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全国清々会創立五十周年記念事業『素盞嗚尊縁の地韓国牛頭山「曽尸茂梨」を訪ねて』 全国清々会とは素盞嗚尊縁の神社神職の団体で、京都の八坂神社の真弓常忠宮司が会長をつとめておられる。 ここで「曽尸茂梨」とは一体どこであったか?と言う議論が交わされて来、幾つかの候補地が出てきた。 全国清々会の重鎮である紀の国伊太祁曽神社の奥宮司は、かねてより素盞嗚尊・五十猛命のルーツに大いに関心を持ったおられ、「曽尸茂梨」の候補地を訪ねることを提案されていた。 ここに、五十周年記念事業として、「曽尸茂梨」ツアーが計画・挙行された。 この記念事業の遂行に当たり、八坂神社(真弓常忠宮司)以下の事務当局の方々の大いなるご苦労に感謝申し上げます。 筆者は伊太祁曽神社奥宮司のご配慮で参加させて頂くと言う幸運に恵まれ、100名の参拝団の一員として同行させて頂いた。 このページは、「曽尸茂梨」ツアーの報告です。 |
九月五日(水) ソウル空港ロビー集合、春川 牛頭山参拝見学 ソウル泊 九月六日(木) 俗離山 法住寺参拝見学 益山 弥勒寺址参拝見学 扶余 扶蘇山城 落花岩見学 儒城温泉泊 九月七日(金) 武寧王陵・公山城・国立公州博物館見学 ソウル泊 九月八日(土) ソウル 景福宮・国立民俗博物館見学 ソウル空港ロビー解散 |
2.春川の牛頭山
日韓併合の後の「内鮮一体」の政策により、朝鮮式社殿の江原神社が創建され、またスサノヲを祀った牛頭神宮が計画されたという。 江原神社の当時の角南宮司は、 形の上からは半島人に親しまれるように、建物、神門透塀には朝鮮色を多く盛り、斎館社務所等の概観をすっかり朝鮮建築としたと言う。 僅かに内部の装飾に和風を施したそうである。しかし全く残っていない。 現地には、素盞嗚尊が五十人の兵士と妹を連れて出雲へ渡ったと云う伝承があるとのこと。五十人の兵士とは五十猛命のことであろうか。
春川牛頭山に比定される古墳 春川牛頭山の朝陽楼 1646年創建、祭りを行ったとのこと。 素盞嗚尊が舟をつくるのに良いとされら楠木を探したが、楠の木と槇は一本も見つからなかった。
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この寺は三国時代で云えば新羅の領域だそうだ。行きのバスの中から蘇途が見えた。電柱とならんで建っていたが高さは半分程度、一見鳩と思わせる鳥は鴨だそうだ。
渓谷美の地のトラッキングコースになっている。俗離山国立公園内にある法住寺は33m建ての青銅仏像で有名。 新羅時代の真興王の頃(553年)に建てられた。韓国最大の33mの弥勒仏像がある。
俗離山法住寺の柱 俗離山法住寺の天王門 俗離山法住寺の背後の山2 |
蘇塗柱を思わせる柱を立てた支柱石が残る寺である。660年の百済滅亡後の統一新羅時代に建立された。 馬韓時代(8年以前)は都であった。 弥勒寺址の支柱石と復元石塔 弥勒寺址の支柱石 |
百済王朝最後の都であった海抜106mの低山である扶蘇山は全体が山城になっている。東方の峰には迎日台があり百済王は楼閣にのぼり、鶏龍山連峰の頂からのぼる朝日を拝み国運の隆盛を祈ったという。 白馬江は扶蘇山の所で大きく蛇行している。この川にある落花岩は百済王朝最後の時、三千人余りの官女が落ちる花のごとく天馬江へ身を投じた所として、彼女たちを供養するお寺があるそうだ。 扶余扶蘇山城 高麗期初期の建立と云う皐蘭寺の落下する官女の絵 白馬江の夕日 |
公州は古く百済二番目の都が置かれたところである。漢城の次の都の熊津(ウンジン)と言う。クマナリとされる。素盞嗚尊終焉の地の候補地である。
公州城 公州城入り口の熊 『日本書紀』には武寧王は築紫の島で生まれたとある。佐賀県鎮西町の沖合い3.5kmの加唐(かから)島とする説があるが、各羅(かから)の海中の国主島との記述からであろう。
武寧王陵と直列二重神奈備山 |
蘇途は対馬では卒土と同じ、対馬では天童地ともよばれ、神霊の憑り来る地である。 天下大将軍と地下女将軍の像(チャンスンと云う)と鳥杆、この全体を蘇途と云うとも云う。左上は博物館内の鳥杆。それにしてもこの蘇途の雰囲気、南洋を思わせる。 |