![]() 1. 欽明天皇の時代 二書の差は百済の聖明王即位の年度の差に起因するというのが上田正昭説。*1 『元興寺縁起』 欽明天皇は諸臣に、「他国より送り度せし仏教を用いるべきか否かについて良く計り返答するように。」と命じた。仏教の受容は、天皇の統治権にかかわる問題であり、天皇自らが決定すべき問題であったが、いささか優柔不断な姿勢であった。倭の天皇は稲作の為の産霊神の祭祀王としての役割があり、決めかねていたいのであろう。 一方、仏教は私的にはすでに入って来ていた。卑弥呼の頃の銅鏡のなかに数面の三角縁仏獣鏡が入っており、また九州の寺院の創建年度が仏教公伝の時より古いものが見られる。雄略朝の豊国奇巫が登場しているが、仏教がらみかも知れない。 ![]() 各豪族は概ね仏教の概要を承知しており、自らの立場を決めていたと思われる。物部尾輿は反仏であり、蘇我稲目は奉仏であった。 欽明天皇は聖明王から送られた仏像等を稲目に与え、彼は小墾田の家に安置した。聖明王への義理は果たしたことになる。渡来人の多くは仏教を奉じていたので、稲目は渡来人の支持を受けることになった。 国神とは地域の神であり、豪族の祭祀によって領有地の豊穣・安寧をもたらす神である。一方、他国神は国や地域を越えた普遍性があり、国神と他国神(仏)は基本的に対立するものではない。これは疫病によって被害を蒙った地域の反仏派と奉仏派の豪族間の反目と見ることができよう。 欽明天皇は蘇我稲目に他国神を礼するは罪であり、奉仏を許すべきではないと告げた。これに対して稲目は表向きは反仏派のようにふるまうが、内心では他国神を捨てないと決意を述べ、欽明天皇も自分も同じ考えであると告げた。 物部尾輿や守屋はどのような意識を持って生きていたのだろうか。
2. 敏達天皇の時代
用明天皇は病を得て、仏教に帰依したいと表明し、群臣に協議させた。天皇個人の望みであるが、天皇の信仰問題は、国政レベルの問題であった。反仏の守屋と奉仏の馬子は折り合えなかった。そのような中、穴穂部王が豊国法師を内裏に迎え入れた。豊国には渡来人が多く住んでおり、渡来系の神に加えて、民間に仏教が普及していたものと思われる。 豊国法師には病を治す、除去する強い力があると信じられていたのだろう。
用明天皇は蘇我稲目の娘の堅塩媛と欽明天皇の間の皇子であり、所謂蘇我腹の天皇であった。蘇我氏は外戚として力を増し、物部大連を上回る力を持ってきた。仏教の受け入れについても、用明天皇の意思に見るように、奉仏派が優勢であり、物部大連の反仏の旗色が悪いことは明らかであった。ここに蘇我腹の崇峻天皇が即位するにあたって物部守屋は慣例通り大連になるだろうが、蘇我馬子大臣との力の差は大きかったと思われる。政治的には既に問題外の存在であったものと思われる。 『紀』蘇我馬子の妻は物部守屋の妹であり、名前は伝わっていないが、『紀氏家牒』には、太媛とある。大媛の生活費は実家である物部本家(当主は守屋)が工面していたが、蘇我氏との対立激化、迹見赤檮(とみのいちい)の属する大和物部等の離反などがあり、本家は力を失いつつあった。それでも太媛が生活費に窮することはなかったと思いたい。しかし、夫の馬子の朝廷での力が増す従って、豊御食炊屋姫などの皇女との交際機会が多くなり、贅沢な交際に費用に窮することもあったろう。 敏達四年に皇后になった炊屋姫にご機嫌取りとして現在の交野市倭市の土地と部民を献上しており、太媛も私にも資産がほしいと切望していた。太媛は兄の守屋に支援の増額を求めたのであろうが、戦いの準備も必要と考えていた守屋には聞き入れられなかった。そこで、太媛が目を付けたのが物部本家の膨大な資産である。守屋を罪人として滅ぼせば、一族の者には相続ができず、朝廷が没収、また一部は妹である自分(太媛)のものになると考えても不思議ではない。 川に落ちた犬はたたけ。この際、物部本家を滅ぼしてしまえ、後世の禍根を断て。守屋の実の妹である太媛が国家と蘇我家の将来を慮るふりをして夫の馬子をそそのかしたのであろう。
