に位置し、低湿地ですが、古くから農耕 が行われ且、水上交通の要地という条件と相まって、「乙訓・羽束郷」(和名抄)と 称し開けてきた土地です。 因に、日本書紀垂仁天皇三十九年「冬十月(中略)泊橿部等并せて十箇の品部(とも のみやつこ)もて五十瓊敷皇子に賜う」と記され又、「令集解」の職員令の中には「 泥部=泊橿部とは古の波都加此の伴造を云う」とあります。何れにしても、「はつか し」と名乗る職業をもった人々の集団が、大宝令制に組み入れられる以前から、この 地域に生活していたということが分かります。更に御所の野菜を供給する羽束師薗も あった処で、これらのことが、神社の発展をもたらした理由になったと考えられます 。 平安初期延喜の制がととのえられるや当社は、式内大社に列せられ、月次・新嘗の幣 に預かって、名実共に式内第一の社となり、「むすび」の御神威を愈々顕現され、天 下豊平の加護を垂れ給うたのです。 中世・近世において、周辺地域の産土神として崇敬を集めたことは「都鄙祭事記」中 の「久世、久我、古川羽束石祭四月中の巳日にて神輿二基あり。往古は、久世より下 の村々は、羽束石社の産子なり。乱国の頃別れしも、上久世続堤より少し下れば往還 の東に、羽束石社の御旅所と申す地あり。其所に小社並びに黄楊の古木あり」という 記事からも推察できます。 「大乗院寺社雑事記」文明十四年(一四八二)九月一日条に「八月二十七日二十八日 、西岡羽束石祭、守菊大夫楽頭、随分得分神事也、百貫計得云々、当座ニ六十貫計懸 物在之云々、盛物等大儀講也云々」とあり、祭礼には宇治猿楽守菊大夫が、楽頭職と なって神事能を演じた事、またこの神事は近郊に聞えた盛大なものであったらしく楽 頭の得分は百貫と記されています。氏子圏の広さとその豊かさを物語っています。 |
與杼神社[ヨド]
與杼神社[よど]「高皇産靈神、豐玉姫命、速秋津姫神」
京都府京都市伏見区淀本町167
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與杼神社 由緒・沿革 社伝によると当社の創始は、応和年中(961から963)に僧千観内供が佐賀県( 肥前国)佐賀郡河上神(与度日女神)を勧請したのに由来するといわれている。しか し実際にはそれより古く、「三代実録」に貞観元年(859)従五位下の神位を賜っ たことがみえ、また延喜の制には小社となっていることから千観が勧請する以前より あったものと考えられる。旧地は乙訓郡淀村大荒木ノ森、俗に西淀といわれたところ で、当社はこの地に古くから住んでいた大与等何々などという住民の祖神を祀ったも のと思われる。明治三十三年(1900)に至り、淀川の改修工事のため現在地に移 され、淀・納所・水重・大下津の産土神として信仰されている。 本殿、拝殿は慶長十二年頃の建立。桃山時代の建築様式をよく保存していたため、昭 和四十六年六月二十二日国の重要文化財の指定を受けた。しかし、昭和五十年八月五 日子供の花火遊びにより本殿が焼失、拝殿のみが近辺でただ一つの重要文化財建造物 として往時の威容をとどめている。 昭和五十八年解体修理工事が施され「コケラ葺」屋根に現状変更がなされた。更に昭 和五十九年度これに防災施設工事が追加完了した 。 |
大井神社[オホイ]
大井神社[おおい]「大綾津日神、大直日神、神直日神」現社地は葛野郡である。京都市右京区嵯峨渡月橋北東スグ 玄松子の記憶
乙訓坐大雷神社[ヲトクニニマスオホイカツチ](名神大。月次新甞。)
角宮神社[すみのみや]「火雷神」京都府長岡京市井ノ内南内畑35
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角宮神社 式内社。乙訓坐火雷神社、略して乙訓社とも言う。祭神は本殿に向かって左に主神火 雷神と玉依姫、建角身命、活目入彦五十狭茅尊の四神を、右に春日神(三神)を祀る 。 乙訓坐火雷神は玉依姫の夫神で「山城風土記逸文」の賀茂伝説に丹塗矢の古事として 見え、その御子別雷神を祭神とする上賀茂社玉依姫と建角身命を祭神とする下賀茂社 と共に国の大弊にあずかる名神大社としての社格の高い社であった。初見は「続日本 紀」の大宝二年(七〇二)の条で、殊に祈雨神として平安中期までは国史に度々出て いる。承久の変(一二二一)で灰燼に帰し容易に復興を許されなかった。旧社地は井 ノ内の西部(宮山)にあったが、文明十六年(一四八四)今の地に再興され、井ノ内 の産土神として祀られている。 |
向日神社に合祀[ムコウ]「向日神 配 火雷神」京都府向日市向日町北山65
石作神社[イシツクリ]
大歳神社に合祀「大歳大神 配 石作神、豐玉姫命」京都府京都市西京区大原野灰方町575
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大歳神社の由緒 石作連を祀った石作神社は延喜式神明帳に記され、貞観元年従五位下に昇格している 。 |
走田神社[ハシリタ]
走田神社[はしりた]「天津兒屋根命」妙見社とも稱せられてゐた。
京都府長岡京市奥海印寺走田3
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走田神社 由緒 吉田本、金剛寺本とも走田神社。妙見社とも稱せられてゐた。 創建年代不詳。古くから妙見菩薩が合祀されてゐたが、明治の神佛分離の折り、これ は海印寺寂照院に移された。明治十六年の明細帳に記された由緒書では「鎮座傳記不 詳。御局上ヶ知神社。除地妙見社九百三十年餘以前責字年中勤請之由申傳。造立之年 數不分明。社地東西拾五間南北九間、外ニ境内有之旨元禄五申年ニ取調書上ヶ候。尚 慶應四辰年三月右之趣書上ヶ候。後去ル明治十年六月ニ至リ社號改テ延喜式内走田神 社ニ確定セラル前明治六年六月村社ニ公定セラル」となつてゐる。 |
菱妻[ひしずま]神社境内走田神社「伊弉諾尊」京都市南区久世築山町67 菱妻神社
御谷神社[ミタニ]
御谷神社[みたに]「天兒屋根命、應神天皇、別雷神、倉稻魂神」京都府長岡京市浄土谷宮ノ谷3 神詣
國中神社[クナカ]
綾戸國中神社[あやとくなか]「大綾津日神、大直日神、神直日神、素盞嗚尊」昔は綾戸宮と國中(くなか)宮の二社に別れていた。
京都府京都市南区久世上久世町773-3
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綾戸國中神社 綾戸宮と國中宮 昔は綾戸宮と國中(くなか)宮の二社に別れていたが、現在は一社殿とし、向かって 左の御扉に綾戸宮、右の御扉に國中宮をお祀りしてある。 大綾津日神、大直日神、神直日神を御祭神とする綾戸宮は、第二十六代継躰天皇十五 年に綾戸大明神として三柱の神を御勧請され、六十二代村上天皇天暦九年に綾戸宮と 改められ、社号の額も七十代後冷泉帝の御震筆によると伝えられている。戦国の兵火 にあい宝器、旧記は焼失してしまったが上久世の里の産土神として古より氏子が崇拝 するところである。 素戔鳴神を御祭神とする國中宮は、神代の頃、午頭天皇=素戔鳴尊が山城の地、西の 岡訓世の郷が一面湖水のとき、天から降り給い、水を切り流し國となしその中心とお ぼしき所に符を遣わし給うた。その符とは素戔鳴尊の愛馬、天幸駒の頭を自ら彫刻し て、新羅に渡海の前に尊の形見として遣わし給うたのである。この形見=馬の頭が國 中宮の御神体として祀られている。夏の祇園祭には稚児が駒形の御神体を胸に奉持し て(駒形稚児)乗馬で供奉する。 社殿は昔は西向きの二社殿であったが昭和九年の室戸台風で倒壊したため約二十米北 の地に南向きの一社殿・二扉として昭和十一年秋に新築。その後、拝殿、神饌所等を 増築して神社としての形態を整えてきたところ、昭和三十九年の東海道新幹線通過の ためやむなく境内地、社殿等を東に移転し現在に至っている。 |
向神社[ムカヘ]
向日神社「向日神」御歳神を向日神と申し上げる。かっては向日山に二座鎮座しており、向神社は上ノ社、乙訓坐火雷神社は下ノ社と呼ばれていた。火雷神社を併祭した。京都府向日市向日町北山65
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向日神社 参拝のしおり 縁起 当社は延喜式神明帳に記載された、いわゆる式内社であり、神明式においては山城国 乙訓郡向神社と称され、後に同式の乙訓坐火雷神社(オトクニニマスホノイカヅチ) を併祭して今日に至っている。この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は 上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた。 向神社の創立は、大歳神の御子、御歳神がこの峰に登られた時、これを向日山と称さ れ、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座された ことにより御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。 火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事 により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立である。後、養老二年( 七一八年)社殿を改築し、新殿遷座の際、火雷大神の御妃神、玉依姫命を、また創立 の因縁により神武天皇を併祭された。その後、建治元年(一二七五年)社殿荒廃によ り、上ノ社に併祭、以後下ノ社の再興がならず上ノ社に上記四柱を御祭し、向日神社 として今日に至っている。上ノ社は五穀豊饒の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神と して朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは、古書に数多く見られるところである 。 |
大歳神社[オホトシ](大。月次新甞。)
大歳神社「大歳大神 配 石作神、豐玉姫命」養老2年。この境内は柏の森と称し社を柏の社とも云ふ。京都府京都市西京区大原野灰方町575 玄松子の記憶
茨田神社[マタ]
菱妻神社境内茨田神社[まつた]「猿田彦大神」京都市南区久世築山町367
石井神社[イハヰ]
石井神社[いわい]「磐裂神」京都府京都市西京区大原野石作町586 玄松子の記憶
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石井神社(いわいじんじゃ) 式内社である。三代実録に元慶四年従五位下授けたとある。山城志にも記されている 。清水を神格化した古社なり。雲生水とも云ひ、清冽な涌水のある金藏寺護摩堂の北 清泉の上に祀られていたが、氏子の人々が近くに祀りたいと云ふので現在地に鎮座す 。 |
神川神社[カムカハ]
神川神社[かみかわ]「底筒男命、中筒男命、上筒男命、上津少童命」京都府京都市伏見区羽束師鴨川町368 神詣
久何神社[コガ]
久我神社[こが]「建角身命、玉依比賣命、別雷神」京都府京都市伏見区久我森ノ宮町8-1
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久我神社略史 由緒 神社の旧記によれば、八世紀末、平安遷都に先立ち、桓武天皇が山背長岡に遷都され た延暦三年(七八四)頃、王城の艮角の守護神として御鎮座になった(秘伝神書抄) と伝えられ、以来千二百年の星霜を経た延喜式内社であり、久何神社とも号する。 一説には当社は往古、山背久我国造として、北山城一帯に蟠踞した久我氏の祖神、興 我萬代継神(三代実録)を祀った、本市における最も古い神社の一つであり、久我氏 の衰頽後、賀茂氏がこれに代わってその始神を祀ったのではないか。また、他の説で は、起源は古く、平安・長岡遷都以前に遡り、「山城国風土記」逸文に云う賀茂氏が 大和から木津川を経て、この久我国(葛野乙訓にわたる地方の古称)の伏見地方に居 をすえ、祖神を祀ったのが、当久我神社であり、更に賀茂川を北上して今の賀茂の地 に鎮まったと考えられる。と。 これらの事から、いずれにしても、歴史的に頗る深い由緒と信仰の跡を偲ぶことがで きるのである。尚、興味あることとして当地方の西の方(乙訓座火雷神)から丹塗矢 が当社(玉依比売命)にとんできて、やがて別雷神が生まれられたとも、此の里では 伝承されている。 |
簀原神社[スハラ]
菱妻神社境内簀原神社[すはら]「大己貴命」京都市南区久世築山町367
小倉神社[ヲクラ](大。月次新甞。)
小倉神社[おぐら]「武甕槌神、齋主神、天兒屋命、比賣大神」元正天皇養老二年(七一八)に勧請。御所の鬼門除として祈願された。京都府乙訓郡大山崎町円明寺鳥居前83 神詣
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小倉神社 参拝のしおり 由緒 当社は元正天皇養老二年(七一八)に勧請され、桓武天皇平安遷都のとき御所の鬼門 除として祈願され、延喜の制により大社に列し、月次、新嘗の官幣に預かったとあり ます。醍醐天皇は深く崇敬し給い、文徳天皇のとき神階正一位に進められ、正一位小 倉大明神と号しました。天正年間、豊臣秀吉は山崎合戦(天正十年一五八二)のとき 家臣片桐祐作、脇坂陣内を当社に遣わし、戦勝を祈願しました。その本懐達したるを 以って神徳に報いるため、毎年米三千俵を寄進しました。 江戸時代に至り、徳川氏また山地二十余町歩を寄進したといわれ、旧境内地は六万坪 余もありました。明治時代氏子村々…円明寺村(山寺含む)、下植野村、調子村、友 岡村、下海印寺村、金ヶ原村、神足村、古市村、勝竜寺村、久貝村以上十ヶ村とあり ます。 |
入野神社[イリノ]
入野神社[いりの]「天兒屋根命、武甕槌命、比賣神、齋主神」京都府京都市西京区大原野上羽町192 玄松子の記憶
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入野神社 式内社である。古地名で入野又は納野と云った。古歌あり。 「剣の後鞘に納野に葛引 く吾妹眞袖もち着せしむかも夏草苅るも」(万葉集巻七) 「さを鹿の入野のすすき初 尾花いづれの時か妹が手まかさ」(万葉集巻十) 例祭は2月22日で遺稱お弓と云っていた。男子15才になると烏帽子儀に入り、二 人で1週間前から練習してこの日に弓の行事があった。今、弓がいたんだので中止し |
自玉手祭來酒解神社[ヨリタマテマツリキタルサカトケ](名神大。月次新甞。元名山埼社。)
自玉手祭来酒解神社[たまでよりまつりきたるさかとけ]「大山祇神」京都府乙訓郡大山崎町天王46 神詣
神足神社[カウダニ]
神足神社[こうたり]「天神立命」京都府長岡京市東神足2丁目16-15
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神足神社 旧神足村の産土神。式内社で「延喜式」にのる乙訓十九座の一で「神足神社」(こう たにのじんじゃ)とみえる。また、文徳天皇の斉衡元年(八五四)に国の官社にあげ られる。祭神は「舎人親王(天武天皇の子)」であるといわれている。 当社には「桓武天皇の夢」として次のような伝説が残っている。「田村(神足村の旧 名)の池に天から神が降り立ち、宮中を南から襲おうとした悪霊を防いでおられた夢 を見られたと言う。天皇は目覚められ、田村にこの神を祭る社を建てさせ太刀と絹を 秘蔵させた。」以後、この社は「神足神社」と田村は「神足村」と呼ばれるようにな ったと言われる。 |
葛野郡[カトノ]:廿座 大十四座 小六座
葛野坐月讀神社[カトノニマスツキヨミ](名神大。月次新甞。)
松尾大社摂社月読神社[つきよみ]「月讀尊」京都府京都市西京区松室山添町15 玄松子の記憶
木嶋坐天照御魂神社[コノシマニマスアマテルミムスビ](名神大。月次相甞新甞。)
木島坐天照御魂神社「火明命」三柱鳥居が有名である。京都府京都市右京区太秦森ヶ東町50 玄松子の記憶
堕川神社[ヲチカハ] 所在不明 北山アーカイブ
阿刀神社[アト]
阿刀神社[あと]「天照皇大神」京都府京都市右京区嵯峨南野町80 玄松子の記憶
松尾神社二座[マツノヲ](並名神大。月次相甞新甞。)
松尾大社「大山咋神、中津嶋姫命」京都府京都市西京区嵐山宮町3 玄松子の記憶