即位前の崇峻天皇(泊瀬部皇子)・厩戸皇子(聖徳太子)など殆どの皇子達と紀氏・葛城氏・巨勢氏らが軍勢を整え、賊軍とされた物部守屋軍の構える河内の渋川(八尾市)へ攻め込んだ。軍事氏族である物部氏は稲城(いなき)を積み上げて奮戦し流石に強かった。稲城は稲魂をもって守護する神道の呪術である。稲束に矢を射かけるのは兵士と雖も抵抗があったようだ。*2 藤井四段より一つ若い14歳の聖徳太子は白膠木(ぬるで うるしの木、カチノキとも言う。)を切り取り四天王の像を彫り、勝たせてくれたら四天王のために寺塔を建てようと誓った。太子も呪術で対抗したのである。馬子も同様の誓いを行った。呪詛返しである。守屋は討たれた。守屋の神道呪術に対する聖徳太子の仏教呪術の勝利である。 物部守屋は殺されなければならないほどの罪をおこしたのであろうか。別の天皇候補を推薦したことか、仏教に反対したことか、馬子に逆らったことか、そうではない。財産を狙われて冤罪をかぶせられた死であった。これは恨み骨髄である。怨霊となる死である。 谷川健一氏は*3で難波の四天王寺に奇怪な伝承があると書く。「四天王寺の寺塔は、合戦で戦死した物部守屋の怨霊が悪禽となって来襲し、多大な損傷を受ける被害に悩まされた。そこで聖徳太子は白い鷹となって悪禽を追い払うことになった。」という話である。 四天王寺に願成就宮と言う物部守屋を祀る守屋祠が鎮座している。この宮の確認に四天王寺寺務所に行ったところ、宝塚の中山観音にも守屋が祀られているヨと教えてくれた。 四天王寺の守屋祠は現在は朱塗りの美しい祠であり、元禄七年の石燈篭が建っている。江戸時代、守屋祠を見た参詣者は石礫を祠に投げつけたと言われる。一時、熊野権現と名を偽ったという。毎月21日に絵堂への扉が開くので、参拝できる。守屋祠を願成就宮と呼んでいるのは、聖徳太子の誓いによって物部氏の土地を没収し物部氏の部民を使役して四天王寺を建立したのであるが、これを守屋公の霊がお許しになった事、さらにお助けになった事で、無事四天王寺が出来た事を願いが成就できたとして、守屋公を祀ったと伝えられている。祟り神への褒め殺し策である。 『紀』崇峻即位前期 時の人、相語りて曰く。「蘇我大臣の妻は、是物部守屋大連の妹なり。大臣、妄りに妻の計を用いて大連を殺せり。」という。谷川健一氏は*3で、馬子が守屋を殺す必然性がなかったことを暗示していると書く。 ここから見えてくるのは四天王寺の建立の目的である。即ち、守屋鎮魂である。守屋を鎮魂せねばならないのは聖徳太子ではない。馬子である。四天王寺の建立は馬子によるものである。 四天王寺は崇峻即位前の587に難波の玉造に作られ、推古元年593に現在地に移転したと考えられている。守屋鎮魂は急がれたであろうから、守屋の死後すぐに守屋の館を接収して霊魂を慰める社と原四天王寺にしたのであろう。現在の玉造稲荷神社の場所と思われる。若干高台になっていること、白竜が住むとされる亀池があること、西向きの鳥居があること、などが四天王寺と共通している。
*1 『神と仏の古代史』上田正昭 吉川弘文館 |
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