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松尾さん 当社は京都最古の神社で、太古この地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の神霊を祀 って、生活守護神としたのが起源といわれます。五世紀の頃朝鮮から渡来した秦氏が この地に移住し、山城・丹波の両国を開拓し、河川を治めて、農産林業を興しました 。同時に松尾の神を氏族の総氏神と仰ぎ、文武天皇の大宝元年(701)には山麓の 現在地に社殿を造営されました。都を奈良から長岡京、平安京に遷されたのも秦氏の 富と力によるものとされています。従って平安時代当社に対する皇室のご崇敬は究め て厚く、行幸数十度に及び、正一位の神階を受けられ、名神大社、二十二社に列せら れ、賀茂両社と並んで皇城鎮護の社とされました。室町末期までは、全国十数ケ所の 荘園、江戸時代にも朱印地1,200石、嵐山一帯の山林を有していました。 |
深川神社[フカガハ] 所在不明? 玄松子の記憶
堕川御上神社[オチカハミカミ]
大森賀茂神社「賀茂皇大神、彌都波能賣神、瀬織津比
神」京都府京都市北区大森東町1 神詣
明神祠 京都府京都市北区大森東町東辺 未確認
櫟谷神社[イチイタニ]
松尾大社摂社檪谷宗像神社[いちたにむなかた]「奧津嶋姫命、市杵嶋姫命」京都府京都市西京区嵐山中尾下町60 玄松子の記憶
平野祭神四社[ヒラノノ](並名神大。月次新甞。)
平野神社「今木神、久度神、古開神、比賣神」京都府京都市北区平野宮本町1 玄松子の記憶
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平野神社 由緒略記 延暦十三年(七九四)、桓武天皇の命によって当地(衣笠の地)に御鎮座。平安遷都 に際し、御生母高野新笠姫を中心とする新進の大陸文化を導入した人々が平安の都づ くりに優れた技術を用いた功績は多大であった。更に遷都後は外の護となったこと等 に対して天皇の御親祭をみたもので、「延喜式」に皇太子みづから奉幣される定めに なっている延喜式内社の名神大社。平安中期以後は二十二社の五位として、伊勢・賀 茂(上・下)石清水・松尾につぐ名社であった。 また源氏・平氏・高階・大枝・清原氏・中原氏・菅原氏・秋篠氏等 八氏の祖神とし て崇められてきた。明治四年官幣大社に列し、洛西の総氏神と仰がれている。 現在の本殿(四棟)は、慶長三年・同九年、平氏の末裔で公家の西洞院時慶卿によっ て再建されたもので、「平野造り」または「比翼春日造り」と稱せられ、重要文化財 。拝殿は、東福門院寄進によるもので「接木の拝殿」として有名である。掲示の三十 六課歌仙は寛文年中、平松時量卿の寄進にして、その書は関白近衛基熈、絵は海北友 雪。 |
梅宮坐神四社[ムメノミヤニマス](並名神大。月次新甞。)
梅宮大社[うめのみやたいしゃ]「酒解神、酒解子神、大若子神、小若子神」京都府京都市右京区梅津フケノ川町30 玄松子の記憶
天津石門別稚姫神社[アマツイハトワケワカヒメ](名神大。月次新甞。) 所在不明 嚴島神社 京都市北区雲ヶ畑中畑町
伴氏神社[トモウチ](大。月次新甞。)
住吉大伴神社「住吉神、玉津嶋神、大伴氏祖神」京都府京都市右京区龍安寺住吉町1
北野天満宮境内の伴氏社[ともうじしゃ]「菅公御母堂」京都府京都市上京区馬喰町
大酒神社[オホサケ](元名大辟神)
大酒神社[おおさけ]「秦酒公、弓月君、川勝公、呉織比売神、漢織比売神」始皇帝の霊や道祖神を祭神とする説がある。広隆寺の鎮守。京都府京都市右京区太秦蜂岡町30 玄松子の記憶
愛宕郡[オタキ]:廿一座 大八座 小十三座
賀茂別雷神社[カモワケイカツチ](亦若雷。名神大。月次相甞新甞。) リンク 上賀茂神社公式ホームページ
賀茂別雷神社[かもわけいかづち]「賀茂別雷神」上賀茂神社。神代の昔、本社の北々西にある秀峰神山に御降臨になり、天武天皇の御代(678年)現在の本殿に御鎮座になった。京都府京都市北区上賀茂本山339 玄松子の記憶
出雲井於神社[イツモノヰノヘ](大。月次相甞新甞。)
(私云神式第二相甞祭出雲井上上社一座是也)
賀茂御祖神社境内摂社の出雲井於神社2社[いずもいのへの]「建速須佐乃男命」京都府京都市左京区下鴨泉川町59 下鴨神社公式ホームページ 玄松子の記憶
賀茂御祖神社境内摂社の井上社[いのへのやしろ]「瀬織津姫命」京都府京都市左京区下鴨泉川町59 玄松子の記憶
御霊神社「崇道天皇、他戸親王、井上大皇后 ほか」京都府京都市上京区上御霊竪町495 玄松子の記憶
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御靈神社 由緒 祭神として崇道天皇(早良親王)吉備真備 橘逸勢はじめ十三柱の神霊を祀る。 この地には、はじめ付近住民の氏寺として創建された上出雲寺があったが延暦十三( 七九四)年平安京遷都に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代 、平安時代初期に不運のうちに薨じた八柱の神霊を祀ったのが当社の初めである。の ち明治天皇の御願により祭神五柱が増祀され、平安時代には御霊信仰(天変地異や疫 病流行は怨霊のたたりであるとする信仰)が盛んで、この怨霊をなだめ祀るための御 霊会が数々行われたが、当社は古来疫病除の霊社として有名である。このため創建以 来朝野の信仰あつくとくに御所の守護神として皇室の尊信が深い。本殿は享保十八年 に下賜された賢所御殿の遺構を復原したものである。また当社には神與・牛車等皇室 の御寄附品多数を蔵する。 境内は「御霊の杜」といい、応仁元年(一四六七)正月十八日畠山政長と義就の合戦 が行われ応仁の大乱の発端となったところである。御霊祭は明治までは八月十八日で あったが現在では当日は例祭(社頭の儀)五月一日神幸居祭、同月十八日還幸祭がお こなわれる。 応仁の乱勃発地 文正二(一四六七)年正月十八日早朝この付近すなわち上御霊神社 の森の合戦から応仁の乱ははじまった。十七日の夜、畠山政長は自邸を焼いて一族や 奈良の成身院光宣らと兵約二千を率いて、ここに布陣し翌十八日は終日激しい戦いが 続いた。義就方には朝倉孝景ついで山名宗全が加勢した。しかし政長方にはたのみの 細川勝元がこの段階では動かず、まる一日の合戦ののち、政長方が敗退した。これが 応仁の乱の最初の合戦である。 三月、年号は応仁と改まり、細川・山名両陣営ともに味方を集めて、戦時体制をかた め五月から上京を中心に東西両陣の全面的な戦闘に入る。 |
下御霊神社「吉備靈、崇道天皇、伊予親王 はか」京都府京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町 玄松子の記憶
賀茂御祖神社二座[カモノミオヤ](並名神大。月次相甞新甞。) リンク 賀茂御祖神社公式ホームページ
賀茂御祖神社[かもみおや]「賀茂建角身命、玉依媛命」通称:下鴨神社。
京都府京都市左京区下鴨泉川町59 玄松子の記憶
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賀茂御祖神社 御神徳 御祭神は、日本のれい明期において、早くから京都地方を開拓し農耕殖産の道を教え 、更に正邪を糺して裁判の基を開かれた。かの神武天皇の御東遷に際しては、金鵄・ 八咫烏としてその霊徳を現され、建国創業をたすけ、民生の安定に貢献されたことは 古典や伝承の示すところである。また玉依媛命は、賀茂別雷神社(通称上賀茂神社) の祭神「別雷神」の御母神であり、婦道に御功績が多かった。かくて当神社に対する 信仰は往古から甚だ根強いものがあり、特に王朝時代に隆盛を極め今日に至っている 。千数百年の伝統を誇る葵祭は、勅祭として、今もなお昔ながらに継続斎行されてい る。殖産興業、五穀豊穣、馬事安全、縁結び、安産、育児、方除け、印鑑守護等、多 方面にわたる御神徳は、今日の賀茂信仰の根底をなしている。また観光部面において も、王朝の昔を偲ぶ十二単衣の着付と王朝女人の雅楽舞、舞楽等があり、毎日、京都 市観光バスのK・Nコースによって好評を博している。 |
出雲高野神社[タカノ]
崇道神社[すどう]「早良親王」桓武天皇の皇弟早良親王(崇道天皇の諱を追尊)を奉祀する旧高野村の産土の社。御霊信仰である。京都府京都市左京区上高野西明寺山町34 玄松子の記憶
賀茂御祖神社摂社御陰神社[みかげ]「賀茂建角身命、玉依媛命」京都市左京区下鴨泉川町59 玄松子の記憶
御蔭神社「賀茂建角身命、玉依日売命」京都府京都市左京区上高野東山207 玄松子の記憶
御霊神社「崇道天皇 ほか」この地には、はじめ付近住民の氏寺として創建された上出雲寺があったが延暦十三(七九四)年平安京遷都に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代、平安時代初期に不運のうちに薨じた八柱の神霊を祀ったのが当社の初めである。京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495 玄松子の記憶
猿田彦神社「猿田彦大神、天鈿女命」京都府京都市上京区上御霊前町489 玄松子の記憶
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猿田彦神社 由緒 創建年代未詳であるが往古より現今の地に御鎮座あり。桓武天皇当社の託宣により平 安遷都せられたと伝へられる。又延暦十三年勅願により社殿御造営、神領(山城國高 野村)を定められた事社記に見え尚「御代々之聖主御崇敬異于他就中皇居御造替之砌 者以地鎮行事令祭土公神給依之良賤舎屋亦准之」とありて歴代の御崇敬特に篤く、永 徳三年造替の節には将軍職より小山郷柏木田を神領として寄進され御遷座祭には将軍 義満社参、奉幣御神楽奉納ありて當時の社殿は本殿始め幣殿、祝詞舎、拝殿、神楽殿 、神供所等あり境内至四方四町と記され境内には伊勢二所皇大神宮(南向)二柱社、 日隅社、若宮社、氏神社、稲荷社(稲荷社は文安年中近衛殿の御勧請)等が配祀され 其の規模実に宏壮であったが應仁の兵乱により社頭残らず灰燼に帰し、其の後復旧さ れたが天正年中、度々の兵火により復興の暇なく宝永七年上御霊神楽司岡本内記座敷 内に祀り寛政五年に至りて現今の社殿に奉祀せり 新築の本殿は昭和六十年十月竣工 せしものなり。 |
賀茂山口神社[カモノヤマクチ]
賀茂別雷神社境内摂社の賀茂山口神社「御歳神」京都府京都市北区上賀茂本山340 玄松子の記憶
賀茂波爾神社[カモノハニ]
賀茂御祖神社境外摂社賀茂波爾神社[かもはに]「波爾安日子神、波爾安日女神」京都府京都市左京区高野上竹屋町35
賀茂別雷神社境内末社の土師尾社[はじおのやしろ]「建玉依比古命」京都府京都市北区上賀茂本山339
小野神社二座[ヲノ]
崇道神社境内摂社小野神社「小野妹子命、小野毛人命」京都府京都市左京区上高野西明寺山町34 玄松子の記憶
御蔭神社「建角身命、玉依日売命」京都府京都市左京区上高野東山207 下鴨神社公式HP
久我神社[クカ]
賀茂別雷神社境内摂社久我神社[くが]「賀茂建角身命」京都府京都市北区上賀茂本山339 玄松子の記憶
氏神社[うじがみしゃ]「建角身命」京都府京都市北区紫竹下竹殿町47
末刀神社[マト]
賀茂御祖神社境内末社の愛宕社[おたぎのやしろ]「火産靈神」京都府京都市左京区下鴨泉川町59 玄松子の記憶
岩上神社「祭神不詳」京都市左京区松崎林山30 玄松子の記憶
須波神社[スハ]
賀茂別雷神社境内末社の須波神社「阿須波神、波比祇神、生井神、福井神、綱長井神」京都府京都市北区上賀茂本山339
賀茂御祖神社境内摂社河合神社「玉依姫命」(下ノ諏訪)京都府京都市左京区下鴨泉川町59 玄松子の記憶
賀茂御祖神社境内摂社三井神社「賀茂建角身命、伊賀古夜日賣命、玉依日賣命」(上ノ諏訪)京都府京都市左京区下鴨泉川町59 玄松子の記憶
静原社[しずはらしゃ]「伊弉諾尊、瓊瓊杵尊」成務天皇12年。京都市北区静市静原町1351 玄松子の記憶
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静原社由緒 社伝によれば、成務天皇12年3月午日に山城国愛宕郡志津原に鎮座す。 伊奘諾尊が高天原に坐し、瓊瓊杵尊が日向の高千穂峯に天降り、はじめは静原楢小川 の上流「河合谷意美和良川」に鎮まられた。 古来、御本社に伊奘諾尊、奥御前に瓊瓊杵尊をまつったが、そのため合わせて「二宮 社」と呼ばれる。また、天武天皇が逆徒に襲われ此所に臨幸され、玉体安らかに御心 も静かにあそばされた為、静原と称す。そして、刀・弓・矛等を奉納され怨敵を退散 されたため、江州浅井郡の地330石を御寄付され、和銅4年3月3日より祭祀を始 める。 現社地を「真路山」、御旅所を「天皇社山」と称す。 天正検地で330石没収されるも、秀吉公より下鴨社領として30石が定められ明治 に至る。そのため、静原沙汰人と称して下鴨神社の御蔭祭に奉仕する例が現在も続い ている。 |
伊多太神社[イタタ]
崇道神社境内の伊多太神社[いただ]「伊多太大神」五十猛命である。京都府京都市左京区上高野西明寺山町34 玄松子の記憶
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崇導神社 由緒 当社は桓武天皇の皇弟早良親王(崇道天皇の諱を追尊)を奉祀する旧高野村の産土の 社で、その創建年代は詳かでない。延暦4年に長岡京使藤原種継暗殺事件がおこり、 親王も関係ありとされて、淡路へ配流の道中大山崎で怨念を残しつつ憤死された。そ の後朝廷を始め、都の内外に不吉な事故と奇妙な異変が続発した。これらの怪異天災 は親王の怨念の祟りがあると占に出たために鎮魂の行事が盛んに行われた。都の鬼門 に当たると共に北陸への要衝のこの高野の地に御霊社として親王を祀ることになった 。御霊信仰の全国的に流行する貞観時代に早良親王のみを祭った例はない。 |
江文神社[えぶみ]「倉稻魂命」京都府京都市左京区大原野村町643
貴布祢神社[キフネ](名神大。月次新甞。) 貴船神社公式HP
貴船神社「高
神」京都市左京区区鞍馬貴船町180 玄松子の記憶
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貴布総本宮貴船神社略記 御鎮座 鴨川の上流、貴船鞍馬の山峡幽邃の地に鎮ります。神代の昔貴船山に御降臨 、御社殿創建の年代不祥ながら、社記に凡そ1500年前とあり、第四十代天武天皇 の白鳳6年(凡そ1300余年前)御社殿造替えが行われている。日本後記に、藤原 伊勢人が東寺造営の任に当った時、霊夢に貴船大明神あらわれて、鞍馬寺建立の御託 宣ありと記されている。第七十代後冷泉天皇永承元年七月水害、天喜三年四月(凡1 000年前)現在地に奉遷し、元の処は奥宮として奉斎す。 御社格 第五十二代嵯 峨天皇弘仁9年大社に宣せられる。延喜の制には名神大社に列し、四度の官幣に預り 、二十二社(皇室が特別大切にされた神社)に列す。祈雨八十五座の一として、奉幣 には別に祈雨に黒馬、祈晴に白馬を添えられた。 御神階 弘仁9年従五位下に叙せ られ、霊験著しく漸次進めて、崇徳天皇保延6年には正一位に昇叙せられる。 貴船 信仰 水の霊威は実に広大にして、計り知れない。万物水霊を蒙らぬはない。平安朝 時代からの朝野の尊崇極めて厚く、日照り、長雨、国家有事の際には必ず勅使(天皇 のお使い)を派遣せられ祈念が捧げられた。尊貴の崇敬は全国一般にも及び、殊に治 水関係者、農家、醸造家、染織家、航海者、料理飲食業、製菓業、浴場業、その他水 商売の人々は厚い畏敬の念を以て信仰を捧げている。当社より御分霊を戴いておまつ りしている御分社は全国府県に御鎮座、約五百社を数える。 |
鴨川合坐小社宅神社[カモノカハアヒ](名神大。月次相甞新甞。)
賀茂御祖神社境内の河合神社「玉依姫命」京都府京都市左京区下鴨泉川町59 玄松子の記憶
鴨岡太神社[カモノヲカモト]
賀茂別雷神社境内末社の山森社[やまもりのやしろ]「素戔嗚神、奇稻田姫神、田心姫神」京都府京都市北区上賀茂本山339 玄松子の記憶
幸神社(岡本堂)「猿田彦大神」京都府京都市北区上賀茂岡本町 玄松子の記憶
厳島神社「市杵嶋姫命」京都府京都市左京区静市市原町1415 玄松子の記憶
大神宮社「天照皇大神」京都府京都市左京区静市市原町1416 玄松子の記憶
太田神社[オホタ]
賀茂別雷神社境内摂社の大田神社「天鈿女命」京都府京都市北区上賀茂本山340 玄松子の記憶
三井神社[ミヰ](名神大。月次新甞。)
賀茂御祖神社境内摂社の三井社「賀茂建角身命、伊賀古夜日賣命、玉依媛賣命」京都府京都市左京区下鴨泉川町59 玄松子の記憶
賀茂御祖神社境内摂社河合神社門前の三塚社 京都府京都市左京区下鴨泉川町59 玄松子の記憶
大柴神社[オホシハ]
神明神社 京都府京都市左京区大原草生町 未確認
岩戸落葉神社[いわとおちば]「稚日女神、彌都波能賣神、瀬織津比
神」京都府京都市北区小野下ノ町170 リンク 岩戸落葉神社 in 小野郷地域の歴史 リンク2 岩戸落葉神社
高橋神社[タカハシ]
北野天満宮境内の神明社 京都府京都市上京区馬喰町 玄松子の記憶
片山御子神社[カタヤマノミコ](大。月次相甞新甞。)
賀茂別雷神社境内摂社片山御子神社「玉依比賣命」京都府京都市北区上賀茂本山339 玄松子の記憶
紀伊郡[キ]:八座 大三座 小五座
御諸神社[ミモロ]
伏見稲荷大社「宇迦之御魂大神」京都府京都市伏見区深草藪ノ町68 玄松子の記憶
稲荷神社三座[イナリ](並名神大。月次新甞。) リンク 伏見稲荷大社公式HP
伏見稲荷大社「宇迦之御魂大神 配 佐田彦大神、大宮能賣大神、田中大神、四大神」前掲
大椋神社[ヲホムクラ] 所在不明
飛鳥田神社[アスカタ](一名柿本社)
田中神社「素盞嗚尊 配 稻田姫尊、八俣遠呂智」京都市伏見区横大路天王後51 神詣
飛鳥田神社[あすかだ]「別雷神、市杵嶋姫命」京都市伏見区横大路柿ノ木町11 神詣
飛鳥田神社「荷田竜頭之遠祖靈」京都市伏見区下鳥羽城ノ越町6 玄松子の記憶
眞幡寸神社二座[マハタキ] 城南宮のホームページ
城南宮境内摂社の真幡木神社[まはたき]「眞幡寸大神、品陀和氣尊」京都府京都市伏見区下鳥羽中島宮後町6
宇治郡[ウチ]:十座 大五座 小五座
宇治神社二座[ウチ](
靫) リンク 宇治神社
宇治神社[うじ]「菟道稚郎子命」菟道宮という。京都府宇治市宇治山田1
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宇治神社 御祭神事歴並略由緒 祭神、菟道稚郎子命 当社は仁徳天皇の創建にして往昔より離宮八幡宮という、史上所謂桐原日桁宮(きり はらひけたのみや)これなり、抑も祭神菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと )は応神天皇の皇子にして、夙に経籍を習い、儒道を修め博くその理義に通じ給う、 ことに聴明叡智に坐しましかば、天皇深く御鍾愛あり、長子を凌きて皇太子と定め給 う、御父応神天皇御崩御の後、命は天位を皇兄大鷦鶺命(おおささきのみこと・仁徳 天皇)に譲りて此処に住はせ給う、されど皇兄位を践み給わず、互に相譲りて帝位を 空ふし給うこと三年、命皇兄の御心の奪うべからざるを知り給うや、死を以て節を全 うし給えり、皇兄深く痛哭哀悼し給えど今は詮術なければ、遂に天位を襲い給う仁徳 天皇すなわちこれなり。しかれば此の御即位譲りのことは百世の美徳として普く世人 の知る所なり、ここに於いて天皇その宮居の地に祠を建てて、命の神例を鎮祭せしめ 給う、これ当社の創立なり。 命は初め百済の貢士阿直岐(あちき)および王仁(わに)に就て学び薀奥を極め給う 、実に我国文教の始祖にして、その事蹟は長へに彜倫を叙し汎く治教を張れるのみな らず、国運の隆興も亦大に負うところ甚少なからざるべし。 当社は古来極位の官社にして、歴朝の崇敬武将の信仰は申すもさらなり、殊に後冷泉 天皇の尊崇厚く、宇治関白頼通公も亦深く崇敬し、毎年例祭の砌り幣帛を進め神馬を 獻したり、また社家政所総長者神事奉行所のありしと、古史社伝社記に詳かなり、中 古兵乱等のため、太く衰微せるも今なお古礼の存するものあり。 明治三十年皇太子殿下(大正天皇)本社に行啓ありて幣帛を供進せらる。 御神像および社殿は共に重要文化財なり、年中祭典行事の主なるものは、歳旦祭を初 め祈年新嘗等の大祭、中祭、小祭、遥拝式の外に毎年十月一日献茶祭、五月八日例祭。 |
宇治上神社[うじかみ]「応神天皇、菟道稚郎子命、仁徳天皇」京都府宇治市宇治山田59 世界文化遺産
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宇治上神社 国宝宇治上神社 神社の前の参道を宇治神社の境内を抜けて宇治川の畔までいくと、川をへだてた木立 ちの間に力強い反りを見せた瓦屋根が見える。平等院の鳳凰堂である。丁度、神社の 位置は平等院の真向かいであることが判る。 実は、宇治上神社と平等院とは、深い関係があった。平等院ができてからは宇治上神 社は、その鎮守としてあがめられ、例年の五月の祭礼には、藤原氏から神馬が奉納さ れ、また散楽等も奉仕された。治暦三年、正三位の神位の授与のあったときには、天 皇は平等院より神社に御幸されている。 もっとも、藤原氏が宇治院を手に入れるまでのことについては、はっきりとしたこと は判らない。古くは、宇治上、宇治神社の両方をあわせて宇治明神、あるいは離宮社 とよばれ、江戸時代には離宮明神といわれているところからみて、陽成天皇の離宮で ある宇治院の鎮守として、祀られたものとの見方も成り立つ。このように、神社の古 い由緒については明らかではないが、神社の社殿である本殿、拝殿、摂社春日社等の 諸建物は、この社が、古い歴史をもっていること、そして高度の造型技術を身につけ た人たちにより、造営されてきたことを雄弁に語っている。これらの建築は文字に書 かれた歴史以上の迫力をもって我々に深い感動を与えてくれる。拝殿のすぐ右に、宇 治七名水の一つである桐原水(きりはらすい)が、今日もなお清らかな水を湧出して いるが、七名水のほとんどが、かれてしまった今日、何か有り難いような気がする。 そしてこの環境が、千年近い年数の間、ずっと保たれてきているのに、今更のように 驚くのである。 |
日向神社[ヒムカヒ] リンク 日向大神宮
日向大神宮「天照大神、三女神」 京都府京都市山科区日ノ岡夷谷町28
許波多神社三座[コハタ](並名神大。月次新甞。)
許波多神社「天忍穂耳尊、瓊瓊杵尊、磐余彦尊」京都府宇治市五ヶ庄古川13 リンク 許波多神社
木幡神社(許波多安須加多神社)「?」 京都府宇治市木幡東中1
天穂日命神社[アマノホヒ]
天穂日命神社「天穂日命」京都府京都市山科区石田町
宇治彼方神社[ウチヲチカタ](鍬靫)
彼方神社[おちかた]「大物主命」京都府宇治市宇治東内28
山科神社二座[ヤマシナ](並名神大。月次新甞。)
山科神社「日本武尊、稚武王」寛平9年(897年)宇多天皇の勅命により創建。京都府京都市山科区西野山岩ヶ谷町1 ちょっと 山科探訪
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山科神社 日本武尊稚武王を祀る。 社伝によれば、寛平9年(897年)宇多天皇の勅命により創建されたと伝え、以後 、この地の豪族、宮道氏の祖神として、また、山科一之宮とも呼ばれて、この地の産 土神として、崇敬をうけ、栄えてきた。昔は社領も広く、山城及び丹波にあり社殿の 規模も大きかったが、現在は本殿、権殿、拝殿、神庫などが残っている。 また、元禄14、5年(1701〜1702)赤穂浪士の大石良雄が山科の里に隠棲 していたが、その時、当社奥の院岩屋神社に参篭して大願成就を祈ったといわれてい る。 例祭は「山科祭」と呼ばれ、毎年10月10日に行われる。 |
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本社は天忍穂耳命、栲幡千千姫命の夫婦二柱と、その皇子饒速日命の親子三柱を祭神する。本社の根源は、奥ノ院、また岩屋殿と称す本社後山の山腹に座す陰陽の両巨巌である。これは今の社殿様式のように、定まった参拝設備のなかった時代での石座信仰の名残であり、この発祥は仁徳天皇三十一年と伝わる。後年宇多天皇の御世寛平年間に、陰巌に栲幡千千姫命を陽巌に天忍穂耳命を、また岩前小社に大宅氏の祖神とし饒速日命を祀る。約一千百年前のことである。その後社殿は、治承年間に園城寺僧徒の焼くところとなり、旧記も共に失う。弘長二年にいたって社殿は再建され今日に至る。現存する古代木製高麗狛は当時のものである。また中世に東西上の岩屋三社と呼ばれた神社は、東が当社であり、西が山科神社、上は不明である。
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久世郡[クゼ]:廿四座 大十一座 小十三座
石田神社[イハタ](大。月次新甞。)
石田神社[いしだ]「磐裂神」京都府八幡市八幡大字岩田里35
石田神社「天照皇大神 配 大山咋命、五十日足彦命」京都府八幡市八幡大字岩田茶屋の前75
水主神社十座[ミヌシ](並大。月次新甞。)(就中同水主坐天照御魂神。水主坐山背大國魂命神二座。預相甞祭。)
水主神社[みずし]「天照御魂神、天香語山命、天村雲命、天忍男命、建額赤命、建筒草命、建田背命、建諸隅命、倭得玉彦命、山脊大國魂命」
京都府城陽市水主宮馬場30
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水主神社 府社水主神社並衣縫大神略由緒 水主神社の祭神は、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(天照大神の御孫にして天照御魂 神とも申し奉る)をはじめ、其御子孫天香語山命、天村雲命、天忍男命、建額赤命、 建筒草命、建田背命、建諸隅命、倭得玉彦命、山脊大國魂命の十柱の神々と、大縫命 、小縫命の二柱の比・神にまします。 天孫饒速日尊の第十世、山脊大國魂命は山脊(やましろ)の國造として国土経営に功 あり其子孫代々此地に廟食して国土を統治す、この故に山脊大國魂命または山代根古 命とも尊称す、大國魂とは国土経営を賛称し、根古とは其民統治の謂なり。 人皇十代崇神天皇の御代、豊鋤入姫命をして大殿裏に奉祀の天照大神を倭笠縫邑に遷 祀せしめ給ひしが、また別に淳名城入姫命をして、日本大国魂命ならびに山脊大國魂 命を倭、山脊(やましろ)の二国に神籬を建て、齊き祭らしめ給う、水主神社はその 一社なり、我国神社多しと雖も国土経営の功徳をもって上古以来子孫永くその土地に 住み、祖神祭祀を営みたる当社の如きは稀なりと謂うべきなり。 この故をもって仁明天皇の承和以来たびたび神位を進められ、延喜式によれば、朝廷 より毎年四度幣帛を賜り、特に天照御魂神、山脊大國魂神の二座は相嘗祭に預れり、 また加茂両神社、松尾神社、住吉神社とともに天災除疫五穀豊饒祈年祈雨等に就き朝 廷より奉幣祈願ありしことしばしばなりき。 大縫命、小縫命の二柱の比・神は、天香語山命の御子天村雲命九世の御孫にして人皇 十三代成務天皇の御宇志賀高穴穂宮に仕え奉り、糸縫針の職を掌り給いしにより其子 孫に衣縫の氏を給う(新撰姓氏録参照)、故に此神を衣縫の祖大神、衣縫の宮、衣縫 大神として敬称し奉る。 境内に樺井月神社あり、月読命を祭神とし古来より牛馬の神として参詣する者少なか らず。 |
荒見神社[アラミ]
荒見神社 「天照國照彦天火明櫛玉饒速日命、天香山命、天牟良雲命、阿比良依姫命、木花開耶姫命」京都府城陽市富野字荒見田165 リンク 荒見神社 in 京都の南行くならここ
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荒見神社 御由緒 延喜式内社、国史所載、国内神明帳所載、以下古典による。 宏遠人皇第三十六代孝徳天皇の御宇大化三年九月小篠峯に此所の管領三富野部連金建 畏みて御殿ご創建天神五柱を鎮祭す阿良美五社大明神と申奉る以降神境山麓一帯を五 社ヶ谷と呼称す旧社地にして古代より奈良街道に面する聖地たり第一〇七代後花園天 皇の寛正二年三月吉祥日に八一四年間奉斎神地の五社ヶ谷より現在の神域に吉田神道 管領長上ト部朝臣兼知公御神殿を復元造営し遷宮申奉り安羅見五社天神宮と申奉る摂 社御霊社同時に遷祀す。往時奉拝者の生業盛んにして暫時山間部より平野部に遷居、 平安と招福を願い同時に農工商業の繁栄と木津川の永代安泰を祈念せるによる。 第一〇八代後土御門天皇長享元年御本殿および摂社再建造営成就、第一一二代後陽成 天皇の慶長九年九月三日御社殿および摂社修復造営成就、現在の社殿なり、明治六年 社格制と同時に幣帛共進社に指定さる。御本殿の壱宇建築様式は三間社流造、摂社壱 宇は一間社流造、両殿ともに総檜皮葺御本殿壱宇は明治三十九年国宝に指定さる。 |
荒見神社「武甕槌命、應神天皇、仲哀天皇、別雷大神、倉稻魂命」京都府久世郡久御山町大字田井字荒見49 神詣
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荒見神社 荒見神社の由緒 当社の創建年代は不明であるが、延喜式および山城国風土記に現在の神社名で記載さ れているので、少なくとも千年以上前であることは明らかである。往古の祭神は右の 文献によれば天歳神一座とされる。時代を経るにつれ、氏子の信仰によって天歳神が 、その弟神で神威の高い稲荷大神に変更され、またこの付近で神威の高い神々を勧請 して現在の五柱の祭神になった。 江戸時代当社は、五社大明神と奉称されていたが、明治初年現在の神社名に復した。 当社は、寛永七年(1630)木津川堤切れの洪水によって社殿と社地を失い、寛文 四年(1664)氏子の寄進によって現在地に社殿を再建した。現在の本殿は当時の もので、江戸時代初期の雄渾な神社建築様式を残す優れた文化的遺産である。諸記録 は元禄年間(1688から1702)以降のものが残っており、田井の氏子の祖先の 当社に対する篤い尊崇の跡を示す貴重な資料である。 明治十年(1877)6月、延喜式内社と決定された。 |
雙栗神社三座[サクリ]
雙栗神社[さぐり]「天照大御神、須佐之男命、事代主神、棟本八幡宮、品陀和氣命、息長帶日賣命、比
大神、大雀命」京都府久世郡久御山町大字佐山字双葉55 雙栗神社
水度神社三座[ミト](鍬靫) リンク 水度神社
水度神社[みと]「天照皇大神、高産靈神、豐玉姫命」平安時代初期。旧地は境内領東に往古鴻が巣を結んだ鴻の巣山の峯つづきにあたる大神宮山であったと伝う。京都府城陽市寺田水戸坂87
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水度神社 水度神社の由来記 創祀の年代は平安時代初期と伝う。史実によれば、清和天皇の貞観元年(859)従 五位の下の神位を授けられ、延喜の制には小社に列せられる。明治6年には村社、同 15年には郷社に、同40年には府社に昇格、現在は社格が廃止され、神社本庁に属 する宗教法人水度神社と称する。 旧地は境内領東に往古鴻が巣を結んだ鴻の巣山の峯つづきにあたる大神宮山であった と伝う。現在の地へは鎌倉時代の文永5年(1268)に旧地より遷し奉り今日に及 ぶ。由来寺田郷の産土神として氏子の信奉篤く、近年近郷よりの参詣者もその数を増 す。 本殿は、正面一間、側面二間の変化に富んだ流れ造り破風様式(千鳥正面破風)で、 簡素にして優美な建築である。社殿棟札(重要文化財)によれば、室町時代の文安5 年(1448)の建立になる。その後、桧皮葺替えの修理を重ね今日に至る。現在は 重要文化財に指定されている。 |
且椋神社[アサクラ]
且椋神社(旦椋神社)[あさくら]「高皇産靈神」京都府宇治市大久保北ノ山109-1
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且椋神社 由緒書 貞享十三年以前の創建。 |
伊勢田神社三座[イセタ](鍬靫)
伊勢田神社[いせだ]「天照皇大神、手力男大神、萬幡豐秋津姫大神」京都府宇治市伊勢田町若林13
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伊勢田神社 由緒 勧請の年歴詳ならずと云ども、山城国風土記によれば、大宝三年(人皇42代文武天 皇の御世)9月初め奉主田幸祭礼とあり、約1,280余年前に鎮座なることを知る 。 明治六年村社に列せられ、同年6月延喜式内伊勢田神社と決定す。 |
巨椋神社[オホクラ]
巨椋神社[おぐら]「武甕槌神、經津主神、天兒屋根神、比
神」嵯峨天皇の勅依に依り、巨椋春日大神と勧請。京都府宇治市小倉町寺内31 巨椋神社
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巨椋神社 巨椋神社と子守神社の由来 巨椋神社は、人皇52代嵯峨天皇の勅依に依り、巨椋春日大神と勧請された。奉祭神 である武甕槌神、経津主神は、武勇の神で天照皇大神の大命を拝し、大国主命に諾命 を伝えて、この国を天孫に献らしめ給い、さらに諸国を巡り、服従せぬ者を討ち平ら げ、国土平定の大功をたてられた。すなわち我が国の将師の始祖として畏敬せられた 神々である。また天児屋根神は、天照皇大神に仕奉りて発祀の任務に当たられたが、 そのご大神の命により天孫のとき、邇々杵命に随従し朝政に大なる功績をたてられた 神で、我が国の宰相の始祖である。天児屋根神は藤原氏の祖神で、藤原氏は歴代多く の皇后となられて、皇室との関係は格別である。比・神は、天児屋根神の妃神で御神 徳の高き神である。 子守神社は、人皇55代文徳天皇の皇子惟喬(これたか)親王が子供愛護の大御心に よって建立された神社であります。そのいわれは、昔三疋の大鳥何方となく来り数多 のつつき、けとばし、なやましたので、帝がこの由を聞かれ惟喬(これたか)親王に 弓矢をもって諸国を廻り退治させられました。そのとき河内の渚の院にて大鳥を射殺 され帰途、その故をもって小倉村中の小路に子守大神を祭られたのが当社の創めであ りまして、御祭神は天磐樟船神であります。以来世にも稀な子供の守護神として、霊 験日に日にあらたかであります。また当社にお祭り遊ばされし子供守護尊像の由来は 、南山城小倉の里大椋の森に鎮まります子守大神と申し奉るは、人皇55代文徳天皇 の皇子惟喬(これたか)親王の奉祀し給う所にて、爾来年を経ること壱千有余年子供 のために祈誓なし、思頼をかがふるも洵にすくなからず、惟喬(これたか)親王の子 供を愛護し給う大御心により子守大神奉祀のときに御祭祀遊ばされし石像を摸し奉り 子供守護の尊像として祭る。殊に夜泣き・かん虫・病気のときは奇しき御霊験がある 。 |
室城神社[ムロキ]
室城神社「須佐之男命、大雀皇子命」京都府久世郡久御山町大字下津屋字室城98-1
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室城神社 室城神社の由緒 口碑によれば、今を去る約1250年昔の聖武天皇の神亀年間、近国に大洪水あり。 民飢え、勅して天神地祇をこの地に奉祀せしめ給うた。同天皇の御世、悪疫流行あり 。当社にその退散を御祈願、弓矢を御献奉あらせられた。今に伝わる当社の春祭は、 この勅願が起源といわれ、弓矢を像った特殊神饌が供献される。その後、南北朝の兵 戦により神事は一時中断した。 また今から約350年以前の寛永七年、木津川の堤切れにより、当社の壮大な社殿は 諸記録と共に流出した。その後再建された社殿は、規模が縮小され、今なお仮殿であ るといい伝えられている。 明治六年村社に列格、同十年延喜式内社(今を去ること1074年昔の延喜五年の勅 命により編纂去れた。延喜式に神社名が記載され、当時官幣または国幣にあずかった 神社)と決定された。昭和二十八年、神社本庁包括の宗教法人となる。 |
綴喜郡[ツゝキ]:十四座 大三座 小十一座
樺井月神社[カハヰノツキ](大。月次新甞。)
水主神社境内の樺井月神社[かばいつき]「月讀命」京都府城陽市水主宮馬場30 阜嵐健
朱智神社[スチ]
朱智神社[しゅち]「迦爾米雷王命 配 建速須佐之男命、天照國照彦火明命」京都府京田辺市大字天王字高ヶ峯 神功皇后の道
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朱智神社 御由緒 当社はもとこの地より西方3町余りの所に有り仁徳天皇69年に社殿を建てて朱智天 王と号しました。迦邇米雷王は開花天皇の曾孫で神功皇后の祖父に当られ垂仁天皇御 代にこの地を治められて、その子孫朱智姓を名乗られました。須佐之男命が相殿とし て祭られたのは垣武天皇の御代に大宝天王(牛頭天王)を現在の京都八坂神社に遷し 毎年の榊遷しの行事を行いましたが何時よりか無くなりました。明治維新に至り神祗 官に上請して天王社を古名の朱智神社に復し明治6年6月郷社となりました。 |
月讀神社[ツキヨミ](大。月次新甞。)
月讀神社「月讀命 配 伊邪那岐尊、伊邪那美尊」京都府京田辺市大字大住字池平31
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月讀神社 月読神社の由緒 月読神社は月読尊・伊邪那枝尊・伊邪那美尊を祭り旧村社「延喜式内社」大住国から 当地へ来住した隼人らが祀ったともいわれ、又一説には平城天皇の大同4年(西暦8 09)大住山に霊光を拝して神殿を造営されたのに始まり、その後貞観元年8月に月 読神社といわれている。貞治三年葛野義威が神殿を再興し慶応4年正月石清水八幡宮 が戦火を避けて当社へ、一時遷座された事のある格式の有る神社です。本殿は東面し 、一間社・流造・板葺で明治26年再建。 |
咋岡神社[クヒヲカ](鍬靫)
咋岡神社[くいおか]「宇賀乃御魂神」京都府京田辺市大字飯岡字東原62 咋岡神社
咋岡神社「稻倉魂神」京都府京田辺市草内宮ノ後5 神詣
高神社[タカ](鍬靫)
高神社[たか]「伊弉册命、菊理姫命、伊弉諾命」
欽明天皇の元年。多賀集落の東南に位置する天王山に鎮座。京都府綴喜郡井手町大字多賀字天王山1 公式?
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高神社 高神社の由来 元郷社 式内社高神社 当神社は多賀集落の東南に位置する天王山に鎮座。本殿は北西に向かい多賀集落を見 守るように建てられています。 創立は人皇第29代欽明天皇の元年(西暦540年)東嶽に御神霊の御降臨により社 宮を建ててお祭りした事に始まります。その後集落の発展に伴い、元明天皇の和銅4 年(西暦711年)東村宮として多賀明神社が字川辺に建立され、次いで神亀2年( 西暦725年)字西畑に久保村宮が、神亀3年(西暦726年)字綾の木に谷村宮が 、それぞれ建立されました。聖武天皇の天平3年(西暦731年)勅願により高御産 日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」に「多賀村」を「高村」 と名称が変更されました。元慶2年(西暦878年)8月谷村宮龍神祭の時に死者の 出る喧嘩騒動が起こりました。そのためその後相談が重ねられ、仁和元年(西暦88 5年)現在地の天王山に統合され三村がなか良くお祭りをすることになりました。こ の間宇多天皇の御真筆による「大梵天王社」の額と称号を頂き永く高村「大梵天王社 」と呼ばれて来ました。醍醐天皇の御代には神輿が三基あったと記されています。仲 恭天皇の承久三年(西暦1221年)大乱の後「高村」を「多賀」に「高神社」を「 多賀神社」に改正されました。寛元3年後嵯峨天皇の時代には霊顕あらたかな神様と して「正1位勳1等」の神位と「大明神」の称号が贈られました。明治元年に神社制 度の改正により大梵天王社「多賀神社」が現在の「高神社」に改正されました。本殿 のご祭神は「伊邪那岐命」「伊邪那美命」「菊々理姫命」摂社14社ご祭神及び神社 名は「天照大神」「須佐之男命」「大国主之命」「応仁天皇」「仁徳天皇」「仲哀天 皇」「稲荷神社」「愛宕神社」「八幡宮」「春日神社」「恵比寿神社」「八王子神社 」「祈雨神社」「聖神社」であります。 |
内神社二座[ウチ]
内神社「山代内臣、味師内宿禰」 京都府八幡市内里字内1
粟神社[アハ]
粟神社[あわ]「粟神」京都府城陽市市辺字大谷66 神詣
棚倉孫神社[タナクラヒコ](大。月次新甞。)
棚倉孫神社「天香古山命」
sa京都府京田辺市大字田辺字棚倉49 京都の南行くならここ
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棚倉孫神社 棚倉孫神社について 当社は天神の森に鎮座する。祭神は天香古山命あめのかごやまのみこと)・別名 高 倉下命たかくらじのみこと)・手栗彦命(たなくりひこのみこと)ともいい、手栗彦が 棚倉孫に転じたともいわれる。一説にはこの地は養蚕が盛んで棚倉とは蚕棚の小屋の 意であり、養蚕に関係のある神ともいう。旧郷社。創祀の由緒は明らかでないが、「 三代実録」貞観元年(西暦859)正月27日条に従五位上に叙せられた諸神の一に 「棚倉孫神」があり、「延喜式内社」である。本殿は東面し、一間社・流造・桧皮葺。 |
佐牙乃神社[サカノ](
靫)
佐牙神社[さが]「佐牙彌豆男神、佐牙彌豆女神」京都府京田辺市大字宮津字佐牙垣164
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佐牙神社 佐牙神社の由来 由緒 社伝には敏達天皇の2年(西暦573年)始めてこれを祭られる。 造酒司(さけつくりのつかさ)の奉弊があったとつたえられる。また東朱智社とも言 うたらしい。当社は昔山本村(遠藤川の北側府道より少し東)にあったのが、垣武天 皇延暦13年(西暦794年)現在の地に創建されたと伝えられ、平城天皇大同元年 (806年)神領寄進あり延喜の制には小社に列せられ、字山本はこれを氏神として 今なお旧地を御旅所として祭日には神輿の渡御がある。この附近は往古佐牙野と呼ば れ、筒城野の東、南は裾野川(今煤谷川と言う)、北は朱智川辺までの名称と思われ る。また佐牙垣内(さがかいと)のなが江津に残っていおり、社名と地名が同一であ ったことが知られる。古事記の開化天皇の段に山代之荏名津比売(やましろのえなつ ひめ)の名が出ている。この荏名津は旧名江の津(今の江津)であろうと推定されて いる。 当社の社殿は永正6年(1509年)12月6日菱田監物(けんもつ)と森村信濃守 と土地争論のことがあって兵火にかかり、永正11年8月山本主馬介義古一族等によ って再建されたが、天正4年(1576年)10月20日また火災にかかって焼失し たが、同13年9月13日さらに新築して遷宮式をあげたとつたえられている。 |
酒屋神社[サカヤ]
酒屋神社[さけや]「津速魂神 配 應神天皇」京都府京田辺市大字興戸字宮前100 神詣
甘南備神社[カンナヒ]
神南備神社[かんなび]「天照大神、葺不合命、大國主命、天兒屋根命」京都府京田辺市大字薪字神南備山10
天神社[アマツカンノヤシロ]
天神社[てん]「天照大神、伊弉諾尊」京都府京田辺市大字松井字向山1 神詣
朱智神社 式内朱智神社に掲載済み
棚倉孫神社 式内棚倉孫神社に掲載済み
地祇神社[クニツヤシロ]
地祇神社[ちぎ]「息長帶比賣命 配 大山祇神、大國主神」京都府京田辺市大字普賢寺字下大門65
相樂郡[サカラカ]:六座 大四座 小二座
祝園神社[ハフソノ](大。月次新甞。) リンク 祝園神社
祝園神社[ほうその]「天兒屋根命、建御雷命、經津主命」京都府相楽郡精華町大字祝園字柞の森1
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祝園神社 御由緒沿革 人皇第10代崇神天皇の御代、第8代考元天皇の皇子、武埴安彦が朝廷に反逆を企て 遂に此の地に於いて討伐されたが(記紀参照)、亡魂、柞ノ森に止まり、人民を悩ま せしを第45代聖武天皇神亀年中に、これを撲滅せんとするも鬼神の所業なれば、人 力にては如何ともなり難く、後年48代称徳天皇の御代、神力を以てこれを撲滅せよ との勅命により大中臣池田六良広綱、宮城七良朝藤が、祝部となり、神護景雲4年1 月21日の春日の大神を御勧請し創祀された。かくして斎戒沐浴精進祈願により、( これが今に伝わるいごもりの始まり)神力の加護の基に遂に悪霊撲滅の難業なり、広 綱、朝藤の功と相俟って揃って漸く悪病平癒、人民安堵、農家の繁栄、商工業の隆盛 を見るに至った。かかる霊験灼かなる神なれば、貞観元年正月27日に神階位従5位 下を授け後年延喜式内大社に列せられる。天正4年7月24日には天下泰平の国宣あ り、院參の官人及び武門武将の尊崇深く、社殿の修造に寄進の事がしばしば見受けら れ慶応3年8月には有栖川官家より御寄進を賜り、同官家の御祈願所となる。明治6 年郷社と定められ祝園村の産土神と決定の旨達せられる。昭和38年高松宮殿下より 、有栖川宮威仁親皇殿下50年祭に当たり、同殿下の筆録を御寄進あり。又、昭和5 9年4月14日、いごもり祭は京都府無形民族文化財に指定された。 |
和伎坐天乃夫支賣神社[ワキノニ](大。月次新甞。)
和伎坐天乃夫支賣神社[わきにますあめのふきめ]「天乃夫岐賣命、田凝姫命、市杵嶋姫命、湍津姫命」御祭神天乃夫伎賣命とは、天照大神の御魂であると記されている。京都府相楽郡山城町平尾字里屋敷54
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和伎座天乃夫岐賣神社 湧出宮縁起 古来より天下の奇祭「いごもり祭」で世に知られる湧出宮は、JR奈良線棚倉駅前の 鎮守の森に鎮座する古社である。(旧社格は「延喜式内社・郷社」)創建は今より1 200年余り前の、称徳天皇の天平神護2年(766)に、伊勢国渡会郡五十鈴川の 畔より、御祭人として此の地に勧請申し上げたと伝えられている。社蔵の文書(和伎 座天乃夫伎賣大明神源縁録)によれば、御祭神天乃夫伎賣命とは、天照大神の御魂で あると記されている。恐れ多く神秘なるが故にかく称し上げたとある。後に田凝姫命 、市杵島姫、瑞津姫命を同じく伊勢より勧請して併祀したとある。尚、この三女神は 、大神とスサノオの命との誓約によってお生まれになった御子である。(涌き出宮大 明神社記) 大神を此の地に奉遷した処、此の辺は一夜にして森が涌きだし4町8反余りが、神域 とか化したので、世の人は恐しく、御神徳を称えて、「涌き出森」と呼称したと言い 伝えられている。山城の国祈雨神11社の1社として、昔から朝野の崇敬を集めてき た。清和天皇(859)や、宇多天皇(889)が奉幣使を立て、雨乞い祈願をされ えたところ、霊験により降雨があったと記されている。本殿は社蔵の「堂社氏子僧遷 宮記」よれば、現本殿は元禄5年(1692)の造営で、「三間社・流れ造り」で屋 根には「千木・勝男木」置くとある。それ以前には中世の戦火で度々焼失し、源頼朝 や、後小松朝、後柏原朝の御世にも再建された。昭和50年には本殿の屋根が檜皮葺 から銅板葺き変わり、現在の形になった。平成3年には氏子、崇敬者の浄財拠出によ り、神楽殿・社務所が全面改築新装された。 涌出森境内一帯は、弥生期の居住跡として弥生式土器・石器等が出土した。また、社 無所改築前の発掘調査では、竪穴式住居跡も確認された。 |
綺原坐健伊那大比賣神社[カムハラノ]
綺原坐健伊那大比賣神社[きはらにますたていなだひめ]「健伊那太比賣命」京都府木津川市山城町綺田山際16 風光
相樂神社[サカラカ]
相楽神社[さがなかく]「足仲彦命、譽田別命、氣長足姫命」京都府相楽郡木津町大字相楽字清水1
岡田鴨神社[ヲカタノカモ](大。月次新甞。)
岡田鴨神社[おかだかも]「建角身命」崇神天皇の御代。京都府相楽郡加茂町大字北字鴨村44
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岡田鴨神社 鎮守と沿革 由緒 本社は、延喜式内の古社に列せられ、「日本三代実録」によると、貞観元年(859 )正月27日、岡田鴨神に従5位上を授くと記されている。明治6年郷社に列せられ た。「釈日本紀」の山城風土記の逸文によると、建角身命は日向の高千穂の峰に天降 られた神で、神武天皇東遷の際、熊野から大和への難路を先導した八咫烏が、すなわ ち御祭神の建角身命で、大和平定に当たり数々の偉勲をたてられた。大和平定後、神 は葛城の峰にとどまり、ついで山城国岡田賀茂(現在の加茂町・江戸時代までは賀茂 村と書く)に移られ、その後洛北の賀茂御祖神社(下鴨神社)に鎮まるのである。賀 茂氏族の発展を祈り岡田賀茂の地に洛北より賀茂明神を勧請し賀茂氏族の祖神、建角 身命が祀られた。当社の御鎮座は、崇神天皇の御代と伝えられている。境内は、元明 天皇の岡田離宮の旧跡と伝えられ、村人が離宮の旧跡を保存するためにこの地に天満 宮を創祀したと伝えられる。和銅天平時代には、現在の木津川(古名−加茂川)は岡 田山(流岡)の北側を流れていたが、その後木津川が南側を流れるように変化し、水 害が頻繁になり、式内岡田鴨神社を旧社地より岡田離宮の跡である天満宮の境内に遷 された。 |
岡田國神社[ヲカタノクニ](大。月次新甞。)
勝手神社摂社の春日神社「天兒屋根命」京都府相楽郡加茂町大字大野字大野1 神詣
岡田國神社「生國魂命、菅原道眞、氣長足仲彦命、氣長足姫命、譽田天皇」京都府相楽郡木津町大字木津字大谷105
H24.10.28